<%@LANGUAGE="JAVASCRIPT" CODEPAGE="932"%> 新私の演劇時評
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「きれいな肌」

公営アパートの安っぽい家具が置かれたリビングの一角を切り落として、切り口を斜め45度の角度にして舞台においた。そのために上手側が客席にやや突き出ている。向こう側半分だけ覆った天井が手前に来るに従って高くなっており、下手奥に収斂していく遠近法が明らかに誇張され、全体がデフォルメされている。
つまり舞台は、窓もない閉塞した空間で、徹底して斜めの不安定な線によって構成されており、観客にとっては潜在的に、居心地の悪さや緊張を強いられる気障りな背景になっている。
イスラム原理主義者による地下鉄爆発事件や、テロ未遂事件が相次いだ英国において、宗教問題や人種問題を扱うやや剣呑なテーマを、このようにそれとは知らず、すこし神経に触るような舞台美術で示した島次郎の手腕には感心した。相変わらずコンセプトワークの確かさを感じさせて説得力がある。
その殺風景な部屋の壁際に置かれたラジオから、イスラム教徒を排斥するその土地の政治運動についてニュースが流れてくるところから劇は始まる。
母親ドッティ(銀粉蝶)は年金暮らしなのか、仕事はしていない。街のスーパーに行ったついでに買ってくるスクラッチくじが楽しみで、他にラジオのディスクジョッキーとの掛け合いでやるクイズに応募したり、賭事が好きという英国人気質らしい性格がスケッチ風に描かれる。
同居している息子サニー(木村有起哉)は、もとプロのサッカー選手で、怪我がもとで引退している。ほんとうは薬物検査をボイコットして馘首になったのだが、受けていても同じ事だった。すでにジャンキーだったのである。いまは、更生を助けてくれた男の政治運動すなわちムスリム排斥を訴える政治家のもとで働いている。
母子はドアを開けるかどうか判断するノックの回数を決めている。それほどこの界隈は治安が悪いというのだろう。「ロンドンがはるか南」というこの街においても、移民と下層階級の対立の構図は蔓延していて、緊張が高まっている事を一瞬にして感じさせる。
そのドアがたたかれた。あらかじめ決められた数とは違う。ドッティは警戒して開けようとしない。声はサニーの姉ヘザー(中嶋朋子)だった。数年前、麻薬におぼれたあげく家の中の金を残らず持って出ていったのがいま、舞い戻ったのだ。押し問答の末、母親が妥協した。
黒いベールで髪を隠したイスラム教徒の姿で入ってきた娘に、母親は驚愕する。娘が何故改宗したのか、何のために帰ってきたのか、それは謎である。
サニーがもどって、姉を家に入れた母親をなじるが、ヘザーは何故か落ち着いてしばらく家にいると告げる。
サニーはひざまずき身体を折って祈る姉の姿に怒り狂った。しかし、姉は改宗する事によって麻薬の誘惑を断ちきったらしいということが次第に分かってくる。
一方、ムスリムの姿で現れたヘザーを目撃した誰かが、家の窓からレンガを投げ込んだ。サニーは仲間から追い出され、仕事を失う事になる。
この有り様を母親はおろおろとなす術も無く眺めているだけである。
ヘザーは、ロンドンで父に会ったと母親にいう。ドッティは「そうだと思った」と答えるがその声に力はない。
彼らの父親は、二人がまだ小さい時に家を出ていったと教えられていた。ひどいDV(ドメスティックバイオレンス)が原因だったという。
母親がレンガ事件を警察に訴えようと出かけた間に、ヘザーは弟に父親に会ったことを告げる。父は母親が言うような人ではなかった。今でも子供たちを愛しているといっているらしい。そして父親の写真をみせるとサニーはわれを失う。
母親が帰ると、待ちかまえていたサニーがさるぐつわをして手を縛ったヘザーを連れ出し、こいつが言っている事はほんとうなのかどうか真相を話せと迫る。
写真の父親は口ひげを蓄えた色黒のトルコ人であった。
母親は肯定する。DVが原因で別れたというのは嘘だった。別れた理由は推測するに母親のわがままであった。
母親を殴りつけて荒れる弟をヘザーが抱き寄せ、これで何もかもうまくいく、インシャラー、すべては神のおぼしめしのままに、とつぶやく中で明かりが落ちる。
ここで終っていいのかという気持ちが少し残って、つい腕時計を見たらたっぷり二時間が経っていた。という事は、物語の進行がうむを言わせぬ緊張感をはらんでいて、時の経つのを感じさせなかったという事である。さすがはシャン・カーン前評判通りの手並みであった。
やや心残りだったというのは、ヘザーが「これで何もかもうまくいく」といったことが果たしてそうなのだろうかと疑問に思ったことである。
サニーは、まだ驚愕の事実を受け入れていない。しかも、「合いの子」である事によっていよいよこのコミュニティから排斥される立場に追い込まれる。家族の真相は明らかになったが、そのことでかえってこれから試練が始まるのである。「インシャラー、すべては神のおぼしめしのままに」、それでほんとうに一切が解決するというのであれば、観客として何も言う事はない。
しかし、ヘザーがイスラム教徒の姿で帰ってきた時に、すでにこうなる事は分かっていた筈である。案の定レンガを投げ込まれて住民が敵意を示した。一家はこれまで通り平穏にここで住み続ける事は出来ない。ヘザーが父親を「インターネットで探した」ように、この時代、だれが一家の真相を暴き立てるとも限らない。そうなれば、サニーは完全に逆の立場に立たされてしまう。ドッティもただではすまなくなるだろう。
