題名:

コミュニケーションズ

観劇日:

05/4/8

劇場:

新国立劇場

主催:

新国立劇場     

期間:

2005年4月8日〜24日

作:

綾田俊樹  いとうせいこう 杉浦久幸ケラリーノ・サンドロビッチ  高橋徹郎 竹内 佑 鄭 義信  土田英生 別役 実 日本劇作家協会戯曲セミナー第1〜4期生/ふじきみつ彦 武藤真弓 筒井康隆(原作使用)

演出:

渡辺えり子

美術:

加藤ちか      

照明:

中川隆一    

衣装:

矢野恵美子

音楽・音響:

近藤達郎・ 原島正治

出演者:

綾田俊樹 石井里弥 円城寺あや 片岡弘貴 金内喜久夫 神保共子 腹筋善之介 矢崎 広 山崎清介
 



「コミュニケーションズ」

シリーズ"笑い"の中のひとつで「コミュニケーション」がテーマのオムニバス・コント集である。劇作家11人がこの公演のために新たに書き下ろした作品を渡辺えり子が構成し、演出した。劇作家協会と共同制作ということで、別役実と永井愛が監修に当たっている。
参加した作家を見てもどういう基準で選んだかわからない。最初から構成演出が決まっていた渡辺えり子の好み、というより仲間ないしは頼み安い連中とでもいえばいいか、イメージにあわないと渡辺が書き直させた本もあったようだから、あの「姉御」のいうことをきく作家たちだろう。無論断られたのも何人かいたらしく、なかでも野田秀樹だけ名前が挙がっていた。(アフタートークで)自分は喜劇が書けないといったそうだ。正直で結構な話だが、それを言う渡辺えり子の口ぶりに含むところがあって、なるほど野田というのは嫌みな男なのだというのが伝わってくる。
"笑い"とはなにか、ということを理屈で考えるのはそれ自身は笑ってられないからしんどいことだ。あえていえば人間にしかない感情表現ということもあって動物との境界を前提に人間そのものを考えることが出来る、ということになるのか?ベルグソンが笑いについてのエセーでどう書いているか、興味はあったがあいにく読んでいない。ところが最近ある種の霊長類にも笑いに似た動作が発見されたようで、それがほんとうなら、笑いの本質は本能的なもので理屈を超えているということになる。
動物がなんで笑うか知らないが、人間の"笑い"には赤ん坊の笑いからブラックユーモアのように知識あるいは知性が関係するものまでかなり複雑な階層を持っている。たとえば「まんじゅうこわい。」という言葉がある。これはある落語の「落ち」だが、全く関係の無い状況で使ったとき、知っているものは笑えるが、知らないものはわらえない。落語の「崇徳院」も百人一首を知らないものにはいまひとつだろう。"笑い"とは記憶とか知識がからんだ高度な精神的働きという側面を持っているのだ。
人とひとの間の意志の疎通が「コミュニケーション」である。これがうまくいっていれば問題ないが、かみ合っていないと困る。その困っている状態を見ているのはおかしい。典型的にはボケに突っ込み二人という最小単位で演ずる漫才である。この舞台にも漫才はじめさまざまなシチュエーションでどうにもすれ違って右往左往するおかしい人々が登場する。つまり「コミュニケーション」の齟齬から生じる"笑い"というわけである。
おしまいにしようとしている芝居小屋の舞台裏という設定で、小劇場の両側の壁には二間×3尺のレトロな絵の看板が二段に並んでいる。なにしろコントという短い形式の喜劇は戦前の浅草の軽演劇に端を発し、戦後はやはり浅草のストリップ小屋の幕間に演じられたという事情からこのような「庶民的」と言えばいいか、やや猥雑な香り漂う中がふさわしいと考えたのであろう。これは大いに賛成である。寅さんの渥美清もそうだった。その前、脱線トリオ(由利徹、八波むとし、南利明)や転覆トリオ(三波伸介、伊東四朗、戸塚睦夫)劇作家井上遅筆堂、やや異彩を放つ内藤陳のトリオ・ザ・パンチ、そしてコント55号(萩本欽一、坂上二郎)彼らは皆浅草ストリップ小屋と縁があった。
