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「アジアの女」

長塚圭史の名は時々見かけていた。若いから、やかましいパンクロックにでも乗せたガチャガチャした芝居だろうと何となく思っていたが、この芝居を見る限り、いたって冷静で、野田や鴻上の世代のように物事をやたらに派手なイメージに飛ばして見せるようなところはなくて、むしろ世界を理知的に捉えようと志向するタイプの作家だという気がした。
もっとも、栗山民也の注文がどんなものだったか知らないので、これが長塚本来の世界だとは言えないのかも知れない。この注文のことを類推させる文章を「ごあいさつ」と称して長塚が書いている。
「新国立劇場の制作担当から次々と送られてくる阪神・淡路大震災の資料を貪りながら、ふとこの地震では生々しすぎるのではないかという疑念が浮かびました。阪神・大震災はリアルすぎる。いや、確かに東京からテレビを通して目にした神戸の街の地獄絵図は、まるで同じ日本ではないかのように現実味がなかったのですけれど、あれから十一年の月日を経て、また、こうして文献を眺めていると、どうも私の考える崩壊後の東京とは違うと感じてしまったのです。言葉にするとやっぱりこうです。リアルすぎる。・・・」
これによると、どちらが言い出したのかはともかく「震災」、しかも「東京に震災があったら・・・」、あるいは、「東京大震災その後」といったテーマにプロデューサー新国立劇場がかかわったことは想像出来る。
それに対して、長塚は、震災そのものを描くことも、震災からたくましく立ち上がる大東京を描くことも我々がすでに(阪神・淡路大震災で)経験してしまった、目に見えた現実だから、それは「リアルすぎる」という理由で書きたいテーマから排除する。むしろ震災によって灰燼に帰した東京を想像して、その何もかもなくしてしまったいわばゼロ地点を舞台にした劇を書こうとしたのである。
大笹吉雄が、この劇は「近未来もの」で、79年北村想の「寿歌(ほぎうた)」に始まる戯曲の系譜につながると的確な指摘をしている。「寿歌」は核戦争が終わったあとの空虚な世界が舞台であった。長塚にとって大地震その後は、いわば核戦争後に匹敵する空っぽの世界だったのである。
ただ、「寿歌」の方は、安住恭子が著書「青空と迷宮、戯曲の中の北村想」で指摘しているらしいが、その構造が「新約聖書」とほとんど同じで、それを北村自身が否定しなかったところをみれば、北村には書こうとしたもののゴールが見えていたのである。僕はこれを舞台ではなく偶然テレビの舞台中継で観たのだが、むろん「新約聖書」を下敷きにしていることには気付かなかった。核戦争で何もかもなくなった荒野を二人の芸人がリヤカーを引いて歩き回る「明るい絶望感」が新左翼運動の絶えた時代の空気に重なった。物語の抽象性にもかかわらず北村の世界観は伝わるのである。
長塚がこれを知らないはずはない。
この劇は東京大地震が終わったあとの廃虚の中に、(北村がやったように)長塚の持っている世界観を当てはめてみようとしたといってもいい。盛り込んだエピソードやせりふの断片から、なるほどこれが「現在」だと感じるところはあった。ただ、結論を先に言うと、用意した結末を見た限り、そこへ収斂させていくだけの個々のイメージのベクトルが未完成であった。プロデューサーとのやり取りから見て、テーマを発酵させる時間がなかったか、あるいは体系化するには若すぎたかどちらかであろう。

