題名:

アルトゥロ・ウイの興隆

観劇日:

05/6/22

劇場:

新国立劇場

主催:

新国立劇場

期間:

2005年6月22日〜6月30日

作:

ベルトルト・ブレヒト

翻訳:

      

演出:

ハイナー・ミューラー

美術:

ハンス・シュリーカー

照明:

マリオ・ジーガー

衣装:

ハンス・シュリーカー

音楽:

マリオジーガー
出演者:
マルティン・ヴトケ トーマス・アンテュエンホーファー マンフレッド・カルゲ フィクトール・ダイス シュテファン・リゼヴスキー ミヒャエル・グヴィスディック マルガリータ・ブロイヒ ローマンカミンスキー クラウス・ヘッケ ファイト・シューベルト ミヒャエル・ロットマン ペータードナート トーマス・ヴェンドリッヒアクセル・ヴェルナー 他

 

「アルトゥロ ・ウイの興隆」

 赤く染めた舌をだらりと下げて、息づかいも荒く地べたをかぎ回り、激しく体を震わせる。まるで猟犬が獲物を追いかけるように舞台を縦横に駆けずり、観客はこの見たこともない俳優の身体能力にしばらく圧倒される。これは犬である。何かに憑かれたような恐ろしい動物である。幕が開く前、舞台の両脇にはそれぞれ巨大な牛の頭をかぶった大きな男と蛇の頭の男が立っていて、異様な物語が始まるのを予感させていたが、それでもなおマルティン・ヴトケのこの犬は意表をつく開幕であった。日本の俳優の誰がこのような激しい形態模写をやれるだろうか?マルセ太郎の「猿」は他の追随を許さぬ傑作であった。ただ、あの猿には理性が感じられた。静かに動き回った。それに反してヴェトケの犬は野生そのものである。狂った獣である。それが延々と続く。その体力があるのには驚かされる。日本人とはまるで違うものを感じた。
 この違いは、たぶん肉を食って生きているかどうかに関わっていると僕は思っている。
ブライアン・クラークの「請願」(2004年6月新国立劇場)は静かな老夫婦の話だったがビフテキ(あれは英国の話だからローストビーフか?)を食っていると違うものだと書いた記憶がある。ガンで余命いくばくもない妻と頑迷な元軍人が自我をむき出しに自分たちの過去を激しく議論する二人芝居だったが、僕らとしては老夫婦といえば小津映画の感覚だからどうしても驚きあるいは違和感しかなかった。
 つまりこの芝居の開幕からは僕らの文化とは違ったもの、ヨーロッパの何ものかを見せられるという強烈な印象を受けたのであった。
 これは、ヒトラーを戯画化した物語である。いうまでもなく小さな猟犬は独裁者のカリカチャーである。アルトゥロ・ウイ(マルティン・ヴトケ)はシカゴのけちなギャングで、ある時蔬菜市場を牛耳っている市長のドッグズバロー(シュテファン・リゼヴスキー)の不正を嗅ぎつけ、これを脅迫することから次第にのし上がっていくという話である。
 アルカポネの「アンタッチャブル」を思い出させるが、ブレヒトがこれを書いたのは1941年、亡命先のスエーデンだったというから大恐慌時代のシカゴの事件は知っていたに違いない。それにヒトラーを重ねたのはうまい発想であった。(同時にすこぶる危険であったろう。)
 けちなギャングとはいえ物語はなかなか複雑で重層的である。
 ウイは、不景気にあえぐ蔬菜協同組合のリーダーに助力を申し出るが、ドッグズバローの支援を当てにしている組合からは相手にされない。ドッグズバローが新しい埠頭を造るという口実で組合のために市から融資を引き出してくれ、その金で蔬菜産業はよみがえるというのである。組合の挑戦的な態度にあらがわないウイに対して、手下たちは不満である。側近のローマ(トーマス・アンツュエンホーファ)が水面下で工作することを勧めるが、強力な後ろ盾がない限り動くべきでないというのがウイの考えであった。
