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「ATOM'06」

「ソフィーの世界」は、誰もあんなに売れると思わなかった哲学のベストセラーである。西洋哲学史を実に読みやすく分かりやすく解説した本で、後には映像化もされた。最初にこれを見誤って権利を放棄した出版社は大いに悔やんでいた。
今村ねずみには、もともと自分とは何か?自分たちが出会ってこうしているのは何故か?という根源的なことを考える傾向があった。つまり、思想や哲学などそのあたりの分野に関心があったとみえて、この本と出会った時のことをこう書いている。
「『ソフィーの世界』を手にしていた。そうしたらデモクリトスという人に巡り合い、ATOMという言葉にぶつかった。そしてソクラテス、プラトン、カント、フロイト、ダーウィン・・・実存主義のサルトルたちが僕の目の前に現れた。『実存する』思いっきりぶん殴られたような感じだった。」
そしてある夜、玉置浩二の歌を聴いたのをきっかけに『真夜中の詩人の会』と言う言葉が浮かび、哲学者たちは自分の中でその詩人になっていった。詩を語る哲学者たちの世界、その小宇宙を自分たちの肉体を思いきり使って、語ってみたいという思いが育っていった。
ATOMとは物質の最小単位、自分たち一人一人と考えてもいい。その関係性を前面に出して、漠然としたショウではなく、開幕から終わりまで一つのドラマを『背負って』生きるといった舞台を創ろうとしたといっている。
そして、頭に浮かんだバラバラのアイディアがある時一つにまとまった。そうして生まれたのが「ATOM」だった。
初演は十年前、韓国版を除けば4回目の公演になる。ドラマ部分は初演以来ほとんどいじっていないと思われる。
それは、このショウの根幹部分は、何といってもあのサルトルの「実存主義」との出会いであり、それが今村にとって衝撃であったという告白を思えば、この舞台の骨格は変えようがないのである。私は、かけがえのない私であり、私はいま自分の生を創造的にいきる以外ないというサルトルの考え方を自分の生きてきた実感と重ねている。猿と鳥が登場して、掛け合い漫才などするふざけた場面もあるが、ここではジャン=ポール・サルトルは、自分の化身であり、ドラマの主役である。
それにしても、「お前たちのなかで俺は実存する」とか「実存とは本質に先立つ」「無神論的実存主義」などとナマのままの哲学用語がいくつも飛び交う舞台など見たことがない。いったいなんのことか分かるものがどれだけいるだろう。しかし、そんなことにはお構いなしに、やや挑戦的にこのようなせりふが飛び出してくる。
舞台には、サルトルの他にソクラテス、プラトン、カント、フロイト、ダーウィンが登場して、それぞれが推薦する詩を朗読する。
実はここに「夢判断」のフロイトと進化論のダーウィンが入るのは、形而上学を西洋哲学の正統とすれば少し異質に感じる。サルトルから遡行しようとすれば、フッサール、ヘーゲル、カント、パスカル、デカルト、中世のトマス・アキナス、アリストテレス、あえてサイエンスから入れるとすれば、「プリンキピア」でATOMに言及したアイザック・ニュートンなどが上げられるが、ヘーゲル、デカルトが入るといよいよ硬くなって観客が入り込めなくなるのを心配したのか。あるいは、「ソフィーの世界」がそんな並びだったかも知れない。少し気になるところではあった。
この哲学者たちによる真夜中の詩人の会は、猿と鳥の悪ふざけの他に、彼らが見て育った「太陽にほえろ!」のものまねが挿入され、話は混沌としてくる。その中にも、今村の「実存」と「他者」=いっしょにやってきた仲間との関係性というテーマが根付いていることを感じさせる。
「ATOM」ではまだ混沌としていたテーマも、このあとの「雲のゆくえ」では、もう少しはっきりと現れる。青春時代の仲間が成長してそれぞれの人生を歩み、再び会い見えるという物語によって、この関係性はより具体的に見えるように描かれたのである。
そういうことから考えると、「コンボイショウ」の長い歩みの中で、メンバーが出たり入ったりしたことが、今村ねずみの繊細な感性に見えない影を落としていたのではないかと気になるのである。
ひとしきりこの哲学者たちの長いコントが続いたあと、タップダンスに始まる彼らの得意なパフォーマンスが展開される。
タップは何といっても右近良之。とはいえ、あれだけのアンサンブルで見せるタップダンスは本場アメリカにもないのではないかと思わせるレベルである。
