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「コペンハーゲン」(07年再演)
このホームページを開設したのは2003年1月である。「コペンハーゲン」の初演は2001年11月であったが、HPを作ってから早めに感想を書いておこうと思っていた。非常に強く印象に残っていたからだ。初演から約一年半もたった2003年4月にようやくアップロードしているが、今読み返して見てもかなり力がはいっている。(http://www3.zero.ad.jp/ryunakamura/comment/copenharmain.html )
まず、第一に舞台装置に感激したことを書いている。真ん中の円をドーナツ状の少し傾いだ円が囲んでいて原子の構造モデルのようであり、原子炉のようでもあり、テーマである量子力学の世界を端的に表現していると思った。今回も同じ造作を使っている。
鵜山仁は、1920年代初頭にコペンハーゲンのニールス・ボーアのもとへ集まった世界の俊才たちが、理論物理の議論を交わした木造の教室をイメージしていたらしい。今回、島次郎の発想がいかに素晴らしかったか再確認した。
シアタートーク(3/7午後5時)で分かった事だが、鵜山仁はスタッフの提案にあまり抵抗しないタイプの演出家らしい。
衣裳のスーツに所々しみがついていたり、汚れていたのは初演の時と同じだが、これは緒方規矩子の提案だったという。つまり、戦時下という事や三人がすでに亡くなっているという意味を表現したかった(のではないか)といっている。
また、照明のプランについても、舞台を後ろから見ていると服部 基が何を考えていたかわかって、なるほどと納得した事があるともいっていた。栗山民也ならこういういい方はしない。おそらく徹底した議論の結果を舞台に表現する、つまり演出家の意向が隅々に行き渡っていてそれが何故かは自分で説明出来るという態度になるはずだ。佐藤信や串田和美のように、装置・美術は自分でやるという演出家もいる。それに比べると鵜山仁は、スタッフを信頼している、あるいはスタッフを指名する事がすべてだといえばいいのか、もっともあっさりとこだわりのないタイプの演出家であるらしい。こういうものは、いい悪いではない、「タイプ」の問題であるだけだ。
さて、この芝居は初演の英国においてはいうに及ばず、米国でのトニー賞授賞をはじめ、少し遅れて上演された我が国においても数々の賞に輝いた名作である。
量子力学の難解な理論や物理学用語の応酬が続く長いせりふ劇にもかかわらず、極めて幅広い支持を集めたのは、なんといっても謎解きで牽引する物語の面白さであった。
1941年9月の終わり、ドイツの物理学者ハイゼンベルクはナチ占領下のコペンハーゲンにいる恩師ニールス・ボーアのもとを訪ねている。何故、何のために?あの輝かしい20年代の核物理学の、量子力学の黎明期を指導者と研究者として送った二人は、今や第三帝国に協力する大学教授と、ナチに監視されるユダヤ系の科学者として対立する立場にあった。
そしてこの時期、原子爆弾の開発という重要な課題をドイツ、連合国ともに抱えていて、二人はその実現の鍵を握っていたのである。しかも、ユダヤ人の強制収容所送りはデンマークでも始まろうとしており、ボーアにもその危険がせまっていた。
円形の舞台を高い壁が取り囲んでいて、やや下手寄りに大きめの窓のような矩形の空間が開いている。その四角く切り取られた空間の後ろに一方の壁が回り込んで、奥の暗闇がどこかへつながっているように見える。
「あの日何故ハイゼンベルクはコペンハーゲンにやってきたのか?」
