題名:

Alone and Again     

観劇日:

03/4/18    

劇場:

サンシャイン劇場     

主催:

TOKYO FM     

期間:

2003年4月3日〜20日  

作:

成井豊・真柴あずき   

演出:

成井豊・真柴あずき  

美術:

キヤマ晃二     

照明:

黒尾芳昭    

衣装:

丸山徹   

音楽・音響:

早川毅     

出演者:

細見大輔 前田綾 平野くんじ 大木初枝 温井摩耶 岡田達也 坂口理惠 佐藤仁志 篠田剛 青山千洋 中村恵子 石原善暢 小川江利子    
 

 

「ALONE AGAIN」
 
 演劇は祝祭であるという実感を久しぶりに味わった。
 通路までいっぱいになった劇場のほとんどが二十才台三十才台の若い人たちで、圧倒的に女性が多い。いわゆるファンなのであろうが、これが非常に静かでお行儀が良い。
 昔、間違って野田秀樹の芝居に出かけたことがあったが、その時は開幕前から声高に話すものや食ったり飲んだりしているのがいて閉口した。芝居が始まっても、野田得意のギャグが今かいまかと顔の筋肉を緩めて待っている。その間中みんなテンションが高くなっているから劇場全体が一種の興奮状態になってざわめいている。ようするに、この人たちは野田が施主になってやる少し騒々しいお祭りにやって来たんだ、と思えば実に納得がいく光景であった。
 ところが、演劇集団「キャラメルボックス」の観客は、静かに落ち着いて開幕を待っている。 騒々しいのは劇団の方であった。
 開幕十五分前、既にいっぱいになっている客席の前に制作総指揮の加藤昌史が漫才よろしく若手の制作スタッフを伴って現れた。サンシャイン劇場ロングランの記録が二十数年前の劇団四季に次いで二位になった(たいしたものだ)ことや「ジャパンツアー」(すごいネーミング)のこと、劇団の方針、プロモーショングッツの宣伝、大阪公演の切符が余っていることなどをお笑いタレントも顔負けの速射砲のようなしゃべりで紹介する。
 観客は拍手をするでもなく、どっと湧くようなこともなく、大方は好意的ではあるが共犯者でないという冷静さで、この「前座」見たいなものを見守っている。
「ロビーの○○さあん。そろそろよろしいですかア−−」と呼びかけ「それでは、開幕で〜す。」といって去る。これはつまり、「興行」のノリである。
 始まってすぐに「ものすごいテンションの高さだ。」と感じた。いやも応もなく、テンションの変圧器みたいなものがあれば、ほぼ最大の目盛りに合わせて、全員が叫び動き回る。おそらく演出が決める前に、この劇団のいわば習い性になっているのだろう。この目盛りからわずかでも下がったら、目の前の観客が逃げ出してしまうのではないか、それを恐れてでもいるようにほぼ一定の高い調子で訴えかけてくるのである。
 ものがたりは、一人の売れていない女優、清水あおい(前田綾)を中心に展開する。
 あおいが所属する芸能プロダクションのマネージャー、葉子(坂口理惠)の弟、光男(細見大輔)はフリーのライターである。光男がゴーストライターとなって書いたあおいの自伝小説が文学賞をとったことがきっかけになって、雑誌からエッセーの依頼が舞い込む。この仕事も引き受けた光男が、取材と言って恋愛などのプライバシーにまで踏み込んでくるのに、あおいは不満だ。あおいには俳優養成所の同期生で、今は父親の作った幼稚園の経営をしている将太(平野くんじ)というボーイフレンドがいて、いつも気にかかっているが、それが恋愛感情なのかどうか自分にもわからない。あおいの文学賞受賞作が映画化されることになって、当然あおいが主役と思っていたら、なぜかわき役のひとりにされていた。あおいは傷つくが、女優としてその情況を引き受けようと決心する。一方、将太の幼稚園は破産寸前まで追いつめられている中、ぼや騒ぎを起こす。幼稚園を手伝っているあおいの妹、みのり(大木初枝)の不注意でカーテンを燃やす程度でおさまるが将太は、これをきっかけに幼稚園をやめる決心をしたようだ。そうこうしているうちにあおいが撮影中に高いところから落ちて頭を五針も縫うケガをする。すぐに復帰できないわけではなかったが監督はかわりの女優を決めてしまった。あおいは、失意の果てに死を選ぶのでは?というみんなの心配のさなか、病院から幼稚園へ向かい文学賞の賞金を役立ててくれと申し出るが、既に将太は土地を売ってしまったあとだった。