題名:

明日

観劇日:

05/8/12

劇場:

紀伊国屋ホール

主催:

青年座     

期間:

2005年8月11日〜8月17日

作:

井上光晴 小松幹生(脚色)

演出:

鈴木完一郎

美術:

柴田秀子    

照明:

宮野和夫   

衣装:

 

音楽・音響:

高橋 巖

出演者:

益富信孝 福田信昭 佐藤祐四 田中耕二 平尾 仁 岩崎ひろし 豊田 茂 藤 夏子 山本与志恵 渥実れい子 井上夏葉 吉田はるみ 宮寺智子 野々村のん 小暮智美(新人)橋幸子(新人)ヴァイオリン=近藤由理チェロ=松 穣 / ピアノ=西川麻里子
 


 「明日」

「全身小説家」井上光晴の原作は、なかなか人気があるらしくて、この舞台を見る二週間ほど前に岩波ホールで、黒木和雄が撮った映画を見た。この分だとおそらく、テレビドラマもあったのだろう。黒木和雄は、戦争三部作といって勤労動員で自身が体験した宮崎での軍需工場空襲を扱った「キリシマー日本の夏」と井上ひさしの「父と暮らせば」とこの「明日」をもってあの時代の人々への(あるいは旧制中学の生徒だった若き日の自身への)鎮魂歌とした。
映画は、黒木らしくなんのけれん味もない正攻法で作られていて、表現派のようなアングルも、激したアップもない。昭和20年8月8日昼から翌9日にかけての長崎のある一家の24時間を淡々とつづったものであった。わずかに映画的な手法といえば、三浦家の三女、女学生のツル子がこの夜、出征することが決まった恋人と逢引する広い野原のシーンと婚礼から帰った写真屋が長崎郊外の農家を訪ねる場面であった。野原は背丈ほども有る草をかき分けてでたところにあった。長崎のどこにこんな平坦な場所があったのだと思わせる広々とした野が月明かりに照らされ、真ん中に白いシャツ姿の若い二人がぽつねんといる。風にうねる草の様子が二人の心の揺れをモンタージュしている美しい場面であった。もう一つの農家に写真をとどけるシーンは、非常に珍しく長玉を使っていた。高低差のある田んぼの、青々と茂った稲の間から茅葺き屋根が見えている。陽炎に揺れて、あの夏の日のムーンとする草いきれが伝わってくるような景色だが、その静寂を突然破って男がひとり駆け出してくる。
黒木和雄の愚直とも言うべき映像表現が、この平凡な人々の人生がこの日つまり「明日」突然断ち切られるという悲しみの深さを伝えるのにかえってふさわしいのかと感じた。
舞台の方は、小松幹生が脚色した。映画のように視点を縦横に変えるわけにいかないが、取り上げたエピソードに過不足はなく、テンポのよい間をピアノ、ビオラ、バイオリンの三重奏でつないでいくやり方が、このテーマ曲のゆっくりと、哀愁を帯びたしかし底の方に希望の見える曲想と相まって舞台ならではの物語を作り出した。(曲は、よく耳にするものだが、タイトルがわからない。もどかしい思いをした。)
幕開けは婚礼の準備をしている三浦泰一郎(福田信昭)、ツイ(山本与志恵)夫妻の家である。座敷には親類たちが座っている。花婿の席には中川庄司(豊田茂)がすでにかしこまっていた。花嫁の次女ヤエ(高橋幸子)は看護婦で、この日夜勤明けでまだ現れていない。長女のツル子は臨月のおなかを抱えていたがこの日にわかに産気づいて、疎開先(といっても市街地に近い)の農家の離れで陣痛に耐えている。
話はこの婚礼に出た人々のそれぞれの人生をオムニバスのようにして語ることで進行する。式には新婦のおじ夫妻、水元広(平尾仁)、満江(土屋美穂子)、叔母、堂崎ハル(吉田はるみ、新郎の義理の父母、銅打弥助(岩崎ひろし)とみね子(井上夏葉)、他に新郎の友人、石原継夫(佐藤祐四)と長崎医大付属医院看護婦、福永亜矢(野々村のん)がいた。
なぜこの時期に結婚式かという理由ははっきりしないが、若い男が次々に戦争にとられて、婚期の来た娘には男と出会う機会もないという時代だったから、おせっかいをやくものがいたに違いない。ではなぜ中川庄司は召集も受けずに三菱で徴用されていたのかといえば、新婦の母親、ツイが耳にしたところによると、中川は結核だった。完治したと聞かされていたが、心配の種になっていた。結核は、当時は不治の病で、しかも伝染する。戦後、抗生物質の発見で、劇的に治癒することになったがこの時代はまだ、感染するという点では現在のがんよりも恐ろしい病気だった。
叔母の堂崎ハルの夫、彰男(増富信孝)がこの席にいないのは、警察に拘置されているからであった。市役所の職員である彰男は、配給物資の隠匿事件に巻き込まれて、取り調べを受けていた。ハルは婚礼の終わった後差し入れをもって警察を訪ねている。差し入れは断られるが、明日午前10時から裁判所で第1回の公判があるので、その時にしようと話だけして帰った。裁判には弁当を持ってこようと思っている。
叔父の水元広は、長崎の市街電車の運転士である。この夫妻には子供がいなく、仲が良い。「明日の昼、弁当を届けるけん。どの辺ば、走っとるやろか?」「そいね。・・・浦上あたりかいね。・・・」妻満江が、今日の婚礼の残り物にいくつかおかずを調えて作った弁当をこの言葉通りにもってでたとすれば、そしてひる少し前に浦上の停留所付近で夫の電車を待っていたとすれば・・・。 
