題名:

ニュールンベルグ裁判        

観劇日:

2003年11月26日       

劇場:

紀伊国屋サザンシアター   

主催:

兵庫舞台芸術    

期間:

2003年11月20日〜28日     

作:

アビー・マン       

翻訳:

小田島恒志     

演出:

鵜山仁         

美術:

島次郎             

照明:

勝柴次朗            

衣装:

緒形規矩子            

音楽:

斉藤美佐男
出演者:
中嶋しゅう 木下浩之 今井朋彦 塩田朋子 川辺久造 八木昌子飯沼 慧三木敏彦 花王おさむ 牧村泉三郎 世古陽丸 矢代朝子 吉野正弘 木津誠之 吉江麻樹 才木清英 鈴木瑞穂  

 

「ニュールンベルグ裁判」


 久しぶりに面白い法廷劇を観た。
 映画少年だったころ、「ニュルンベルグ裁判」の広告は何度も目にしたが、その頃も今もナチスものは大嫌いなので、見ようとしなかった。雑誌に載ったバート・ランカスター、リチャード・ウィドマーク、マクシミリアン・シェルの顔写真とタイトルが重なったモノクロの記事はよく覚えている。今度調べたら、スタンリー・クレイマーの作品でスペンサー・トレイシー、マルレーネ・ディートリッヒ、モンゴメリー・クリフト、ジュディ・ガーランドも共演していたと分かった。62年度のオスカー(主演男優賞=マクシミリアン・シェル、脚本賞アビー・マン)を取っている。そういうことなら見ておけばよかったと思った。映画は、この国際軍事法廷の裁判長を務めたダニエル・へーウッドのベストセラーになった回想録を元に、作者アビー・マンがTV用に書いて放送したのをスタンリー・クレイマーが目に留め、共同で作った。舞台の方は詳しいいきさつは知らないが、おそらくTV用のシナリオを元に書かれたものだと思う。
 TV草創期の頃は、原作があるとはいえ、こんなにも質の高いドラマがあったことに改めて驚きを感じる。芝居を観終わってからビデオを探してみたが、見つからなかった。そのオリジナルを知らなくても、十分に面白い芝居である。
 いわゆる軍事法廷かと思ったら、ナチの大物達については既に判決から処刑まで行われた後に続けられた民間人を裁く法廷であった。これが僕には意外で、益々40年前に見ておけばよかったという思いを強くした。
 舞台の背景一杯に、厚い板で格子状に区切られた四角い空間にそれぞれ形の違う古ぼけた木製のイスが一脚ずつはめ込まれている。裁判を傍聴する人々にも思えるし、ドイツ国民・市民全体を象徴しているとも思える。更に言えば、ユダヤ人の抜け殻になった住居であり、収容所の獄房であり、墓場かもしれない。最初はなにかうるさく感じたものが、次第に舞台を包むように有機的な存在として立ち現れるようになる。島次郎の装置は、法廷の硬質な雰囲気を壊すことなく裁判の背景の奥深さを表現していて、いつもながらテキストの読み込みには感心させられる。
 芝居は、ダニエル・ヘイウッド(中島しゅう)が裁判長として、米国の片田舎から赴任してくるところから始まる。判事としては誰もがしり込みする損な役回りで成り手がいなかったが、偶然お鉢が回ってきたのだ。
 裁かれるのは、エルンスト・ヤニング(鈴木瑞穂)、ヴェルナー・ランペ(牧村泉三郎)、エミール・ハーン(世古陽丸)、いずれもナチドイツ第三帝国の法務関係の高官で法律家であり裁判官である。
 被告らは、ヒットラーの下で、多くの非人道的な法律を作りドイツの人々を苦しめたとして罪に問われた。罪状認否で、二人はただちに無罪を主張したがが、エルンスト・ヤニングだけは黙秘して裁判が始まった。自分が有罪か無罪かの前に、この法廷の有効性について、つまり人道と平和に対する罪という新たに作られた法によって過去を裁くことに疑義があるという意思表示が沈黙の意味だろうと思っていた。