明かりがはいると、ボーア(村井国夫)と妻のマルグレーテ(新井純)が、若き日の天才ハイゼンベルク(今井明彦)との交流について語っている。彼らはすでにこの世にはいない。ボーアの相補性理論からハイゼンベルクの不確定性原理、それらを補完するさまざまな共同研究は、1927年、ハイゼンベルクがデンマークを去った後も続いていた。ビジネスでいうなら会長と社長、ファミリービジネスなら父と子のように。やがて、ナチが政権につくと、それもままならず二人のあいだは次第に疎遠になっていた。
そして、あの日を境に二人の友情は終わったと、マルグレーテが言う。散歩から帰ったニールスがあれほど腹を立てたのを見た事がなかったほどだと妻がいうと、ボーアは「いや私は冷静だった」ときりかえす。
ハイゼンベルクは、自分のコペンハーゲン行きについては、これまで何度も説明してきたが、その理由をだれも理解していないという。説明すればするほど自分自身にとっても曖昧に、不確定性が深まっていった。我々はすでに亡くなっていて、だれに迷惑をかける事も、だれを傷つける事もない、いま、あの日をもう一度試して見る事が出来るなら有り難い、とハイゼンベルクはいう。
「記憶とは、不思議な日記のようなものだ」とボーア。「ページを開くと、気の利いた見出しやまとまった書きつけが現れては消えていく。・・・ページを通してその頃の日々へ飛び込んでいく。・・・頭の中で、過去が現在になる。」
このせりふの末尾に重なって、ピューという甲高い汽笛の音とともに舞台は暗くなる。あの矩形に開いた空間から大量の水蒸気が噴き出すと、ドッドッと機関車の力強い音、それが次第に遠ざかっていく。逆光の白い煙の中からコペンハーゲン駅頭に立つハイゼンベルクが現れる。あの原子模型のような舞台の中に螺旋状の暗闇から矩形の窓を通して打ち込まれた一個の中性子のように・・・。こうして回想のなかの回想劇は始まるのである。
プロローグの素早く問題の核心へ誘い込む明晰性といい、本論への劇的な場面の切り替えといい、鵜山仁は実に鮮やかな演出手法を見せてくれた。
僕は初演を見た後、ボーアにしてもハイゼンベルクにしても戦後長く生きたのだから、1941年のこの日、何が話されたのか、何があったのか明らかにするチャンスがあったはずだと思った。たしかに盗聴器が仕掛けられたボーアの家を避けて、ふたりは散歩に出たのだったからマルグレーテにもその内容は分からなかった。当人同志にしか話せないことでも時間が経てばどこかから漏れてくる。
しかしあとでハイゼンベルクのエッセー「部分と全体」を拾い読みしたが、それらしいところには出会わなかった。マイケル・フレインに従えば、ボーアに、この日の事に言及したものはなにも残されていない。さまざまな人々がそれを推定し、作者もそれを参照したが、ハイゼンベルクのせりふにある通り「だれもなにも理解していない」ということらしい。ただし、マルグレーテはこの日ハイゼンベルクを家に招じ入れる事に反対しており、政治に言及しない事を厳重に約束させて、いやいや承知したことがわかっている。彼女は後に公然とハイゼンベルクの傲慢さを批難し、彼への敵意があった事を明らかにしている。彼女はユダヤ人であった。
原子核の回りを回転する電子の雲の中からその正確な位置を割り出すことは出来ないように、二人から繰り出される仮説は新たな仮説を生み、核心に迫ろうとするが、真相は再び闇の中に消えるのである。量子力学が、なにも原子の内側の出来事に限定されているだけでなく、人間の営みにも機能しているという比喩は、なるほどと知的な興奮を呼ぶものであった。
話は自分たちが切り開いた理論物理学の目覚ましい深化のあとをたどり、実験物理のオットー・ハーンとリーゼ・マイトナーが1938年に発見した原子核分裂に至る。
彼らは、ウランの原子核に中性子を一個足して、別の原子を作り出そうとしていた。重い原子核は陽子、中性子の数が多く構造上不安定(陽子はプラスの電気を帯びているために互いに斥力が働いている)である。そこへ中性子を加えようとしたら、原子核は二つに分裂してクリプトンとバリウムになってしまったのだ。この時、高速の中性子と高いエネルギーが放出されるのが確認された。原爆の基本原理が発見されたのだ。
