<%@LANGUAGE="JAVASCRIPT" CODEPAGE="932"%> 新私の演劇時評
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題名: 冒険王
観劇日: 2008/11/28
劇場: こまばアゴラ劇場
主催: 青年団
期間: 2008年11月15日~12月8日
作: 平田オリザ
演出: 平田オリザ
美術: 杉山至
照明: 岩城保
衣装: 有賀千鶴
音楽・音響:
出演者: 永井秀樹 秋山建一 小林智 能島瑞穂
大塚洋 申瑞季 古舘寛治 石橋亜希子
大竹直 熊谷祐子 山本雅幸 二反田幸平
佐藤誠 海津忠 木引優子 近藤強 

「冒険王」

左右の壁際に二段ベッドが二づつ、手前に上段を取り去ったベッドが一つある。小さなテーブルと腰かけが数個、開いた空間を埋めていて、奥に狭い出入り口が切ってある。ベッドの手すりには大小色とりどり、泊まり客のタオルがかけてあって、いかにも粗末な木賃宿風である。客のいるベッドでは、リュックを調えていたり本を読んでいたり、ただ横になっているなどそれぞれが思い思いの時を過ごしている。
出入り口から左手に進むとこの建物の玄関があって、比較的にぎやかな通りに面しているらしい。その通りを少し行くと欧州と亜州の境界をつなぐ橋が見えるという。つまり、ここはイスタンブールの街中で、見えるのはポスポラス海峡を渡る橋のことである。
ところが、この宿に泊っているのは日本人の若者ばかりで、彼らのうちの一人が硝子のカップにいれた砂糖たっぷりのトルコ風紅茶(チャイというらしい)を作っては、しきりに飲んでいるという光景がなければここが外国だとは気がつかない。
何人かはベッドの上でくつろいでいるが、何人かの出入りがある。上手奥の上段に毛布にくるまった男は我関せずと寝ている。何があろうとそこを動かないつもりらしい。
それぞれの交わす会話を聞いていると、顔見知りも多く各人が抱えている事情にも有る程度通じていることが分かる。
ここは、欧州や中東辺りをふらふらしている日本の若者が集まってはまた四方に散っていく一時滞在の場所なのである。
ギリシャを拠点にしている一人の男は、観光ビザが切れるたびに国外に出なければならないので、たびたびここにやって来るという。エーゲ海を挟んで対岸のここは便利なのだろう。アテネの街角で針金を曲げた指輪や装身具を地べたに並べて売っているらしい。かなりの間なんとなくそうして暮らしているという。この男、実は元高校教師である。何年か前に突然教師をやめると妻子を残して外国に出たのであった。(あとで妻がここを見つけだして訪ねてくるという愁嘆場があったりする。)
インドから帰ってきた男は、どういう原因か肝炎をもらってきたようだ。身体の調子がいまいちで元気がないが、この期に及んでも帰国など思いもつかないようだ。
東欧に国境の事情を見にいったものもいる。ソ連に入ろうという強固な目的があったわけではなく、どの程度のむずかしさか調べてみようというのである。調べてどうしようということでもない。また、ヨーロッパの街をあちこちさまよっているというものや、アラブ諸国の事情に通じているものもいたりする。一方、日本の情報についてもよく知っていて、故国の動静に関心がないわけでもなさそうだがどこか他人事のようである。
観光にやってきた女子大生が紛れ込んでくるところを見ると、この時代になると目的もなくうろうろするバックパッカーだけではなくなっている、つまり学生の物見遊山が可能な経済状況になっていることが分かる。
また、終盤近くには昔ここにいたという青年が、婚約者を連れて訪ねてくる。やがて欧州を離れてニューヨークに流れていったあといまの恋人と出会って結婚することになったという。放浪生活に終止符を打つ記念の婚約旅行のつもりらしい。劇中日本に戻ろうというのは彼ぐらいのもので、あとは皆、ここで一時的に停滞し、またどこかへさまよい出るつもりでいる。