舞台は小劇場の空間の真ん中に作られている。手前と奥の客席から見ることになるが、奥の客席の真ん中をコンクリートが剥げかかった通りが貫いている。手前から見て右には、つぶれた民家の二階が瓦礫の上に乗っている。一階はかろうじて屋根だけが頭を出していてその上に椅子が一脚。左手は崩れかかった高い建物。破れたドアに向かって両側から低い階段がついている。舞台中央は材木やら崩れたレンガやら壁の破片が折り重なっていて、その灰色の世界の中に、一ヶ所だけ白っぽい砂利がひかれた一メートル四方ほどの地面が見える。この二村周作の装置は、震災あとのほこりっぽい荒涼とした世界を灰色一色で表現していて感心した。瓦礫の折り重なった部分まで型をとって樹脂を流し込む手法で作ったようだが、この金の掛けようも国立劇場ならではである。
そばに倒壊の恐れがある建物があるので、立ち入り禁止の袋小路にひっそりと隠れ住んでいる兄妹がいた。妹の麻希子(富田靖子)は震災前、精神障害で時々発作を起こしていたがいまは落ち着いている。つぶれた一階の屋根の下に今でも父親がいて、何かの理由で出られないと思っている。穴から食料を下ろしてやる妹を兄の竹内晃郎(近藤芳正)は黙って見守っている。麻希子のいう通り父親がそこにいてもおかしくはないと思っているのか?麻希子はまた、空き地に作った畑と称する白っぽい砂利の空間に、時々水をやりに行く。兄は、なにも生えてはこないというが、意に介していない。この外界から切り離された小さな空間のなかでようやく兄妹は精神的な安寧を得ることができているようだ。晃郎は足がすくんで通路の向こうに行くことができない。晃郎の心もまたどこかで病んでいる。麻希子に惚れている警官の村田(菅原永二)が時々自転車でやってきては、配給の切符を預かって食料や水と交換、供給している。違法だが、惚れた弱みである。
ある日、そこへ一人の男がボストンバッグを提げてやってくる。晃郎を訪ねてきた一ノ瀬(岩松了)。何故か高圧的、わがままで麻希子はとまどう。一ノ瀬とはなにものか?
晃郎は以前出版社に勤めていたが、一ノ瀬はその時の上司の息子である。この男は小説を書きたいくせに、想像力も創造力もない。そのために上司の依頼で、晃郎が相談役を仰せつかっていたのだ。一応コネを使って雑誌に作品は載ったものの、内容は、ある殺人事件についてそこら中の新聞記事を集めてそのまま継ぎはぎしたものだった。
一ノ瀬は金をやったのに勝手に自分の前から逃げたと晃郎を責め、この廃虚に居座って小説を書くから協力しろというのである。晃郎も麻希子もこの強引な申し出を断りきれず、食料を求められるまま渡してしまう。
警官の村田は一ノ瀬という闖入者が気に入らない。職業を聞いて一応思い当たる節があるらしく、愛読書という文庫本を持って現れ、サインをねだるが、そのエロ小説は同名の別人のものだった。怒る村田の前でも一ノ瀬は平気である。後にこの小説を奪って、まねしようと書き始めるがうまくいかない。女の身体のさまざまの性感帯がそれぞれ独立して主張を始めるというもので、コミカルな話だが、なるほど渡辺淳一先生とは正反対のそういうエロもあるのかと感心した。
晃郎が飲んだくれている間に、一ノ瀬がわがままを言って麻希子を街へ使いに出すところから話は急展開する。
晃郎の心配をよそに麻希子は鳥居(峯村リエ)というボランティアをやっているという女を伴って戻り、仕事をもらったというのである。鳥居は親切そうな女で、震災の被害者の話を聞くだけの簡単な仕事だという。麻希子は、鳥居が迎えにきて出かけるようになる。 
中国人が集まっている地区があり、略奪犯が逃げ込んだことから朝鮮人など他の民族と日本人の対立が深まり、その居住地は危険な場所となった。
ある時、鳥居が迎えにきて中国人地区へは行かないように麻希子に言う。麻希子が抵抗し、それに晃郎も同調すると、鳥居は豹変して「どんな仕事をしていると思っているんだ」と晃郎にすごんで見せる。どうも「親切に話を聞いてやる」と言う仕事は、売春のことのようである。麻希子がこの鳥居という女衒の目を盗んで中国人地区へ行っているらしい。晃郎が話を聞くと、麻希子は中国人地区に住むもと教師の男が好きになったという。晃郎は妹がまともな感情を取り戻したと喜んで、麻希子をその男の元へ送り出す。
一方、一ノ瀬は相変わらず苦吟していたが、麻希子の畑から思いついて、種を蒔く女の話を書き始めた。「大地に水がしみ込んで、その水に大地が応える・・・」
そうしている中、息せききって警官の村田が走り込んでくる。中国人地区で暴動があって麻希子がなくなったらしい。
晃郎はおどろいてそこへ向かおうと道へ踏み出し、そのとき一ノ瀬は一心に書いている。そこへゴォーという音とともに大地が揺れ、再び地震が襲いかかる。あたりは真っ暗になって、しばらくすると静かになった。
再び舞台に明かりが入ると、なんとあの水をまいていた畑から、いや、瓦礫の下のそこかしこから植物の芽が生えているのである。これをしばらく見せて終幕。
なるほど、この植物の生命力を見せたかったか。「アジアの女」というタイトルはこの終幕のイメージを言っているのかも知れない。
これだけの話を二時間でみせるのだから、なかなか充実しているといえる。
ただし、麻希子が外へ出ていって売春をしていたという話から以降は、いかにも飛躍していて違和感が先に立った。
