<%@LANGUAGE="JAVASCRIPT" CODEPAGE="932"%> 新私の演劇時評
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「アルゴス坂の白い家」

新国立劇場中劇場の舞台は普通の劇場の三倍の奥行きがある。柿落としの「紙屋町さくらホテル」(井上ひさし作、97年)で渡辺浩子は、ホテルの二階屋の造作一切をのせた板を舞台の最深奥部から音もなくゆっくりと最前部まで引き出して見せた。(最後は暗闇の中に後退していく。)この広さには度肝を抜かれたものである。渡辺急逝の後を受けた栗山民也芸術監督の最初の仕事が何であったか覚えていないが、まずはこの大空間と格闘することからはじめなければならないと思ったであろう。しかもこの劇場には他にない最新の機能がつまっている。それを精いっぱい使って見たいと思う演出家の気持ちはよくわかる。ところが、この劇では、劇場に入って驚いたことに舞台には何もおいていない。何の細工もない黒々としたがらんどうの空間が奥まで続いている。それだけではない。座席の前十列ほど取り払って、その分舞台を客席に突出している。鵜山仁新芸術監督の最初の演出作品は、あっけらかんと徹底的になにもない空間の中で始まろうとしているのだ。とは言え考えて見ると、この最初のシリーズは「三つの悲劇―ギリシャから」と名付けられている。なるほどこの広さを、舞台を客席がすり鉢状に囲んだギリシャ時代の屋外劇場に見立てているのだと気がつくことになる。すると、コロスが登場人物を遠巻きにしながら状況を説明し、俳優は客席上部に向かって激情を朗々と語りかける重厚なせりふ劇でも始まるのだろうと想像をたくましくするところだが、その期待は明かりがはいると簡単に裏切られる。最初に舞台に浮かび上がるのは頭にマイクを付けた二人の人物、エレクトラ(小島聖)とオレステス(山中崇)の姉弟で、これが大音響で謳い出す。小島聖に歌の心得はあったと思ったが、山中オレステスのひどい調子ッパづれには驚いた。ひとしきり歌っているところに演出家らしい男(有薗芳記)が現れ「やっぱりギリシャ悲劇にミュージカルは合わねーな。」といってこれを引っ込める。
川村毅が素直にギリシャ悲劇などやるものかと思っていたが、この開幕の冗談で、彼が鵜山の注文にどう取り組もうとしていたか「苦悩」の一端を見る思いであった。そもそも鵜山の発想は、ギリシャ悲劇が西欧演劇の原典と考えられているという認識に基づいていると思われる。新国立劇場の性質上、自分が芸術監督を受けた最初の仕事をそれにしようと思ったのは、ひとまず原点に立ち返ってそこから出発しようというのだろう。最初に当たるこの劇は「クリュタイメストラ」という副題がついていて、これは「母親」を主題に据えている。続くシリーズでは、アンドロマケ=妻、アンティゴネ=娘を取り上げるようだが、いずれにせよギリシャ時代の原作をそのまま舞台に上げるつもりはない。「三つの悲劇―ギリシャから」などという思わせぶりなタイトルにもかかわらず、この劇を観る限り実は題材をギリシャ悲劇に借りてはいるが、内容は現代劇そのものである。結論をいってしまうようで恐縮だが、ギリシャ悲劇の本歌取りだ、といっても観客が元歌を知らなければ話にならないのは当然として、むしろギリシャ悲劇を揶揄し、解体しある意味では否定もしている。ということは鵜山が最初に振りかざした古典悲劇の原典に立ち返ってという問題意識はちょうどメビウスの蛇のように尻尾を食いあっているようなものになってしまった。ギリシャ悲劇を強調すればするほどその悲劇性が薄まることになる。あのタイトルを目にした時から、一体ギリシャ悲劇をどうする気なのだと思っていたが、鵜山仁のそこから何とか始めてみようという曖昧な態度を川村毅が粉砕してくれたから、先に期待が持てるようになった。鵜山は「古代ギリシャ以来の『大きな物語』に由来する超弩級の登場人物たち云々」と彼のギリシャ劇を見ている視点の一端を示している。壮大な叙事詩に描かれる神々の物語という点で何やらスケールの大きな、しかも、アンドロマック、クリュタイメストラ、オイデェプス、エレクトラ・・・とものものしい名前の人物が動き回る話とあれば、思わず『大きな物語』といってしまう気持ちは分かる。その亡霊のように大きく肥大したイメージと、「それがどうした」というアンビバレンツな感情がどうもないまぜになっているらしい。そういうものの見方が整理されないと二千四百年前に書かれた話を今舞台にかける意味が見えてこないのではないか?また『大きな物語』という述語は九十年代以降の時代精神(いわゆるポストモダン)を議論する時に必ず引用される概念であって、最近は鵜山がいうような使い方は通常しない。それはギリシャ劇とはなにかということと直接関係しないが、時代をどう捉えるかという点で存外大事だと思うので、また後で論じることにする。
