題名:

喪服の似合うエレクトラ        

観劇日:

04/11/19       

劇場:

新国立劇場  

主催:

新国立劇場   

期間:

2004年11月16日〜12月5日     

作:

ユージン・オニール       

翻訳:

沼澤洽治    

演出:

栗山民也     

美術:

島 次郎             

照明:

勝柴次朗             

衣装:

前田文子            

音楽:

山本浩一 
出演者:
大竹しのぶ 堺 雅人 吉田鋼太郎 津嘉山正種 三田和代 西尾まり 中村啓士 丸林昭夫 池田直樹  

 

「喪服の似合うエレクトラ」

                             
  三時間四十五分の長さを感じさせない緻密で見ごたえのある舞台だった。俳優たちの演技もさることながら、これは演出の栗山民也によるところが大きい。台詞のひとつひとつに意味を込めそれを観客に手渡すような丁寧なつくりであった。しかもそんな作為などみじんも見せないで、悲劇の予感からその中心へすばやく観客を誘い、人間の業とも言うべき凄まじい愛と死のドラマを骨太に描いて見せたのである。
原作の背景はトロイ戦争だが、ユージン・オニールはこの劇の舞台を南北戦争終戦前後の米国東海岸ニューイングランド地方の町においた。話の筋書きはギリシャ劇から借りたが、清教徒(ピルグリムファーザース)たちが大陸へはじめて足を踏み入れた土地がらといい、神経症的な登場人物といい紛れもなくユージン・オニールの世界である。
その世界は歪んでいる。激しい愛と憎しみの相克によって押しつぶされそうになりながらかろうじてたっている。
島次郎は大きな舞台の間口を濃いスカイブルーの太い額で囲んだ。それは僅かに変形していて何か眼に見えない力がかかっているような緊張感をつくりだしている。下手よりに、ニューイングランドの陽光に白くさらされたような高い壁と大きな扉、扉の前はギリシャ劇の舞台の様な広い階段状のエントランスである。そして、明らかにこの大きな屋敷は傾いでいる。回り舞台が回転するたびにそれは強調されて見える。この装置はガラスを多用したニューイングランドのコロニアル風の家とは正反対の暗く重々しい閉鎖的な雰囲気を漂わせている。木の高い扉(開けたての音が)だけは不満だったが、テーマにぴったりと寄り添った造形で柄の大きさといい狂気を孕んだ歪みといい美術としては今年見た最高の出来であったと思う。
最初に町の人々がこの名門マノン家のうわさをする声が聞こえる。これはギリシャ劇のコロスのように実際に登場するように書かれているらしいが、栗山民也がわずらわしいとして声だけにしたものだ。(アフタートークで)まともにやれば六時間あまりになる大作ということもあるが、コロスが出てきたら、かえって観客の感情移入を阻害してしまいそうで、この判断には賛成である。それにしてもこの声だけの出演者が浅野和之、石田圭祐、梅沢昌代、田代隆秀、那須佐代子、丸林昭夫、矢島美紀と国立劇場ならではの豪華さだ。
「婚約中はともかく結婚してからは一度も愛したことが無かった。」と妻クリスティン(三田和代)は告白する。旧家で名門とはいえ、なんという不幸な結婚生活か?しかし、夫エズラ・マノン(津嘉山正種)との間には長女ラヴィニア(大竹しのぶ)と息子オリン(堺雅人)の二人の子どもが出来る。
将軍として南北戦争に出征中のエズラは北軍の勝利によって、父に従ったオリンとともにまもなく帰還するはずであった。
そうした中、ラヴィニアは母クリスティンが商船の船長アダム・ブラント(吉田鋼太郎)と不倫をしていることに気付く。クリスティンは実家の父親の見舞いと称してたびたびニューヨークをおとづれ、アダムと密会を重ねていた。ラヴィニアは母の父に対する裏切りを許せない。母を問い詰めるとためらっていたが、昂然と「私は、あの人を愛している。」と言い放つ。開幕直後の興奮した二人のやり取りが激高しながら冷めていて、母娘の心理状態の変化がよく分かる。蜷川演出の場合ならここで大竹しのぶは速射砲のように棒読みの台詞を吐き出して観客を困惑させるところだ。しかし栗山演出はそれをおさえ、三田和代のいわば七色に変わる表情と台詞にリズムを合わせて、説得力のあるところを示した。大竹しのぶ本来の巧みさを引きだした表現であった。この二人の女優のやり取りは久しぶりに「俳優」を観たという充実感を与えてくれた。