あおいの妹、みのりがその責任は自分にあるとして、自殺をしようと騒ぎになる。その中で姉のわがままへの不満や将太に対する思いなどが吐露されて、みのりの気持ちが明らかになる。あおいは謝って、たった一人の妹なのだから死なないでと懇願し、妹は皆に説得されて持っていたカッターナイフを手放し、騒ぎは収まる。自伝やエッセーがあおいの書いたものでないことが分かって、光男はゴーストライターを解任されることになるが、ここに来て大嫌いと思っていたあおいに対する自分の感情が変わっていることに気づく。あおいもまた、光男への冷たい態度は、自分の気持ちを隠すためだったと告白する。
 終幕、かくて、それぞれが新しい自分をはじめようとして出発する。
この本は93年初演だというが、非常によくできたストーリーで、今でも決して古い印象を受けない。芸能プロダクションの話もいかにもありそうだし、幼稚園の破産も少子高齢化の進行を考えれば社会的な問題でもある。しかし、そのような背景はともかく、逆境に負けず、たくましく生きていこうとする若い人々の態度がすがすがしく描かれていて、この正統的な青春ドラマは、時代を超えて受け入れられるのではないかと思う。
 そういう意味では、成井豊も真柴あずきも若い人たちの心をある種節度をもって代弁できる非常に筋のよい作家だという気がする。
 ただし、舞台芸術としてみれば、ほとんどなんの工夫も見られないのは残念だ。たとえば、舞台装置は貧弱で薄っぺらく、左右に置かれた装飾的な柱は、役者の出入りを隠すための衝立代わりにすぎない。舞台上に置かれた椅子の位置を変えることで「場」の変化を示したのがちょっとした工夫だが、舞台美術全体の調和がとれていないように見えた。また、おそらく歌や音楽の挿入は得意とするところだろうが、単に観客のシンパシーを誘うためのものであり、情景にあったBGMの域を出ない。それによって積極的に主題を訴求するような、つまりミュージカルというスケールでなにかいえるようなシロものではない。
 せりふ劇であるといってしまえばそれでも通るが、そのせりふはストーリーテリングのためのものであって、一人ひとりの生き方や情感、そのリアリティを伝えるものにはなっていない。
書き割りのような安直な背景にせりふだけの劇といえば、榎健や戦後のしみきんやでん助芝居など、浅草の軽演劇を思い出すが、この芝居にも構造的には似通ったところがあるかもしれない。
 高いテンションで繰り出されるせりふと会話、ギャグと音楽、人情で観客を飽きさせないというこの劇団の心意気(後で宣伝文句を紹介する)は、浅草軽演劇の系譜に連なるといってもよいが、圧倒的に違うものがひとつある。それは役者の技量、力である。
 若い人たちが多いということはあるかもしれない。皆一生懸命、ということも分かる。
 しかし、劇中、ラジオのディスジョッキー、小川江利子(エリカ役)なんかが登場する場面に至ると、それまで見ていた芝居が、昔高校の体育館で見かけたものに似ていることを思い出すという具合で、レベルの違いが歴然としてしまう。他の連中は、小川の、あの一脚の椅子の粘っこい使い方を見習ったらいい。(ついでにいうと、上川隆也はこの劇団に所属していて偶然抜擢されたと聞くが、映画やテレビで見るかぎり、看板役者にしては芝居が下手すぎる。劇団のレベルが疑われるということを考えたほうがいいかもしれない。)戯曲のよさがこういうところで割り引かれていることに演出家は気配りをすべきであろう。
 軽演劇の印象と言ったのは、圧倒的にせりふでストーリーを伝えようとする方法のことをいったのだが、もうひとつ、制作予算のことがある。ただでさえ苦しい劇団経営にとって舞台美術にかけられる費用には限度がある。その中で考えられた舞台作りだから省略はやむを得ない。しかし、役者が自分のいる「場」まで省略しているふしがあって、それが単に観客にせりふを渡しているような印象を与えてしまうのである。これほど観客を集める劇団なのだから、もう少し役者の力量とバランスがとれた舞台美術に知恵と金をかけていいという気がする。浅草の役者は、書き割りがなくても、立っただけでそこが道路か二階屋の窓辺か分からせるだけの伎倆を持ったから観客が納得したのである。そういうわけで、役者の訓練方法を、スタニスラフスキーシステムとやらでなくていいから、もう一度検討することをおすすめする。

