題名:

黙る女

観劇日:

05/11/25

劇場:

中野光座

主催:

新転位・21     

期間:

2005年11月25日〜12月5日

作:

山崎哲

演出:

山崎哲

美術:

蟹江杏    

照明:

海藤春樹・西尾未来   

衣装:

蟹江杏

音楽・音響:

半田充

出演者:

石川真希 木村健三 久保井研神戸誠治 村山好文 おかのみか 大畑早苗 小畑明 杉祐三田村尚久 渡邉紀栄 鏑木真央西山泰広 渡邉裕来子 糸白二紗子 吉川恭代 一方井真紀 中島望美 永岡沙江 横瀬祥子



「黙る女」

 山崎哲の芝居を見るのは初めてだ。ワイドショーのコメンテーターとして見知っていたが、ここ数年はテレビに登場していない。せっかくだから事前に情報を仕入れておこうとホームページを覗いてみたら、水戸芸術館の仕事でしばらく東京を離れていたようだ。テレビの方は「非国民裁判まがいのことをやっているジャーナリスト、文化人らと徹底して闘うこと、それがわたしの立場だったが、その結果、ほとんど孤立無援の状態に追い込まれ」て、早い話が原稿の仕事もろとも、干されてしまったようだ。
なるほど、あの頃の発言にはそういうところがあった。持ち味だと思っていたが、「やばい」香りは漂っていた。新聞が偏向していることは今や知らぬものはいない。裏に大衆を衆愚と捉えている視線があるのはテレビも同じで、正義漢面していてもあまり信用してはいけない。
山崎はジャーナリスト、文化人を攻撃したといっているが、テレビが呼んでくるコメンテーターにテレビが気に入らないものはいない。つまり、山崎も社会時評家として気に入られて呼ばれたのだが、彼らに異論を唱えることは巡り巡ってテレビにノンをいうことになる。こういう構造になっていることに気付かないわけはないが、おそらく、山崎は自分の主張のためにテレビが論争の場を提供していると誤解したのだろう。テレビは分かりやすい方へ流れる。結果、山崎のところには投書、脅迫が相次いで立ち往生してしまったということがあったようだ。
テレビジャーナリズムの偏向にニュートラルでいようとするコメンテーターがいないわけではないが、そういう人は非常に巧妙にふるまうしかない。たとえば典型的な一人は鳥越俊太郎である。彼は「毎日新聞」社会部記者から「サンデー毎日」編集長を経て、テレビの世界に入ったが、最初はこの週刊誌の精神を貫こうとした。それは、かつて日本中の憎しみを一身に集めた「千石イエス」に、単独取材を試み世の誤解を解くことに成功した(このときの編集長ではないが)ように、マスコミにとって重要なのは「事実」であり、報道は常に「事実」に対して公平であるべきで、勝手に裁判を行うようなことは慎むべきだという考え方である。
しかし、勝手に裁きを行いたいのが大衆の真情であり、それに迎合する安逸をとりたいのがテレビというものである。鳥越は抵抗したが、ついに自分の番組を下ろされた。そして、脇に廻ったいまは控えめに「観点を変えたら・・・」と言うコメントで暴走にブレーキを踏む役割を果たしている。
ついでに、テレビが自分の都合でコメンテーターを選んでいる典型的な事例をあげると、こういうのもある。
9・11のときに、ペンシルバニア州ピッツバーグ郊外で墜落した飛行機があった。当日、この墜落現場の衛星中継を見ていた航空機事故の専門家「某」(大学の教師)が二十キロ四方に散らばって落ちている残骸を見て「不思議だ。これは空中で壊れて落ちている。」というコメントをした。見ていただれもがアメリカ軍の戦闘機による撃墜を思った。この墜落で地上にいたものが犠牲になったとは聞いていない。つまり、いまでは場所を選んで撃ち落としたという説が有力なのだ。むろんアメリカ政府は公式に否定している。で、どうなったか?
この日、日本時間の夕刻の特別番組を最後に、この専門家「某」の姿をどのテレビ番組の中にもみたことはない。
山崎が敵だとしたジャーナリストも文化人もテレビに言わされていると言う側面があり、それをむきになって責めれば、テレビは困る。山崎に向かった大衆の攻撃はテレビにもやって来るからだ。
こうして、山崎は一回二十万円(推定)の出演料とテレビ出演者だから依頼される原稿料や講演料を、そして何よりも自らの発言の場を失った。
それでも大義は貫いたという自負心はあるだろう。しかし、僕に言わせればもっと巧妙に、お代をたっぷりいただいて、テレビに反省を促す機会を作ることは出来たはずである。多分まじめなのだろう。ニュースは消費されるという言葉はテレビにもっともふさわしく、そんなテレビなどまじめに考えるべきものではないのに。
そのまじめさはこの芝居にも現れている。
山崎は、音羽の幼稚園児殺害、死体遺棄事件に取材して、いったいどんな普遍的な社会悪がそこに埋もれているか、掘り出すことに悪戦苦闘した。
事件からすでに6年が過ぎているが、大都会にある「お受験」社会というものの存在が話題になって、ずいぶん報道されたからいまでも記憶になまなましい。ぼくが覚えていることを先に話すと、この事件は、「お受験」と言われている割には具体的な幼稚園なり小学校が取りざたされてはいないと思った。子供を殺害する動機はその親に対する憎しみが原因であることは間違いないが、受験を巡って、この親同士に確執があったかどうかは、実はぼくには分からなかった。確か犯人は裁判になっても動機を説明することがなかったと記憶している。したがって、この犯人は、他人には説明しがたい動機によってもっとも抵抗が少ない犠牲者を選んで衝動的に殺害したのだろうと考えていた。
