題名:

Into the Woods

観劇日:

06/5/19

劇場:

新国立劇場

主催:

新国立劇場   

期間:

2006年5月19日〜6月6日

作詞・作曲:

スティーブン・ソンドハイム
台本:
ジェイムズ・ラパイン
翻訳:
橋本邦彦

演出:

宮本亜門

美術:

礒沼陽子    

照明:

中川隆一  

衣装:

朝月真次郎

音楽・音響:

大坪正仁

出演者:

諏訪マリー 小堺一機 高畑淳子 天地総子 シルビア・グラブ 藤本隆宏 宮本せいら 矢崎 広  早川久美子 広田勇二 荒井洸子 鈴木慎平 大森博史 藤田淑子 二瓶鮫一 花山佳子  鈴木純子山田麻由 飯野めぐみ
 


「Into the Woods」

初演(04/6月)の時の劇評にはとにかく「長い」と書いた。今度もそう思って覚悟して出かけたが、かなり反省したと見えて、短くなっていた。第一幕は一時間四十分、二十分の休憩を挟んで第二幕が約一時間と、まあこのぐらいがちょうどよいとしたものである。
二年前長いと感じたのには理由があった。第一幕は、おなじみの童話の主人公がそれぞれの望みがかなってめでたしめでたしとなったところで終わる。ここで皆帰ろうとしないから僕としては不可思議!と思ったものだ。第二幕ではその後日譚が始まるのである。もう一度エンジンをかけ直さなければならない。老体にはしんどいことだ。もう一つの理由は、ヒットナンバーがないことも大きい。ソンドハイムのメロディラインは、すっきりと美しい、なんてことは絶対にない。モダンだがどこかひねくれている。こんな覚えにくいミュージカルもめずらしい。期待が次第に疲労になってしまうのだ。
今度は第一幕のフィナーレで、「もっと楽しい続きがあります」と誰かに叫ばせていた。僕のような誤解があったことを認めたのだろう。そういう細かな気配りが宮本亜門のサービス精神である。誠実でまじめな彼の性格がにじみ出ている。
 ミュージカルナンバーを省略することなく、あいだをつまんで調節したようだが、さすがに初演の緻密さは消えて、大車輪でストーリーを追いかけるはめになった。これが初見の観客には少々急ぎすぎに見えたかも知れない。急いだからといってグリム童話の話は大概分かっているからあまり問題はないが、つまり、テープを早回しの音できいているような感覚は否定出来なかったのではないか?ミュージカルなんて、地のせりふから唄に変わっていくタイミングの妙に味わいどころがあるのだから、そこをいじらざるを得なかった宮本亜門の苦悩が十分理解出来る。
これが初演とのもっとも大きな違いだった。
主要な「役どころ」は変わっていなかったので、その点で印象に違和感などはなかった。「ジャックと豆の木」の母親が藤田弓子から天地総子に、ジャックが上山竜司から矢崎広に代わったのがやや目立ったか。この矢崎広は「コミュニケーションズ」(05年4月新国立劇場)で見ているが、今回のミュージカルで大いに成長したと感じた。芝居というものを分かってやっているという気はしないが、質のいい原石を見ているようなもので将来を期待したい。ただし藤原竜也のように若いうちにおだてられて大役をやるのはやめておいたほうがいい。形だけ覚えても心がついていかないのは見て分かるものだ。
この再演だが、いま思えば、何を言われようと愚直に初演の演出を貫くという手もあったのではないかという気もする。観客にはしんどいが、ミュージカルの一つ一つのシーンを味わって見てくれるように丁寧に誠実に見せるということでもよかったかも知れない。今回のように再演、あるいは再々演があるとしたらなおさら観客の言うことなどに耳を貸さないほうが、むしろ観客のためになったという一抹の思いも残った。
というのも、早回しのテープを聞き終わったときに、物語の持っているテーマ性が必ずしもすっかり腑に落ちるということにはならないからである。どこかでごまかされたという感じが残るのだ。それなら観客にとっては、じっくりと考えてみる材料をたくさん丁寧に与えられるほうが親切というものだ。いったいこんな物語に、つまり童話の後日譚を披瀝するという「悪趣味」にどんな教訓が潜んでいるというのか、どんな感動が待っているというのか吟味してみるには辛抱が大事だったということである。
グリム童話の寄せ集めの割にはよく練り上げられた話で、「シンデレラ」「赤頭巾ちゃん」「ジャックと豆の木」「パン屋の夫婦」「ラプンツェル」がひとりの魔女(諏訪マリー)の存在によって一つに縫い合わされている。
