題名:

コーカサスの白墨の輪        

観劇日:

05/2/4       

劇場:

世田谷パブリックシアター   

主催:

TBS    

期間:

2005年1月30日〜2月20日     

作:

ベルトルト・ブレヒト       

翻訳:

松岡和子      

演出:

串田和美           

美術:

串田和美             

照明:

斉藤茂男            

衣装:

ワダエミ            

音楽:

朝比奈尚行・市来邦比古 
出演者:
松たか子 谷原章介 毬谷友子 中嶋しゅう 内田紳一郎 大月秀幸  さとうこうじ  春海四方 斉藤歩 串田和美 草光純太 田中利花 稲葉良子 あさひ7オユキ 尾引浩志 岡山守治 鈴木光介 他  


「コーカサスの白墨の輪」

  世田谷パブリックシアターの常設舞台を取り払って奥に階段状の座席をつくった。真ん中の床に敷物を布いて舞台に見立ててある。劇場に入ると既に役者たちがいて、歓談しているものがいれば準備運動のようなことをしているものもいる。傍らではパンフレットを売っていて客が間に入って買っていたりする。
こう言うしまりのないはじめ方はここ数年の串田和美独特ののやり方で、芝居とはそのような見せ物だという彼の考え方を示している。ワークショップをそのまま見せているような感覚なのだろう。観客もまたそれに参加している気分になってくれといっている。

これがうまくいって客もその気になる場合もあるだろうが、僕が観たこのところの「幽霊はここにいる」「セツアンの善人」「ヴォワイヤージュ」は全く成功していなかった。「ヴォワイヤージュ」で思い出したが、あれはひどかった。やはり真ん中に舞台があって役者はその下で待機している。客を上げることはしなかったが、出番でない役者も丸見えなのは同じだった。
ひどいのは本である。斉藤憐が途中で投げ出したものに岩松了が書き足したがそれもギブアップで生田萬が無理矢理終わらせたいわく付きの芝居で、人様に見せられる代物ではなかった。しかも作家は案外不器用なもので、ひとつの芝居に三つの作風がはっきりとでてしまったのは始末が悪かった。ワークショップのつもりだったかもしれないが、海に見立てた大きな布の中に何人もの役者が入ってもみ合うところでは、中で役者同士がふざけた様子がわかって大いに白けた。そんな馬鹿な本でも松たか子だけは懸命に役どころを表現しようとしていて、それが唯一の救いだった記憶がある。串田和美には「金返せ!」と叫びたくなるようなとんでもないできだった。

さて、開幕の時刻になって役者達が敷物の端にそれぞれ座り、楽器をもつもの、効果音の担当や小道具を用意するものなどが待機する中、あののっぺりと平らな顔におかっぱの銀髪をのせた朝比奈尚行がパワーブックを片手に現れ、「これからご覧に入れますのは音楽劇・・・」と口上をのべ、これが劇の中のお芝居、(・・・だとさ。という)伝承劇なのだと告げて去る。ブレヒトがどんなつもりでおとぎ話のような語り口にしたか知らないが、権力批判とか政治的な言い分を込めるときの常套的なやり方である。そういう背景を理解していなければただの童話ではないかと思われても仕方がないところである。


話はそれほど込み入ったものではない。
知事のゲオルギ(ウォルター・ロバーツ)が弟のカツベキ公爵(中島しゅう)に暗殺され、大混乱の中、台所女中のグルシャ(松たか子)は出征する兵士シモン(谷原章介)に請われて婚約をする。誰もいなくなった屋敷で知事の妻ナテラ(毬谷友子)に置き去りにされた赤ん坊を見つけ知らぬふりもできず、面倒を見るはめに。
兵士達に追われながら兄の家を頼リに向かうが途中何度も危険な目にあい、情が移って育てる決心をする。
たどり着いた家では兄嫁アニコ(毬谷友子)のいじめにあい、家を出るために死んだも同然の男と偽装結婚することにする。死ぬと思った男が息を吹き返して困惑するが、そこへ殺された知事の妻が子どもを取り返しにやってくる。


