題名:

兄おとうと

観劇日:

06/1/27

劇場:

紀伊国屋ホール

主催:

こまつ座     

期間:

2006年1月19日〜2月5日

作:

井上ひさし

演出:

鵜山仁

美術:

石井強司     

照明:

服部基    

衣装:

前田文子

音楽・音響:

宇野誠一郎

出演者:

辻萬長 剣幸 大鷹明良 宮地雅子 小島尚樹 神野三鈴 朴勝哲
 
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「兄おとうと」

平成十五年五月の初演を見た。(劇評)このときは遅筆堂の本が遅れに遅れて、確か公演を延ばしたはずだ。前口上で平謝りだったが、稽古不足はそのまま舞台の出来につながった。いま比較すると、兄と弟の反目がクリアカットに見えてこなかったのが最大の欠陥だった。
再演は、公演のチラシによると「作者大幅に加筆し、大増補版でお届けする、堂々の再演!」ということになる。大増補というのは「説教泥棒」の場が新たに加わったことを指している。説教強盗は昭和の初年に出没したのが最初で、盗みにはいった家のものに不用心だとか犬を飼えとか説教口調で話すということが新聞に載って評判になった。この場面が加わったことが全体の出来にどう影響したかといわれれば、はて、世相を描いて話に厚みが出来たとはいえるが、大増補と自慢するほどのことはないと思った。かえって、第二場が江戸川べりの川宿で財布を盗まれる話だから、この兄弟はよく盗難に遭うという奇妙な印象を与えるのを心配した。
井上ひさし得意の音楽評伝劇だが、吉野作造と弟の信次とのかかわりという視点からみているために、この民本主義を唱えた大正の大学者の全体像が見渡せるという具合にはなっていない。初演の時に、吉野作造には官僚の弟がいて、その細君同士が姉妹であったということには大概のものが驚いた。そういう事実が分かったことはそれなりの収穫だったが、この角度から見ると、いくつかのことが死角に入って見えてこない。まず、吉野がキリスト教に帰依した時期とその契機である。これは物語の底流に流れている吉野の慈愛の精神、私財をなげうってまで貧窮するものを救済するという生き方の根拠になるもので、それが曖昧なために信仰とデモクラシー=政治の関係が釈然としないで、いらいらをつのらせた。実際には仙台の学生時代に、当時盛んだったキリスト教研究に参加して、二十歳の時には洗礼を受けていた。そのころ結婚相手になる宮城師範学校女子部の阿部たまのと知り合っているが、夫人は信仰とは無縁だったのだろうか?
このキリスト教熱ともいうべきものの背景には、東北列藩同盟で薩長新政府と戦って敗れた仙台はじめ北国の小都市で、政治に参加出来ない鬱憤を幕府が禁じたキリスト教という新しい思想を心のよりどころにしようとしたものが多かったことがある。若き日の吉野作造がこうした時代の空気に影響を受けた事実は評伝にとって必要なことではなかったか。
また、大正大震災のあと本郷の研究室が罹災したところへ袁世凱の娘が尋ねてくる場面がある。これには驚いた。若い頃家族で天津に渡り袁世凱の息子の家庭教師をしていたことは分かったが、吉野が中国の革命をどう見ていたかという話に発展することはなかった。実際には、袁世凱が招いたにもかかわらず給料が支払われずにこの中国行きはかなり苦労が多かったようだ。もともと経済的な理由があってこの仕事を引き受けたのだが、その当たりの事情にも興味がそそられるところである。しかし、若い頃の挿話として、研究室にやってきた右翼の襲撃をかわす話の中に紛れてしまった。
そして、晩年の吉野作造がどのような社会行動あるいは政治的な運動を起こしていたか、その同志にはあるいは論敵にはどういう人物がいたのかなどが描かれていないために、言論人の評伝としてはいささか不満が残った。
さて、この十歳違いの兄と弟は年齢の差もあって、生涯に枕を並べて寝たことはほんの数えるほどしかなかった。たまに会えば必ず議論、議論・・・というのがこの劇を一筆書きに表したものである。どちらも帝大法学部を首席で卒業し、兄は帝大教授、弟は農商務省の高級官僚、秀才同士の兄弟である。ところが、かたや民本主義を唱える政治学者、かたや日本帝国を支えるお役人ではものの見方、考え方がまるで正反対、ことごとく対立する。その「たまに枕を並べて寝た」という数少ない場面を集めて作ったのがこの劇ということになる。
第一場、クリスマスイブの夜、吉野作造(辻萬長)の家に弟信次(大鷹明良)が来ている。作造の妻玉乃(剣幸)とその妹君代(神野三鈴)、それに作造の友人青木存義(小嶋尚樹)がいる。青木存義は作造と中学から帝大まで同級、音楽学校教授から文部省に出仕し、小学生唱歌を作詞、編纂した文人である。「どんぐりころころ」を小嶋尚樹がフルコーラス歌って無邪気なところを見せた。作造は、義理の妹を青木の嫁にと考えている。青木も一目惚れらしくまんざらではない。ところが、信次と君代がそろって現れ、自分たちは結婚すると告白してびっくり。
第二場は、江戸川べりの割烹旅館。吉野兄弟が妻を伴っての一泊旅行である。君代は信次の出世が順調であることをにおわせる。部下に優秀なものがいて夫は助かっているというのだ。岸信介、木戸幸一の名が上がる。
岸信介は戦後鳩山一郎、短命に終わった石橋湛山のあとを受けて首相を務めたことは周知である。60年安保を強行採決してやめたが、僕はこれほど大衆に憎まれた首相を知らない。農商務省から満州国産業部にでて、東条内閣の商工大臣になった。満州では、日本産業(いまのニッサンの前身)の鮎川義介、外相松岡洋右とともに三スケといわれ産官癒着の黒い噂がつきまとった。戦後A級戦犯容疑で逮捕され巣鴨に収容されるが、米国の意向で不起訴になる。現官房長官安倍晋三は孫にあたる。
