題名:

コリオレイナス        

観劇日:

04/7/2        

劇場:

三百人劇場   

主催:

劇団昴    

期間:

2004年6月19日〜7月4日     

作:

ウイリアム・シェークスピア       

翻訳:

福田恆存      

演出:

村田元史        

美術:

小松主税              

照明:

古宮俊昭             

衣装:

伊藤かよみ            

音楽:

日高哲英 
出演者:
田中正彦 宮本充 山口嘉三 内田稔 小山武宏 牛山茂 北川勝博 仲野裕 北村昌子 日野由利加 相沢恵子 秋間登 永井誠 坂本岳大 辻つとむ 星野亘 緒方愛香 やなせさとる 桜井久直 山中誠也 山田将也 


「コリオレイナス」

久 しぶりに福田恆存訳でシェイクスピアを見た。福田訳は、古来日本人の身体になじんだリズムを持っていて僕らの耳には心地よく響く。様々の発言を保守反動と ののしられたが、「現代かなづかい」と「当用漢字」の国語改革に抵抗、孤軍奮闘していた。英文学者ながら日本語の伝統をよく知っていたからに他ならない。 (福田は偏見を正すということをしなかったからいまでも誤解されたままの様な気がする。そこでついでながら僕が福田恆存をもっとも公平な視点で評価してい ると考える見方を紹介しておきたい。柄谷行人が書いた追悼文である。(参照→http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/karatani/shincho9502.html
この福田恆存が「翻訳した段階でシェイクスピアの面白さは九十%失われている。」といったことを演出の村田元史が書いている。村田は、それなら原典に当たってみるしかないなどととぼけたことを言っているが、原典を開いたところで面白さが回復するわけではない。
言葉は400年前のエリザベス朝のものである。現代語ではない。一定のリズムを持っていて、しかも韻を踏んでいる。これは「ヴァース」といって「強弱五歩 格の韻文」というものらしい。こう言うものは翻訳したら失われるに決まっている。しかも平民の台詞が散文で書かれていて、貴族のそれはこの韻文というわけ である。この違いは歌舞伎にも見られるが、翻訳で表現するのはほとんど不可能に思う。ただ、福田恆存はこれらの事柄を含めてどうにかして日本語に置き換え たいと思ったに違いない。それを伝えるには自らを舞台を創る演出家と想定していわば全身を使って伝えるしかない。読むうちに流れるような台詞が口をついて でて、自然に身体が動いてくるような気がするのはその辺の執念がさせるのではないかと思う。自ら劇団を主宰するようになったのはごく自然のことであったろ う。比較すると、そのようなことにこだわらずに、テキストをあくまで平易に読み込もうとする小田島雄志訳は、演出家にとってはかなり自由度の高い、現代口 語として扱いやすい翻訳ではないかと思う。
さて、この「コリオレーナス」はシェイクスピアの歴史劇の中でももっとも上演回数が少ない作品だと聞いていた。だから一般的に言って「面白くない」のかも しれないと思ったが、特にシェイクスピア好きでもない僕のようなものでも存外楽しめた。それというのも話が非常に単純で説教臭くもなく、主題も骨格もはっ きりした物語だと感じたからである。見方によれば今こそ上演するにふさわしいシェイクスピア歴史劇だということも出来る。
ローマ共和制(紀元前4.5世紀)と言う時代は、あまりよく知られていない。勿論シェイクスピアは芝居の冒頭から観客に(17世紀の、そして現代の)それ がどんなものであったかを巧みに知らせる。平民は飢えている。それを穀物を独占する貴族のせいだとして暴動を計画し民衆が集まってくる。とりわけ、ケーア ス・マーシャス(宮本充・田中正彦とWキャスト)は民衆の第一の敵である。彼は倣満で残忍、平民を蔑み憎んですらいると話しているところへ貴族であるメ ニーニアス・アグリッパ(小山武宏)が登場し、マーシャスの武勲を称え、彼が強欲と悪徳とは無縁であると彼の人となりを説明する。民衆の飢えも神々のなせ ることで暴動は無意味だと説得にかかる。このときの市民たちとのやり取りの中でローマ共和制の骨格が明らかにされる。王族を追放した後に残った貴族と平民 は執政官を置いて政治を付託することにした。貴族に対して平民の立場を代表する護民官を選出し代議員とする。そして執政官になるには平民の投票による承認 を得なければならない。現代の民主政治に似ている。しかし、どういうわけかケーアス・マーシャスは平民を軽べつしてはばからない。民衆はずる賢く利己的 で、信用が置けないウジ虫同然の存在だというのである。平民が憎むのは当然である。