このことは「黙る女」というタイトルにもあって、おおよそぼくと同じような感想を山崎も持っていることがわかる。
開幕の場面は、犯人山田ミツコ(石川真希)が自首しようとして、二人の子供を名古屋のお祖母ちゃんに預けるところである。つまり事件はすでに起きている。劇はそこから時間を遡行する。
護国寺の境内に有る音羽幼稚園で、年長組に通う兄を迎えにきていた幼児が、立ち話をしていた母親が目を離した隙にいなくなった。その場に居合わせた母親や職員たちが手を尽くして捜したが、見つからないのですぐに警察に届け出た。引き続いて捜索するもまったく手がかりがない。翌日公開捜査に踏み切った。場所が文京区で名門と言われる幼稚園であったためにマスコミは「お受験」ブームに結びつけて報道した。始めから妙な予断があったのである。
ミツコはこの直後の捜索のあいだに幼児の母親とすれ違っている。その時母親はミツコが重そうな黒いバッグを自転車に乗せて運んでいるのを見ていた。この場面は劇中に描かれているからほんとうにあったのだろう。
犯行は、幼稚園に隣接する公衆トイレに幼児を誘い込んで行われた。死体をバッグに詰めて一旦自宅へ運んだあと、捜索騒ぎを横目に見て、新幹線で静岡県のみつ子の実家へ向かった。家の裏庭に浅い穴を掘って埋め土をかぶせただけで帰ってきた。実家には母親と妹がいたはずだが見つからなかった。午後九時頃何食わぬ顔で自宅に戻ってきた。途中捜索を続けている父母らと出会ったが、軽い挨拶程度で別れた。こうして一日目が終わる。
劇はこのような経過を、それぞれの立場から克明に追いかける。報道されたこと以外に僕がなるほどと思ったことが二つあった。
まず、桂林寺の住職ヨコヤマの存在である。桂林寺はミツコの夫、キスケ(久保井研)が副住職を務める寺だ。音羽の辺りは江戸時代から続く古い寺の多いところである。古いといってもせいぜい四百年だから古刹と言うわけではない。いわゆる葬式仏教になってからの寺だ。檀家の数がどのくらいか知らないが副住職に月給を払えるくらいの収入はあるのだろう。いきさつは不明だが、ヨコヤマはかなりの暴君で、しかも底意地が悪く、キスケをいじめに近い扱いをしている。そのストレスでキスケは神経質になる。
もう一つは、そのキスケとミツコの関係である。キスケは絶えずヨコヤマからいじめを受けているために、そのストレスを家族に向けざるを得ない。キスケとミツコの間には緊張関係が続いている。ミツコは寺の仕事を手伝っているから、内部のことは知っている。しかし、住職に逆らえば寺を継ぐどころか職を失い、文京区のマンションからも出なくてはいけない。幼い子供もろとも路頭に迷ってしまうだろう。
ミツコにかかっていたストレスは、「お受験」などというお金持ちのお遊びのような軽いものではなかった。
世間が大騒ぎになって、次第にことの重大性に気付いたミツコは、翌日ついにキスケに告白する。キスケは驚愕するが、すぐに反省する。自分がいけなかった。もっとミツコに真正面から向き合わなくてはならなかった。劇中ではかなり、痛切な自省の念が語られる。
キスケはミツコが自首する前に、準備を整える。名古屋の自分の母親を呼んで子供をあずけ、家の中を整理し、拘留に必要なものを用意する。そして事件から二日後の午後三時半頃、取材でごったがえす大塚署を避け、有楽町丸の内署に2人で出頭する。
なるほどそうだったのか、と納得出来る物語である。ただし、山崎がどこまでを取材したかは知る由もない。一般に寺の坊主は見かけによらず吝嗇で意地悪、実に生臭いもの(東京の寺は土地を持っているからなおさらだ。)と巷間いわれているから案外事実だったかも知れない。
報道からは決して見えてこない角度から事件を再構成して見せた手腕は、かなりのものといってよい。
これが山崎哲だった。
他の事件に取材した劇を観ていないから、すべてに当てはまるかどうかは分からないが、これに限って言えば、基本的に少しロマンティックすぎるのではないか?文学的といってもいい。
僕は、キスケが反省するのはまあ、かわいいものだが、ミツコは刑務所の窓から外を眺めながら、「ざまをみろ!」と心のうちで叫んでいるような気がしている。子を殺された親にしてみれば冗談じゃないと思うかも知れないが、人間とはそんなものだ。だから人間にはよほど気をつけなくてはいけない。
さて、佐木隆三や佐野真一に比べてどうかという設問を用意して出かけたのだが、このドキュメンタリー作家たちの手法に対してあきらかに「分かりやすく、大衆的な」線をいっていたのはとても意外だった。
(2005年12月8日)                                                                                        

 


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