これでは、ヘザーは母親と弟をただ単に窮地に追い込むために、これ見よがしに異教徒の姿でやってきた悪魔という事になる。やっぱりイスラム教はキリスト教徒の敵ではないか?というのは極論かも知れないが、ヘザーが『帰って来さえしなければ』すべてはうまくいっていたことは紛れもない事実である。
と、ここまで考えて気がつくのだが、この劇は、「衝撃の結末」の衝撃があまりに強いために、実はほんとうの構造が見えにくくなっている。
物語に起承転結があるとすれば、この劇の場合、「起」は姉が帰ってきた事にある。「何故姉は一家離散のリスクを冒してまで家に舞い戻ったのか?」観客の興味はその一点でかき立てられ、前へ前へと筋書きを追うように作られている。そして、父親が異教徒のトルコ人だった事が判明するところは、驚天動地の「転」の部分だった。劇はこれから「結」に向かおうとするはずであった。しかしその矢先、唐突にそこで終ることになる。
あの幕切れでは、姉が帰ってきた「理由」も「動機」も何一つわからない。
「あの後どうなるか?」と問えば、作家も演出家も「インシャラー、あとの事は観客の想像にお任せします。」と言うに決まっている。それはそれでもかまわない。
しかし、問題はそういうことではない。物語自体が完結しない中途半端という欠陥を劇の内側に持ってしまった。そのためにたっぷり二時間、息をもつかせぬ面白い芝居だったにも関わらず「えっ、ここで終るの?」という疑問を抱かせることになったのだ。
シャン・カーンはTVドラマも書いているらしい。この芝居も続き物のドラマとして書いたのであれば、次を見たくなるという点でこの作家は名手であるといってもいい。
次回では、姉が舞い戻ったほんとうの理由が明かされる。父親がロンドンで一緒に暮らそうといっているなどというのは、通俗的にすぎるが、名手シャン・カーンならば、人種問題や宗教問題を絡めて、あっと言わせる「理由」又は「動機」を見せてくれるに違いない。
その続きのドラマに、もう一つ注文をつけておきたい事がある。
母親ドッティが夫と別れた理由である。
せりふからその理由を窺うと、第一に、彼女の両親が、ふたりが一緒になる事に反対した。むろん親類縁者も快く思わなくて彼らは孤立した。第二に、ドッティは賭事も酒もやめられなかった。イスラム教ではいずれも好ましくない。その状態がいやで別れたということになる。
しかし、考えて見ると、その理由なら結婚する前にすでに二人の前にあった「障害」である。そんなことなら始めから一緒にならなければよかったのだ。親の反対や人種、宗教、習慣の違い、それらの二人にとっては深刻な「障害」を乗り越えたからこそ彼らは一緒になり、二人も子供を作って推定4,5年はともに暮らしたのである。
この別れた理由だけでもドラマができそうだと思うが、この劇ではそれだけでは今一つ説得力がない。物語のそもそもの出発点であるだけに、なんらか工夫をしてもらいたいものである。次回に期待している。
それにしても、ディテールから窺い知れる英国が想像以上であった。
この劇は地方都市が舞台になっているが、イスラム教徒の排斥運動は全国的な広がりを見せていることや、下層の若者の閉塞感、麻薬が身近に出回っている環境など若者にとっては生きにくい世の中になっているようだ。
日本でも事情は違うが、階層社会の到来などといわれて、若者のあいだに諦念のようなものがただよっているような気がする。
サニーの北村有起哉は、その世代を代表するような鬱屈した怒りやナイーブな心情を表現して適役だった。長い手足をときに振るい、時に投げ出して動き回る姿には暴力の気配がしてただならぬ緊張感をかもしていた。劇を牽引する原動力であり、見るものに劇を観た充実感を与える役割を果たしたといえる。
ただ苦言を呈しておかねばならないことがある。
それは、滑舌の悪さである。彼の個性がもっとも生きた役柄ではあったが、少し乱暴にやり過ぎた。母親役の銀粉蝶が、極めて慎重にせりふを渡していたのと比べれば歴然である。
それから、立ち姿がよくない。身体に心張り棒がはいっていないから、だらだら見える。いや、だらだらしてもいいが、だらだら見えたら見ている方は不愉快である。
いずれも基本だが、今どきだれも指摘しないだろうからここで言っておく。
シアタートーク(4/24)で分かった事だが、シャン・カーン自身がパキスタン系英国人二世であり、英国におけるテロがパキスタン系の移民によって引き起こされたこともあり、最初から自身の英国における在り方を中心に据えて物語を書こうとしたらしい。ただ、この芝居は注文を出した栗山民也と彼の間で、何度かやり取りがあってストーリーも登場人物もその都度変ったという。
自分が混血であったという受け入れ難い真実が明らかになるというクライマックスにプロデューサーも作家も目を奪われて、観客が「何をしに姉は帰ってきたのか」の答えを要求している事に気付かなかったのは、ちょうど右中間のフライみたいなことではなかったか?と思う。複数の頭で物語を考えているとよくある事だ。
舞台は現実のリビングを斜めにおいて遠近法を誇張するように全体をデフォルメした。舞台美術の島次郎だけが、冷静にこの劇には何か大事な柱が一本足りないと気付いていたようだ。だから柱のないぶんを工夫して、このように空間をゆがめて作らざるを得なかったのであるまいか?


            
 

序論は「徒然雑感」に掲載しました。

題名: Clean skins きれいな肌
観劇日: 2007/04/20
劇場: 新国立劇場
主催: 新国立劇場
期間: 2007年4月18日〜4月28日 
作: シャン・カーン
翻訳: 小田島恒志
演出: 栗山民也
美術: 島 次郎
照明: 勝柴次朗
衣装: 宇野善子
音楽・音響: 秦 大介
出演者: 中嶋朋子 北村有起哉 銀粉蝶