ミュージカル仕立てをやめた後、新宿中央公園の辺りでルンペンをやっているエウリピデス(小林勝也)が机を持ち出して戯曲を書いているところへ、シナリオライターの島岡(中村彰男)が現れる。悲劇を書いているのだがうまくいかないので教えてくれというのである。「戦争の死者たちの名前を書き連ねるだけで悲劇になる」などとうそぶいて相手にしなかったが、再三頼み込むので、島岡が書こうとしているアトレウス家の悲劇の人間関係を解説してやろうということになる。天井からばさっと巾三尺ばかりの掛け軸がおりてきて、エウリピデスが釣り竿らしき長いものでさし示しながら劇の登場人物相関図を説明する。図の頂点にはゼウスがいて、その息子タンタロス、さらにその子ペロプスが続き、二代後がアガメグノンである。タンタロスは息子ペロプスを殺し、肉を切り刻んで鍋で煮て神々に食べさせようとしたという人物(神?)である。その後ペロプスは五体をつながれて生き返り、父親とともに略奪、人殺し、誘拐、その他あらゆる残虐行為を繰り返す。タンタロスとペロプスが犯した悪業の数々は因果応報、子々孫々まで災厄をもたらすことになるのである。この呪われた家系の裔アガメグノン(磯部 勉)の妻がクリュタイメストラ(佐久間良子)で、二人のあいだに子供は長男オレステス(山中 崇)、長女イピゲネイヤ(篠崎はるく)、次女、フロイトのエレクトラコンプレックスで有名なエレクトラ(小島 聖)、三女クリソテミス(山田里奈)の四人がいる。クリュタイメストラとアガメムノンの弟アイギストス(石田圭祐)は愛人関係にあり、アガメムノンにもトロイ戦争に勝利した戦利品であり人質、トロイヤ王の娘カッサンドラ(李 丹)という愛人がいる。クリュタイメストラは長女イピゲネイヤをアガメムノンに殺されたことを恨みに思い、愛人アイギストスと語らって夫を殺害する。それを知った次女のエレクトラが弟のオレステスをけしかけて母親を殺してしまう。つまりは島岡が書こうとしている物語のあらましはこうだと説明しているのである。これは明らかに原作を知らない観客に対するサービスであるが、こんなことを劇中でやるのは、はじめに手品の種明かしを見せているようなものである。しかし、それは百も承知で、観客には元の筋書きを知っておくことがこの後の展開に必要だったのだ。島岡が自分の母親を殺して頭部をカバンに詰めて持ち歩いた少年の事件を持ち出して、気の利いた相づちを打つとエウリピデスはわが意を得たりとにんまり。そうして見ると、このところ親殺し子殺し事件の何と多いことか。この点二千四五百年前から人間というものはちっとも変っていないということがよく分かって、暗澹たる気持ちのなるものだ。
島岡が書こうとしている物語は、新宿のアルゴス坂(ギリシャの地名にちなんだ命名で実際にはない)にある白い家で暮らす映画監督アガメムノン一家の話である。妻は映画女優のクリュタイメストラ、長女のイピゲネイヤは母親と同じ女優を目指して修業中、次女エレクトラは新進気鋭の小説家、三女クリソテミスはまだおねんね、長男オレステスは家を出て行方不明、それに映画のシナリオを書いているアイギストスが同居している。設定はでき上がっているが島岡はなかなか書き進められない。そこへ劇の演出をやることになっている勝山(有薗芳記)がやってきてさっさと書けと催促するが、ますます島岡は混乱してくる。しかし、舞台ではすでに書き上げた部分である戦争映画の巨匠アガメムノンがメガホンをとる超大作『トロイ戦争』を巡る悲劇をつくりあげようという話が進行する。何故クリュタイメストラなどという言いにくい役名にしたのかと母親役の映画女優が苦情言ったりして劇中劇であることを強調する。映画ではヘレン役を長女のイピゲネイヤにやらせることをアガメムノンが決めて、主役をとられたクリュタイメストラを説得にかかるが、なんだかんだと議論になってうまくいかない。エレクトラは一貫して不機嫌であり、男言葉で母親に対抗し、シナリオライターであり叔父であるアイギストスに敵意をむき出しにしている。島岡はエウリピデスと一緒に自分の書いた本の進行を見守っているが、途中で突然エウリピデスの袖を引っ張り隠れようといい出す。
