題名:

「コペンハーゲン」

観劇日:

01/11/9       

劇場:

新国立劇場   

主催:

新国立劇場   

期間:

2001/10/26〜11/18/      

作:

マイケル・フレイン       

翻訳:

平川大作     

演出:

鵜山仁          

美術:

島次郎             

照明:

服部基            

衣装:

緒方規矩子            

音楽:

高橋巌 
出演者:
新井純  江守徹  今井明彦

「コペンハーゲン」

島次郎の装置が秀逸である。円形の舞台の周りを、土星のつばの様に、前方にやや傾斜した、幅一メートルほどの「輪」がぐるりと囲んでいる。これは部屋の中と外の庭または散歩道を表しているのだが、同時に原子核とその周りを回る電子の軌道、すなわち全体として原子の構造を表現している。量子論のボーアとその妻、共同研究者のハイゼンベルクの三人が登場する「場」として象徴的である。

さらに、ハイゼンベルクがコペンハーゲンのボーアのもとを訪ねた理由が判然としないため、時々話が堂々めぐりになるという物語の進行を視覚的に表してもいる。

この装置は単なる背景ではない。明らかに俳優の身体とともに、芝居に参加している。その抽象性のおかげで観客は、想像の幅を広げることができ、ノーベル賞科学者二人の会話も難解ながらそれなりに納得がいくものになった。

この装置は、最初、美術の島が“硬質な原子力発電所”のイメージを提案したが,演出の鵜山は“古い小学校の教室の温もりを感じさせるボーア研究所”という正反対の設定を念頭に置いていたようだ。(パンフレットより)島らしい発想であり、鵜山の演出意図も理解できる。その後どういう経緯でここまでポリシュアップされたのかはわからないが、この明らかな飛躍によって、芝居の完成度を確実に高めることができた。演劇が多数のアーティストのコラボレートで成り立っていることの証拠でもある。

それにしても、「コペンハーゲン」とは何と魅力的なタイトルだろう。ヨーロッパの辺境といえばデンマークに失礼だが、ユーラシア大陸の我が辺境からみてもなおエキゾティックで、秘密めいた雰囲気を感じる街の名である。1941年10月のある日、そこで何があったのか?冒頭、既に亡くなっている人間たちが、その日を思い出して語り始める、という意表をつく設定によって、僕たちは、すんなりとこのなぞ解きの話の中に入ってしまう。

マイケル・フレインは、難しい量子力学の用語〈主要な解説はパンフレットに記載されている〉を正確に使いながら、観客がそれについての知識がなくても、十分に理解できる物語を注意深くつむぎだした。しかも、そこにはいくつもの問題提起が重なっていて、それらに思いをはせる知的な楽しみも感じさせてくれるのである。

1920年代にコペンハーゲン大学で量子論を唱えるボーアのもとへ集まった若い研究者のうちの一人、ハイゼンベルグは、ドイツへ帰ってナチに協力する科学者となっていた。1941年10月には、デンマークは既にドイツに占領され、ユダヤ人科学者たちを助けたボーアにもナチの手は迫っていた。このころ、アインシュタインの相対性理論、ボーアらの量子力学を根拠として、核分裂エネルギーを利用した高性能爆弾の可能性が指摘され、両陣営とも強い関心を寄せていた。しかし、理論的にはできても、実際に製造し実用化するのは困難である。

こうした時代状況のもとに、ハイゼンベルグがボーアのもとを訪れる、というのがこの芝居の設定である。ハイゼンベルグは、科学者として原子爆弾製造についてボーアの意見を聞こうとしているのだが、ボーアは彼の真意を計りかねている。 ハイゼンベルグは、このときのことを回想録「部分と全体」のなかで言及している。(パンフレットに抜粋が掲載されている。)これによると、要約しすぎかもしれないが、彼は、ボーアに一言だけ「開発は膨大な金と長い時間がかかる。」といって欲しかったように僕には思える。

当然マイケル・フレインは、このことを知っていた。一方のボーアにこの訪問を回顧した記録があるかどうか僕にはわからないが、劇作家は、少なくともハイゼンベルグの気持ちを知りながら、せりふは奥歯に物の挟まったような遠回しな言い方を、計算ずくで書くことができた、と思う。無論ボーアの対応は、おのずから「真意を計りかねている」態度に決まってくるというわけである。したがって、この芝居は、最初に考えたように、訪問の謎を作家が推理して解き明かし、観客がそれによってカタルシスを得るという構造にはなっていない。

ではなぜ、この難解とも思える会話劇が魅力的なのだろうか?

20年代の自由な空気のもとで同じ研究テーマを論じて、ノーベル賞という成果をあげた科学者が、いまや対立する国家陣営に別れて、腹の探り合いまでしなければならないという運命の皮肉、その悲劇性(それを強調するためにも登場人物として妻マルグレーテが必要だった。)、それがこの芝居のベースになっていると思う。

そして、原子爆弾!この科学者にとって、もっとも深刻な問題を巡って、41年当時どんな議論が可能だったのか?そして、実際に製造され、使われたことに対する科学者の責任!を、その製造原理を提供したものとしてどのように受け止めたのか? そして量子論である。 アイザック・ニュートンが「プリンキピア」で表した原理は、原子物理の世界には通用しない。これは、衝撃的であった。物理学を超えていっさいの現象の根本原理と思われていたものが、絶対ではなくなったのである。 特に不確定性原理は、Observe するものとObserve される対象の相関的なあり方を指摘して、存在の絶対性、規定性を否定する。つまり観察しようとすれば、対象は観察するものの影響を受けて、もともとの状態から変化するのである。これは哲学における「主観性」、「存在」の考え方にも影を落とすほど、思惟することの枠組みを変えた。

マイケル・フレインは、この会話劇を通じて、不確定性原理の実験を行った?のではないだろうか、と僕は考えている。上演台本がないからいちいち指摘することはできないが、そのぐらいの芸を仕込める才能だと思う。つまり。真意に迫ろうとすれば、逃げ、引けばまた追うといった駆け引きが、不確定性の陰喩になっている、というのは考えすぎだろうか?

さて、俳優陣はどうか? 江守徹は、ウォーミングアップを十分こなしてリングに上がったボクサーのように、始めからテンションを上げて登場する俳優である。量子力学の難解な用語は、その意味を理解していなければ空々しく聞こえてしまうものだが、専門家を招いてかなり学習したようで、当たり前だが、不自然さはなかった。 ハイゼンベルグの今井朋彦は、スロースターターと言えばいいのか、最初の元気のなさが気にかかった。ドイツの原子物理学を背負っているという自信がもう少し表現されたほうがいい。文学座の先輩に食われそうだった。 新井純は貫録である。しかし、普通の主婦にしては、少し表情が暗すぎるのではないか?

僕は、この芝居が的確なキャスティングを得たと思っていない。ハイゼンベルグをもっとアクの強い、存在感のある役者で、マルグレーテを知的な優しさを備えた女優でやったら、また別の味わいが出るのではないかと考えている。

 

 


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