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「円生と志ん生」

2005年2月の初演の時は、志ん生の形態模写でもやったら面白いと思って期待していたが、どうせ遅筆堂のことだ、初日はあかないよと思って頭のほうは避けておいた。案の定、一週間ほどキャンセルになって遅筆堂は平謝りだった。こっちに被害はなかったが、どことなくアンサンブルが悪かったのは稽古不足のせいだったに違いない。

今回の再演は、女優四人のうち三人までが替ったせいもあって、少しおとなしくなったように感じた。初演は、ひらたよーこ、神野三鈴、宮地雅子、久世星佳の四人である。久世は元宝塚の男役で、背は高く目に力がある。宮地は三谷幸喜の東京サンシャインボーイズに集まった日芸出の芸達者。情感たっぷりの表現力で見るものを魅了する神野と、大柄でのんびりムードのひらたが加わって、強い個性の四人が存在感を競っていた。

この再演では、ひらたがそのままで、文学座の塩田朋子、元宝塚娘役の森奈みはる、ミュージカルで活躍してきた池田有希子が入れ替わりになった。それぞれキャリアのある女優で芝居そのものに文句の付けようもないが、印象が少し控えめになったように感じた。破天荒な主人公二人を押さえつけるような迫力が欲しいところだが、その点初演には少し届いていなかった。

この芝居は、円生と志ん生が満州慰問の途中で終戦を迎え、大連に六百日も押し留められたときの話である。物語については初演の劇評で触れているので、なるべく重複しないようにしようと思う。

タイトルをはじめて目にしたのは初演の何ヶ月か前の告知チラシであった。この二人が何故一緒に並んでいるのか不思議に思ったものである。活躍の年代が少しずれているはずだし、第一芸風がまるで違えば性格も対称的である。志ん生は円生よりも十歳年上、終戦の時は五十五歳である。円生は普段、酒も煙草もやらず高座でも姿勢はきちんとしている。志ん生は酒飲みで若い頃から出来不出来にムラがあるという評判だった。晩年は、脳溢血の後遺症でからだが不自由だったのを見ている。多少ろれつが回らなくなっていて時々声が聞こえなかった。ところがそこにいるだけでおかしみがただよってくるという不思議な雰囲気を持っていた。円生は分かりやすかったが四角四面で面白みに欠けていた。

それぞれの孫弟子が対談している記事の中に二人の違いを言い当てているところがあるので紹介すると。

鳳楽「(円生は)情景描写というか、説明が入るからね。素人には分かりやすい。『・・・と家をでて、ふと気がつきまして、今来た横丁に戻ってまいりますてえと・・・』とかね。」

志ん五「うちの大師匠(志ん生)は早いよ。『いってきまーす』『ただいま!』ですから(笑)」

確かに円生は口跡がはっきりしていて丁寧な情景描写をするので、講釈でも聞いているような気がした。そこへいくと志ん生は、万事省略形が多くて、「えー、うー」と「間」も長く耳をすましていないと聞き逃すこともよくあった。もっぱらラジオかTVで聞いていたので知らなかったが、志ん生は酔っぱらって高座で寝てしまったことも一度や二度ではなかったという。それどころではない。途中でいつの間にか別の話になって、そのまま終ってしまったこともあった。息子の馬生もその血を受け継いだのか、得意の人情話『子別れ』で子供の名前が亀ちゃんから後半金チャンに替ってしまったことがあった。後で指摘されると苦し紛れに金ちゃんて言うのは子供の総称だと言い張ったらしい。実にいい加減で笑ってしまうしかない。

一方の円生は、戦前は鳴かず飛ばずだったが、戦後(この満州行きがきっかけだったと言われる)頭角を現した。周知のように志ん生、文楽亡き後はひとりで落語界を背負っていたようなもので、落語で「六代目」といえばこの円生のことを指すようにまでなっていた。昭和五十三年の『真打ち乱造』に抵抗し、円楽始め一門を引き連れて落語協会を脱退、「落語三遊協会」を設立するという芸に厳しい硬骨漢であった。

これほど性格の違う二人が何故連れ立って満州くんだりまで出かけたのか?というと、実は、一緒に行くはずだった古今亭今輔に不幸があって、急きょ円生に白羽の矢が立ったというわけだった。僕らにとっては志ん生ときたら文楽というのが常識であった。そう思っていたところへ、井上ひさしの新作は、文楽のかわりに円生だというので、上のような次第で実は驚いていたのである。