エウリピデス:何で隠れなきゃなんねーんだ?
    島岡:通報されて抹殺されます。
エウリピデス:抹殺?誰に。
    島岡:演劇史に。
こういう洒脱なところは大笑いだが、どうやら、芝居は島岡の手を離れて自動的に動き出したようだ。
 撮影中にイピゲネイヤは、何ものかに焔の中に突き落とされて大けがをする。顔にやけどを負った女優は二度と映画の世界に戻れない。このことを聞きつけたか、オカマになった長男オレステスが親友ピュラデス(松本博之)を伴って帰ってくる。登場人物が揃っていよいよ殺し合いが始まろうとしているのだ。エレクトラは姉の事故は母親の仕業に違いないといい、母親は父アガメムノンの陰謀だという。しかもエレクトラは、母親とアイギストスが寝室で重なり合っていたところを見たと証言し、二人はぐるになって父をなきものにしようとしていると攻め立てる。ここにいたって、皆自分の役割をさとって死すべきものは一刻も早く運命を引き受けるようにと思うのだが、いっこうにそれを実行しようとしない。役柄は承知しているがその気にならないというのである。アガメムノンはなんだかんだとはぐらかし、オカマのオレステスはエレクトラにケツを蹴り上げられても逃げ惑い、アイギストスも呆然と事態の推移を見守っている。そこへ何というだらしのない男どもだといわんばかりに、カッサンドラが怒鳴り込み、アガメムノンに対する恨み辛みの長広舌、男の優柔不断さをなじるのである。何とカッサンドラは衣服のしたに自爆装置を取り付けて乗り込んでいたのである。アガメムノンは長年、戦争賛美、戦意高揚の戦争映画を作ってきたが、それは男性性の成せる技、その結果戦争の絶えない社会を奨励したようなものではないか、それもまた無責任のそしりをまぬかれまいという。
ここにいたっては、ギリシャ悲劇を離れて、もはや川村毅の持論が展開されているといってよい。男というものは武張ったところを見せていなければならないものと格好をつけているが、いざとなったら女のほうが肝が据わって、決断力もあるものだ。せりふの歯切れのよさは女性陣の方が格段に良く書かれているところが面白い。そうこうしているうちに怪我をしたイピゲネイヤが顔に包帯をして現れる。自分はもう決断した、見にくくなった自分の顔と一生付き合っていくと。いいながら包帯を取るとそこには何一つ傷は見えない。以前と変らぬイピゲネイヤが戻ってきたのである。これで悲劇はいよいよ成立しにくくなった。殺し合いのきっかけが何でもない姿で生きている。そこでアガメムノンはみんなで、殺したつもりの『ふり』をしようと提案する。しかしエレクトラは承知しない。母クリュタイメストラとアイギストスの不倫は否定しようがないではないかというのだ。するとアイギストスが進み出て、寝室で見た二人の様子をエレクトラに確認する。裸のクリュタイメストラはうつぶせだった。その上に腕を立てていたアイギストスは服を着ていただろうという。実はあれはマッサージをしていたのだ。そして、自分は性的不能者なのだと衝撃の告白をする。(ここにいたって真面目な人は怒り出したかもしれない。)これでまた恨み辛みのタネは一つなくなってしまった。こうしてついに殺し、殺されるふりをすることによって悲劇は実行された。「わたしすっきりした。家族は何度も殺し合えばいいのだわ。」と三女のクリソテミス。そしてこの悲劇のさなか浮かび上がってくるのは家族における母親の存在である。大鍋をかき混ぜているクリュタイメストラが家族に向かっていう。「シチューが出来ましたよ。」
アルゴス坂の白い家では悲劇のふりがおこなわれ、そのことによって彼らは普通の家族に戻ることが出来た。終幕、家を出ていたエレクトラが母に会いたくなって七年ぶりに坂の上の白い家に向かっている。エレクトラがドアを開ける。待ちかまえていたようにクリュタイメストラが手を差し出す。
クリュタイメストラ:おかえり、エレクトラ。
    エレクトラ:・・・ただいま。
クリュタイメストラ:さあ、入って。女どうし、話しましょう。

