題名:

トリップ☆オーバー

観劇日:

04/3/20

劇場:

シアターブラッツ

主催:

とくお組      

期間:

2004年3月19日〜3月21日

作:

徳尾浩司

演出:

徳尾浩司

美術:

金子隆一      

照明:

小峯裕之     

衣装:

鈴木智子

音楽・音響:

とくお組

出演者:

石切山哲也 島優子 斉藤広之   山室智美 高良真秀 樫岡佐弥香  崔太均 徳尾浩司
 



「トリップ☆オーバー」

 子どもの頃、木炭バスというのがあった。馬力もなく煙たいだけの不思議な乗り物だったが、あっという間に消えた。
 この芝居は、地球へ帰還する貨物宇宙船の中での出来事である。所用があって途中から見たのでストーリーを語る自信はないが、どうやらこの宇宙船、木炭で動いているらしい。罐焚きの機関士がたぶんマリー(島優子)という女性で、これが髪を振り乱してスコップで燃料の木炭らしいものをすくってはくべる様子が一生懸命でなかなか好感が持てる。
 木炭で動く宇宙船という設定に作者が何をこめようとしたのかは不明である。ただ、何かそこはかとなくおかしい。
 この宇宙船は、ある犯罪人を冷凍冬眠させたカプセル(といっても形は棺桶だ!)を運んでいる。これは警視庁の刑事で、地球に帰還すると処刑されることになっている。
 船には機関士のほかに、(たぶん)船長の坂本(山室智美)、警視庁関係者と何故か兎の着ぐるみを着た緒方(徳尾浩司)が乗りあわせている。
 ボイラーの圧力が落ちて宇宙船に危機が迫るが機関士たちの働きでどうやら安定する。その間に冷凍冬眠の温度が上昇して眠りから覚めた犯罪人はカプセルを抜け出して隠れる。
といっても狭い宇宙船の中、たちまち見つかって大騒動のてんやわんや・・・。
 船長の坂本が昔、男だったという話は何だか唐突で大いに笑った。どうすればこう言う発想が出てくるのか?
 また、宇宙警察のパトロールが船に近づいてきて窓からのぞき込むと、漫画で見たことのあるキャラクターだったり、回想シーンの実写では宇宙戦艦ヤマトが登場して波動砲をぶっ放すなど、彼らが子ども時代に夢中だったTVの世界が挿入される。その時代への郷愁であろうが、同世代への呼びかけにもなるものだろう。しかしそれに頼りすぎるのは、センチメンタリズムで、あまり生産的でないと心得るべきだ。この芝居の程度なら許されるが。
 
  ともかく、徳尾浩司のサービス精神はよくわかった。戯曲としての出来からいえば、この前日に見た野田秀樹の「透明人間の蒸気(ゆげ)」より数段いい。いやといってもそれで安心してもらっては困る。野田の戯曲は学生演劇に毛が生えたようなもので、現在の評判はどこかで間違ったものである。僕はほとんど評価しない。そこからすこしいいといっている。
いいところを箇条書き的にいおう。
1. まじめである。(野田との一番の違い。)
2. 言葉が丁寧である。
3. 美しい言葉を探そうと努力している。
4. ユーモア精神(これがどうも独特ではないかという気がしている。)
5. 度胸がある。(ストーリーは破綻しているが平気だ。)
6. キャラクターを書き分けようと努力している。
7. 恋愛ものは苦手に見える。(キャラメルボックスの方向でないところがいい。)

  徳尾は、「演出家の挨拶」の中でこう書いている。「・・・それでも、会社組織というもののなかでは何をやっても、自分の個性がだんだん失われていくような気がしました。「社会の歯車」私はこの言葉を否定するつもりはないのです。すべての人が思い思いに個を主張すればいいというわけではないから。この物語の機関士達に、今の揺れる自分の気持ちを少し重ねています。自分がそこにいる意味、存在意義。どう折り合いをつけて生きて行くべきか。それは、私にはとても大事なことなのです。・・・」
 最後の二行は個人的な思いといっているが、若い世代にとって何かの形で表現されるべき普遍的で重要な主題を含んでいる。
 この芝居は、短いプロットをつないで行くやり方だが、「演出家の挨拶」にあるようなテーマを追求するなら、書き込む部分を多く配分したほうがいい。ジャブを打ちあって別れるラウンドがあっていいが、時には足を止めて打ち合う場面をつくる、ということである。それにはキャラクターがはっきりしていなければならない。作家は十人に取材して十通りの人生を書き分けられる。しかし演出家はそれぞれの人生を取り巻く少なくとも五人の登場しない人物すなわち都合五十人を想定して舞台を創らねばならない。「着ぐるみ」を着て出てくるどころではなくなるかもしれない。
 徳尾にはこのテーマをもっと深化させて欲しいと痛切に思う。

  役者については、よくもこれだけ粒ぞろいのものを集めたという気がした。
もちろん身体的表現でいえば、未熟そのものだが、若さというものは何ものにも替えがたい魅力がある。力任せのところが美しい動きに変わって、台詞が知的な輝きをもって聞こえてくる日を期待したい。素材として見て、その可能性を非常に強く感じた。
(書くまいと思っていたが)このキャスティングでユージン・オニールあるいはテネシー・ウイリアムズあたりをやったらどうかと思ってみた。
 舞台装置についてひとこと。
 もう四十年も前になる。僕らは垂木の枠にベニヤ板を打ち付けて3尺×6尺のボードを何枚も作った。それにメリケン粉を煮た糊で模造紙を貼り、その上からとの粉を塗った。こうして作ったボードは、どんなふうにも使えた。ベニヤ板に直接色を塗ってもベニヤ板にしか見えないが、僕らが作ったボードは照明に映えた。
ガタビシいうベニヤ板の宇宙船は演出上の必然性を全く感じない。
金子隆一はまだ、テキストの読み込みが不十分といわざるを得ない。金がないのはわかるが、そういうときこそ知恵の出番である。衣装の鈴木智子にも同じことが言える。この知恵が舞台にほの見えたときに観客は感動を覚えるものだ。
 若い世代の人たちだからいうのだが、こんな時代に、たいして報われることもない表現活動に身を投じる辛さはわかる。どうか志し高くもって持続することを希う。
  

       (3/29/04)

招待されて、連れ合いと一緒に見た。

 

    

 


新国立劇場