物語の時期は1980年の初夏とある。
平田オリザは、1979年都立駒場高校定時制二年16才の時に休学し、自転車による世界一周旅行にでた。この時の経験をもとに書かれた戯曲と考えるのが普通と思うが、初演はそれからだいぶ立った1996年である。この間世界は激動の時を通過している。ベルリンの壁、ソ連の崩壊、湾岸戦争など幾重にも重なった時間の像を透過して、おそらくどうしても1980年のこの安宿にフォーカスしたかった何かがあったのである。96年の時点から照射された光は、16年の歴史の層をくぐりぬけて像を結ぶ。当然のことながら、1980年の出来事はそれなりにデフォルメされているはずである。何故そうまでして格別何事が起きるでもない物語として、あの日々の出来事を書かねばならなかったのか。

というのも、平田は冒険旅行から帰ってまもなく、『十六歳のオリザの未だかつてためしのない勇気が到達した最後の点と、到達しえた極限とを明らかにして、上々の首尾にいたった世界一周自転車旅行の冒険をしるす本』と言う長いタイトルの旅行記を書いている(残念ながら、入手出来なかった)が、それはここにあるようなのんびりしたものだったとは考えられないからだ。この時代に十六、七才で一人で外国をうろつくなどという行為は「冒険」以外の何ものでもない。しかし、このイスタンブールには「冒険」といえるもののかけらも見いだすことは出来ない。自分の経験はこんなものだったと披瀝しているとすれば、奇妙な矛盾ではないかと思うのである。

ここに登場する青年、若者たちには、一様に外国にやってきて何をしようという目的が見当たらない。日本を飛びだした理由はそれぞれ持っていそうではあるが、それほど強い動機があったとも思えないのである。
いっとき「自分探し」という言葉が流行ったが、それだといってしまえばそうかもしれない。どこかにほんとうの自分がいると考えるのはちょっとしたロマンティックな幻想で、それに釣られてつい放浪の旅に出る。それが異国なら、なおさら「自分」を見つけやすい、と考える。ここに集まってくる連中もそう思ったのかもしれない。今の自分に不満があって、もっと自己充足できる境遇を探すというのは理解できないわけではない。ただ、じっくり考えればわかりそうなものだ。探している主体である自分がなにもので、自分の何を探すのか(対象となる自分)が分かっていなければ「自分探し」など単なる徒労である。どこかに落ちている「自分」を拾ってくるようなものなら人生はもっと楽になるだろう。そんな無駄なことが出来るのは金と暇があるからで、とりあえず日々の暮らしに追われていないというのは、誠に結構な身分ではある。
いずれにしても、何故彼らが国を出て何年もの間ユーラシア大陸の西側半分を行き来し、帰国しようともしないのか、わからないのである。

