題名:

見よ、飛行機の高く飛べるを

観劇日:

}04/11/18

劇場:

シアタートラム

主催:

世田谷パブリックシアター      

期間:

{term}2004年11月1日〜21日

作:

永井愛

演出:

アントワーヌ・コーベ

美術:

二村周作     

照明:

大野道乃    

衣装:

和合美幸

音楽・音響:

尾崎弘之

出演者:

井川遥 魏涼子 中村美貴 山谷典子 もたい陽子 伊勢佳世 村松えり  ともさと衣 笠木誠 藤沼剛  谷川清美 塩山誠司 久保酎吉  冷泉公裕   八木昌子

 
{ポスター}


「見よ、飛行機の高く飛べるを」

僕らが翻訳劇の戯曲を読むとき、どんなことを思い描いているか?
筋書きはとりあえず分かるが、自分で演出しようとしたらたいへんである。外国語で表現されたものが翻訳というフィルターを通って入ってくるというのが第一の関門だ。福田恆存がシェークスピアのおもしろさは翻訳によって90%失われると言ったのは極端だが、その事を言っている。しかしもっと大変なことに、その外国語が持っている文化について知らなければ、筋は追えても背景や衣装など戯曲のディテールについてどんなに目を凝らしても大概アウトオブフォーカスなのである。それが第二の障害である。
しかし、それにもかかわらず翻訳されたテキストの人物たちに仕草を加え、心の中で再現することはできる。すると、とりあえず台詞も動作も生き生きとして手応えを感じるようになるだろう。そのかわり背景や衣装や小道具や台詞に含まれている外国人にしかわからないちょっとした冗談などのディテールは後退して曖昧になり、その霞んだ周辺の真ん中に物語のエッセンスだけが浮かび上がるようになる。それなら自分の感覚だけで舞台に表出できそうである。そう考えると皮肉なことに翻訳戯曲の方が世界の広がる自由度は高いと言えるかもしれない。
フランス語に翻訳された永井愛のテクストを読んだアントワーヌ・コーベは、こうしてフランス語で話す日本の物語を頭の中で構成した。どんな翻訳になっていたのか知るよしもないが、もともとリエゾンでつないで流れるように滑らかに発音されるフランス語だけにかなりリリックな調子の高いものだったのではないかと想像できる。冒頭の情景説明の「と書き」を登場人物が読みながら現れるという意表をついたやり方も、テクストそのものを詩文と感じ「前触れ」の様に使用して違和感はないと判断したのだろう。劇中、ある台詞を役者が棒読みするなども戯曲の中のフランス語のリズムが詩文のように思えたからではないか?
全寮制の学校と寮監、女子高等教育、教師に校長そんな道具立てはフランスにもこの劇の時代と同じ時期に平行的にあったという。申しあわせたわけではないところが、不思議といえば言えるが先進国とはおおよそ同じような歴史をたどっていたのである。
そんな制度的なことはいいのだが、ではどんな衣装を着せるのかという文化の問題になるとやっかいであり、これでいいという根拠を持ちあわせていなければ、必死で学ぶ以外ない。しかし、それは全体のテーマにとってトリビアルと判断するなら省略してもかまわないだろう。
そこで演出家は、女子師範の学生たちに土色に近いベージュの布で作ったワンピースを着せた。また、日本独特の柱を組み上げる建築様式の寄宿舎も想像の中にはなかったものと見えて、衣装と同じ色の布をひろげて天井をつくり、その色の板で渡り廊下を作った。女子校には珍しい「質実剛健」の額もまたその周辺の柱や梁とともに黄土色に塗りこめられ、レリーフになっている。劇の背景は文字通り物語のうしろへ後退してしまったのである。