ここでもう一つ別の物語、混乱に乗じて裁判官になったアズダック(串田和美)の話が交錯する。反乱を起こしたカツベキ公爵はその時はもういない。
アズダックは平気で賄賂を取るような裁判官で民衆につるし上げになったりしているが、不思議に公平な判決を下すことで知られていた。
知事の妻が自分の土地を取り戻すには、息子が必要だった。そこでグルシャの息子を裁判で争うことにしたのだ。
そうした中、婚約者のシモンが戦場から帰ってくる。グルシャは既に結婚していた。グルシャの言訳はシモンには通じない。そして裁判の日、双方の言い分を聞いたアズダックは白墨を持ってこさせ、地面に丸い円を描く。その中に子どもを入れ二人の女に片手を持たせて引っ張るようにいう。円から出したほうが母親だと宣言する。あっけなくナテラが円の外に引っ張ることができた。再度やらせても同じことだった。するとアズダックは息子はグルシャのものだという判決を下す。本当の親なら腕は引っ張れまいというのである。これにて一件落着である。


なんだ「大岡裁き」じゃないかと思うかもしれないが、どこでどうなったやらその通りである。この終幕があるから、前にさかのぼってますますおとぎ話を見たような気になるのだ。
串田和美はブレヒトの原作ではアズダックが唐突に現れる印象があるというので早く登場するようにシーンを入れ替えたようだ。それはたぶん正解のような気がするが、なにしろたいした話でもないのを「・・・だとさ。」という調子で淡々と少しお子様向けらしくやるものだから退屈でしようがない。

一幕のグルシャが兵士と追いつ追われつ舞台の端をぐるぐるまわる場面の後だったと思うが、二つ向こうの通路横に坐っていた中年男性が何か声を上げた。僕の隣の男が指を唇に当ててそれを制した。すると声を出した男が中腰のままふり返ったと思うとさっさと出口に向かっていってしまった。残されたほうも気まずくなったのかすぐに後を追った。今思うと「下らん。」とか「つまらない。」という短い批判の言葉だったような気がする。どういう種類のチケットだったか知らないが、大枚¥8,800をフイにする勇気はなかなかのものだ。どうせなら¥8,800円分の声を張り上げたほうが串田和美には薬になっただろう。
こう言う御仁がいたということは多かれ少なかれ似たような気持ちで見ていた人が多かった証拠である。

何故こうなったかはいうまでもない。まず、寓話のようなつくりが大人を小馬鹿にしたものであること。串田和美はブレヒトが書いたプロローグをきれいさっぱり削り取ってしまった。1945年夏、コーカサス地方のある二つのコルホーズ(ソ連の農業協同組合のようなもの)が谷間の領有権を巡って争っていた。それが決着を見たところで歌が入り、この劇中劇につながるというのがプロローグの趣向らしい。これなら見ている話の背景がわかって、教養ある我が観客人士はコルホーズの百姓がこの物語に見入っているという前提で芝居見物ができるわけである。
おそらく、串田和美はこのやや複雑な構造にブレヒトが込めたものを軽視したのである。おかげで観客は60年も前の「ソ連」の百姓並に扱われることになった。腹を立てて席を立つものがいても仕方がない所以である。


これが原因で全てが狂ってしまう。外国人のとつ弁も劇中劇という設定が頭にあれば、愛嬌にもなるがとにかく大まじめに見なければならない観客にとっては冗談じゃないということになる。
そして、話の筋がすぐ先が読めるという単純なものでわくわく感もスリルもない。唯一死にかけた男(内田紳一郎)が生き返って風呂に入るところだけは「どうすんだ!」という気にさせたが、全体が絵空事だからあまり現実感はない。
このようにして劇中劇といわれたものは淡々と終幕を迎えることになったのである。終わってみれば、アズダックをやった串田和美だけが騒々しく目立って、名だたる役者連中の存在感はまるでなかった。


松たか子がいたではないか?たしかにいた。しかし、なぜかこの芝居では精彩がなかった。くそ芝居「ヴォワイヤージュ」でさえ懸命に演じた、「セツアンの善人」で二役を演じきる力を見せたあの松たか子がここにはいなかった。うたい文句の「母性愛」などどこにあったのか?ここでは演出家のうつろな魂が、深化しつつある女優の技量に足止めを食らわした格好であった。