パン屋(小堺一機)と妻(高畑淳子)は子供が出来ないので悩んでいた。魔女が現れて呪いをかけたのだという。昔パン屋の父親(鈴木慎平・ナレーターと二役、相変わらず上手い)と争いがあったらしい。呪いを解くには、三日以内に白い牛とトウモロコシのように黄色い髪、金色の靴それに赤い頭巾を持ってくること、といわれて夫婦は森の中へ出かける。ジャック(矢崎広)は母親(天地総子)と相談して食べ物を手に入れるために白い牛を売りにいくが、森の中でパン屋と出会い、六つある豆のうち五つと牛を交換して帰る。怒った母親が豆を庭に捨ててしまうのはご存知の通り。一つ残ったところが布石になっている。
シンデレラ(シルビア・グラブ)は継母(藤田淑子)と姉(花山佳子 鈴木純子)にいじめられている。ところが舞踏会で出会った王子(藤本隆宏)が一目惚れして追い掛け回すことに。シンデレラは恐れ多いと隠れるが履いていた金色の靴を奪われる。通りかかったパン屋の妻が片方の金色の靴を手に入れる。
一方、赤頭巾ちゃん(宮本せいら)はパン屋からパンを買って帰る途中狼に襲われる。上手く逃げおおせたと思ったら先回りしていた狼に食べられてしまう。それをパン屋が発見して眠りこけていた狼の腹を割いておばあさんと赤頭巾チャンを助け出す。お礼に赤頭巾をもらうことができた。
そして最後に残った黄色い髪であるが、これは森の奥の高い塔に幽閉されたラプンツェルの長い髪をパン屋の女房がどさくさに紛れて切って手に入れる。
魔女が命じたものはすべて揃って、ついに魔法は解けた。魔女は若返り、パン屋に子供が出来、シンデレラは王子と結婚、ジャックは豆の木を伝って天上の巨人から金の卵を産むガチョウを手に入れ、ラプンツェルは解放され王子の弟とのあいだに双子を授かる。
ということでみんなが望んだものはすべてかなえられたのである。めでたし、めでたし。と童話はここで終わるのだが、作者は恐ろしく現実的である。
ついでにグリム童話につきまとう残酷性への批判もまるでなかったこととして通常はごまかしてしまうことでも容赦はしない。たとえば、シンデレラの金色の靴に無理やり合わせようと姉たちの足を削るところなど、靴の中に血溜まりが出来るという表現も平気である。また狼の腹を割いて、おばあさんと赤頭巾チャンをとり出し、代わりに石を詰めるなどはどこからか抗議がでそうな場面である。
ここは、妙に妥協などしなかったからよかった。
こういう断固とした描き方の裏にはグリム童話出版以来、二百年あまりにわたってなされた批判、否定的な議論に対する挑発があるのではないかという気もする。
ある本を読んでいて知ったが、野村?という人が書いた「グリム童話」(筑摩書房)はその議論の集大成ともいうべき本だという。サブタイトルは「子供に聞かせてよいか?」とものものしい。少年犯罪に関連させる感情的な批判も多いが、本書は民俗学者や心理学者の学説をふまえて公平であり、学問的にも水準が高いという。「グリム童話は残酷である」「封建的である」「ナチスに通じる」「非科学的である」という四つの章で構成されていて、これまでの議論全体が網羅されているようだ。
グリム童話は、基本的にドイツの伝承説話を採集したものだから、庶民の生活感情がそのままでているといってもいい。その意味では残酷あるいは暴力、欲望は人間の本性に潜む現実であるといってもいいかも知れない。ならばそれを隠すことなど出来るだろうか?
ミュージカル「Into the Woods」の作者が何故「グリム童話」を選んだのか?その理由がおそらくここにある。まず、二百年にわたるこの議論をふまえて、童話に表れた人々の所業の中に良くも悪くも人間の本質があると認識したのである。そして、そういう捉え方をするならば人間の本性はそれでは終わらない、いっておくべきことがある、という気になったのだ。つまりは後日譚を用意しなければ、童話がえぐり出した人間の本性という物語を完結させることは出来ないと考えたのだろう。「グリム童話」にはその気にさせるエッセンスがたっぷり含まれていたのである。
第二幕は、童話から寓話性をはぎ取ったら欲望と暴力の世界だったというシニカルな展開になる。開幕の地響きはさしずめその予兆である。
シンデレラは王子と結婚して幸せになった。それもつかの間、満たされないものを感じた王子は「眠れる森の美女」の噂を聞いて探しに出かける。同じ頃ラプンツエルの王子もまた「白雪姫」に会おうと森に入る。パン屋は子供が出来たが、子育てよりも自分の人生が気になり始める。森に入ったパン屋の女房とシンデレラの王子が会って王子が誘惑し、相手もそれに応じてしまう。一方、地響きの正体とは、ジャックが豆の木を切って落下させて殺した巨人の妻が地上に下りてきたものだった。たった一つ残った豆を放り投げたためにいつの間にか巨人のところへ伸びていったものらしい。ここに伏線がきいている。