 さて、演劇集団「キャラメルボックス」の劇団紹介にはこう書いてある。
●作風は、「エンターテインメント・ファンタジー」が基調。息もつかせぬスピーディーな展開、観ている人を絶対に飽きさせない快調なテンポのセリフ。ミュージカル並に音楽を重視した演出。手に汗握るクライマックス。大きなカタルシスをもたらす、ハッピーエンドのラストシーン(“ハッピー”と言い切れない場合もありますが)。「笑って、緊張して、興奮して、感動して、泣ける」芝居が、キャラメルボックスです。

●いらしてくださるお客さんは、アンケートの集計結果によると、男女比は3:7。
20代の社会人の方が半数以上を占めています。次に、学生さん。次に、30代の方。とは言っても、下は小学生から、上は60代の方々まで、バラエティーに富んだ顔ぶれの客席、というのも、キャラメルボックスならではと言えるかもしれません。

 実は「キャラメルボックス」の芝居を数カ月前に見たことがある。夜中に起きてテレビをつけたら、西川浩幸(創立メンバーの一人)を同年配の二人がインタビューしているところだった。その日、中継録画をオンエアする「銀河旋律」(だったかと思うが)という成井豊の戯曲は、全国の高校生がもっとも多く選ぶ演目だということが分かって感心した。
それは、タイムマシンで過去に旅行をする話だった。旅行者が添乗員のすきを見て過去に手を加えることが横行したので、テレビのニュースキャスターが警告する場面から始まる。ディテールは忘れたが、自分の恋愛が思い通りにいかないために、過去を修正して現在を変えるということからおこる笑いと涙のものがたりというわけである。
 こういう下敷きがあって、今回見ている間に、
「セツナイ、オモイ」
という言葉が浮かんだ。
 人が人を好きになる。ところが大方は、その思いがうまく相手に伝わらない。そのもどかしさを処理できないために切なくなる。青春時代の恋愛はきっとその道筋を避けて通れないのだが、「キャラメルボックス」はその一点に焦点を当てて「ファンタジー」を描き出すことに徹していると言える。この心情が体験と重なってもっともよく「分かる」のはいつの時代も20歳代の女性(もちろん男性だって)ということになるだろう。
 「セツナイ、オモイ」のマーケティング。
 この「キャラメルボックス」の経営戦略には感心した。
劇団は成井豊、加藤昌史、西川浩幸らが早稲田の学生時代に結成されたようだが、主要メンバーが卒業後一端就職していることに劇団にしては珍しい特徴がある。娑婆の空気に触れたといえば変な言い方だが、これが現在の成功を呼んだ原因ではないかという気がする。
 つまり、自分達が好きな芝居の世界を継続的にやっていくには、それなりのマーケティング戦略が必要だということを企業の内側に入って、商品と顧客の論理から学んだのだと思う。
 学生演劇からそのままの人気を引きずって社会に出た劇団もある。しかし。その多くは、固定したファンという顧客が劇団と一緒に年齢を重ね、それぞれのライフステージで、劇場から遠のいていくという事情によって継続が難しい局面を迎える。
 それにたいして、「セツナイ、オモイ」マーケティングは、絶えずニューカマーを迎えることが出来る。青春から大人への出口に「キャラメルボックス」が待っている。もっと貪慾に激しく熱い思いを見たい年になった人は卒業である。
 そうした自信が多くの企業とのタイアップやプロモーショングッツの制作と販売を積極的に行うエネルギーになっているのだろう。
 観客は、私と同じような「セツナイ、オモイ」を見せてくれて、それが私の心を慰めてくれる、そう思っているに違いない。だから、興奮することもなく、仲間意識で騒ぐこともなく、「私に固有の切なさ=それぞれが抱えているドラマ」と舞台の上の切なさが呼応する祝祭の時間を静かに待っているのだ。

 では、成井豊たちはこの「セツナイ、オモイ」マーケティングで満足しているのであろうか?これだけの動員数に支えられているのだから、文句を言われる筋合いではないというかもしれない。だが、近ごろのテレビドラマよりましだが、たわいのない話といえば言えるのではないか。
 若い人たちが、この時代をどう考えているのか?自分たちの未来をどうしたいのか?という僕たちの問い掛けに、舞台の上からそろそろ何か応えを示してくれてもよさそうじゃないか。                         
                               (4/22/2003)

 

 

 

 

 

 


新国立劇場