そこへ隣国山地コリオライのヴォルサイ人が挙兵しローマに迫っていると言う知らせが入る。敵将はタラス・オーフィディアス(田中明彦とWキャスト)、マーシャスにとっては幾度か剣を交えたことのある人格高潔の戦士である。
マーシャスはこれに撃って出てオーフィディアスを撃退しローマを侵略から守る。このとき獲得したコリオライに因んで、以降ケーアス・マーシャス・コリオレイナスと呼ばれることになったのだ。
凱旋したコリオレイナスを貴族院は執政官に推薦する。彼は固辞するが、結局貴族の説得に応じてこれを受諾、平民の審判を受けるために街頭に現れる。このと き約束した覚えのない穀物の分配に話がおよび、護民官、シシニアス・ヴェリュータス(牛山茂)とジャーニャス・ブルータス(北川勝博)を激しくののしると その発言をとがめられ、逆に国家に反逆を企てたと訴追される。 
国外追放の身になったコリオレイナスはタラス・オーフィディアスを訪ね今や無防備になったローマを攻撃しようと持ちかける。コリオレイナスが主力となって ローマを包囲するとローマは友人達を送り込んで和ぼくを交渉するが全く聞き入れてもらえない。ローマは風前のともしびである。最後の手段として、コリオレ イナスの母親ヴォラムニア(北村昌子)、妻ヴァージリア(日野由利加)その友ヴァリアリア(相沢恵子)そして幼い息子(山田将也)を使者として送る。母親 の渾身の説得によってコリオレイナスはついに攻撃を断念、こんどはオーフィディアスを裏切ることになってしまう。
並外れた英雄でもない。対立する悪の権化も、恋い慕う女も愁嘆場もない。何故かわからないが、平民を軽べつし憎しみさえ見せるコリオレイナスと言う男の独 り芝居のような話である。(わき役として登場する現執政官のコミニアス(内田稔)、元老(秋間登)、武人のタイタス・ラーシャス(山口嘉三)らの存在も中 途半端で曖昧ですらある。)平民の投票を請うために粗末な服を纏って街角に立つ覚悟までしたのに、僅かな妥協さえ出来なかったこの男のかたくなな心情を誰 が理解出来るだろうか?また、あれほど憎しみの焔を燃やして攻めたローマだが、母親や妻が現れるとあっさりと包囲をといてしまう。(母親役の北村昌子が迫 力のある演技で貫録を示した。)幼いころ父親が亡くなり女手ひとつで育てられた、その母親へのコンプレックスのせいだとも言えるが、あまり劇的な感興をそ そる幕切れではない。
このように、よく理解できない、シンパシーもいまひとつ湧いてこない主人公だからシェイクスピア好きの演出家、あるいはプロデューサーでも食指が動かないのかもしれない。
しかし、僕にとっては平民の存在とそれを軽べつし憎んでいさえする男の対立の構図が面白かった。コリオレイナスが何故民衆を蛇蝎のごとく嫌うのかその理由 は定かでないが、一種の貴族主義の象徴としては理解できる。民衆とはいつの時代もエゴイスティックで強欲で感情的である。為政者ならばそのいい加減さにう んざりするだろう。コリオレイナスはそれに屈する自分を到底許すことが出来なかった。
これはある意味では民主主義はいつでも衆愚政治に通ずるという現代政治に対する警鐘である。民衆が嫌い追いだした執政官は、実は自分達を防衛するいわば潜 在的な暴力装置だったのだ。コリオレイナスが外からローマを攻撃したとき、全く無防備だった民衆の愚かさには驚くほどだ。あれでなければこれという観念的 な選択の結果、予想もしなかった現実によって打ちのめされる。
劇団昴と関係の深い演出家ジョン・ディロンは「コリオレイナスはシェイクスピアの主人公たちの中でも、もっとも致命的な性格的欠陥の持ち主であり、また もっとも謎に満ちた人間でもありますが、この劇の悲惨な出来事は彼個人の悲劇的宿命のみならず、中庸というものを知らぬ、まさに中心が物事をまとめられな くなったひとつの社会全体の悲劇的宿命を描いている。」(パンフレットに寄せた文)と書いて現代米国政治と関連させている。自身も米国で準備中というが、 この芝居をあえて取り上げた背景として、パレスチナ、9.11、アフガン、イラクと続く米国と中東を巡る状況があると示唆しているのである。僕にはそうい うものに加えて、自衛権や政治的ポピュリズム、メディアのリテラシーなど日本のさまざまな問題が頭に去来して、折角シェイクスピアを見ながら余計なことが 気になった。(それがシェイクスピアの魔術なのだという声が聞こえそうである。)