不思議なことはもうひとつある。何故ここには日本人しかいないのか?いや、その答えは分かっている。日本人の青年だけがここに来るからだろう。ユースホステルのような世界中の若者が利用する安宿は他にもあるはずだが、日本人が大勢いるところなら、言葉の問題はない。情も通じる。情報も得やすい等々多くの利点がある。これこそ島国根性ではないかと指摘する向きもあるかもしれない。しかし、それをいっても何にもならないし、何も同国人が群れるのは日本人特有のスタイルだとする根拠はどこにもない。
むしろここから見えてくることは、まずこの近辺にそれだけ大勢の日本人バックパッカーがいるということである。この時点でのドルはおそらく今の2.5倍くらいはしただろうが、日本人の懐具合はそれを越えて豊かになりつつあった。外国旅行が大衆化しかかっていたのである。
さらにいえば、せっかく外国にいるのに現地の人々はじめ他の外国人と接触した話が聞かれないのは不思議なことである。ここを一歩でたら日本語の通じない世界だからといって、まったく会話もなく過ごせるわけもない。外国人の同じような年ごろのバックパッカーと出会わないことでもあるまい。しかし、彼らの態度は、観光客とは違うよそよそしさで異国の景色を見ているようで、現地の人々が話の中に登場することはない。外国にいながら、ここには文化的差異に関する批評というものが存在しないのである。
平田オリザはもともと生な政治の話はとりこまないが、この劇でも少なくとも安宿は実に平和であった。しかし当時の中近東は、いわゆるイラーイラ戦争の緊迫した政治情勢にあり、イスタンブールがどんなポジションにあったかどうか別にして、登場人物にとってはそれすらもたいして興味が湧かない問題だったのだ。
むしろ、発売されたばかりの「ウオークマン」の機能についてあれこれ会話が交わされるという場面を挿入する事によって「ああ、あの時代ね」というリアリティを作り出している。このときソニーはまだ画期的な製品を世に送り出す力があったとあらためて思い起こすのであった。
一体、このひとたちは何故ここにいるのだろうか?
おそらく日本という「日常性」を離れたかったのに違いない。しかし、ここにあるのはそうした日常性そのものではないのか?ならば、日本に帰った方がもう少し居心地がいいのではないかと思うが、それもしようとしない。
終幕近く、長く滞在していた男が突然荷物をまとめると重そうなリュックをベッドの端においてベルトに腕を通し、「えい」とばかりに立ち上がる。「出かけるんですか?」の声に「うん」とうなづく。しかし、どこへ?
彼らはこれから先も意味もなく宙ぶらりんのままさまよい続けるように見受けられるのである。

平田オリザは、なぜ自分の「冒険」時代をこのように描いたのか?
おそらく、1996年の時点で16年というフィルターを通して覗いた1980年がこのように見えたということなのだろう。
1996年といえば、「失われた十年」のまっただ中である。バブルの崩壊から不良債権処理の停滞、不景気と閉塞感の中で起きたオウム事件などの国内問題、さらに、湾岸戦争の多国籍軍に対する多額の拠出金にもかかわらず評価は低く、国際的にも存在感を失っていた。80年代のバブル期には「Japan as No.1」まで登りつめ、明治の近代化以来追いつき追い越せとひたすら走り続けてきた日本が、とうとう西欧に追いついたと思った。その矢先に目標を見失うと同時に自信まで失ってしまったのだ。

平田オリザにとって、西洋と東洋の境界で停滞していたあの安宿の日本人と、現在(16年後)の姿が重なるように見えたのではないか。あのときは、世界とはどういうものか?何事も経験だという「冒険」心で出かけたものだった。その時点ではそれが正しいと思った。しかし、今振り返ると、一体西欧のあるいはアラブやペルシャの何が分かったのか、逆に言えば世界の中で日本とはどういうものか、何も分からずにいたのではないか。外国にいても日本人だけで群がり、自分たちだけの小さな社会を作って閉じこもっていただけではないのか。
そうして、何かを見たつもりになっていたものが、気がついた時には進路を失って戻ることも進むことも出来なくなっていた。動機が何であったかも忘れ、何をするべきか考えることも出来ない。
そのような物語としてならば、かつての「冒険譚」を世に問う価値があると思ったのではないか。「冒険王」のタイトルロゴが表裏反転しているのは、そういう意味だったのだろう。

この物語は、しかし、もう一つ別の視点からとらえることも出来る。
劇を観ながら、僕にとってはそこを起点に考えた方がむしろわかりやすいと思っていたので、それについて少し書いておこうと思う。
それは、1980年の出来事をさらに過去にさかのぼって、そもそも若者たちの「冒険」が始まった時点に立って、そこからこの劇を照射してみるということである。

小田実の「なんでも見てやろう」は1968年である。これは一つのきっかけになっていると考えられるが、そうはいっても、誰でも外国に行けるという時代でもなかった。
先日ディスカウントチケットのHISのCMで「四十年前、ロンドン往復のチケットは70万円でした」というフレーズを聞いたが、この時の大卒初任給が二、三万円くらいのものだったから、想像を絶する高さである。だから、普通の人が外国に行く場合は、貨客船がもっとも安い手段であった。船なら外国旅行に行けないわけでもなかったが、小田実の影響があったからといって、にわかに冒険旅行が増えたわけではない。