昭和二十年の五月、松竹の企画で満州興行は敢行された。既に東京は空襲で焼けの原、向こうに行けばたらふく酒が飲めてお金もいただけるという話に乗ったのだが、敗色が濃厚になっていたこの時期によく外地に行く気になったものだと思う。

劇ではプロローグの後すんなり満州にやってきたことになっているが、志ん生によると実際はたいへんな目に遭っている。「嬶と娘」は、敵が上陸してくる噂がしきりのこの時期に満州行きなどとんでもないと猛烈に反対したが、倅(馬生)は逆だった。竹槍で戦おうという時に親父が酔っぱらっていては隣組に申し訳ないし、第一足手まといになる、東京で死のうとどこで死のうとおんなじことだ、ここは一つ空襲のない満州に行ったほうがいいというのでその気になったのである。この頃になると関釜連絡船はまったくダメで、しようがないから新潟に行ってみた。ここも船はまったくでる気配がない。せっかくその気になったのだからと言うのが悪い料簡で、そのままぐずぐずしていたら、ひょっこり船が出るということになった。そのぼろ船にのることはできたが、いつ敵の潜水艦にやられるか知れやしない。港を出た途端に暴風雨に遭って、ゆれにゆれそのうち大音響がとどろいた。「魚雷にやられた!」と誰かが叫ぶので、もはやこれまでと覚悟を決めたそうだ。実は避難用の小型船を繋いであったロープが切れて船にぶつかった音だった。ほうほうの体で、羅津の近くの港に着いたのは二日後のことだったという。

慰問団は各地で歓迎され、興行は上々の出来であったが、一ヶ月の予定が過ぎても帰りの船がない。しようがないから現地解散、それぞれ勝手に活動することになって、志ん生は円生と行動を共にすることになる。この頃、新京のラジオ局にいた森繁久弥と知りあって、志ん生はその才能に驚き、必ず世に出る人だと珍しく(円生いわく)予言している。

ラジオで一席やったりお座敷が掛かったり、それなりに忙しくやっていたが、終戦間際ソ連が国境を越えて攻め入ってきた。日本には世界一強い関東軍がついていると思っていたら、その時既に朝鮮まで引き上げていたとは知らなかった。劇中歌にもとんでもないと歌われているが、ともかく大連にたどり着き、伊勢町の旅館「日本館」に逗留しているというところから劇がはじまる、という次第であった。

井上ひさしは、劇作家に充て書きをするものとしないもの、つまり役者を想定して書かくもの、書かないものの二種類があるが、自分は八割り方、充て書きをすると意外なことをいっている。この芝居も円生と志ん生が終戦後大連からなかなか帰って来られなかったという事実に注目して、劇にしようと思い立ったのだが、その時既に円生を辻萬長、志ん生を角野卓造にしようと決めていたらしい。

辻萬長は言うまでもなく「こまつ座」の座付きの俳優である。一方、角野卓造は文学座に籍はあるが新国立劇場「東京裁判三部作」など、このところの井上芝居になくてはならない看板俳優という存在。辻萬長を評して井上は「正しい楷書で演技する名優」、角野を「見事な草書で演技する名優」と、書体にたとえて二人の特徴を対比している。楷書の中にホンの少しだけ草書体でなければ表現出来ないところを入れておく。草書の中にも楷書を少し仕込んでおくと、どう演じてくれるか楽しみだったというのだ。これをそのまま円生と志ん生のキャラクターに映した。円生はきっちりした楷書体の芸といってもいい。志ん生の芸は自由奔放で変幻自在の草書体といってもいい。うまいたとえをするもので、その点、井上ひさしの狙いはどんぴしゃりであった。

この大連の六百日の間、二人がずっと一緒だったという印象があるのだが、この芝居の五場のうち一緒にいたという想定は、最初の旅館「日本館」の場と次の逢坂町遊廓の「福助」までで、その後の「町はずれの廃屋」、喫茶店の「コロンバン」、最後の「修道院のもの干場」と別々にどこかで暮らしていた二人がそこで出会うという設定である。実は存外この二人、淡泊なつきあいではなかったかということを思わせる。

それでも逢坂町遊廓「福助」の場でソ連兵に襲われるところは二人一緒で、これが事実かどうかはわからないが、似たようなエピソードはあったようだ。

ソ連が大連を占領する初期の頃だと思うが、二人は落語二人会みたいなやりかたで、あちこちで口演していた。その中に大きな豆腐屋に呼ばれて行ったことがあった。終った後、酒が出てせっかくだから泊まっていったらといわれるまま、二階に上がって二人で寝てしまった。夜明け前に、突然大きな音がして、それが機関銃の音に聞こえたものだからこれはソ連兵に違いないと慌てて手水場に駆け込んだ。なかなか音が止まないので小一時間ほどこもっていたが、ソ連兵にしては変だと出てきてみたら、豆腐屋の機械が動いている音だった。なるほど朝が早いわけだ。豆腐屋のおかみさんは手水場がなかなか空かないので実は困っていたと大笑いになったという話である。

