題名:

頭痛肩こり樋口一葉    

観劇日:

03/8/20    

劇場:

紀伊国屋サザンシアター     

主催:

こまつ座    

期間:

2003年8月15日〜26日  

作:

井上ひさし   

演出:

木村光一  

美術:

高田一郎     

照明:

服部基    

衣装:

岸井克巳    

音楽・音響:

宇野誠一郎     

出演者:

有森也実  大塚道子 久世星佳   佐古真弓   新橋耐子  椿真由美    
 


「頭痛肩こり樋口一葉」

 「花蛍」(新橋耐子)と名のる芸者然としたみたまさま幽霊が成仏できずにお盆の度に一葉樋口夏子(有森也実)の所へやってくる。夏子が千鳥ケ淵に身を投げようとしたり、自分の戒名を法通妙心信女と付けたりするのに「近しいもの」を感じてお慕いしているという。自分の素性も何故幽界をさまようのかも分からないが、ただこの世に恨みを呑んで死んだことは確かのようである。
 この花蛍が開幕早々いかにも幽霊らしい身のこなしでふらふら登場すると、客席から笑いと拍手がおこった。
 今回は1984年の初演(紀伊国屋ホール二十周年+こまつ座旗揚げ公演)から10回目の再演である。この間花蛍役は、一度だけ休んだが(大橋芳枝がやっている)、あとはすべて新橋耐子が演じた。都合500回以上も化けてでている勘定になる。他のキャスティングは入れ替わりがあるから、これは新橋耐子のはまり役であり、当たり役といってよい。ただでさえ妖艶で、婀娜っぽい印象の役者だから、怪談噺の化け物みたいになると派手な造作にいっそう迫力が加わって恐ろしい。日本髪に白塗り、着物の裾を長く引きずって(決して足を見せないのがすごい)舞踊の身のこなしで優雅に動き回り、つけまつげの目を見開いて歌舞伎の見得のように目玉を寄せたり、のどを絞ってどすのきいた怨言を言ったりするが、基調はかわいらしい声を作ってどこか憎めない。。この艶っぽくてコミカルな花蛍が「絶品」で、他の役者ではこうはいかないと思わせるものがある。観客はよく知っていて、歌舞伎座や新橋演舞場だったら掛け声の三つ四つもかかるところを「新劇」なので拍手と笑いで敬意を示したというわけだ。僕は99年7月に初めてみているが、そのなまめかしさに驚き、声の調子や身のこなしに大いに感じ入った。こんな面白い当たり役があるのを誰も取り上げないのは新聞やテレビの文化担当がいかに不明であるかの証拠である。
 何故一葉の評伝劇に主人公にしか見えない幽霊が登場するのか?井上ひさしは、この夭折した女性作家の人生にあの世との境界をさまよふような「はかない」ものを見ていたのであろうか。
 両親が甲州から駆け落ちしてやっと手に入れた八丁堀同心の株で立身がなった途端の御一新、父親が死んで戸長を継いだ十代の夏子の肩に樋口家が重くのし掛かっていた。一方で感受性豊かな青春のさなかであり、和歌や小説の世界が身近にある。その飛翔しようとする想像力を明治二十年代に「女性であること」が押さえつける。色恋ざたを世間はうわさし、貧乏で肩身の狭い思いをしながら夢を諦めて暮らす。しかし、重圧に抗して、いくつかの物語を見事な文章で書き遺したのであり、その意味では一葉に見るはかなさは決してひ弱なものではない。あらかじめこの世からはみ出してしまっている感性がそう見えるだけだったのだろう。苦界から婦人を救う運動や創作に身を入れている時期、花蛍は姿を見せなかった。
 ある年、夏子の一家が食い詰めて下谷区滝泉寺町茶屋町通りのしもた屋で駄菓子屋を営むでいるところへ花蛍が現れる。「あなたの身の上が分かりましたよ。」と夏子。ここは火葬場に近く、郭通いの俥も通るあの世とこの世の境目のようなところ。そんな場所だからということもあって、夏子はあるうわさ話を聞いたというのである。花蛍生前の身は吉原京町二丁目の松大黒楼のお抱え女郎であった。神田白壁町の大工、佐助と恋仲で二世を契っていたところ、棟梁が工面してくれた身請けのための大枚250円を懐に佐助が吉原へ向かう途中、財布を落としてしまった。引き返しながら探すと道端に挙動不審の婆さんがいる。これに違いないとふんで返してくれと頼むが知らぬ存ぜぬの一点張り。佐助は悲嘆に暮れて神田川に飛び込んでしまう。それを知った花蛍は「絶食」して後追い心中を遂げた、と言うわけである。花蛍はぼんやりと思い出した。夏子によるとその猫ばばしたばあさんは、まもなく芝増上寺の前に茶店を出してたいそう繁盛しているという。それを聞いた花蛍は取り憑いてやると叫んで消える。しばらくして浮かぬ顔で花蛍が出てくるので糾すと、婆さんには吉原に売られそうな孫娘がいて、それを救うためにやむなくやったこと、悪いのは息子から金をだましとった三味線の師匠だったという。