アダム・ブラントは、マノン家の先代が付添の看護婦に生ませた子どもであった。妊娠がわかると金をやり家から出した。アダムは苦労して育ったが、マノン家に近づいたのは復讐というよりは偶然のようだ。しかし、この家にまつわる酷薄なイメージを象徴しており、運命の糸に導かれたというべきかある宿命を暗示する存在でもある。
ラヴィニアは直ちに別れなければ父に母の不実を告げることになると諭す。もはやアダムを失うわけに行かないと思うクリスティンは、エズラを亡き者にしようとアダムに持ちかけ、薬を手に入れさせる。
そこへケガをした息子オリンをおいてエズラが一人で帰ってくる。うわさは耳に入っていたようだが、エズラはこれを機会に妻とやり直そうと思っている。
その夜、ベッドの中にいた二人はエズラの提案を巡って口論になった。クリスティンにはエズラとともに暮らす気は失せている。興奮したエズラが持病の心臓発作に見舞われ薬をと叫ぶとクリスティンはかねて用意の錠剤を渡す。何かが起こりそうという予感で真夜中もおきていたラヴィニアが騒ぎを聞きつけ、駆けつけると父親はクリスティンを指さしていき絶える。何があったのか直ちに理解した。ラヴィニアは父を愛していた。その父を母が殺した。許すわけに行かない。
戦場で軽傷を負い頭に包帯をして無精ヒゲを生やしよれよれの軍服で戻った弟オリンをラヴィニアは喪服で迎える。母親はオリンに父の死は心臓発作だったというが、ラヴィニアから母には愛人がいると聴かされ動揺する。ラヴィニアは父の無念をはらすにはアダムを殺す以外ないとオリンに持ちかけ、気の弱い神経質な弟は気丈で激しい姉の言葉を受け入れる。
姉弟が知り合いのところで出かけると言ってでた後、クリスティンはボストン港に停泊中の帆船にアダムを訪ね、命が狙われている旨を伝え帰る。クリスティンの後をつけて港まで来た彼らはアダムを呼び止めオリンが拳銃であっさりと撃ってしまう。(一番前で見ていたのでそのあまりの音に椅子から飛び上がりそうになった。)何食わぬ顔で家に戻り、クリスティンにアダムが死んだことをほのめかすと、ボストンの新聞でそれを確かめ彼らの仕業と悟る。幸福な未来もどんな希望も消えうせた。クリスティンにはもはや生きていく意味がない。エズラの亡くなった部屋に入り母は自らの命を絶った。
オリンは自分のせいで母を死に追いやったと嘆き自分を責める。そこでラヴィニアは気分転換に昔から一家が憧れていた南の島へ誘い、しばらく滞在して帰ってくる。弟には時々やって来る近所のナイルズ家の娘ヘイゼル(西尾まり)との結婚を勧めるが、オリンはこれを拒否、今やたった一人の庇護者となった姉にたいして特別な感情を持っていることを隠そうとしない。島の男たちと親しげに踊る姿に強い嫉妬の念を抱いたことを思い出して姉を責めるが、ラヴィニアは弟の気持ちに驚愕し激しくこれを拒絶する。オリンには既に母の死による神の罰を恐れるあまり狂気が忍び寄っていた。この姉の態度が引きがねとなってオリンの理性は崩壊する。愛情の対象を失って孤独と絶望の淵に追いやられたオリンが自ら死を選ぶのはまもなくのことであった。
喪服を纏ったラヴィニアが家の前に立ち、下男のセス・ベクイス(池田直樹)を相手に言う。「私は最後のマノン。・・・だから自分で自分を罰するほかない。」そして二度と再びこの扉を開くことはないと言って家に入る。傾いだ屋敷は舞台もろとも静かに最奥部へ向かって後退し、悲劇は人々の記憶の中に埋もれていく。
考えてみれば異常な家族の信じられない物語である。娘が不貞を働いた母親をあれだけ激しく憎むのは普通の感情ではない。父親への近親相姦的愛情が裏にあると考えていいだろう。いわゆるエレクトラ・コンプレックスである。しかしこの劇ではエズラが帰還してすぐに死ぬことになるので父娘の愁嘆場を見せる暇はない。この部分は実にあっさりと遣り過してしまうが、こう言う構造が下敷きになっているのは明らかである。むしろ実の母娘が他人以上に対等に対立する姿が異様にみえる。しかも、愛人を殺せば母親も死を選ぶに違いないという確信に基づいて弟を唆すのだから、この娘はどんな育ち方をしたのだと思わず言ってみたくなる。実際にその通り進行して、母親は自殺、弟は罪の意識に苛まれ、姉への異常な愛情を示し自ら死んでしまう。