「コロンバン」の場で明らかになるが、その後円生の方は落語じゃ食えないと役者になっていた。志ん生は飯も炊けないほどの生活音痴。器用に生きることなどハナから出来はしない。あっちこっちの炊き出しに立ち寄って腹を満たし、肌着まで酒と交換して着の身着のままその日暮らしを送っている。「町外れの廃屋」の場は志ん生の「火炎太鼓」をそのまま取り込んでいるが、ついでに出てくる幽霊は満州各地から大連に向かってたどり着けなかった女たちである。

志ん生は、この行き倒れた日本人の死骸を犬があさっているのを見たといっている。劇ではボロをまとってよろよろ歩く姿がユーモラスに描かれているが、実際は相当に深刻な状態だったらしい。何かしなければと考えついたのが煙草売り。一本を三つに切って量目を減らした煙草を百貨店の知り合いのところへ売りに行くと、それどころではないとにべも無い。そのやり取りを見ていた紳士が寄ってきて、あなたに頼みがあるから今から家にきてくれという。途中豚肉を五百匁(約1.8kg)ほど買って、女房の手前自分が贅沢をしていると思われたくないので、これはあなたの手土産だと言ってくれという。せっかくだからその芝居に付き合って、家にいくと歓待を受けた。それから何くれとその人の世話になっていたというが、それこそ地獄に仏、こういう出会いがなければ生きていなかったと述懐するほど、この頃の志ん生は大げさに言えば飢餓線上をさまよっていたのである。

最後の修道院の場面は、髭ぼうぼうで痩せ衰えて現れた幸藏(志ん生)を修道女がキリストの再来ではないかといろめきたつという話である。そういう偉いものではないと一生懸命説明するが、落とし咄、落語、小話、しゃれといっても修道女にはなんのことやらわからない。こんな咄はどうだ!と説明しているうちにだんだん修道女も分かりかけてくる。普通なら四人のうち誰かが噴き出してしまいそうなところだが、大まじめな顔である。

テレジア院長、抵抗して「人間は、いつかは死ななければならない。生きていれば必ず艱難辛苦におそわれる。だからこの世は「涙の谷」と言い、そこに笑いはないのです。」志ん生いわく。その笑いを作り出す人が咄家なのです。笑いを作ってどうしようというのですか?とテレジア院長。たとえば貧乏を笑いのめしてステキな貧乏にかえてしまう。悲しいことをステキな悲しさにかえてしまう。この世は「涙の谷」というなら、どうせ不幸や災難は襲いかかってくるでしょう。どんな不幸も悲しみも笑いで乗り越えよう、その災難をステキと思って乗り越えようというわけですよ、と志ん生。

渡された落語全集を四人が顔を寄せて読み上げると、たちまち哄笑が湧き上がる。なるほど、井上ひさしは落語の効用功徳とは何かというステキな咄で、この劇を仕上げてくれたものだ。と感心したのだが・・・待てよ。

僕の脳裏には妙な光景が浮かんできた。

墓場の下から志ん生がむっくり起き上がっていわく。

「こんな歯が浮くようなせりふをオレが言うわけがないではないか。ステキな貧乏?そんなものがあったらお目にかかりてえや。好きで貧乏したわけでもあるまいし。ステキな悲しさに変えるだあ?オレは手妻使いじゃねえぞ!話が面白くなきゃ笑わなきゃいいじゃないか。無理に笑っていただかなくて結構だ。誰が笑ってくれと頼んだか?そんな分別があったら落語家何ぞになっているか。おーい、一本つけてくれやい!あんまりステキで、寒気がしてきたよ。」

 

題名:

円生と志ん生

観劇日:

07/11/30

劇場:

紀伊国屋サザンシアター 

主催:

こまつ座

期間:

2007年11月14日〜12月2日

作:

井上ひさし 

演出:

鵜山仁 

美術:

石井強司

照明:

服部基 

衣装:

黒須はな子

音楽・音響:

秦大介

出演者:

角野卓造 辻萬長 ひらたよーこ 塩田朋子 池田有希子 森奈みはる 朴勝哲

 

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