こう言う見方もあっていいのだが、十七世紀初頭に書かれた芝居に対してあまりに近視眼的ではないかと言う誹りも受けそうである。何よりも何故長い間上演されることの少ない芝居だったのか?と言う疑問の回答にはなっていない。
この芝居についてサルトルが激賞したポーランドの批評家ヤン・コットは独自の視点から書いている。
彼はまず、『コリオレイナス』は歴史劇としてのモノドラマではなく、もうひとりの姿の見えない主人公(民衆)が存在すると指摘して、一種の階級的対立の構造を明らかにした。そのうえで、この芝居の不人気の理由をこう述べている。
「それは『コリオレイナス』と言う劇の曖昧さの=この悲劇の意味の多様さの=せいなのだ。政治的にも道徳的にも、そして究極においては哲学的にも、この劇の意味はいろいろに解釈できる。こう言うあいまいさは受け入れにくいのである。
『コリオレイナス』は、シェイクスピアが書いたかたちにおいては、貴族をも共和主義者をも、人民の味方をも、完全に満足させることは出来ない。大衆を信じ る人も大衆を軽べつする人も、歴史の意味と教訓を認める人もこの教訓を笑う人も、人類をただの白蟻の巣としか考えていない人も、逆に個々の孤独な白蟻が必 死に存在の悲劇を経験しているのだけに目を奪われている人も、等しくこの劇をもて余してきたのである。
『コリオレイナス』は、十八世紀や十九世紀のいかなるありきたりの歴史概念によっても哲学的概念によっても、割り切れないのであった。
『コリオレイナス』は、古典主義者にもロマン主義者にも喜ばれなかった。前者にとっては、この劇は不統一で乱暴なものに見え、後者にとっては、あまりに苦 く平板で無味乾燥に見えたのである。」(ヤン・コット「『コリオレイナス』−シェイクスピア的矛盾について」論文集「シェイクスピアはわれらの同時代人」 所収、1968年白水社)
このようないらだちは確かに僕の中にもあった。何度も書いた疑問だが、コリオレイナスは一端は民政官になろうと決意しながらなぜ平民との妥協を拒んだのか?その理由について、あるいはその善悪について、いっさい述べられないうちに幕が下りてしまうのである。
ローマ侵攻を断念したコリオレイナスは裏切り者としてタラス・オーフィディアスの手にかかり命を落とす。これによって何かが変わったのか?平民と貴族の対 立、食糧の問題、都市国家の防備、音楽を奏でて祝うような変化は何一つ起こらなかったにもかかわらず、ラッパと横笛、弦楽器が奏され、大急ぎで芝居は終わ りを告げられるのである。
ヤン・コットはもっと踏み込んで、この終幕について述べている。
「世界のすがたはひびわれて、統一を欠いている。矛盾は解決されてはいない。都市国家と個人に共通する価値体系はないのだ。」
僕らはいよいよヤン・コットに導かれて『コリオレイナス』が抱えている曖昧さの本質に迫ろうとする。彼の指摘は必ずしもシェイクスピアの意図したことではないが、僕らがうすうす気づいていながら目をそらしていた現実を鮮やかにえぐり出して見せるのである。
メニーニアス・アグリッパが護民官ブルータスにいう「あの男も民衆を愛している。だが無理にあの男を民衆と寝させようとするな。」というせりふを引いて、ヤン・コットは「それは嘘だ!」と叫ぶようにいう。
「この劇から突き出ていて、またこの劇がこれほど人気のない理由に長い間なっていた、厄介なとげは、ここにあるのだ。・・・コリオレイナスは民衆を愛してなどいなかった。だが、だからといってコリオレイナスが批難されねばならないというわけはない。
この判定には、ルネッサンスのヒューマニズムに−いや実はあらゆる時代のヒューマニズムに−こもっている苦いドラマが、要約されているのである。」                     

 

                              (7/18/04)

 


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