銅打弥助は中川庄司がまだ小さい頃、母親といっしょになった相手である。母親は二年ほどして病死したが、銅打は中川をしばらく手元において育てた。都合4年ほどの縁だったが、偶然街中で出会って結婚のことをいうと、式に出ると言い出したのである。中川にして見ればかえって迷惑だったが、強引だった。銅打は戦争前、長崎の一番館のチーフコックだった。中川の母親といっしょになったのはその頃のことらしい。やがて大陸に渡り、大連や天津のホテルで評判をとった。オムレツが得意で、さる宮様が4日続けて所望したのが自慢だ。太平洋戦争が始まった頃長崎に帰って、いまでは趣味の写真をなりわいにしている。婚礼から帰った後、近郊の農家に頼まれて撮った写真を届けに行こうとする。中国の戦場にいる長男に一家の写真を送ろうとしていたのだ。農家に着くと何かトラブルが有る様子だ。精神を病んで遠くへ入院させている娘が疎開先には連れていけないとの理由で、明日返されるというのである。昼ごろ港へ迎えに行かなくてはならない。銅打も友人の出征を見送りに港へ行く予定だ。
明け方、陣痛に苦しんでいた姉、ツル子が元気な男の子を生む。長崎の港の空が白み始め、暑い一日が始まろうとしていた。
このようにして、すべてのエピソードは、登場する人々が「明日」の午前十一時頃原爆に遭遇することを避けられないものとして示唆している。
井上光晴の原作はただ、昭和二十年八月八日の長崎の空の下で普通に生きている人々のそれぞれの人生と日常を描いたものだ。それが明日突然理不尽にも断ち切られるという現実を頭の端においてみていると、言い知れぬ悲しみと怒りが湧いてくる。
井上はこの小説の扉にこう書いている。
「人間は、私の父や母のように霧のごとくに消されてしまってよいのだろうか。」(「人間が霧になるとき」若松小夜子・長崎の証言・5)
この日長崎は曇り、小倉上空に至ったB29は視界が悪く予備の目標だった長崎に向かうが、ここも雲が厚く引き返すところだった。沖縄基地に帰る途中海中投棄も検討されたが、このとき一瞬雲が切れて長崎市街が見えたため、急ぎ計測して半ば感で「このあたり」と浦上の天主堂近くにプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」は投下されたのだ。
中心温度100万度、地表に届くあたりでも5千度から6千度である。太陽表面が約6千度といわれているから、生きているものは跡形もなく蒸発してしまうだろう。
人々の「明日」は霧のごとく消されてしまったのである。
「赤子を生むためにツル子の疎開した油木地区はもともと郊外の村落で、爆撃に対してもっとも安全な避難場所であったのだ。そこに『原爆の爆風と熱戦は、谷間を通路として、この地をまともに襲った。』(長崎原爆戦災史第二巻)」と井上光晴は後書きに書いている。この小説を読んだ多くの読者から、ツル子の生まれたばかりの子供がどうなったのか問い合わせがあったようだが、それに対して井上光晴は「しかし、作者に答えられる言葉はない。子供を生んだばかりの母親が、産褥を直ちに離れたとは考えられず、私はただかすかな奇跡を祈るのみだ。」とつれない応えである。
それにつけても思い出されるのは「全身小説家」である。これは「ゆきゆきて神軍」の原一男が撮ったドキュメンタリーである。井上光晴がガンに侵され、闘病の様子を克明に追いかけ亡くなるまで、いや亡くなった後も取材した約5年間の記録である。何年か前にレンタルビデオ店で見かけたから、いまもおいてあると思う。まだの人にはぜひお勧めしたい。このドキュメンタリーの唖然とする結末を思えば、僕は井上のつれない態度をある種のおかしみをもって受け止めることが出来る。
この小説は、綿密な取材のもとに出来るだけ虚構を廃して、書かれたと自らが語っている。結婚式は実際に行われ、裁判沙汰も現実にあった話だという。もっとも弁護士の都合で裁判は延期されたのだそうだ。もし行われていたとすれば、裁判所は爆心地から遠いところにあり、彼らは助かっていたかもしれない、という。ずいぶん詳細な調べで感心するが、子供の運命についてきかれると「かすかに奇跡を祈るのみだ。」などと暗示的なことをいってすましていられる。井上の作り出した昭和20年8月8日長崎に、同調した読者のあたかも同じ時間を生きているという錯覚の上になり立った、漫才のようなやり取りがおかしいのである。井上光晴、「全身小説家」。この作家に何かを感じ取材を始めた原一男の天才ぶりを見れば、僕がいっていることがよくわかってもらえると思う。
いや、たとへ僕がこんなふうに揶揄したところでこの小説の、この芝居の価値はいささかも揺るぐものではない。井上光晴は、日本のために、世界のためにいい小説を書いた。心からそう思う。
ところで、この芝居の中で驚いたことがあった。銅打弥助が婚礼から帰って、農家に写真を届けようと着替えをする場面である。和服を脱いですててこ姿になった弥助はズボンを探して、とこの辺から僕は何だか悪い予感が働いていたのだが、「・・・卵をもらってこよう・・・」などというせりふを吐きながらズボンに足を通すと思いっきりファスナーを上げたのである。僕が「あっ!」と心の中で声を上げたとき、実際に声をだして驚いたものがあった。この時代にYKK吉田工業はまだない。つまりズボンの前は昭和40年ごろまでボタンで留めるしかなかったのである。声がした斜め前方を見るとそこに座っていたのは、青年座代表、森塚敏その人であった。  

               (2005年10月7日)

                                                                                       

 


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