皮肉なことに浅草の観客にはコントを目当てに来るものは一人もいなかった。幕間をつなぐだけの短い時間にどれだけ観客の目を引きつけておけるかが即給金につながったから必死である。同じネタだが、客の反応を見ながら微妙に変えていくうちに練れてきて見ているものの心の琴線に触れるところまで来ると完成型である。こう言う「芸」を見せられると何度見てもおかしい。例えば、由利徹が裁縫をする婦人のまねを何十年もやって見せたが、単なる形態模写を超えた(中流の良妻賢母のしぐさでありながら由利徹がやるとある種の浮世絵のようなひわいな感じが漂うのであった。)おかしみがそなわっていて、いつ見ても楽しめた。
新劇の俳優にそんな「芸」を要求するのは無理だが、台本さえしっかり出来ていたら十分笑えるものになる。
11人の劇作家の作品を21のエピソード「場」にして構成した。その中には渡辺えり子が書いた「コミュニケーションズ」というコントを開幕からはじめて終わりまで都合六つ挿入してある。また、竹内佑は漫才の本を三つ書いた。あとは作家がそれぞれひとつづつ(綾田俊樹だけは、武藤真弓が書いた「ボスと男たち」のあとを受ける続編を書いているが・・・)の本を出している。
それぞれシチュエーションもトーンも違う芝居を積み重ねることになるが、「コミュニケーションズ」という渡辺のコントがひとつのトーン・マナーを持っているのでそれがうまく句読点の役割を果たして飽きさせない工夫が施してある。監修にあたった永井愛が渡辺えり子の構成作家としての力量を評価したところだろう。
アフタートークで面白かったものに拍手を、ときいたところ「蟹を食う」(鄭義信)「バス停のある風景」(別役実)「フルムーン」(綾田俊樹)「立てこもり」(いとうせいこう)「有田焼の男」(高橋徹郎)「坂本」(土田英生)といったところが多かったと記憶する。
竹内佑の漫才が不調だったのは、山崎清介と腹筋善之介のせいではない。彼らは大まじめに漫才師を演じたのだが、きまじめすぎた。もっとちゃらんぽらんにやらせてもよかった。もっとも話が「お笑い界」だからいわば楽屋話である。こう言う身内批判めいたものは本物の漫才師のほうがよかったかもしれない。それにしてもこの腹筋善之介という珍妙な名前の俳優はどこから出てきたのか?剃髪した頭にくりくりの目玉、体は太いが鍛えられている。怪優といっていいかもしれない。この二時間あまりの舞台で出番も多かったがもっとも目立った存在だった。
僕は腹筋善之介が染め付けの焼き物を被って出てきた「有田焼の男」が面白いと思った。ある朝目覚めると頭が焼き物の器になっている。とりあえず病院にいくが先生(金内喜久夫)も原因がわからない。手の施しようが無いとかなり無責任な態度である。男はこのままでは女も寄りつかないし結婚も出来ないと嘆いている。それはなんとかなるといった途端、客席中央に作られた小舞台に明りが入り異様に胸のでかい看護婦(石井里弥)がピンクの照明の下で何やら怪しげなしぐさで踊りだす。先生が男を案内し、これは私の娘だが気に入ってくれたら一緒にしてもいいと言いだす。男はこんなにかわいくて胸も大きい女の子なら喜んでと踊りが終わるのを待っている。さて、看護婦である娘もまんざらではない様子に先生は「じゃがひとつ承知しておいて欲しいことがある。」といいだして、突如娘の制服を脱がして胸をさらけ出す。なんとそれは大きな焼き物の乳房だった。
ある朝目覚めると巨大な昆虫、というのはあったが、焼き物、しかも染め付けの有田にしたのは何だかハードボイルドでおかしいのである。腹筋善之介の慌てぶりも笑えるが、金内喜久夫のおとぼけ、無責任ぶりも板についていて、変身という事実がこの二人の落差を見るにつけ、取り返しのつかない恐ろしいことのように思えてくる。この短いプロットに足下から言い知れぬ「不安」が立ち上ってくるような気がしたのはコントとして大成功ではなかったかと思う。焼き物の乳房という「落ち」もよく考えられていて、頭が磁器なのよりははるかにむなしく、ブラックユーモアこのうえない。
