題名:

ジョセフィン-虹を夢見て

観劇日:

03/2/14     

劇場:

東京芸術劇場     

主催:

地人会    

期間:

2003年2月12日〜15日 

作:

青井陽治

演出:

木村光一        

美術:

石井強司     

照明:

室伏生大    

衣装:

渡辺園子    

音楽・音響:

岩間南平・斉藤美佐男

出演者:

前田美波里  榛名由梨 鳥居かほり  丸山知津子  斉藤恵理  仲音映里立川三貴  武正忠明  下馬二五七 宮川浩  高野絹也  笠原竜司    清野秀美  永森英二      
 

「ジョセフィン−虹を夢見て」

 僕らの記憶には頭にターバンを巻いて、すらりとした身体に長いコートを羽織った晩年の姿しかないが、全盛期には第一次大戦後のパリを拠点にショービジネスの世界に名をはせたジョセフィン・ベーカー、その生涯を青井陽治が音楽劇に仕立てた。
  おそらくレーザー光で投影しているのであろう「Josephine」と幅いっぱいに描かれた緞帳がきらびやかで、彼女への賛辞のようにみえる。 幕があがると、ものがたりが始まる口上があり、はたして、色とりどりの電球が点滅する華やかなステージになる。 大胆なコスチュームに羽飾りの被り物で舞台中央の階段からジョセフィン・ベーカー=前田美波里が歌いながら下りてくる。実際のレビューやミュージックホールではないが、その雰囲気は非常に良く出ていて一瞬どこにいるのかとまどってしまう。
  このステージの華やかな場面とジョセフィンの人生に起きた現実、その光と影を交互に見せることによって、音楽劇であり評伝劇でもあるこの芝居は成立している。 何と言ってもジョセフィンは歌と踊りで一世を風靡したのであり、彼女の人生を語るのにステージを、再現は無理としてもそのイメージを伝えないわけにはいかない。幸い彼女の踊りはいくつかフィルムで残っているらしく、この芝居の中に、振り付けのチャチャ遠藤はしっかりと取り入れたようだ。それがどれかはよく分からなかったが、例えば、バナナをぶら下げたヒモを腰に巻いただけという当時の観客にしてみれば仰天ものの衣装〈現在でもそうか!〉でコミカルに踊る場面や乳房を描いたブラジャーをまとって踊るシーン、エキゾティックな模様の長いスカートが、またの間で大きくわれるエロティックな踊りなどがそれではないかと見当をつけた。 ユ20〜ユ30年代のパリがこれに熱狂したのはわからないでもない。斬新で洗練された感覚はいまでも十分通用するだろう。
  この踊りと歌の表現は、前田美波里以外にできる才能を求めることは不可能であろう。「一瞬どこにいるのか・・・」と書いたのは、ジョセフィンの、というよりは前田美波里のショーを見ているような気がしたからであった。無論前田美波里がキャバレーやミュージックホールで踊ったとしても、成功するには彼女の知性が決定的に邪魔をするに違いない。ジョセフィンを演じているとわかっていながら、ショーダンサーの前田美波里を見ているという気にさせられるのは、彼女があまりにも完璧だからであった。
  だいぶ前に「サロメの純情」を見たときは、身体の線を出して踊る場面がこれほど多くなかったせいか、あまり気遣いを感じなかったが、この芝居では、相当に絞っていて、余計なものをそぎ落としたようにほっそりさせた顔、鍛えているに違いないが筋肉を感じさせない長くストレートな手足、柔軟な身体、その姿態から漂う知的で艶っぽく華やかな存在感は、それだけで既にジョセフィンを超えたなにものかである。観客は僕も含めてもっともいい時期の前田美波里を見た。見なかったものは残念だったと思う。
  そのように前田美波里が踊るときは、ジョセフィンが影になった。そしてジョセフィンの人生は、むしろ脇が語った。前田美波里の存在感が強く印象づけられたのは、そういう物語の構成にも因があったと思う。 青井陽治には別の書き方もあったはずだが、毀誉褒貶、いろいろと評判のあった実生活の部分はつきはなして、できるだけ客観的に見ようという態度で一貫していたようだ。それでもいいのだが、ジョセフィンを青井自身はどう思っていたのか、つまりはこの一代記を書こうとした動機が最後までついに分からなかった。もっとはっきり言えば、ジョセフィンへの共感も愛情も乏しいいまま、単に評伝としての物語を語ったにすぎないのではないかという印象を受けた。
  20〜30年代のパリの芸術家たちとのかかわり、フェミニズムの先駆者、黒人公民権運動の推進役、レジスタンスとしての情報活動、戦後の篤志家としての活動、ドゴールが国葬で送った最後、「私は人の三倍は生きた」と自身が言うように彩りの多い人生をどこかにフォーカスするか、少なくとももう少し愛情のこもった筆致で書いて欲しかった。
  木村光一もそこは淡々とジョセフィンの人生を描こうとしていて、余計な感情移入を押さえていたように思う。ジョセフィンのすべてはステージにあったという本の基調は、当時ジョセフィンのライバルであったミスタンゲットが登場するプロットによく表れていた。本来この役は、鳥居かほりか榛名由梨がやるべきところだが、木村はこれを宮川浩に振って、女装した男の強烈な個性で存在を強調した。その照り返しとして対極にいたジョセフィンの姿が大きくなるのである。宮川も期待に応えカリカチャーとしてのミスタンゲットを怪調?に演じて、この長い場面は成功していたと思う。難を言えば、宮川の発音に少々問題があって、その点定評のある共演の武正忠明〈作曲家・五番目の夫役〉や下馬二五七〈劇作家他役〉を見習って欲しい。  
  それにしても前田美波里の衣装の多さときたら、尋常ではなかった。難しいステージ衣装を大量に含んで、しかも他の登場人物のと合わせると想像を絶する物量になったはずだが、それを極めて丁寧に仕分けし、場面に的確に合わせた高い水準のデザイン感覚でまとめあげた前田園子の仕事は、プロとは言えすばらしい出来栄えであった。特にこれを書き留めておきたい。
  意外にも鳥居かほりが頑張っていて、踊りも芝居もまあまあの水準になっていた。しかし、アイドルが必然的に要求されるある種のテンションの高さというものをどこかで脱ぎ捨てないと、女優にはなれないものだ。鳥居かほりがアイドルだったかどうかはともかく、まだ細い糸がいっぱいに張った印象が残っていた。
  カーテンコールで、前田美波里はつかれきっていた。精も根も尽き果てたという感じで共演者に寄り掛かっていた。 たしかに、終わってみれば、前田美波里のワンマンショーだった。それはそれで価値があったし、楽しむことが出来た。
  しかし、それではジョセフィン、虹を夢見たあなたは誰だったのか?
  ステージは消えていくものである。その幻こそジョセフィンのすべてだったとでもいうのか? 世間知らずのダンサーが20世紀の重要なエポックとかかわりながら自分が信じたことをやりたいように生きた。それもジョセフィンに違いない。 誰もがその実像をつかもうとして取り逃がし、虚像もまたそのすべてを集めても真実には遠いことを知っている。
  僕は、いま緞帳に光で描かれた「ジョセフィン」の文字を思う。
  それは、いまは虹の彼方に去ったあなたを物語るとき、「ジョセフィン」と言う言
葉で言うより他に、あなたの歩いたまるごとの人生を語ることは出来ない、という誰 か
の思いが込められていたのではないかと確信している。                                       
              (2/21/03)

 

 


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