題名:

フクロウの賭け

観劇日:

06/2/17

劇場:

シアタートラム

主催:

T Factory     

期間:

2006年2月9日〜2月19日

作:

川村毅

演出:

川村毅

美術:

島次郎    

照明:

キムヨンス

衣装:

伊藤かよみ

音楽・音響:

原島正治

出演者:

江守徹 手塚とおる 高橋かおり 飯尾和樹 伊澤勉 笠木誠
 


 「フクロウの賭け」

短編小説を読むような感覚の作品だった。

そもそも川村毅に ついては、去年と一昨年「劇作家協会」の新人賞選考会で見かけただけでまったく知識がなかった。毎年公開で最終選考会を行っているのを知って出かけたのだ が、その時二回とも司会をやっていた。まとめ役になっているのだろう。いづれにしても、これまでは僕の視界には入ってこなかった。第三エロチカというのは ときどき見かけていたが、それが川村毅だとは知らなかった。今度、彼のHPをみて不明を恥じた。

他の作品を見ていないから決めつけるわけにいかないが、小説を書くように劇を作るタイプの作家であり演出家なのだと感じた。ジャーナリスティックな話題を 描くにしても山田太一とも坂手洋二とも風合いの違う感覚、山崎哲などとは対極にある立ち位置とでもいえばいいか。

フクロウを育てて売るという浮世離れした商売に、長男を十五歳の時に少年グループによって殺され失った男といい、それが二十五年経って殺した側のものに出 会う話といい、リアリティという点からいえば綱渡りのような設定である。一つ間違えば復讐劇になるかその逆になるか、いづれにしてもその対立の関係はあま り生産的でない隘路にはまりこみそうなあやうさを抱えていたのである。ところが、その特殊で個別の関係性を昇華させ、現代が抱えている普遍的なテーマを取 り出して見せる手腕には感心した。


川村はおそらく少年犯罪が報道されるたびに何故こういうことが起きるのかと考えたに違いない。しかし、山崎哲のようにその動機から社会病理を引き出して見 せるという方向へは行かなかった。彼はおそらくそうした犯罪を子細に眺めながらそれを時間軸のある座標へ置いた。そして家族の喪失感や痛みとそれを埋める ために費やされた過酷な日々、また殺した本人と関係者の悔恨あるいは一生続くであろう社会的な制裁に思いをはせ、いわば死者の流した血がじんわりと座標を 伝わって、僕らの足下をぬらすのを見届けていたのである。
島次郎の装置は全体がこい灰色のモノトーンで、不気味な奥深さを秘めている。真ん中に狭い階段があり、登って右がアパートの一室である。階下は薄暗い自転車置き場。階段の左にはフクロウを売っている店舗があって、これはマンションの一角と思われる。

明かりが入ると、一人の男が奇妙なしぐさで立っている。肱まで覆う白黒斑の手袋をはめた片腕を曲げ、中空にかざして「ホウ、ホウ」と声を掛けているのだ。 鷹匠が鷹を誘うように、同じ猛禽類であるフクロウもそうして訓練するものだと分かる。やがてフクロウはこの男、黒川弘司(江守徹)の腕に舞い降りた、らし い。この開幕の場面は、タイトルにある「賭け」とかかわっているという点で劇のエピローグと呼応している。

黒川は外を飛ぶカラスの声に神経質に反応したり、ねずみやウズラ、ヒヨコなど小動物を運んでくる餌屋の権藤良平(飯尾和樹)に意地悪く当たったり偏屈で不機嫌で無口、人付き合いも悪いようだ。
近ごろはどんなものでもペットになるから驚かないが、はたしてフクロウを飼いならして商売になどなるのだろうか?気になったので調べてみたら種類によって 開きがあるが、一羽十四、五万円から五十万円というところだった。どうにか食っていけるだけのことはあるらしい。

何故、フクロウかといえば、勤め先の出版社を辞める前に担当したのが鳥類図鑑で、そのとき何となく興味を持ったのであった。趣味がこうじたわけではない。
その出版社で家族を顧みる暇も無く忙しく働いていたときに事件は起こった。十五歳の長男が少年に殺害されたのであった。加害者が未成年ということでどこの 誰が犯人か、裁判の行方もいっさい知らされなかった。民事で訴えることにして、その理不尽を乗り超えようとした。しかし、民事は裁判の方針を決めたり、自 分の証言を準備し、証人と交渉して協力をあおぐなどの重要部分のほとんどを自分たちでやらねばならない。僕も仕事上のことで、経験したが、弁護士はといえ ば、法廷用に文章を整理する程度のことしかやらないものだ。

これを勤めと両立させるのは難しい。その過程で妻とのいさかいが激しくなり、裁判には勝って、慰謝料の分割払いを承諾させたが、妻は次男を連れて家を出ていってしまった。出版社にいづらくなるのも当然だっただろう。
マンションの二階に引っ越してきた矢吹鮎美(高橋かおり)と矢吹ひとし(手塚とおる)の若い夫婦の部屋に明かりが入ると、薄暗いなかで、夫が白い手袋をし て八ミリ映写機を客席に向けて投影している。妻の問い掛けに人生の整理にはもう少し時間がかかるなどと、過去の映像を編集していることを思わせる。妻は パートに出ている様子だがこの夫が働いている気配はない。何かを恐れているようで、何度も引っ越しを繰り返していることがうかがえる。
ある日黒川は知り合いになった鮎美の家に行き、矢吹ひとしが八ミリを映しているのを眼にして、そこに見たことのあるような風景を見つける。横浜郊外のある公園の様子に見入っていると、矢吹鮎美は自分が小さい頃に住んでいたあたりだと説明する。

