題名: |
毒の香り |
観劇日: |
05/11/18 |
劇場: |
紀伊国屋サザンシアター |
主催: |
文学座 |
期間: |
2005年11月18日〜11月27日 |
作: |
星川清司 |
演出: |
戌井市郎 |
美術: |
中嶋正留 |
照明: |
山内晴雄 |
衣装: |
中村洋一 |
音楽・音響: |
池辺晋一郎 |
出演者: |
江守 徹 飯沼 慧 清水幹生 外山誠二 岡本正巳 醍醐貢介 吉野正弘 今村俊一 城全能成 植田真介八木昌子 神保共子 つかもと景子 石井麗子 名越志保 岡 寛恵築野絵美 小石川祐子 |
「毒の香り」
実は他の芝居を見る予定だった。「文学座の芝居は、ちょっと・・・」といっているYにたまにはどうかと無理に変えてもらった。ポスターが気になったからだ。そういうこともあるからデザインには配慮したほうがいい。
で、どうだったか?見なかったよりはいいとも言える。
しかしまあ、一言で言えば、何だかしまりのない本に江守徹=西洋芝居独壇場といった興行だった。行く前によく吟味していたら、おそらくやめにしただろう。
本を書いた星川清司は直木賞作家(平成二年)、映画の脚本家としてスタートし「眠狂四郎シリーズ」や「座頭市シリーズ」を手がけている。(大映にいたのか?)この芝居は初めての戯曲だそうだ。映画のシナリオを書いているベテランだからといって芝居の本がうまく出来る保証はない。直木賞作家の萩野アンナが初めて書いた戯曲「美女で野獣」(01年12月新国立劇場)を見たが、何作か書いたあとにしたほうがよかったと痛切に思った。この芝居は映画的な文法で書かれているからまだましだが、そうはいっても舞台には「アップ」や「モンタージュ」あるいは省略・編集ということがないから作家の頭では完成していることが舞台に表出出来ていないことがある。これに最初から気付いて書くのは至難の業だ。客席に座って見たらその欠陥がわかるはずである。欠陥と思わなかったら演出家に文句を言ったほうがいい。
演出の戌井市郎はかなり高齢のはずだが、群像劇をうまくまとめる手腕はさすがである。この大正年間の芝居を手がける気になったのは、同じ舞台の世界に生きた浅草オペラへのオマージュだったのかも知れない。
芝居は大正十二年八月三十日、つまり関東大震災の二日前、浅草金竜館の舞台稽古の場で幕を開ける。折しもカルメン独唱の場面、主役の谷村時枝(神保共子)が風邪を引いて声が出ない。代役の若い島田サキ(岡寛恵)が虎視眈々と狙っているのをわかっているから私が看板女優とばかりに意地を張っている。演出の梶本又造(江守徹)が初日は無理だと判断し、島田サキをカルメンに、と宣言する。稽古が始まると、ダメだしの連続。又造が歌い方を教え、振りもつけるがなかなか言う通りに出来ない。岡寛恵のカルメンが、下手なふりをしているのか本当に下手なのか分からないところがみそだ。
開幕からいかにも浅草オペラという感じがでていて、少ししつこいところもあったが構成上本の狙いがどこにあるかまずはしっかりと認識させた。江守徹も演出家の役どころだから慣れたものだ。「まんま」でいいのだが、これがまた普段通りの調子でやるものだから、一人で浮いている。
稽古の途中、元活弁士の染井善郎(清水幹生)が竹岡章伍(醍醐幸介)を伴って現れ見物している。染井は又造と旧知の中、竹岡章伍を飲み屋で知りあったと紹介する。仕立ての良い洋服にステッキを持った紳士ぶりにけげんそうな顔をする又造。聞けばパリ帰り、伯爵だかなんかの親の資産で夜な夜な浅草を徘徊している高等遊民である。永井荷風をモデルにしたものだろう。この竹岡章伍がカルメン役の若い島田サキに興味を示している。
だいぶ稽古も進んだ頃、新国劇の沢田正二郎(戸山誠二)が若い男を伴って訪ねてくる。又造はなぜか会いたがらない。緊急の用事で頼みたいことがあるというのでいやいや招き入れると、まず、同行した若い男、戸山英二郎(城全能成)を紹介し、英国人とのハーフで容貌が新国劇に向かない、それに歌は声量があってうまい、よってオペラの方が向いていると思うので入れてやってくれないかというものだった。ちょうどドン・ホセ役の田谷力三が又造とケンカして雲隠れしていたために代役が必要だった。歌わせてみると使えるのでこれを引き受けた。なんとこれが後に藤原歌劇団を作って活躍する藤原義江である。
もう一つは、パリで大ヒットした「シラノ・ド・ベルジュラク」という芝居をやりたいが興行元の松竹が赤毛ものはだめだというので協力してくれない。どうしてもというなら「白野弁十郎」とでも翻案してやれと言うが、自分としてはそのままをやってみたい、ついては演出を引き受けてくれないだろうか、という依頼だった。
又造は、それは断るときっぱり言い放つ。そんなものは耳に入れないでくれと言わんばかりだ。なぜか、怒ったように帰れというのである。恐ろしい剣幕に押されて沢正は帰る。
稽古は明日一日を残すばかりだが、この日はここで切り上げることに。