ここから先はかなり大胆な仮説になるが、言ってしまえば、世界的な学生運動の終焉をきっかけとして、そのさなかにあった先進諸国の若者たちが別天地を目ざしたことがはじまりであると僕は考えている。別天地を信じたというよりはむしろ、ここ(先進諸国)にはもはや希望がないと思ったのだ。
その精神的構造は、例えばフランスにおける学生運動を考えてみると理解できる。
フランスでは66年アルザス地方の名門ストラスブール大学の管理体制の民主化要求に端を発した抗議行動が、68年にはナンデール大学(仏中部)、ソルボンヌ大学(パリ)に飛び火し、学生の自治や制度改革要求とベトナム反戦、「プラハの春」(国家による民衆の弾圧)などをからめた反体制運動として発展する。パリの文教地区カルチェラタンで火炎瓶闘争を繰り返す学生達の行動に同調した労働組合が立ち上がり、反政府運動として盛り上がりを見せるが、ついに五月二十一日には国の主要機関が停止するというゼネラルストライキが決行される。時のド・ゴール政権はこれを弾圧したが抗しきれず、議会を解散して総選挙を行い、文教政策の転換など大幅な譲歩を余儀なくされた。世に言う「五月革命」である。
この運動を通じて、社会主義革命の一歩手前まで行ったという実感を持った若者たちは多かったはずである。つまり、頭の片隅にはソ連のような覇権主義全体主義を否定して、それとはまったく別の社会主義がイメージされていた。それが時の権力によって巧みにいなされ、労働者や市民が主役の社会体制がつくられるというかすかな希望は消えたのである。
ドイツやイタリアでも同じように大学の改革運動から始まった。米国も大学の改革から火がついたが、ベトナム反戦、公民権運動などがからんで各地の大学のキャンパスは長い間騒然としていた。日本における学生運動については周知の通りである。
こうした「異議申し立て」の激しい季節を通過した若者たちのメンタリティには、改革が出来なかった挫折感と現実(先進国の)を忌避する心情が生まれた。運動が収まると、現実には大多数が体制に組み込まれていったのだが、なかに別の生き方を模索する若者も現れた。ヒッピーやフラワーチルドレンの誕生には、こうした背景がある。

やがてこの若者たちが、西欧近代合理主義とはなるべく無縁の遠い土地を目ざして旅をすることが始まる。こうしたバックパッカーが増えると、当然たまり場のようなところが発生する。カトマンドゥ、ゴア、カブールが三大聖地と言われ、サンフランシスコ、LA、欧州でもアムステルダムやコペンハーゲンに彼らのコミュニティができた。

こうした若者たちの中の一人とされるのは、本人にとって不本意な事は重々承知しながら、十年後に現れるこの劇の登場人物たちとは甚だしく心のありようが違っていると思われたので、この時代の若者の一つの例として紹介しようと思う。

司馬遼太郎は「街道をゆく」シリーズのなかで、しばしば旅の案内人、コーディネーターの人となりについて言及しているが、わざわざ一人のために一章をもうけているのは第三十九「ニューヨーク散歩」だけではないだろうか?よほど興味深かったのである。

