題名:

Dの呼ぶ声

観劇日:

05/1/28

劇場:

ザ・スズナリ

主催:

一跡二跳     

期間:

2005年1月20日〜1月30日

作:

古城十忍

演出:

古城十忍

美術:

礒田央     

照明:

磯野眞也    

衣装:

豊田まゆ み

音楽・音響:

黒沢靖博

出演者:

奥村洋治 重藤良紹 高久慶太郎 山下夕佳 関谷美香子 福留律子 原田崇嗣 加藤大輔 池田遼 越智哲也 藤山典子 平田希望子 増田和 高浜佳奈子
 



「Dの呼ぶ声」

「コネクト」以来二年ぶりにこの劇団の芝居を観た。あれは引きこもりの男の話だった。父親が記憶喪失で、家族はバラバラ、男はいったん就職したが24歳の時部屋に閉じこもった。以来インターネットのチャットが唯一のコミュニケーション手段で、その世界から出ようとしなかった。サンテクジュベリの「星の王子様」の話がでて妙に理屈っぽい議論を展開するが関連は定かではない。たぶん引きこもりが社会問題としてとりあげられていた時期だったのだろう。チャットの相手が実は父親だったという鮮やかというか、いかにもの結末だけが記憶に残っている。今劇評を読み返しても自分で書いたものがいかにも支離滅裂だった。目の前にあったものをほとんど理解していなかったらしい。
過去のことはいいとして、この芝居はYにいわれた劇場に行くまでなんの先入主もなかった。
久しぶりに「ザ・スズナリ」に入ると舞台全体がかなりの角度で前に傾斜している。家の中という設定らしくテーブルに椅子、ソファなどが傾いた床に止められている。観客へのサービスにしてはやや常軌を逸していて、これは非日常的な何かを表現したいのかもしれない。
話は耐用年数のきた介助ロボットの始末をどうするかというSFまがいのヒューマンドラマだ。
門脇誠一(重藤良紹)は妻に先立たれた隠居の身、若い桜(関谷美香子)が身の回りの面倒を見ながら話相手になっている。門脇は棺桶を家に持ち込んで中に入り疑似体験をして死の覚悟を確かめたりしている。そこへ朽木伸太郎(奥村洋治)と名のる男が現れて、桜に用があるという。実は、桜はヒューマノイド、つまり人間の形をしたロボットで、7年間に一度の定期点検の時期がやって来たのだ。朽木はそれを知らせると同時に点検の工場へ入れる日程を決めようというのである。頑固者の門脇の心を捉えることができた桜はヒューマノイドに関わらず情が移って離れがたくなっている。門脇の方はもちろんたった一人の娘ともいうべき存在になっていた話相手と別れるわけにはいかない。
定期点検とは文字通り不具合を直すことだが実は記憶装置を入れ替えることも含む。桜が門脇との日々を重ねはぐくんだ記憶はリセットされ桜はまったく別の人格を与えられることになる。しかし、今ある桜はそれによって死ぬことになるのではないか?解雇されることはすなわち死である。朽木伸太郎はその宣告のためにやって来たのだ。
門脇は抵抗する。介護の仕事をしている同僚の楓(山下夕佳)が説得しても無論聞かない。朽木には少しの猶予を願い、桜に記憶が どこかに残ることを信じてヒューマノイドの宿命を受けいるよう諭す。騒ぎを聞きつけた門脇の息子航平(高久慶太郎)がやってきて、ヒューマノイドとは言え若い娘に執着するのは見苦しいと父親をなじり無理やり引き離す。しかし、ヒューマノイドに父親の面倒を見させている航平もまた傷ついていた。
一方、天野飛雄(原田崇嗣)は就職の面接がうまくいかなくて苛立っている。兄弟同然に育てられてきたヒューマノイドのアクト(池田遼)が慰めるが飛雄はこのロボットに密かなコンプレックスを覚えている。飛雄が生まれた時既にアクトは家にいた。子どものいなかった両親がアクトを買ったあとで、飛雄が生まれたのであった。何をやってもそつがなく面倒見もいいアクトについ自分を比較して見てしまう。母親(藤山典子)との諍いのあと家出をしようとする飛雄を制して、アクトがつかみ掛かると飛雄は悲鳴を上げて倒れる。「すまない。僕たちヒューマノイドは君たちがどれだけ痛いか感じることができない。だから加減を知らずにやってしまうんだ。」とあやまるが、二人はあらためて互いに人間とロボットということを意識せざるを得ない。
終幕、楓と朽木伸太郎が話している。楓はふと朽木自身もまたヒューマノイドではないかと思う。朽木はあいまいな態度である。話しているうち楓の記憶の中にある公園を朽木が覚えているらしい。ヒューマノイドはリセットされたとしてもどこかに以前の記憶を留めていることを示唆して終わる。
この劇団の特徴らしい奇妙な踊りは今回も挿入されていた。池田遼を先頭にロボットらしいぎくしゃくした動きで頭を左右に振り、一列に並んで舞台の斜面を下りてくる。これは人間のふりはしているがロボットの話なんだということを端的に表そうとしているのだろう。
また、アクトが白い樹脂でできたマネキン人形を持ちだし、椅子の上に据えると上から人間の映像がちょうど顔の辺りには不鮮明だが顔が、腰の辺りにはパンツが投射され、マネキンに魂が入ったかのように見える場面があった。これなども感情を持ってしまったロボットの切ない気持ちを表していてうまいやり方だと思った。