矢吹ひとしに定職がなくぶらぶらしていることを除けば、ごく普通の若い夫婦だが、どこか人目を避けている様子に黒川にはある疑念が湧き上がる。というのも 偶然そこで見た八ミリの映像が自分たちの暮らしていたあたりの風景とよく似ていたからだ。矢吹鮎美は五歳くらい時の記録で、そのあたりに住んでいたとい う。事件を知っていた可能性があるのだ。

黒川の次男孝司(笠木誠)が現れる。あまり家庭的でなかった父親を恨んでいるようで黒川に対して横柄な態度である。母親の元にあった調書記録を頼まれて 持ってきたのであった。今さらそんなものを蒸し返して何になるのだと孝司は父親をなじる。この親子の関係も事件の衝撃によって壊れていた。黒川はつぶさに これを読み返し、矢吹という姓といい、年格好から犯人だと確信する。 
そこで、ある日矢吹の家に上がり込んだ黒川が、ひとしを攻めると関係ないと否定する。決め手に欠いてその場を去るが、店に現れた矢吹鮎美が意外なことをい う。自分の兄が犯人だというのである。民事で慰謝料を支払うことを約束したがこれが履行出来なくなって一家で夜逃げしたと土下座する。この上は自分が働い て償うというが、矢吹ひとし本人がそれをいうべきではないかと黒川がいうと、現れたひとしは、自分は関係ないと繰り返すばかりだ。意外な展開だが、このと きの矢吹ひとしの眼には常人を超えた狂気が宿っている。怪優手塚とおる、面目躍如の場面である。

ついに黒川は我慢の限界を超えて矢吹ひとしに襲いかかる。
エピローグは、傷害の罪で服役していた黒川が帰ってくる日、奇妙な形に曲がった足を引きずって矢吹ひとしが待っている。黒川がいない間、店番をしてフクロ ウを飼いならしていたようだ。最初の場面では空からフクロウが黒川の腕におりてきた。「賭け」とは放たれたフクロウが、黒川の腕に帰ってくるか、あるいは 矢吹ひとしの革手袋におりてくるかというものだった。
短いプロットを暗転でつないでいく方法が小説を読むような小気味の良いリズムを作り出していた。一種の省略法といってもいいが、そのわずかに残される余韻が劇に知的な香りを加えている。

フクロウは「知の象徴とされ、森の思索者といったイメージも冠せられる」と川村毅は書いている。そのフクロウの目に私たちとこの時代はどのように見えてい るか?それが川村の問題意識だというのである。フクロウのように我々の世界を俯瞰するものの目には我々のことがよく見えているはずだというたとえに違いな い。「私たちがいやおうなしに抱えることになった精神の複雑さ。しかし、それに反比例するかのように私たちを取り巻く環境での思考回路はますます単純化し ているようにも思えます。それはあたかも複雑さから目をそらしたいがための逃走のようにも思えます。私はそれに批判的なわけですが、しかし一方でこの寒空 のなか街を彷徨するとき、単純へと向かおうとする情緒も理解出来てしまう自分を発見してしまい、おやおやと戸惑いつつ立ち止まります。」

残念ながら、フクロウにはなれない我々には、私たち自身の位置もどこへ向かおうとしているのかも見ることが出来ない。だからといって「まあ、こんなものだろう」とわりきってしまうのではほんとうのところへは近づけないのである。
だから正解はどこかにあるものとして、不断にそれを問い掛ける態度が大事ではないかと川村はいいたいのである。「私たちはどこへ行くのか、どこへ行くべき なのかではなくて、どこへ行くのか。『行くべき』という問いは自然と単純な答えを導くだけなのではないか。で、解答を求めないまま、『どこへ行くのか』と あたかも闇夜の彷徨のような無謀さで、世界の果てに向けて問うてみる。」

結局、少年犯罪という事件を被害者と加害者をとりまくものたちがたどった「その後」として時間軸に置いたとき交差するy軸なりz軸なりは何になるのか?モ ラルか、法律か?伝統的な文化か?宗教か?自然法か(そんなものがあったら)?それを考えつつ「フクロウの賭け」は書かれたのであろう。

それにつけても、ちょうど最高裁の上告審に被告人弁護人が出頭しなかったことで話題になっている事件のことを思い出す。山口県光市で当時十八歳の少年が近 所のマンションに押し入り23歳の女性を強姦し幼児とも殺害した事件である。夫は少年法によって守られていた下手人を自分の手で殺してやりたいと激しい口 調でいっていた。自分で出来ないなら裁判で死刑を求めようと一貫して活動してきたが、それが稔ったらしい。最高裁が上告審を開く場合、これまでの無期懲役 を廃して死刑判決を出す可能性が高いという。

こういう事件を目の前にしていったい僕らはどう考えればいいのか?しかもこういう犯罪は増えているように思えるのである。
川村がいうように「こうあるべきである」「これが正しい解である」というものがあったらそれほど楽なことはない。

この劇のシリーズ名「神なき国の夜」とはおそらくそのことをいっているのだ。「神」のいない我々の世界では複雑な事象を丹念に解きほぐしていつかは真実に 迫ることが出来ると信じて立ち向かうことしかできないのではないか?あたかも夜の闇を手探りですすむように。
 

 川村毅の感性には惹かれるものがあった。
役者では手塚とおるの怪優ぶり、高橋かおりの繊細さが印象に残った。餌屋の飯尾和樹はアジのある役者で、これからも期待出来そうである。                                                                                     

 


新国立劇場

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