この第二章「平川英二氏の二十二年」は、ニューヨークの地理が分からないので、仮の拠点にと提供された平川氏の自宅に案内されるところから始まる。
「・・・ある夜、ホテルのバーで平川氏と酒を飲んだ。・・・無口で、一問に一答しか戻ってこない。能代高校を出て一九七〇(昭和四十五年)年、横浜の大学の外国語学部を卒業した。子供のころから世界放浪を夢見た。
大学を卒業すると同窓の恵美子さんと結婚し、一九七二年、生まれたばかりの赤ちゃんをつれて、カルカッタに旅立った。放浪という理想への旅立ちだった。
さまざまな野や人里をへて、ついにアフガニスタンに入った。
小さな村にとめてもらって夫妻が荒野に立っていると、向こうに砂塵が上がり、疾駆してきた中世の騎士のような男が、突っ立っていた平川氏の腕から赤ちゃんをすくい上げ、赤ちゃんを馬上高く掲げながら夫妻のまわりを祝福するように何度かまわった。
やがて男は赤ちゃんを抱いたまま砂塵だけをのこして去ってしまった。
平川氏は、とられてしまった、と思い、なすすべもなく立っていたらしい。ずいぶん時間がたってから、男が再び騎馬でもどってきて、赤ちゃんを返した。
理由は今でも分からないらしい。あまりの可愛かったので部族の連中に見せようとしたのか、それともいきなり欲しいと思ったものの、村の長老にしかられて返しにきたのか、あるいは、赤ちゃんを抱いて疾駆すれば赤ちゃんの未来に幸せが来るという風習でもあるのか、私はこの最後の想像を信じたいが。
『空想家だったのです』
平川氏は、自分自身のことをそういう。
日本海に沈む夕陽が、あまりに美しかったせいかも知れない。
能代高校時代は、読書家だった。書物が、霧のように異文化の美しさを吐きだしてきて、平川少年を包んだ。
このため偏差値教育から外れ、トマス・E・ロレンス(アラビアのローレンス)の『知恵の七柱』に感溺したり、シェイクスピアを原書で読もうとしたりした。・・・ともかくも入試のための勉強を軽蔑するようになった。
・・・(大学を)卒業後、KDDに就職し、夜間オペレーターになった。ただし、パートタイムだった。二年後に退職し、世界放浪に旅立ったのである。
ベンガルのカルカッタからバスを乗りついでの放浪だった。ときに地方鉄道をつかった。インドをあるき、ネパール王国のカトマンズに行き、またインド北部のヒンズー教の大聖地ペナレス(ワーラーナシー)にも入って、しばらくとどまった。おそらくこの地を流れるガンジス川の岸で赤ちゃんを沐浴させたのに違いない。その後、中世そのもののようなアフガニスタンに入る。そこで、右のご難になる。
西へ向かう。
すべて陸路だった。諸方で短い滞在を重ねつつ、少しずつ西へゆき、ついにオランダのアムステルダムに達した。
そこから東へ引き返して、イスラエルやトルコのイスタンブールに入り、ふたたびインドにもどった。
北インドのダルムサラ(Dharmsala)という村で滞在した。
いま地図でその村を探してみた。
東方にヒマラヤ山脈が東西に走り、その西端が次第にひくくなる。再び小山脈になって隆起しているのが、ザスカル山脈である。
そのダルムサラに、チベット人の難民がいて、集落をなしていた。
ヒマラヤ山脈の北側がチベット高原である。おだやかなチベット民族は、ラマ教の解脱を見果てぬ理想として、この酸素の少ない高地に住んできた。
近年、中国の勢力が伸び、チベット一帯を中華人民共和国西蔵自治区として強力に抱き込んだため、インドに逃れる人たちが少なからず出た。
その一部が、ダラムサラの難民たちだった。平川氏一家はその難民にまじって数ヶ月を過ごした。素晴らしい安息の日々だったという。・・・」

その後、故郷にもどった平川氏は、高校の臨時の英語教師になるが「教員という役人の暮らしが適わず」一年で辞め、英語塾を始める。それから三十一歳の時に奨学金を得て、ニューヨーク州立大学に留学し、卒業してそのまま米国にとどまった。しばらくして、司馬遼太郎の案内人という仕事がまわってきたのである。(米国での話はこの章の中に詳しく書かれているので、興味のある方は読んでいただきたい)

学生の「異議申し立て」に遠因があるという文脈で、彼を取り上げるのは適切ではなかったという思いはある。先に「本人にとっては不本意だろう」と書いたのは、彼が社会変革を夢見て挫折したという体験を持っているなどとは司馬遼太郎の文を探しても見当たらないからだ。