途中でトロイヤの戦争の場面が挿入される。エウリピデスが島岡に足りないものは戦争の記述でありそれを書くための体験であると気がついて、連れ出すのだ。戦争から悲劇は量産される。しかし君ら日本人は数ある戦禍からまぬかれてきて、そのために悲劇を書く能力をうばわれている、というのである。トロイの剣士ヘクトル(有薗芳紀)が現れ、ひとりの女を巡って男の意地と欲望が激突したこの戦争について、何万もの人間が殺戮を繰り返したことを慨嘆する。トロイの木馬という「テロ」によって戦争は終結を見るが、ギリシャがひとりの王の感情に支配されたことは事実である。一体(現代)国家の戦争を決定する意志とはどこにあるのか?国はひとりの人間の感情とは別の意志を持っているのだろうか?ヘクトルの見解は、国同士が争う理由は人間が争う時の感情となんら変わりがない、というものであった。島岡が国家と個人ではレベルが違うと反論すると、ヘクトルはその通りだが、国家を過大評価してはならない、国家も一個の感情で動く生き物であるに過ぎないという。国民の感情の総体、それが国家の意志だとすれば、戦争がこの世からなくなることはない、とヘクトルは断じる。川村毅の戦争観とも言うべきものが現れている場面としてあえて取り上げたが、これは彼の見方、というよりはこの劇を通して語りかけたかった警告と受け止めていいだろう。それにつけても思い出すのは、9.11の直後にブッシュがアフガン空爆を決意していたことである。川村毅の議論は国家という枠組みを越えたテロつまり人間の感情の激突ということも包含していることに心をとどめておきたい。憎しみという感情が生まれてくる根源をたださない限り、連鎖は続くのである。この後場面は突然、アルゴスであり新宿である高層ビルにタイムスリップする。背後の暗闇からはじめに映画撮影の場面に使われた大きなカメラ用のクレーンに、木馬の張り子が付けられて再び舞台に登場する。(あの広い舞台にこれが唯一の大きな構造物だった。)敵が取り囲む中軍用ヘリコプターの音が近づいてきて、島岡は自分の原稿を読む。・・・戦争終結後のロードマップを携えて米軍のブラック・ホークがやって来る・・・いや来なくていい。悲劇がもっと大きくなってしまう・・・。
ギリシャ悲劇の終幕にはデウス・エクス・マキナという機械仕掛けの神が上空から登場して、劇の裁断を行い結論を出さなければ終れないことになっているという。島岡はいかにこれを出現させるかに悩んでいる。というのも、もはや現代においては神の出現は喜劇にしかならないと思っているからだ。これについてどうなったかといえば、結局殺しは何一つ行われず、家族はおさまるところへおさまってひとまず平穏な日々がやって来るのである。これでは、さすがのデウス・エクス・マキナも出番を失ったという他ない。ということはこの劇がギリシャ悲劇を必死で描きながら、似て非なるもの、悲劇であったかどうかさえ疑わしいものだったということなのであろう。
川村毅は徹頭徹尾人殺しを避けようとした。ひとりも殺さないでギリシャ悲劇を描くためにアトレウス家の悲劇という枠を越えてギリシャ劇そのものを、あの壮大な叙事詩を「大きな物語」として捉える風に批判を加えた。それでなければユージン・オニールが「喪服の似合うエレクトラ」で描いたように本歌取りの現代版悲劇を書くことは出来たはずだ。川村は、一体この時代にギリシャ劇などを持ち出して、何が有り難いものかといって見せたのである。それを言うために島岡という劇作家と、エウリピデス本人を登場させる面白い趣向によって、物語の構造は多少複雑になったが、実に後味の良い清新な劇に仕上がって、なおかつギリシャ悲劇の一端を啓蒙する機会にもなった。