「バス停のある風景」(別役実)は自殺しようとしている夫(金内喜久夫)とその夫を殺して保険金を受け取ろうとしている妻(神保共子)のすれ違いの話である。バス停にはベンチ、傍らには別役芝居になくてはならない装置、電柱があり首を引っかけるロープが下がっている。妻は携帯電話で夫を殺す方法を打ち合わせている。背中合わせで、夫は携帯電話で誰かと話している。
不条理劇の大御所らしく「コミュニケーション」というテーマに応えながら「夫婦」或いは人間関係全体の非合理な側面をあらわした、極めて知的な味わいの佳品であった。
評判のよかった「蟹を食う」は、蟹鍋を囲む父(綾田俊樹)母(神保共子)息子と娘の一家に男性A(金内喜久夫)男性B(片岡弘貴)男性C(山崎清介)がからむいわば家庭劇である。舞台中央に卓袱台が置かれ、大ナベからは湯気が立っている。煮えるまでの家族の会話がかまびすしい。フタをとると本物の蟹が出てきてみんながつがつ食べはじめたのには驚いた。最後に女装した三人の男が出てくるがこれはいただける代物ではなかった。
少し時機を逸した感はあったが、「おれおれ詐欺」を扱ったのもあった。「存在証明」(杉浦久幸)は「俺だ。俺だ。」といって自分の祖母に電話して金を振り込ませようとしても信じてくれないので困ってしまう男の話である。これなどはいかにもありそうな話で、自分のアイデンティティの証明がいかに難しいかをあらためて思い知らされる。
「坂本」も同じようなテーマ性を持っていた。
心が休まるのは「ボスと男たち」。ボス(金内喜久夫)は子分たち(片岡弘貴、腹筋善之介、山崎清介)に対して、敵の親分に復讐するアイディアを出せという。次々にアイディアは出るのだがその度に、「そいつは、あれが困るだろう。」といって否定し、ついには何も出来なくなるという話である。
何と言ってもおかしかったのは綾田俊樹である。多くのコントに出演して、喜劇人らしいキャラクターを存分に発揮したが、自ら書いた「フルムーン」がもっとも面白かった。神保共子との老夫婦役。ハワイ航路の船のデッキでロマンチックに昔話をしているうちに、何十年にもわたって互いに我慢してきたことが次々に告白され口論になっていくという妙にリアルな話である。ボードビリアンらしくコミックに演じる綾田俊樹にさすがに芸達者な神保共子が応えて完成度の高いコントに仕上がった。
他の作家のものもすべて高い水準にあり、その面白さは実際見てもらうしかないと思うからこの辺で紹介はやめよう。
問題は浅草軽演劇−ストリップ幕間で育った形式というところに立ち返って考えた場合、観客の目によって練り上げられていく要素をどう取り込んでいけるかということである。
短編小説は独特の感覚があって書くのは難しいとされる。コントもまた凝縮した時空の中に"笑い"をはじめさまざまな要素を詰め込んでしゃれた仕上げを施さねばならない、という点で短編小説に近い。演じるほうにもそういう形式にふさわしい例えばボードビルのような手法がもっと数多くあってもいいと思う。
そのうえで、観客の目にさらし「芸」の領域になるまで磨きをかける。「蟹を食う」に登場した女装の男たちを脱線トリオやコント55号がやったらあんなに異様には見えなかったはずだ。
もっとも、そんな暇があるかねと言われれば、言葉に窮してしまう。
アフタートークで別役実に「テレビのお笑いブーム」について質問があった。
彼はお笑いは好きでよく見ると答えた。「中に面白いものはあるが、こう言う舞台で演じるものと違って観客の反応がいまひとつとどかない。その分『消費』されていくという感じがしている。」ともっともなことをいっていた。
そういう『場』を新国立劇場が提供するという覚悟があってこの"笑い"シリーズなかんずくコント集を考えたのだと信じたい。     

    (2005/5/3)

                                                                                       

 


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