果たして原子爆弾は製造可能なのか?その方法は?研究は、どの国がどの程度まで進んでいるのか?1941年はオットー・ハーンらが核分裂を発見してから僅か三年後である。
そのころ日本では、ボーア研究所から帰った理研の仁科芳雄が海軍の要請を受けて、サイクロトロンを使って実験を繰り返し、貴重なウラン鉱石から僅かに含まれるウラン235を分離抽出する作業を続けていた。しかし、いつ完成するという見通しが立たないままヒロシマ・ナガサキで打ちのめされ、終戦を迎えるのである。
そもそも、この1941年の訪問が何故問題かといえば、かつて師弟関係の、当時は敵対する陣営に分かれていた核物理の科学者がそこで何を話したかは、重要な歴史の証言に成り得るからだ。という事は、彼らの生前には、複雑に利害が交錯する関係者や関係国が多くて、発言も回想も直ちに騒ぎを起こしてしまう恐れがあった。
ハイゼンベルクは、科学者として敗戦の弁明をせざるを得なかったが、そのなかでも、この会見の核心部分について触れてはいない。そしてボーアはいっさいの発言を封じている。
第一幕のなかで、ハイゼンベルクは「一物理学者に原子力エネルギーの実践的活用を研究する道徳上の権利はあるか」とボーアに問いかけたとある。ボーアは原爆について言及していると思ったらしく、それにはなにも応えなかった。しかし、ハイゼンベルクは原子炉の事を指していたつもりだった。原子炉でより核分裂しやすいプルトニウムが生成することについて話したかったのだが、ボーアはなにも覚えていなかった。頭の中で原爆が炸裂したのだ。
彼らは第二幕で、再びあの会見を最初からやり直そうとする。核心の部分、最深奥部に話はさしかかる。
その時点から時が進んで、彼らが何故ドイツは原子爆弾を手にできなかったかについて話す場面がある。
原爆に必要なウラン235の臨界質量をハイゼンベルクが実際よりも多く見積もっていた誤りをボーアが「拡散方程式」を解かなかったためと指摘すると、平然とそれは知っていたという。ハイゼンベルクは、実はオットー・ハーンに原子爆弾の製造理論を話していたというのだが、肝心の臨界質量を実現不能と思われる高い数値と考えていた。しかもそれは僅かな間違いだったと強弁する。そう思い込む事によってハイゼンベルク自身が意図的に原爆の製造を困難にしようとしたかのような印象をうける。
つまり、あの日ハイゼンベルクが計算を誤っていたことに気付いたボーアが、それを指摘「しなかった」ことは、ナチに原爆を渡さないということよりも、ハイゼンベルクへの好意だったのではないかというのである。一方、ハイゼンベルクは、それをボーアが指摘「しなかった」ことに感謝し、この会見のいわば成果ではなかったかと思っている。
ドイツの敗戦が濃厚になった頃、北海に面した片田舎に疎開したハイゼンベルクたちがやっていたのは、小さな原子炉の模型のようなものを使って細々と実験していたこと、しかも肝心の制御棒も放射能を遮る装置もなしに、である。ボーアにいわせると、メルトダウンという事さえ知らなかったのではないか?と散々であるが、ハイゼンベルクは結果としてドイツが原爆を持たなかった事を誇りに思っているといった。
果たして真相はそのとおりだったのか?それもまた不確定性の闇の中に消えていく。
ボーアは、1943年の夏のある夜、レジスタンスに導かれ、釣り船に乗ってエーレスンド海峡を渡った。対岸のスウェーデンに亡命したのだ。この時、ヒトラーの命令が下って収容所送りにされる筈だったデンマークの8千人のユダヤ人が一斉に街から消えた。教会や、病院や、田舎の小屋に身を隠したのであった。