木戸幸一は、農商務省から各大臣を歴任し、近衛首相に近かったことから戦争末期には昭和天皇の側近として活躍した。「木戸幸一日記」は天皇の無罪を証明する証拠として極東軍事裁判に提出されて有名になった。自らはA級戦犯で起訴され、終身禁固刑を受けて約十年入獄する。
このような後に有名になる優秀な部下を持ったことを君代のさりげないせりふに込めた。信次自身も商工大臣から貴族院議員になり、翼賛政治会の常務理事を務めたり、戦前の政治の中心に身を置いた。戦後は公職追放になったが、解除の後参議院議員に当選、第一次鳩山内閣で運輸大臣を務め、同時に武蔵大学学長を65年まで約十年間続けている。
この割烹旅館の場では、兄弟の対立といってもまだ人情の機微に通じているかあるいは法の適用を厳格に守るか、つまり官僚的な態度で生きるかの違いくらいしかない。
翌日勘定をしようとしたら、財布がないことに気がついた。さてどうしようと思案するが、妻たちが「へそくりの歌」を歌って解決する。ところがそこへ巡査(小嶋尚樹)が若い女工大川勝江(宮地雅子)を伴って現れる。昨夜つい出来心で財布を持っていったが、悪いことをしたと思って返しに来たというのである。綿々と生活の貧しさ苦しさを訴える少女に巡査も口を添えるが、信次は許そうとしない。罪は罪、法を守らなければ国家が成り立たないという。そこへ君代が信次の芸者遊びの一件を持ち出して攻めると、信次もたまらなくなって折れることになる。
次の「場」が関東大震災あとの本郷の研究室である。袁世凱の娘が尋ねてきたところへ右翼の青年(小嶋尚樹)が鉢合わせする。ここは弁当を届けにやってきた玉乃が機転を利かして青年を赤門の警備員詰め所に誘導して事無きを得る。
そして、大増補の「説教強盗」の場である。本郷区駕籠町にある吉野信次の家。夜中に夫婦ずれ(宮地雅子・小嶋尚樹)の強盗に踏み込まれて子供らは縛り上げられ、右往左往する玉乃と君代は戸締まりがなっていないとか不用心とかさんざん説教をされている。帰ろうとしたときに作造が庭からひょっこり現れる。近くのYMCAで原稿を書いていたが小腹が空いたので散歩がてらやってきたというのだ。ようやくことの次第を飲み込んだ作造が、出て行こうとする夫婦の首に荷物が掛けられているのを見て、訪ねると納豆だという。夜明けの人気ない道を怪しまれずに歩くには納豆売りに化けるのが一番というのだ。それなら納豆を買ってやる、と作造。どこまでもお人よしなのだ。
そして最後の場は、吉野作造最晩年の昭和七年。帝大教授も朝日新聞もとっくに辞し、一言論人となって政治に対し苦言を呈していた。かたや信次は批判の対象としての政府高官である。デモクラシーを説く作造の発言を「過激すぎる」として、信次は顔を合わさないようにしていたところ、玉乃と君代が一計を案じて二人を別々に箱根湯本に誘い出す。小川屋旅館で久し振りに出会った二人は大声で怒鳴り合い。その声をとがめにやってきた本所の町工場の社長(小嶋尚樹)とやはり旅館に居合わせた大連でカフェをやっているという女が(宮地雅子)昔別れ別れになった兄妹とわかり(「花よりタンゴ」にもこんな場面があった)、作造と信次の目の前で仲の良いところを見せつける。それに感じ入った二人はいつとはなしに穏やかに話はじめるのであった。
それぞれの場面に、ときどきの世相を上手く組み込んで、ときには歌詞にして歌うという楽しい音楽劇であった。吉野作造が心から民主主義=デモクラシーの必要性を感じたのは、そうした勤勉でも貧しく報われない人々が大勢いる世の中を何とかしたいと思っていたのだという井上ひさしの見方は、そのまま善意にあふれた物語に表れている。民本主義の神髄は民が主人公の世の中だと吉野作造はいう。明治憲法下では、民は天皇の下にあるというのが吉野信次の言い分である。(民本主義の「本」は吉野作造が天皇に遠慮しただけという山本夏彦の解説は前に初演の劇評で書いたことがある。) 建前はそうだが、立憲君主制という考え方に立てば、デモクラシーは成立するというのが吉野作造の主張だったろう。天皇機関説というのも同じ考え方である。頭のいい吉野信次がそれを知らずに兄と義絶しようとしたのではない。官僚政治家としては「兄の言葉は過激すぎる」と距離をとらざるを得なかったのだ。
この箱根湯本の旅館の場面から数ヶ月後に吉野作造は亡くなる。ちょうどその当たりから、統帥権を盾にとって軍部が議会を蔑ろにし、独裁の様相を見せ始めていた。司馬遼太郎が日本史における「畸胎」と称した時代の始まりである。井上ひさしも同じような考え方をとっている。戦後憲法はアメリカに押し付けられたという人がいるが、そのずっと前に日本には吉野作造がいたではないかというのである。
それにつけても、一握りの高級官僚と軍人にすべてをゆだねた結果、あのような悲惨な結末を迎えたことを忘れてはなるまい。
初演時と役者は替わっていない。手を加えて本が格段に良くなった。それにつれてそれぞれの役柄がきっちりと立ち上がり、アンサンブルがすこぶる良かった。善意、善意という印象がもう少し強くなければ、評伝音楽劇として「太鼓たたいて・・・」に匹敵する出来だったと思う。                                          

 


新国立劇場

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