話は大逆事件があってインテリはじめ世の中が閉塞感に蔽われていた大正のはじめ頃、名古屋の女子師範の寄宿舎での出来事である。東京の士族出身の光島延ぶ(井川遥)は「国宝」と呼ばれるほどの品行方正成績優秀の学生であった。ただ、舎監の教師菅沼くら(八木昌子)は延ぶが新聞を読むことが気掛かりで嫌みを言いながら止めようとしている。多感な少女に当時の「新聞の論調」が悪い影響を与えるのではないかと懸念しているのであった。延ぶは既に世の中にはさまざまな出来事があり、それには理不尽と思えることもあると知りはじめていた。そんなとき平塚雷鳥らが出した「青踏」を手にする。新聞では大阪の練兵場で日本ではじめて飛行機が飛んだことを報じていた。世の中は変わりつつあると感じた延ぶはそんなことに刺激されて自分たちも文集を出そうと計画を始める。一年下の杉坂初枝(魏涼子)は女性は自立して社会の役に立たねばならないと、延ぶよりも遥かに進歩的な考えを持っていて、グループを理論的にリードする。
一方、延ぶはしょっちゅう通路を間違って寄宿舎に入り込んでくる教師の新庄洋一郎(笠木誠)にある日、自然主義について質問し戸惑う新庄からこの禁断の文学を借りることに成功する。田山花袋の「布団」などは読んだだけで停学ものの本だったのだ。少女たちの感想がおもしろい。さえない中年男が布団に潜っていなくなった女の体臭を嗅いで涙する場面の、体臭に反応して喧々諤々の議論となりそれが自然主義ではないかと批評を交わすのがいかにも年ごろである。
こうして文集の準備をしている中、ある夜賄いの板谷わと(大方斐紗子)と息子の順吉が(藤沼剛)学生の談話室に現れ、学生達は彼らの話を偶然耳にする。順吉は錺職人だが仕事がなくなり母親の元にやって来た。もう職人に戻るのはいやだ、学問して別の仕事につきたいといって荒れているのだ。社会の階層の問題を具体的に見せる場面である。この順吉が編集の作業をしているところへ入り込むという事件が起こった。順吉はそばにいた木暮婦美(伊勢佳世)を抱いて口づけをして去る。それだけなら何もなかったのだが、その後日、木暮婦美は順吉に呼び出され、自分が作ったというかんざしを渡され恋心のようなものを告白されたらしい。運の悪いことにその様子を教師に見られてしまった。木暮は生涯始めての出来事にただ呆然としてなりゆきに従っていただけだが、異性と二人キリで会ってはいけない、まして贈り物を貰ってはならないという規則に違反したかどで職員会議にかけれる始末になったのだ。木暮にはなんの落ち度もないことを知っていた延ぶや初枝たちは婦人運動の同調者であった教師の安達貞子(谷川清美)の応援を得て、校長達に木暮の懲罰があれば全校ストライキも辞さないと通告する。寮の学生は次々に参加を表明するが、それにたいして学校側は陰険な圧力を加えてくる。延ぶにも経歴に傷が付くとか両親がなげくとか、校長(久保酎吉)自らがやって来て中止を迫るのである。そんな中退学処分が発表となり、既にショックから立ち直った木暮はもう二度とここへは戻らない、ご機嫌ようと明るい調子で学校を出ていく。
校庭から掛け声が聞こえる運動会の日、ストライキに参加したのは延ぶと初枝それに下級生の北川操(ともさと衣)三人だけである。教師達が呼びにくる中、初枝は揺れ動いている延ぶの心を見透かして校庭へでることを勧めるが延ぶは応じない。しかし家族がやって来た北川操は抗しきれずストから脱落する。そして、初枝がお茶を入れに外したとき、教師の新庄が競技に参加するのを嫌ってやって来る。新庄はとりとめもない話をしていたが、突然ついて出たように求婚としか思えないような言葉を口にする。むろん延ぶは驚くが内心は激しく動揺している。もはやストライキどころではない。一生涯の問題が降って湧いたのだった。
こうして戦いの日々は終わった。しかし彼女達の心に灯った婦人解放運動の火はもはや誰にも消すことは出来ない。演出家は初枝が客席の上を翼を広げて飛翔するように登って行くのを観客が支えるというエンディングを創りだした。危なげに背もたれをたどる魏涼子の動作に笑いが漏れたが、意図はありありと見えて、これはこれで感動的な締めくくりであった。