ところがこの師匠にもわけ理由があって・・・と言う具合に取り憑こうにも、因果は止めどなく巡って果てがない。「花蛍さんも人がいいわねえ。」と夏子は言うのだが、実際この世は因縁の糸で鎖のようにつながっている。取り憑くなら世間全体、世の中全部を恨めと言うことになるが、花蛍にはそんなこと出来やしないと思える。「でもわたし小説で世の中全体に取り憑いてやったような気がする。・・・」高熱にふせっている夏子の枕元にやって来た花蛍を相手に「でもわたし小説でその因縁の糸の網に戦を仕掛けてやったような気がする。」というせりふは、井上ひさしの一葉観の核心部分であろう。これを受け止めて理解できるのはあの世の存在しかない。花蛍の役割は、一葉という並外れた感受性とそれをからめとってしまう世間と言う構造をつまびらかにするあの世から遣わされた狂言回しのようなものであった。花蛍という素晴らしいフィクションをしつらえたことがこの評伝劇を再演に次ぐ再演という成功に導いた主な要因であることに疑いはない。
 ところで、この芝居の登場人物は、6人の女性だけである。井上ひさしに女性だけの芝居はいくつかあるが、世間の重圧を男は理屈ではねのけようとするのを、現実的な方法でいなすのが女性特有のやりかたで、そこに喜劇が生まれるということになるのかもしれない。頭痛も肩こりも男にはあまり似合わないことだ。
 夏子の母親多喜(大塚道子)は世間体を気にした。多喜だけではない。この時代は隣近所、知りあいが皆身近にいて話の種にした。だからだれもが身を立て世に出ることをしなければならない。多喜は大菩薩峠のふもとの在の出である。錦を飾らねば故郷には帰れない。戸主となった夏子にはプレッシャーだったに違いない。
大塚道子もまた何度も多喜を演じているようだ。久しぶりに見たが、前回の岩崎加根子に比べると枯れていて役柄に合っていた。枯れているといってもこの人の存在感は格別で、花蛍とはまた違った意味で重要な役割を担っている
 多喜は二千五百石取りの旗本稲葉家で乳母をしていた。その時育てたお姫さまが鑛(久世星佳)で、鑛は夫の「武士の商法」がうまくいかず時々むしんにやって来る。鑛は独唱する場面があるからか代々宝塚出身が多く演じている。久世星佳は「アウト」で見たことがあったが、こんなに大柄とは気がつかなかった。男っぽいのはいいがバタ臭いのは困ると思っていたら、さすがは木村光一、アンサンブルもよく、上出来だったのではないか。
 中野八重(椿真由美)と言う役は振幅がすさまじい。同役だった親が彰義隊に加わって倒れたので、樋口家が兄ともども引き取って世話をした。その後八重は神田で兄の学校を手伝っているうち、経営を妨害する大商人と兄が争って監獄に入れられ裁判ざたになるが、抗議のハンストで餓死してしまう。その裁判を担当した判事に見初められ結婚するまではよかったものの、まもなく夫に妾が出来て疎んじられると、家を出て、あろう事か深川の先に出来た岡場所州崎で酌婦になってしまう。そこへ通って入れ揚げていたのが鑛の二番目の夫で、恨んだ鑛に刺し殺されるところを水の中に引きずり込んで一緒に死んでしまうという激しい役柄である。
 椿真由美は酌婦になってからの、伝法なものいいや品のない態度「世間体なぞくそくらえ」という変貌ぶりがなかなか見せる。こんな俳優がいたのかと驚いたが、なるほど青年座の層は厚いと感心した。
 エピローグ。引っ越しが決まった家で、一人遺された妹の邦子(佐古真弓)が背負子を付けた大きな仏壇を背にがらんとした部屋をなつかしそうに眺め渡す。幽界にいった5人が提灯で励まし送っている。やがて邦子は地面を踏みしめるように歩き出す。邦子は700円からの借金を残されて、隠れるように博文館(今ではダイアリー「博文館日記」に名残をとどめている)の創業者大橋佐平の屋敷に向かうのである。客席ですすり泣く声が聞こえた。

 一葉には薄幸という印象があることを否定できない。貧乏士族の出で、暮らしに追われついに小説で生計を立てるには至らなかった短い生涯を思えば胸がふさがる。しかし、小説については文語体のこともあって存外、どんな物語なのか知るものは少ないのではないか。井上ひさしはそのあたりのことを十分承知していて、一葉の生きた、江戸がまだ十分に残っている東京の下町風景の中に、一葉の書いた物語のフラグメントをちりばめて、日本近代文学における初めての女流の感覚がにおい立つような舞台にしたのである。
 一葉夏子を演じた有森也実は前回見たよりふっ切れていたように思えたが、そんなことは何も承知しないようだからかえって十分役割を果たしたといえる。              

 

                   (9月1日脱稿)


新国立劇場