 井上ひさしの「夢の裂け目」(拙稿参照)でも書いたように、ニュルンベルグ裁判はスターリンの意向を受けて連合国側が開設した法廷で、ナチスを裁くために新たに作られた国際法が根拠であった。自国では裁判なしに粛正や収容所送りが行われ一千万人の余も犠牲にした独裁者の身勝手には腹もたつが、「勝てば官軍」とはどこの国、いつの時代にもならいとしたものである。
 そうは言っても、「法のないところに罪は存在しない」のは13世紀マグナカルタの昔から定説とされるところであり、法学者ならば当然裁判の無効を主張するところだ。事実極東軍事裁判の冒頭で弁護側はこれを主張した。
 ところが、この裁判の若い弁護人であるロルフ(今井明彦)と接見するエルンスト・ヤニングは、なぜか不機嫌である。かつての教え子であるロルフに対して「君のような若造に何が分かる」という厳しい態度で、被告は弁護人に対してなにか含むところがあるようだ。
このあたりから、被告人は一体何を考えているのかという興味が湧いてきて、緊迫した法廷場面へ観客を引きつけていく展開が実にうまい。
 検察官パーカー大佐(木下浩之)は、ドイツ人の青年ペーターゼン(吉野正弘)を証人として召喚、彼は優性法の適用によって根拠のない断種手術を受けた犠牲者だと主張する。純粋で優秀なアーリア人種だけを残すための法律があったのだ。弁護人は、判事が下した決定には根拠があったと反論する。一見、普通の勤労者に見えるペーターゼンに簡単なたし算を出すのだが、それに答えられない。実は、精神薄弱がその顔の下に隠されていたことをロルフ弁護人が暴いて見せるのである。
 また、ユダヤ人と関係した罪に問われたマリア・ヴァルナー(吉江麻樹)の場合は、世間の注目を浴びた裁判だった。マリアがまだ十代で、相手のユダヤ人は60歳をこえているという特異な事件だったからだ。パーカー大佐は、二人が古い知り合いで恋愛関係にあったとして、エルンスト・ヤニングが有罪としたのは誤審であったと追及する。ユダヤ人は死刑、マリアは5年の禁固刑であった。
 これをロルフ弁護人は、恋愛ではなくて、強姦だったとして誤審の主張を退ける。マリアを追及し、暮らしのためにやったことと言う証言を引きだして審判は正しかったことを明らかにして見せるのである。
 検察側の証言が法廷で劇的に覆されていく様はいかにもアメリカ的な裁判の描き方で、小気味いいのだが、さて、検事の告発が通らなかったとしても、優生法やユダヤ人の行動を制限する法などという明らかに人道に敵対する制度、現在から見たらまことに奇妙な法律に何も言及しないのは、安易な気もする。もっとも善意に解釈すれば、このあたりはパーカー大佐に、結局そうしたものがナチスの存在を許したドイツの、ドイツ国民全体の罪だと主張させることで一括処理!しようとしていると考えれば、まあうなずけないこともない。
 しかし、被告側有利にも関わらずエルンスト・ヤニングは、突然堰を切ったように話しだす。マリアの事件は、被告が法廷に入る前に既に有罪を心に決めていた。でなければドイツの大衆が承知しなかっただろう。その迎合だけでも裁判官として自分は有罪だというのである。意外な告白である。そして、裁判長ダニエル・ヘイウッドの、では良心に背いて、何故ナチスに協力したのかという問いに、エルンスト・ヤニングは静かに語り始める。第一次大戦の敗北による混乱からようやく祖国が立ち直れたのはヒットラーの政権に負うところが大きいと彼は回想する。我々はドイツ復興のためにナチスを利用した。大衆が熱情のままに従うときも我々はここまでは許されるだろうと見守った。しかし、あれは瞬く間に手に負えないほど大きな権力を握って国家を思うまま動かすようになった。あんなにもなるとは我々の誰が想像していただろう。寡黙であったヤニング、鈴木瑞穂の突然の激しいモノローグから痛切な思いが伝わってくる。ダニエル・ヘイウッドが畳み掛けるように、あなた方はナチがユダヤ人に対してなにを行っていたか承知していたのではないかと問うと、いや、それは知らなかった、と答えて躊躇する。知らなかったが、想像することは出来た。それは今となっては見たくない現実だったと独白する。