そうしているうちに、埠頭の建設など行われていないことがわかる。探りを入れると、ドッグズバローが融資話を私的な利益のために使っていることをつきとめた。ウイは、ドッグズバローに自分を警察から守ってもらうかわりに、融資の行方の追及から市長を守ってやると申し出るが、自分で何とかできると踏んだドッグズバローはそれを断る。しかし、すでに情報は飛び交い、新聞記者のダルフィート(ローマン・カミンスキー)も動き出していた。追いつめられたドッグズバローは、ついにウイと手を結ぶことにした。ウイは証人を殺害し、警察の捜査も中止を余儀なくされた。
ウイの人気は高まり、組合の連中も傘下に入るようになり、まるで民衆の代表のような立場に上り詰めるが、ウイにはそれにふさわしい態度や風体、振る舞いが備わっていない。とつ弁を直し、英雄的な態度を身に付けるために俳優が呼ばれ、シェイクスピア劇を稽古しながら次第に獣性をカバーしていく。組合はウイにしたがっているように見えたが、実は水面下で離反し始めていることを知ったローマがこれをウイに告げる。ウイはこれを利用してさらに組合との関係を深めようと盟友で側近だったローマを殺害(ウイがローマにキスをして、その直後に突然拳銃で撃って殺したには驚いた。)他の手下も手にかける。組合はこのやり方に恐怖を覚え、ウイを受け入れざるを得なくなっていく。
ウイは独裁的な力を手に入れるが、取り巻きも部下をも失い孤独にさいなまれ、悪夢にうなされる日々を迎える。
エピローグでは登場人物が一堂に会してそれぞれが一人の独裁者の誕生にどんな役割を果たしたか確認するようにして終幕を迎える。
僕は、ブレヒトを見て面白いと思ったことは一度もなかった。俳優座が、とりわけ千田是也が熱心だった若い頃、地方周りでやってきたときから今に至ってもどこがいいものかと思ってきた。ところがこのブレヒトを見て驚いた。あの説教じみた、思わせぶりな物語とは打って違って、寓話的ではあるけれど恐ろしくリアリティのある芝居になっている。目の前にヒトラーがいたからだろうが、こんなのも書いていたとはしらなかった。
帰った夜のうちにこの頁に「ぜひ見て欲しい!」とはじめてやや興奮気味のメモを載せた次第である。
ただ、後でパンフレットを読むとこの芝居がこんなに興奮させたについてはたくさんの別の要因があったことを知った。
岩淵逹治(学習院大学名誉教授)氏がパンフレットに寄せたエセーに依拠して書くと、まず、この芝居をブレヒト自身は上演していないのだという。初演は彼が亡くなった後、1960年のことであった。岩淵氏はこれを見ている。そのために全く新しくなった今回の演出とどうしても比較して見てしまうのだそうだ。
プロローグの犬の場面は原作にはなかった。これは、演出家ハイナー・ミューラーのアイディアで、彼が1995年に初めてブレヒトをやるとき、ヴトケを起用することで可能になったという。ミューラーはこのためかどうかはわからないが、もともとのプロローグをカットして今度のエピローグに回してしまったのである。
ミューラーはタイトルも変えた。変えたというよりは、形容詞をとってしまった。「アウトォロ・ウイの止めど難くない興隆」が原題で、ブレヒトはヒトラーの興隆が止められないわけではなかったというドイツ国民に反省を促すフレーズを入れていた。95年の時点では、岩淵氏のいうようにミューラーもこれでは啓蒙的にすぎると考えたのだろう。
また、原作ではヒトラーを取り巻く実際の政治家たちと登場人物の対応関係がスライドで投影されて分かりやすかったが、ミューラーはそれをやめてしまったのだという。
そういえばなぜか理由はわからないがこの芝居は字幕を出してくれなかった。解説のイヤホンを貸し出したが(長蛇の列に並んでも希望者全員に行き渡ったわけではない。何という不親切。)せりふの一部を翻訳しただけで実に不十分だった。
つまり登場人物それぞれに実在の政治家がモデルとしていたことが僕らにはあとでわかる。かなり史実に忠実で、ドイツ人なら誰をさして、歴史の何を示しているかすぐに理解できるようになっているというのだ。たとえば・・・ここは岩淵氏の文を引用したほうが早い。