実はこの平川英二氏は、僕とは幼稚園から小中高校と一緒で、会社の株主にもなってもらっている友人ある。
「ニューヨーク散歩」に出てくる「知恵の七柱」(T・E・ロレンス)を高校時代に見せられて「東洋文庫」の判型を初めて目にしたことをいまでも鮮明に覚えている。
偏差値教育や、受験戦争に駆り立てられ、社会に出れば出世競争に巻き込まれ、ひとに欲に左右される生活が待っている。十代で、足るを知る人生で何が悪いものかと達観しているところがあった。しかし、それだけに世界に対する関心は深く当時からかなりの博識であった。ただ、昔から何か徒党を組んで事をなそうというのを嫌う性格だったから、彼が学生運動に積極的であったかどうかは疑問のところだ。 とはいえ、少なくともこうは言うことが出来ると思う。僕らの世代は戦後の政治の季節を通過し、先進諸国が同時に迎えた若者の「異議申し立て」の時代を通過したのであり、影響の大小にかかわらず相通ずる心情を共有していることは否定出来ない事実である。
「子供のころから世界放浪を夢見た」とあるが、彼は少しばかり早熟であって、あの頃になってようやく世界が彼に近づいてきたといえるのかもしれない。
彼は司馬遼太郎には語っていないが、旅の中で多くの同世代の外国人と交流があった。
ある時、めったに人に頼みごとなどしない彼から電話があり、この旅で知りあった英国人が日本に行くから会ってやってくれというのだ。しばらくして、南アフリカに住んでいるこの英国人から連絡があった。子供が産まれるのだが、南アは治安が悪く日本で暮らすことを検討しているという。結局、彼は季節が逆転する北半球に移動するのは妊婦に負担が重いと考え、オーストラリア移住を決めたのであったが、彼もまた、かつて漂泊の思いに駆られて英国をあとにした同世代のかつての若者であった。

1980年のバックパッカーのルーツは、ヒッピーにあったと述べてきたが、彼らのムーブメントはそう長くは続かなかった。
ハッシッシ(マリファナの樹脂)やLSDは、サイケデリックアートはじめ様々のサブカルチャーを生んだが、ドラッグの取り締まりが厳しくなると同時に彼らのコミュニティは次々に解体されていった。1975年にベトナム戦争が、サイゴン陥落という結果で終結すると反戦というメッセージも実際上は意味がなくなってしまうのである。そうして急速に「異議申し立て」の根拠が希薄になっていく。
一方で、バブルにつながっていく好景気が始まっていた。
このころ、百万円をためて二人でスペインに行った若者のことを聞いたことがある。スペインの地方都市で家を借りて、一年ぶらぶら遊んで暮らすというのである。気が向いたら針金を曲げて作ったアクセサリーを路上に並べて売ったりすることもあるという。こうなると、「プロテスト」などというものではなく、もはや金持ちが外国に遊びに行く感覚である。事実この後、強い円を背景に、海外旅行者が急速に増えて行く。バックパッカーそのものの影も薄くなっていくのである。
この劇は、その最後の光芒を見せていたのだということである。

僕は、これを何度目かの上演に当たる2008年の秋に見ているわけだが、平田オリザは上演に当たって本をいじることはしなかったといっている。
つまり、1980年の出来事を1996年の時点に立って書いている物語を、2008年の時点で見ていることになる。平田が筆を入れる必要を感じなかったのは、なんだかんだあっても日本はまだ、厚い閉塞感の雲に覆われていてにっちもさっちも行かなくなっているということだろう。
ここ数年本屋を覗いていると、思想・哲学の棚は宗教・スピリチュアルに侵食されていくのに対して、政治と歴史はひろがる一方である。中でも歴史、特に日本の近代史の分野はよく読まれているように感じる。おそらく、日本は変わらなければならないと思っているのだ。近代とは何であったのか?そして、この先どこへ向かわねばならないのか?人々はそれをいま歴史に学ぼうとしている。
四五十代の若い学者たちもようやく社会的政治的発言をしだしたように見える。
いつか再演のときに、作家があの最後に出発する若者のせりふを「自分は何をしに、どこへ行く」と明快にすべく変える必要があると感じることがあるかもしれない。

 

 

 

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