太鼓は、石坂勇だろう。誰がたたいても太鼓は同じ音だと言うかも知れないが、太鼓だって楽器である。演奏家の伎倆が出るものだ。それにカタチ。勇のたたく姿形が少しだけ他のメンバーに勝っていると見える。一糸乱れぬ演奏とはあのことだが、どれだけの稽古量なのか?
そしてダンスは、舘形比呂と黒須洋壬。ただしこの二人の踊りは、同じに見えても全く違う本質を持っている。ソロになればそのことがはっきりと分かる。舘形は柔軟な身体でアンドロジナスな魅力を表現する。それに対して黒須の踊りは力強く男性的である。長身と長い手足で伸び伸びと踊る姿は、何ともいえない安定感がある。特に回転の美しさは当代一といってもいいのではないか?
徳永邦治の歌、瀬下尚人の楽器演奏。勿論彼らもすべてをこなす。徳永の歌というのは、少しだけ歌う姿がいいということである。瀬下の歌もジュリーと呼ばれているくらいだから独特の甘さがあって魅力的だ。
たっぷりと味わって気がついたら二時間四十分、いつもながらのサービス精神には頭の下がる思いである。
この「ATOM」の初演を偶然見た北野武が「死ぬまでに一度は見るべきだ。」といった話は有名になった。僕は幸い何度か見てしまったが、ほんとうにそう思う。
ところで、今村ねずみは「ソフィーの世界」(1991年)でジャン=ポール・サルトルに出会ったようだが、この時代、サルトルを取りざたするものはいない。実存主義はむしろ、戦後まもなく日本の知識人のあいだでよくも悪くも大流行した思想で、その余韻は60年代から70年代初頭まで続いていた。あの頃、電車の中でサルトルのパートナーであったボーボワールの本を読んでいる女性がいれば、その人は最先端を行く人であった。今村の世代から言えば、かなりずれているかもしれない。
僕は高校時代に大江健三郎の小説を通じてサルトルの実存主義を知った。「芽むしり子撃ち」「奇妙な仕事」「飼育」などの初期作品を読んでいるうち、天下の欲求不満男、会田雄次が大江を評して「サルトルの口まねをする十二歳で成長が止まった男・・・」などと揶揄していたのを見つけた。今度はサルトルそのものが興味の対象となって、のめり込んでしまった結果、ものの考え方に大きな影響を受けた。それがきっかけで、漠然と建築学でもと考えていたものが、哲学に切り替えたのであった。
だから今村が、サルトルの言葉をそのまま舞台で叫んだりすると懐かしいというか、少し違うというか、複雑な気持ちにさせられるのだ。
というのも、まもなく僕は大江健三郎を「万延元年のフットボール」を最後に読まなくなったし、サルトルの哲学からも離れてしまった。自分の性格には合っていると思ったが、どうしてもサルトルのような主観主義的な考えでは世界が成り立たないと感じたからだ。ただし、あの年ごろに影響を受けたものは後々まで続くものと見えて、実存主義「的」に生きようとしたことは間違いない。
ところが、いま思うとその試みはまるで無謀であった。確かに自分の人生は自分だけの一回限りのものではあるが、だからといって既存の倫理や伝統的な考えを否定して、創造だけで生きられるものではない。結局何度も試みて、挫折し妥協して生きていかざるを得ないものだ。
今村ねずみが、サルトルのどこの部分に共感したのかは定かではないが、その後の「雲のゆくえ」を見れば、僕の「複雑な気持ち」は単なる杞憂に過ぎないのかも知れない。

               
       
                           

                               
               
               
               
               
               

                         

 

題名:

ATOM'06

観劇日:

06/9/22

劇場:

東京厚生年金会館

主催:

コンボイショウ

期間:

2006年9月19日〜9月22日

作:

今村ねずみ

演出:

今村ねずみ

美術:

升平香織

照明:

豊島信幸 

衣装:

高橋智加江

音楽・音響:

松山典弘

出演者:

今村ねずみ 瀬下尚人 石坂勇 右近良之 
徳永邦治 館形比呂 黒須洋壬

 

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