ついこの間も書いたが、僕は昔翻訳物の本の中にギリシャの神々が多数でてきて、それを知っているのは常識だといわんばかりだったために、「イーリアス」「オデッセイ」などを買ってきて覚えようとしたことがあった。ところが俄勉強で覚えられるはずもなく、自分は頭が悪いのだと真剣に悩んだものだった。後にあれは西欧においては子供のころからなじみの物語だと分かって多少は安心をしたのだが、つまりは童話のようにして覚えるものなのだ。ドイツ文学者でブレヒトの翻訳でも知られる岩淵達治さんがパンフレットで、日本におけるローマ劇、ギリシャ劇の知見は非常に浅いと指摘している。小林勝也がシアタートークで、長い俳優生活で、ギリシャ悲劇をやったことはないと語っていたのもうなずける。西欧においてはルネサンスとともにギリシャ時代の思想や文化が掘り出されたのであるが、日本ではこの時代、平安末期頃であろう。年季が違うのである。
最初に鵜山仁が「大きな物語」と語ったことを書いた。ギリシャ悲劇のような激しい感情の交錯や誰もがカタルシスを覚える劇的な主題を持った歴史絵巻をスケールの大きな物語といい、今はそれがない白けた時代であるがゆえに、その「大きな物語」に対する関心が高まっているのではないかという発言がある。(鵜山、川村、柴田翔の鼎談における柴田の発言―パンフレット)果たして本当にそうなのか?「大きな物語」とはジャン・フランソワ・リオタールの言で、社会が目指すべき理想について共通の言葉で語られる物語、具体的には革命思想やイデオロギーのことであるが、我々の時代はこの「大きな物語」を失った時代=ポストモダンであると指摘している。失った「大きな物語」に対する郷愁あるいは関心が残っているかといえば、それはまったくないといってもいいだろう。そうした時代に「大きな物語」に挑戦しようとしたならば、その大きさを解体し、粉砕し、批評を加えて新たな問題提起としてさし出す他はないのではあるまいか。その点で、川村毅は今もっとも鋭敏なアンテナで世界を捉えている芸術家のひとりといっていいだろう。この劇に限って言えば、今ギリシャ劇を!という鵜山の狙いが外れた感はあるが、結果オーライ、彼の怪我の功名だといってもよい。
佐久間良子が貫録を見せた。長ぜりふは後のほうで息が上がることもあったが、丁寧な作りで説得力があった。原まさみの衣裳もしっくりと体に合っていて好感が持てた。結局母としてのクリュタイメストラを中心に据えるというイレギュラーな狙いがその存在感ゆえに成功を収めていた。他の役者ではこうはいかなかったかもしれない。エレクトラはほとんど男言葉で終始して実に不機嫌であったが、他にやりようがあったのではないかと少し疑問に思った。
鵜山演出は、いつもの段取り仕事、次から次に「場」を送り出していくやり方はすっかり影を潜めて、あのめちゃくちゃな何重構造も重なった複雑な劇をなにか飄々とした感じで自然に乗り越えていく感があって、こればかりは見違えた。

川村毅の本は、例えばアガメグノンが妻に早い時間から飲むのはやめて下さい、といわれると「からだを夜にしようとしてるんだ。」とかエレクトラがアイギストスにからかわれて殴りかかろうとすると「暴力には早すぎる。」とか、チャンドラー張りの決めぜりふがさりげなくはめ込まれていて、にやりとする場面がいくつもあり楽しめる。盛り込み過ぎのところを少し整理すれば、川村毅の特徴がよくでた代表作の一つといってもいい出来であった。

 

題名:

アルゴス坂の白い家

観劇日:

07/9/21

劇場:

新国立劇場

主催:

新国立劇場

期間:

2007年9月20日〜10月7日

作:

川村 毅 

演出:

鵜山 仁 

美術:

島次郎 

照明:

服部基 

衣装:

原まさみ 

音楽・音響:

久米大作 音響:上田好生

出演者:

佐久間良子 小島 聖      李 丹山田里奈 篠崎はるく 磯部 勉 有薗芳記 山中 崇  松本博之  中村彰男 石田圭祐 小林勝也

 

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