「やや落ち目だったヒトラーが首相に任命されるや、国会放火事件で共産党を弾圧、財界や旧勢力と妥協するために過激な同士を粛正し、大統領の死後は総統となってナチスの一党独裁体制を固め、オーストリアへ無血侵入して合併するまでの事件」を描いており、それぞれ登場人物はヒトラー始め、ゲーリング、ゲッペルス、レーム、フォン・シュライヒャー(元首相)、ヒンデンブルグ、タルフィート(オーストリア首相)らに対応しているという。
ここまでわかっていたらもっと面白く見られたかもしれない。
何日かたって、アフタートークに出かけた。俳優はヴトケだけで他の二人が何ものかは遅れて入ったためにわからない。ドイツ人は皆饒舌だった。質問の時間が来て何人か立ったあと一人の老人が指名された。
彼はいくつか理解できないところがあったという。
舞台中央奥に高い台が有り、その下にエンジンのような機械がおいてあるが回転する羽が動いていないのは何故か?その台の上に真っ赤に塗られた木枠がおりてくるのは、その場所が市庁舎のつもりなのではないか?(確かにこの毒々しい赤は気になるところだった。)
また、ギャングの情婦(マルガリータ・ブロイヒ)がなぜ突然ヴェルディのアリアをアテレコで歌うのか?その情婦がギャングに夫を殺されたといううそ芝居をするとき、親衛隊の制服制帽の男が現れ、着ているものを脱ぎ出してお終いに全裸になってしまうのは何故か?
と、聞いているうちになんか覚えのある内容だと気がついた。
司会者は質問が長いので、通訳がもはや翻訳をあきらめていることを見て取って、割って入った。「専門的な質問で恐れ入りました。差し支えなければお名前を。」というと老人は「岩淵です。」と答えた。
岩淵さんは自分がパンフレットに書いた疑問をここで直接ドイツ人に確かめようとしたのである。これにはびっくりした。通訳する人間はあきれ顔だが憤慨しているようにも見える。ドイツ人がけげんそうな顔をするのに、通訳氏は相手にしなくていいのだといわんばかりで、この岩淵さんの質問は宙に浮く形になった。僕もこの全裸の必然性には疑問は感じていたからぜひ通訳してもらいたかった。この場面よりももっと前に登場人物全員が舞台に並んだとき若いシート夫人(ソニア・グリュンツィヒ)が着ていたミンクのコートをわざとらしくはだけると、そこには何も身に付けていない均整のとれた女体が現れた。必然性という点で、質問したくなるのは女優自身ではなかったかと今でも僕は思っている。
これにはいくつか答えが考えられる。裸に関してそれほど羞恥心がない。単なるサービス精神。感性、つまり理由はないが気分の問題。僕らが気付かない深遠なる哲理が存在する。肉を食っている人たちの感性はわからない。
岩淵さんの企ては残念なことに、司会者と通訳の陰謀によってうやむやにされてしまった。ドイツ人スタッフのためにも実に惜しいことをした。初演のころの舞台を見ている人なんて今や貴重品に違いない。芝居ははねて、新国立劇場の場所は空いているのだから、僕としては時間を限らずぜひこの議論を聞いていたかった。
それにしても、この芝居はヴトケのものである。開幕の犬といい、途中何度も挿入されるナチのハーケンクロイツを思わせる独特のパフォーマンス、その身体能力、何を考えているかわからない不気味な独裁者の雰囲気、いずれをとってもウイを演じるに最もふさわしい俳優といっていい。彼の初演から10年、40歳を超えて「しんどく」なったといっていたが、これを見る機会を得たのは幸せだった。
ヒトラーについてどう思うかという質問について、遠い過去の人物で自分との直接的な関係は感じられないといっている。
戦後60年経って、日本でも同じことが言えると思うがあの戦争は今「同時代史」であることをやめて、大急ぎで「歴史」になりつつある。それはあらがいがたいことである。
ハイナー・ミューラー演出が史実にこだわらずブレヒトを感性でとらえ直して、このような形で作り出したことを肯定的にとらえたいと僕は思っている。

(2005/8/1)


新国立劇場

Since Jan. 2003