ゲオルグ・ダックウィッツ、ドイツ大使館の船舶輸送担当者で、彼は命令が出たその日のうちに避難の指示を出すと、ストックホルムに亡命者の受け入れを要請し、二艘の大型船で大半のユダヤ人を逃がしたのである。
ハイゼンベルクは、このダックウィッツのことを41年のときにボーアに話していると劇では描いている。おそらく、いざとなったらこの男に連絡するようにいったのだろう。43年の時はすでに関係がなくなっていたというが、ボーアの亡命に手を貸そうとしていた事はどうやら事実のようだ。41年の訪問のもう一つの理由が浮かび上がってくる。
マルグレーテの見解は辛辣である。ハイゼンベルクが若い時分から大学教授の椅子を狙う野心家で、今やドイツでもっとも若い教授、最先端の科学を担う第一人者として成功している姿を見せたかったのに違いないという。しかも、ドイツに、第三帝国に協力する科学者として。
そういう面があったかどうかは分からないが、敗戦前夜のハイゼンベルクにそんな余裕はみじんもない。
いよいよとなって、ハイゼンベルクは捕まる前に家族に会おうとして交通手段のなくなったドイツを自転車で横断する。昼は空襲を避けて茂みに隠れ、夜の道を走る。あちこちで、やけになった親衛隊が脱走兵狩りをしている。
ある夜、一人のゲシュタポに呼び止められ、ピストルを突きつけられた。自分で書いた移動証明書は暗くて見えない。「脱走兵め!」という声がもれた。必死でポケットにあった「ラッキーストライク」を渡して難を逃れたが、生き残れたのはホンの偶然だったと述懐する。
「廃虚と化し、陵辱された、わが愛する祖国」
ハイゼンベルクは何度もつぶやく。
しかし僕には、この言葉は広島と長崎に重なる。
米国がロスアラモスであと三ヶ月早く原子爆弾を開発していたら・・・。亡命したユダヤ人科学者たちが、ドイツが手を上げる前に原子爆弾を完成させていたら・・・。ドイツのどこかの街が実際に焼き払われ、「陵辱され、廃虚と化して」いただろうか?
ボーアは、プルトニウム型原子爆弾の起爆装置にヒントを与えた。多かれ少なかれ、あのコペンハーゲンに集まった量子力学の俊才たちは、一瞬にして大量の人類を焼き殺す最終兵器を生み出す事に手を貸した。
あの日問い掛けようとした「一物理学者に原子力エネルギーの実践的活用を研究する道徳上の権利があるか」について、終幕近く、ハイゼンベルクは「量子倫理学」ともいうべきものが必要になるのではないかといっている。
何れにせよ、ヒロシマ・ナガサキは、ボーアやアインシュタインをはじめそれにかかわった多くの科学者の心の傷となった。
物語は、不確定性の霧の中に迷い込むようにして終わりを告げる。
村井国夫のニールス・ボーアは江守徹に負けず劣らず適役だった。
マルグレーテの新井純は、前回は全体に暗く、その役回りも曖昧ではっきりしなかったが、今度はそれと正反対に演じた、と思った。それほど印象が変った。ボーアとハイゼンベルクの「衝突」をオブザーブする観察者としての役回りが、この劇には欠かせなかった事がよく分かった。
今井明彦も一段と解釈が進んでいるように感じた。今回の方が格段に出来がよかった。
劇評を書くに当たって、あれも書いておきたい、これにも言及したいと思いあふれて、話が重複したり、あちこち行ってしまっていることを恐れている。
それは、とりもなおさず相補性理論と不確定性原理に寄り添って書かれたこの物語の強い磁場に影響されたせいに他ならない。
題名: |
コペンハーゲン |
観劇日: |
07/3/2 |
劇場: |
新国立劇場 |
主催: |
Company |
期間: |
2007年3月1日〜3月18日 |
作: |
マイケル・フレイン |
翻訳: | 平川大作 |
演出: |
鵜山 仁 |
美術: |
島 次郎 |
照明: |
服部 基 |
衣装: |
緒方規矩子 |
音楽・音響: |
高橋 巖 |
出演者: |
村井国夫 新井 純 今井朋彦 |