浅草公園にはペラゴロ(オペラごろつきの略)といわれる連中がたむろしている。浮浪者もいれば娼婦も通りかかる。島田サキが又造のいる小料理屋へ向かう途中竹岡章伍に待ち伏せされていた。竹岡は若いサキに好意を持っているように見える。ところが最近起きている連続殺人事件から外国で起きた切り裂きジャックの話を聞かせて用心したほうがいいなどと不気味なことを言う。そこへ刑事らしき男が現れ意味あり気に手帳に何か書いて通り過ぎる。
浅草というところは、このようにさまざまの人種が集まって、独特の雰囲気を作っているといいたいのだろう。つまりこの猥雑さがタイトル「毒の香り」の示しているものというわけだ。
小料理屋「一門」の新門ふさ(八木昌子)はあの新門辰五郎の娘で、又造とは幼なじみである。元活弁士の染井善郎はすでに酔っている。染井の娘「葉子ちゃん」の話題が一幕目からでていて、いったい何ものかと思うのだが、母親が亡くなって染井が酒浸りになると、娘も少し悪くなり、新門の子分と刃物で渡りあうなど男勝りだったが、近ごろ弁士になろうかと言い出して稽古しているというのだった。現れた葉子(石井麗子)は極くおとなしそうな娘で、父親のそばで黙っているだけだから、見ているこちらはなんとも拍子抜けである。
新門ふさは又造の気持ちが若い島田サキに向いていると察知して、それを詰問する。又造と一緒になる約束でもしたのであろう。今日と言う今日は決着をつけてもらおうと思っているが、又造にその気はない。又造は島田サキに惹かれていることを白状する。
料理屋に演歌師(植田真介)が入ってきて、演出家と活弁士を見つけると「こいつはかなわないや」といって逃げていく一瞬の場面などは、いかにも映画的な手法である。
再び浅草公園の夜更け、島田サキを送る竹岡章伍が突然彼女をうしろから羽交い締めにしてナイフをかざす。これが観客をびっくりさせるただの悪ふざけだった。続いて、さっきの刑事が現れ、懐から血染めのナイフをとり出して見せるとふらふらと消える。沢田正二郎まで現れて、なかなかにぎやかな場面だが、すべてそれらが何であるか何一つ完結させないで、納得出来る説明なしにいわば映画的コラージュの方法で描かれたために演劇としては実に中途半端に見えた。こういうところに「初の戯曲」らしさがでている。
さて、終幕は翌日つまり大正十二年八月三十一日の金竜館、舞台稽古の場面である。一同そろって稽古しているところへ再び沢田正二郎が現れ、「シラノ・・・」をやって欲しいと繰り返す。明日(正午頃関東大震災で浅草は壊滅する)初日というのに稽古を邪魔されて又造はかんかんに怒るが、沢田は重大な告白をしてこれを引き受けさせる。又造に耳打ちしたのは彼の耳が聞こえなくなるかも知れないということだった。沢田正二郎は確かにこの四五年後に中耳炎でなくなっている。又造もいやいや承知して、本読みをしようということになる。はじめると、又造の口からすらすらとシラノのせりふが飛び出してくるので皆驚いた。いつこの本に出会ってどんないきさつで又造がせりふをそらんじるまで入れ込んだのか?結局分からずじまいであった
ここがもっとドラマチックに語られなければ、ただ単に便宜的に沢田正二郎を登場させ、藤原義江を添え物にすることで、フィクションに史実を混ぜながらリアリティをだそうとしただけではないか、といわれても仕方がない。耳が聞こえなくなるかも知れないのは分かるが、明日初日の舞台稽古を邪魔するほどのことか。
又造にモデルがあったのかは知らない。しかし、この男の来歴もかなり説明不足である。もともと浅草オペラの歴史はたいして長くはない。では若いときは何をやっていたのか?新門の娘との関係も、小料理屋の場面に至るまでどんな物語があったのか、あの別れ方では肉体関係はなかったと見るのが自然である。となると新門の家を捨ててまで出てくるだろうか?ということからこの恋愛は絵空事に見える。
竹岡章伍や酔っ払いの元活弁士、その娘葉子といった存在が多少いい加減に書かれていても誰も文句は言わないだろう。肝心のところがこうであっては全体がいい加減に見えるのだ。しまりがないと書いたのはこういう理由である。
これは「浅草オペラ物語」というサブタイトルが示しているように、あの時代の浅草オペラはこういう雰囲気のものだったというのを見せたかったのだ。だからそれぞれのプロットは完結している必要はないのだ、という見方があるかも知れない。
それなら、もっと別の描き方があった。映画が得意なオムニバスとかである。
もう一つの不満は、これが関東大震災の前日の話しであることが生きていないことである。確かに、最後は金竜館の舞台ががらがら大音響とともに崩れて大団円を迎える。これがたとえば島田サキのカルメンが大成功疑いなしなどとなったあとなら「ああ・・・」ということになるが、これでは地震がきただけである。
浮浪者の老人(飯沼慧)が浅草オペラ全盛時代の終わりを告げるエピローグも、何だか中途半端に聞こえる。あの幸福な人々を突然災厄が襲ったという実感があれば、あだ花のような「毒の香り」を残して消えていったあの時代を懐かしむ詠嘆がもっと生きていたはずだと思う。(2005年12月2日)