 おそらく、この独裁を許してしまった後悔の念は、当時ヤニングをはじめドイツの良心的なインテリの多くが抱えていた心情であったろう。ここに来て我々は、この芝居の法廷劇を超えた大きな骨格を見ることになるのである。
 この裁判は数ヶ月を要した。途中から検察官パーカー大佐にある圧力がかってくる。終戦から既に四年を経過していた。ドイツはようやく復興の兆しが見えはじめ、人々の暮らしも一応の落ち着きを取り戻しつつある。一方で冷戦構造もあらわになり、東西ドイツ対立も鮮明に、深刻になった。そうした事情を背景に、軍当局は、宥和政策に切り替えようというのである。つまり、占領軍はこの裁判を、ドイツ国民をがっかりさせるような結果にしたくないと、これまでとは全く逆に方向転換をしたのであった。当然ダニエル・ヘイウッドにもこの意志はそれとなく伝えられる。
 そして、1949年7月14日、判決の日がやって来た。ダニエル・ヘイウッドが宣告したのは、全員終身刑という意外な重罰であった。
米国の片田舎の年老いた判事が下した結論を軍は苦々しく思ったことだろう。しかし、ヤニングは重い判決にも関わらず公正な裁判が行われたという晴れ晴れとした気分だった。
 ヘイウッドの帰国の日、二人は面会する。ヤニングは自分の著作を記念にと言って差しだし、ヘイウッドの厳正な裁決をたたえる。ここで実のところ、僕らはエルンスト・ヤニングは救われたのだと気がつく。この断罪がなければ、おそらくヤニングもドイツも過去に別れを告げ、新たに出発することができなかった。ヘイウッドは、暗い時代と格闘し、呪縛された良心を「後で作った法」によって開放し救ったのだ。
 このエルンスト・ヤニングはモデルがいたらしいが、アビー・マンが作り出したフィクションだそうだ。これほど高潔な人物がいたらナチスはむしろ許さなかっただろう。しかし、ユダヤ人を徹底的に差別する法律を作り、民族を根絶やしにする考えに同調したというのは、許すも許さないも超えて、僕らから見れば異様な光景である。
 アメリカにしても、当時ドイツが東ヨーロッパの辺境でユダヤ人に何をしていたか薄々知っていて、見て見ぬふりをしていたはずである。
 1953年ハンガリーで生まれた数学者で大道芸人ピーターフランクルは、6歳になるまで自分がユダヤ人であることを知らなかった。その日「薄汚いユダヤ野郎!」とののしられてはじめて差別の対象であることを聞かされた。母親の両親と姉はアウシュビッツで殺されている。
 反ユダヤ主義というのはいまだにヨーロッパが抱えている宿痾である。そしてこの「異様な光景」は、パレスチナにも投影し、アラブ世界にも広がっている。それを前にして僕らは、一体何をしたらいいか途方に暮れるばかりである。
話が思わぬ方向へそれた。
 この芝居は、山崎正和が芸術監督を務めるひょうご舞台芸術の制作である。ここは前に山崎正和の「言葉」でモサドのアイヒマン逮捕劇を上演している。ナチスドイツへのこだわりかはわからないが、今度のイラクの戦争を考えるとき、遠景に見えるものとして意識しているのではないかとは、言い過ぎであろうか?
 それにしても豪華なキャスティングである。(映画の方もすごいが)プロデューサーの腕であろう。
 鵜山仁の演出は、暗転を巧みに使っていいテンポを作り出せた。
 ロルフ弁護人の今井明彦は線が細すぎて適役とは言えない。また、パーカー大佐の木下浩之は、説得力を見せようとしてかえって堅くなったのが惜しい。あまり器用な役者には見えなかった。マリア・ヴァルナーの吉江麻樹がちょい役だがよく雰囲気を出していた。
 この芝居を素直に見ようと思うには、あまりにも世の中複雑になりすぎた。

 

(12/9/03)

 


新国立劇場