こうしたありえない物語を一気に見せてしまう力は歴史劇を骨格に借りたこともあったが、それを越えて戯曲が描こうとした人間模様の中にあった。それはこの一家のあらがいがたい宿命が家族の中の、いや、人間そのものの愛の希求とその不在というべき恐ろしい世界をダイナミックに予感させ得たからである。ラヴィニアは運命のままに行動し最後のマノン家として幸薄い、死のにおいの立ちこめる屋敷に自らを封印し罪を償うことにした。なんという救いのない終幕だろうか。
最初に書いたように舞台をニューイングランドにおいたのはピューリタニズムと少なからぬ関係があると感じていた。米国の文学にはその影響下にあると思われる作品が数多く存在する。民主主義を是として資本主義を促すという米国の思想はピューリタニズムに裏打ちされているとは定説であるが、反面カルバン派などよりも遥かに過酷な教えによってしばしば狂信的とも言える印象を与える。神は我々の想像以上に米国人の身体の中まで入り込み苛むことがあるようだ。「1932年のアバンギャルド」という文章の中で一ノ瀬和夫(立教大教授)はこう指摘している。「(この作品は)マノン家の人々の運命を操る元凶として『美は醜悪、愛は邪悪』と説くピューリタニズムを歴史の中から引きずり出すことで、アメリカ的精神と価値観の根幹を形成したイデオロギーを鋭く批判するものともなったのである。」美は醜悪、愛は邪悪という象徴的な言葉に込められた思想は現実との間に捩れを生じ、そこに落ちた人々の精神を苛むことになる。オリンの狂気を見ながら、作者オニールの心の軋みを感じたのはそれであった。アメリカ的精神もオニール自身もどこか病んでいる。その痛みにあらがうことが結果として「批判」になったと考えるべきであろう。
オリン役の堺雅人は適役を得たようだ。高い声が震えているのは天性のものか?ただ身体の動きはまだ本物ではない。なよなよしていることと、なよなよした演技とは別のものだ。
吉田鋼太郎は長年シェイクスピア「だけ」に取り組んできただけあってギリシャ劇の翻案にふさわしい風格を表した。もっともこれを現代劇に仕上げようとした演出家とは衝突があったようで、アフタートークでのやり取りがおもしろかった。シェイクスピア劇はシチュエーションを理解させるために説明調になるという。この癖がどうしても出るらしい。演出家がその度にダメ出しをしたようだが、それには少々ムカついたと言っている。たいして栗山民也は「ちゃんと言っていることを理解してないからだよ。」と応じていたが、見たところこの癖はやはり出ていたといわざるを得ない。たぶん沙翁の霊があの広い肩に止まっているのだ。得難い役者ではある。
「夜への長い旅路」は感動した作品のひとつであった。津嘉山正種と三田和代はこれにも出演しているが、今回エズラは出たと思ったら死んでしまうので堪能する暇が無かった。存在感はさすがである。
下男セスの池田直樹はオペラ歌手である。ジャックダニエルを片手に鼻歌交じりで登場する。その声はどすの利いたバリトンで、それだけでも栗山が起用した意図は成功していたといえる。
この芝居は中劇場を一杯にした。チケットは完売だったそうだ。大河ドラマに出ている堺雅人が連れてきたのかもしれない。それはそれでいいことだ。この芝居のように演劇の芸術性を遺憾なく見せてくれる作品に出会えば、そのうちの何人かはまた見たくなるに決まっている。
それにしても1932年、戦前の作品である。栗山民也はまるで現代劇のように仕上げ、その中にギリシャ劇から今日まで続くテーマ、人間とは何か?という謎をさりげなくこめた。ユージン・オニールの今日的解釈という意味で先の「夜への長い旅路」とともに高く評価したい。
   

 

 (2004.12.10)













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