そしてワークショップをそのまま見せて、できれば観客も巻き込もうという意図は、折角の役者達をただのでくの坊に見せるのに役だったが、経験豊富な名優たちの演技を味わう楽しみを観客から奪ってしまった。
毬谷友子にしても中島しゅうにしてもでている以上はキチンと出番をつくってやるのが演出家でありプロデューサーの役割ではないか。斉藤歩ももったいない使い方をされたものだ。

音楽劇だという触れ込みだから楽器を演奏したり合唱したりという場面はふんだんにある。これは劇の伴奏のようなものだが中にはソロもあった。松たか子も歌ったが、とってつけたような田中梨花の歌がさすがに素晴らしかった。音楽と劇の融合という点では串田和美の感覚(それとも朝比奈尚行の?)は優れているといっていい。

プロデューサーといえばこれはTBSの主催である。多くはないが舞台を手がけていることは知っていた。彼らは、チケットを売ることに長けてはいるが、出し物についてはとんと関心がないようだ。今ブレヒトを見たがる観客がどれだけいるだろうか?TVドラマみたいなものを舞台に持ってきてもダメということは分かっているが、では舞台で何を見せたらいいか?観客はどんな芝居を観たいか?まじめに考えている様子は窺えない。
「コーカサスの白墨の輪」=ブレヒトといって「大岡裁き」を見せられたら、日本のTV局の教養の程度が分かるというものだ。金と力のあるやつは無能で、一生懸命なやつに金はない。「演劇界」などというものがあるかどうか知らないが、あったらそれはとても不思議な世界である。

とりあえず、松たか子で客は呼べる。モデル出身のイケメン谷原章介(存在感に欠ける)もいるから座席のほとんどはそれで売れるだろう。実際彼らをあてにやって来た善男善女で一杯だがそれと劇の出来不出来は違う。ここが不幸の始まりだ。レコード業界はレコードが売れなくて困っている。売れるのは昔の歌ばかりで何を売ったらいいか分かっていない。演劇業界に客を集める俳優がいるのはまだましだが、客が見たいものを研究しない点ではレコード業界と同じだ・・・。だんだんむなしくなってくるからこの話はこれで止めた。


このプロデューサーは衣装にわだえみを使うことに同意した。「クスコ」あたりの昔から串田の衣装の好みは頭陀袋をかぶったようなだぶだぶのもので、この指向はわだえみの感覚に近い。パンフレットに載った写真を見るとこの衣装はなかなかよい仕事をしたものと感心させられる。
コーカサスというのはカスピ海と黒海に挟まれたユーラシア大陸のど真ん中で何世紀にもわたってさまざまな帝国が西に東に駆け抜けた土地である。こう言う歴史を感じさせるもともとの民族的な意匠をとりいれて考案された美しいデザインはさすがだと思う。ただ、ねずみ色の敷物の上では普通のほこりっぽい衣装にしか見えなかったのは残念であった。成果として残る数少ないもののひとつである。
休憩時間15分間に舞台ではコーカサス地方のワインを一杯三百円で振る舞った。楽屋に引き取るでもなくそこいらにいる俳優の間に入ってワインを楽しむ客もいた。第二幕はそのまま客を上げて民衆が酒をのみ、俳優とともに踊るという趣向で始まる。これ自体は、客の勝手で文句のあるところではないが、しかし意味がよくわからない。考えてみれば劇中劇だからこう言う関係もありうるが、プロローグをすっ飛ばしているから何だか妙なのである。むろん僕は舞台との間合いを計れなかったからハナから参加する気分になれなかったが、見ていて、串田の思い込みが過ぎているのではないかと思っていた。


串田はここ数年この調子でやってきたのだろう。しかし、どうも観客とかい離していることに気付いていないようだ。
串田-独りよがり-和美先生には、あの「上海バンスキング」や「・・・フラッパー」の時代の観客の心をわしづかみにするような魅力溢れる舞台をもう一度思い出して欲しい。今思うと「上海バンスキング」の舞台になら上がって一緒に騒ぎたくなるような気分になったに違いない。それほど時代の空気を読み取っていたということだ。もっともあの狭い六本木の地下でそんなことはできはしなかったが・・・。     

 

  (2005年2月23日)






  


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