介護というテーマも、老人をベッドから移動させるのに既に介助用ロボットが使われている現実を押さえたうえのことで、やがて人間の感情を持ったいわゆるヒューマノイドが現れても不思議ではないという気にはなる。友情を抱けるヒューマノイドというのもそこから至近距離にある。
不思議なことに古城十忍が描いたヒューマノイドはちっとも機械のようには見えなかった。鉄腕アトムのように見ている側が感情移入してしまっているから楓も桜もアクトも機械には到底見えない。おそらく古城自身が「うっかり」そうは見ていなかったのに違いない。
こういう話は古くは「ブレードランナー」「ターミネーター」や最近では「A.I.」のようにハリウッドお得意の物語である。この手はあまりにも作り物過ぎてとても大人の鑑賞に堪え得るものではない。欧州映画にあまり見かけないのはそのせいだろう?そう思っているからあまり確信はないが、スピルバーグなどの米国人のヒューマノイドの描き方と決定的に違う感覚がここにあったのではないかと思う。それは、人間と機械を峻別する思想が米国の文化の底には存在するのにたいして、古城の感覚はその境界が曖昧に見えることだ。日本人にとっては鉄腕アトムがそうであるように、人間に敵対するロボットなど想像もできないのである。それは何故か?人間が作るものだから。こう言う人間に対する信頼がこの劇の土台にあって全体の優しい雰囲気を作り出しているのは、米国レプリカものと違って、とりあえず好ましいことだと思う。
しかし、ヒューマノイドなどと大袈裟に騒いでいるが、一体こんなものの需要がどれほどのものか?「AIBO」が売れたとか「ASIMO」が競技をやるとかいっても所詮は玩具である。介護ロボットといっても、力仕事以外に頼めることがあるだろうか?
古城は、日本はロボット大国で既に「受付・案内」「福祉・介護」「災害対応」「警備」などの分野で次々開発されているから遠からずサッカー試合するロボットが現れるに違いないと言っている。そうなって耐用年数がきてしまった大量のヒューマノイドを人間はあっさりと廃棄処分できるだろうか?とふと気になったことがこの劇を書くきっかけになったという。確かに日本は工業用ロボットの生産量では世界でも群を抜いている。しかし、古城が上げたものは皆この延長上で目的別にでき上がったものばかりである。とてもヒューマノイドと呼べる代物ではない。それでもいつか人間に極めて近い機械ができるかもしれない。そういうものを人間が欲しがれば可能に違いないが、今のレベルを見ているかぎりそんなものが今日や明日にできるとは到底思えない。
この劇はそういう時代が必ず来るという前提で、そのとき人間の死とロボットの死は極めて近似して見えてくるではないかということを問うている。
僕などはロボットごときに興味もないが、そんな遠い将来のことには関心がない。やって来たときに考えればいいではないかと思うのだが、そうはいかない人種もいるのだ。ヒューマノイド廃棄の大問題!?を「ふと」気になる程、古城は暇なのであろう。この忙しいときに一体他に考えることはないのか。
こう言うことならハリウッドの方がスケールも壮大で話も込み入った娯楽作をたくさん生みだしているのだから任せておけばいいと思う。スピルバーグの人情ばなしの方が客を呼べる。古城十忍がねじり鉢巻きで書くべきテーマではないとはっきりといっておこう。こう言うピントのずれた発想は理科系に多い。「コネクト」の「引きこもり」にしても社会的問題事象には違いないが、こう言う捉え方の裏には必ず「問題」とその「解決手段」があると信じている傾向がある。「少年問題」が起きるたびに議論されるように。しかし、何か分かったことがあったためしがないのも事実である。高度に発達したロボットの廃棄とは人間の死に匹敵するのではないか?というテーマにもこの手の楽観主義が潜んでいる。サッカーロボットを廃棄するなら平気でやるかもしれない。しかし介護ロボットの廃棄には情がからむ。もしも、そういうことが起きたとしても、養老猛司先生がいうようにそれは個別の脳の中で起きる出来事であり、精神的病のこともあれば個人的な傾向、特殊な事情もあって、一発大正解などないものなのだ。
こんなことをいいたくなるのも、この劇団の俳優たちは皆それぞれ個性があって演技の水準も高いのに、くだらないテーマの芝居をやらされていることがかわいそうだからである。ハムレットの台詞「・・・劇は時代の様相を浮かび上がらせる」ではないが、古城十忍にはもっと芸術家らしくいまを生きるおのが切実な主題をもって僕らに時代の様相を見せて欲しい。
池田遼、原田崇嗣の兄弟がよかった。奥村洋治の過剰さは愛嬌と見ておこう。山下夕佳のうまさはさすが。社会の表層を撫でてばかりいるような戯曲ではもったいない役者ばかりである。
         (2005.2.18)                                                                                        

 


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