このように物語をざっと見ただけで実におもしろい話である。フランス語で読んでも恐らく第一印象でこれは自分でも絶対演出できるとアントワーヌ・コーベは考えたに違いない。何度も言うがこの劇の演出プランは恐らくその最初の印象そのもので出来ている。それはテーマの普遍性ストーリーのおもしろさ、しっかりと堅固な劇の骨格によって、あまりディテールにこだわることはないという構造があるからである。
この演出は随所にさまざまな工夫が凝らしてあり、それらは理解できないわけではないが、第一印象を大事にしようというあまり、思いつきの域を出ないところが多くて気になった。
もっとも不満なのは、男性の役どころの扱いである。
新庄先生は最初から個性を殺したような棒立ちの芝居で、視線を相手とまともに合わせようとしなかった。常にどこかボォっとして遠くを見ていたが、さすがに求婚の場面では顔を赤らめてまともになった。しかしそれなら始めからこんなことをする必然性はどこにもない。
また、教師の一人中村英助(冷泉公裕)は同僚の理不尽に対して抗議も出来ない気の弱い面を持っている。これを「イノセンス(無垢)」と解して、役者には天使のような軽やかさを要求したという。こんな解釈では一人浮くのは当然で、冷泉公裕はぽかんと口を開け愚鈍とみえる笑いをつくっていつまでも中空を見つめるようなところがあった。この長い間は全体の運びにとって意味のない無駄である。
校長の造形も懐柔と恫喝の落差が激しすぎて典型的に見えるがかえってリアリティを欠いた。ドロップスをなめるところももう少し自然にならなかったものか。久保酎吉の名誉のために言うがこれは演出が校長のフランス語を頭において指示したものである。
このように男性の役柄をやや戯画化して描いた意図はやはり最初に描いたパースペクティブの中で女子学生の群像よりはやや後退した位置に見えたからだろう。しかし互いに視線を合わさない同僚や感情を抜きにした台詞はいくら何でもやり過ぎである。これによって何が起きたかといえば、学生達の思いは際立ったが、教師もまた様々でありその思惑や考えが生き生きと伝わってこないという弊害を生じた。漱石の「坊ちゃん」の教師群像を知っているだけに惜しいことをしたという思いが残る。
日本人なら絶対にこうはならない演出になったと永井愛が言っていたようだが、それはその通りだ。だからといって納得できるかといえばこんな出来では考えが浅すぎる。俳優でもあるという才能の閃きが見えないわけではないが、アントワーヌ・コーベの思想がひとまとまりになって見えてこないというのは残念である。
役者はよく演出家の言うことを聞いていた。男性陣はあの不思議な演出方針によくついていったものだ。
井川遥はグラビアアイドルかと思っていたが、いつの間にこんな舞台をつとめられるようになったのか?容姿が評価されるのは当然として、ともかく延ぶというキャラクターを無難につくりだし、初枝を制して舞台をリードした功績は褒められていい。初枝の魏涼子もまた理知的で勇気があり一本気な「若き日の市川房枝」をうまくつくった。
そういえば「時の物置」(劇評あり)はこの物語の後日譚だと気がついた。あの芝居では新庄先生は二階で病の床にふせっていて、延ぶは孫娘の面倒を見ながら小説家を夢見る長男に代わって一家を切り盛りしていた。
これは永井愛の祖母をモデルにしたものだという。かつて「国の宝」といわれた女子師範出の才女があの求婚を受け入れて家庭に入った事から巡って永井愛があるというわけだ。後年の市民運動の闘士と同窓であったことが自慢の種だったらしい。何が幸せかなど言い切れるものではないが、もう一人市川房枝が出来ていたかと思うと、延ぶにはあの求婚を断っていたら良かったのにという気がしないでもない。
若い女優達は皆溌剌として気持ちがよかった。こればかりは演出家の功績といわねばならない。いやアントワーヌ・コーベの焦点が合っていたのはあの青春群像一点だった。恐らくそれだけを伝えたかったのであろう。
   

 (2004/12/1)



 


新国立劇場

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