巨人の妻は夫を殺した犯人を差し出せと復讐に燃えてそこいらを踏み荒らし、ついにお城も壊してしまった。人々は逃げ惑い、森の中をさまよい歩く。魔女はこの事態を招いたのは自分の責任だが、どうすることも出来ないといって死をもってこれを償う。パン屋の女房は逃げているうちに踏みつぶされて命を落とす。ジャックの母親は、巨人の妻に散々悪態をついて追い払おうとするが、挑発していると誤解した執事(大森博)の矛で殴られこれもなくなってしまう。王子もロイヤルファミリーも当てにならないと知って、パン屋、ジャック赤頭巾ちゃん、シンデレラたちは巨人の妻を倒そうと集まる。
何とかしなければと集まった者たちが分かったことは、「欲望は孤独だ」ということだった。一人一人が自分だけの勝手なことを思い描いている。それではこういう事態に全く対応出来ないではないか、と気付くのであった。一同は力を合わせて巨人の妻をやっつけようと相談を始める。No one is Alone.というのがこのナンバーで、印象深い。
結局巨人の妻を退治することが出来てこんどこそめでたし、めでたしとなるのであった。
ここで僕は、前回の劇評で「少し釈然としないものを感じた。」と書いている。そしてこんなふうに締めくくった。
「そこで、ソンドハイムには「AFTER "INTO THE WOODS"=その後の・・・」とでも題して書いてもらいたいと思っている。その冒頭はこうして始まるはずである。
パン屋、シンデレラ、赤頭巾ちゃん、ジャックがそれぞれの道で幸福に暮らしていたところ、ある日大きな地震があったと思ったら天から大音響で「俺の母ちゃんを殺したやつはどこにいる!」という声。巨人の息子が現れたのだ。」
つまり、巨人の妻を退治することで一同が幸福になるということならば、憎しみの連鎖は終わらないのではないか?ということである。終わらないのが現実でありそれが人間の愚かさだというのなら、まあ話は分かる。あとは勝手にやってくれというしかない。
また、妻が降りてくる伏線に使った豆は、もう一個もないから安心なのだよ。というかも知れない。それでも巨人の一家から見たらこの話は一方的で公平ではないということになりはしないか?
何もかも公平に描けとは云わないが、アメリカには民主主義という正義があって、そのためには何をしても構わないという一元的な価値観に呪縛されている。いまならイラクという格好の見本があるが、この結末にはそれを思わせるところがあって気になったのだ。考えすぎだといわれるかも知れないが、その感想は今回も変わらない。
ところで最初に長さのことを書いた。長いと文句を言っておきながら、削った結果そのままでもよかったというのは勝手な言い分だ。とは自分でもそう思う。長いと思わせない工夫はあったはずだが、一方翻訳の問題はありそうだ。意訳だろうが英語の分量と日本語の分量を近づける努力を、特にミュージカルや芝居の場合する必要があると思う。たとえば「ハリーポッター」シリーズの日本語版のボリュームと英語版のそれを比較すると倍くらいは違う。あれは驚きだが、もともと英語とはそういう言語らしい。
「まず小話を一つ。・・・テリダだったか、フーコーだったか、フランスの哲学者が、自分の本の英訳を読んでいった。 『なるほど。俺はこういうことを考えたわけか。実によく分かるなあ』・・・常に具体的、日常的である英語は難解な思考を平明に表現してしまふのである。哲学は英語で読むに限る。」これはある思想関連の本の書評の書き出しである。書いたのは丸谷才一。僕はこれを読んで実感だなあと思い大笑いした。(学生時代ギリシャ哲学の加来彰俊先生に誘われて、級友の渡部正孝と僕と三人、一夏デカルトを読んだことがあった。仏語で読んで、英語で確かめるとよく分かった。それを思い出したのだ。いまとなってはその時に分かったことはみんな忘れてしまったが。)
こういう性格を持った言語を漢字仮名交じり文の口語に翻訳するのだからその量を合わせようというのは至難の業と思える。しかし、映画の字幕はそれをやっている。同じに出来ないのは分かっているが、翻訳家はそういう苦しみをもっと味わうべきだ。

再演は腰が痛くならなくよかった。そのかわり、何だか物足りない思いも残った。人間の欲とは、実に際限のないものである。

                                                                                        

 


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