最初は気が触れた妹と気力のない兄が地震で廃虚となった街の片隅でひっそりと暮らす話だった。そこへ、小説を書きたい男が現れ、彼らの静かな生活をかき乱す。小説といっても、何か書きたい真情といったものがあるわけではなく、面白い話、つまりストーリーテリングが問題なのだ。昔の文士とは大違いである。現代の小説は消費される感動物語のことを言うのだ。「感動」をもらってありがとう、一時あとは忘れてしまうという調子である。「感動」はもののようにやり取りできるものらしい。ほとんど「それがどうした」という話を生産しようとしている一ノ瀬の心もどこかむなしく異常である。
一ノ瀬は時々虫に襲われるらしく、必死に追い払うしぐさを見せる。この意味は不明だが、普通内心恥ずかしいことが心に浮かぶと、その考えを否定しようとして、人は頭を振ったり、手を払ったりするものだ。そうだとしても一ノ瀬の内面を示唆するものはなにも見えない。あれが何度か出てくるが、何かついに分からなかった。(小説家といい、このしぐさといい、長塚のインテリぶりが出ているとは感じたが)
この前半は、岩松了の独壇場といっていい。よく身体が動いて余り起伏のない、しかもたいして面白くもない話の進行をひとりで、まるで観客をねじ伏せるように説得しようとした。人物像が似あっていたともいえるが、演気力?が充実しているとはいえるだろう。これを見る限り下手な芝居を書いているより役者に徹したらどうだと思う。
後半、鳥居が現れるところから劇は全く違った展開を見せる。峯村リエの登場は、衝撃だった。でかい、その存在感は圧倒的である。何かが起こるという予感をはらんで、悠然と通路を歩いてきた。親切そうな振る舞いが、突然どすの利いた女衒の態度に豹変するところなど、迫力満点であった。
この女が妹を外の世界に連れ出すのだが、虫も殺せない優しい性格の内向的な妹が、「働かなくては!」と思ったからといって、それが何故売春なのか?人に接触するのがいやで袋小路に逼塞していたのではなかったか?それとも現代においては心と身体は別々に存在するものなのであろうか。
袋小路が外の世界とつながった途端に民族問題が登場するというのも唐突だが、それは関東大震災の時の亀戸事件や甘粕の事件など治安の悪化を思い出させて、納得のいくところでもある。その延長で中国人や朝鮮人地区というものができるのも首肯ける。鳥居がデマを流したというのは、例の朝鮮人が井戸に毒を投げ入れたという流言飛語が大事件に発展したのを下敷きにしたものだろう。ただしこの時代、(世界中で)民族主義が激しく高揚していたという背景を見逃してならない。
そこまではいいが、その対立のさなかに多少精神に問題がある麻希子が売春婦として入って中国人の男と恋愛関係になるというのは、いかにも非現実的である。初めての恋だったなどと言われても、警官の村田に限らずそのいきさつの説明なしに納得するのは難しい。
百歩譲ってそれでいいとしよう。この劇自体が非現実的なのだからそのくらいはかまわないと言われるかも知れない。
ほんとうの問題は、別にある。中国人と朝鮮人、対立する日本人という構図だけで「アジア」が語られていることだ。この三つの国しか登場しないところをみたら、麻希子は東アジア三国をつなぐ殉教者あるいは女神だったとでも言おうとしたのか?しかし、そうした場合いくらなんでも「アジアの女」はないだろう。これでは「アジア」がナマで政治的すぎる。大地震のあとの空虚な空間から見えてきたのがそれだとすれば、最初に長塚が嫌った「リアルすぎる」ということではないのか?「アジア」はもっと広い概念である。
長塚はそういう世界を最後にもう一度こわした。ご破算にしたかったのだろう。そして、
こんどこそ畑から奇跡的に植物が生えてきて「アジア」と言う多分に湿気の多い蒸し暑い風土に根付いたオンナのすさまじい生命力を表現し、未来への希望をつないだのであった。
 一つ一つのエピソードに面白いものはあったが、この結末につながる必然性は余り感じなかった。「アジアの女」と言う魅力的なタイトルにひかれてみていたが、その概念でくくられるイメージ、あるいはこの若者が考えている体系的な思想が見えなかったのは残念であった。
麻希子の富田靖子は、本来こういう暗く内向的な役には向かないと思う。健康的であるのはいいが、アジアの女というよりアジアの少女であった。聖娼婦などという、つまらぬイメージで使ったのかもしれないが、いずれにしても適役とは言い難い。
近藤芳正は全く損な役回りであった。昼間から酒を飲んで、のべつ酔っぱらっているばかりだから、たいした出番もなくもったいなかった。
警官の村田、菅原永二は収穫ではないか。飄々とした味わいがあり芝居もしっかりしていた。20リットルの水のタンクを軽々と片手で運んでくるのには驚いた。誰も当たり前に観ていたと思うが、あれは実際には難しい。下手をすると腕が抜けてしまう。

長塚圭史にもう少し時間があったらという気もしたが、劇作の才能は多分に感じた。暇があったらアジアを見物してくるのを奨めたい。特にベトナム、インドネシア、マレー半島、タイなどの東南アジア、それに中国南部。ここは熱帯、亜熱帯の気候である。あのへんにある屋台や暑い空気や街の雰囲気が東アジア一帯にも延びてきていることが感じられるだろう。そのアジア的混沌(ケイオス)が君の血にも確実に流れている。

 

 

 

題名:

アジアの女

観劇日:

06/9/29

劇場:

新国立劇場 

主催:

新国立劇場

期間:

2006年9月28日〜10月15日

作:

長塚圭史

演出:

長塚圭史

美術:

二村周作

照明:

小川幾雄 

衣装:

宮本まさ江 

音楽・音響:

加藤 温 

出演者:

富田靖子 近藤芳正 菅原永二 峯村リエ 岩松

 

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