題名:

二人の女兵士の物語

観劇日:

04/11/12

劇場:

新国立劇場

主催:

新国立劇場     

期間:

2004年11月8日〜21日

作:

坂手洋二

演出:

坂手洋二

美術:

種田陽平     

照明:

小笠原純    

衣装:

前田文子

音楽・音響:

島 猛

出演者:

小島 聖 宮島千栄
 
{ポスター}

 

「二人の女兵士の物語」


「雪山序景」に始まりその「終景」にもどっで終わる都合八つのエピソードの女優二人によるオムニバス形式の芝居である。女兵士といってもくわえ煙草で捕虜を苛める米軍の兵隊のようなものではない。「雪山」は浅間山榛名山など上信国境の山で、あきらかに連合赤軍の「兵士」のことである。あれが「女兵士」と言えるのかは疑問だが、他はスポーツ選手であったり、会社の女性社員や宇宙飛行士、ヒ素入りカレーの某ますみと時効直前につかまった殺人者某の対立など、「兵士」と喩える、あるいはその女二人を兵士に見立てるのはかなり無理がある話ではないかと思った。
そうはいっても、物語を説明する文章によると、この女二人は常に対立の場にいてそれがどんな程度であれ「戦いの場」だとすれば二人の女はともに「兵士」であるというのだから、この妙な強弁にはとりあえず従わざるを得ない。(日本語の文章では何を言っているのかさっぱりで、ここは並列の英訳の方が分かりやすい。)「兵士=Soldiers」という言葉は通常そんなに広汎な「対立」をすくい取る意味はない。坂手洋二がたまたま「詩人」だからゆるされた概念であろう。単なるケンカ、諍いを「兵士の戦い」のレベルに止揚する使い方は度を超えた比喩である。
のっけからこんな調子で始めると訳がわからなくなるのでモトイ・・・。
本来の小劇場のステージから客席のど真ん中へ向けて鋭く長い三角形の舞台を張りだし、客はその両側に特設された階段状のベンチに座って見ることになる。張りだし舞台の真ん中の穴から直径4,50センチ、長さ6,7メートルの木のように見える金属の柱が斜めに突き出ている。これには枝に見立てた細い棒が何本か生えていて毛のようなものがついている。柱の先端はら旋状に削られて細くなりワイヤーで吊られているようだ。美術の種田陽平は映画の人らしく木の皮に見える金属を貼り付けたり階段状に刻みをつけたりディテールに凝っている。これが時によって上がったり回転したりする仕掛けで、カメラで追ったらなかなかおもしろくなりそうな造形だ。
もともとのステージではしんしんと雪が降っている。暗転の中で「でえだらぼっち」の話が聞こえてくる。
関東に広く伝わる民話で一種の巨人伝説である。富士山が妹で浅間山が姉、姉は妹の背丈が高いのをねたんで「でえだらぼっち」に山を削って自分に積み上げろという。「でえだらぼっち」は土を運ぶがなかなか高くならないので浅間山が怒りだし、とうとう噴火したという話だ。富士山が妹分にまわるというのもいかにも上州らしい。山は相撲のしこ名にもある通り「姉妹=女」の喩えになるのは珍しいと思うが、それに格別の意味を見いだしているのは女同士と男同士の対立では違う何かがあるとでも思っているのか?
「でえだらぼっち」は漢字では「大道法師」「大太法師」と書くというがそれなら「一寸法師」の逆になるわけだ。確かめたわけではないがこの巨人伝説は巨根伝説でもあったのではないか?「一寸法師」には陰喩としてのそれがあるときいたことがあるので、あながち的外れでもあるまい。それに舞台の真ん中を占める柱は見ようによっては榊をたてて御幣をつけた梵天に似ている。関東東北から中部地方一帯に見られる祭りだが起源は不明、男根を神体とする民間信仰である。日本人のいわば古代における「ジェンダー」のおおらかな捉え方を示すものだ。「でえだらぼっち」が姉妹の阿呆な下男、ただのお人よしの巨人と見るならそんなつまらないことはない。少し深読みかもしれないが裏に巨根伝説があると思えば俄然おもしろくなるというものだ。
明りが入ると臨月近い腹をした女兵士K(宮島千栄)がこの柱に後ろ手に縛りつけられている。もう一人は銃を持った女N(小島聖)でそれを見張っている。Kは革命戦士としてふさわしくない行動を自己批判するよう迫られている。マニュキュアをしたり化粧をして男に媚を売ろうとするのは資本主義社会と完全に決別していない証拠だと言うのである。Kはそんなことはないと反論する。Nは体も小さく持病を抱えて男に相手にされないから嫉妬しているのだと本音をたたきつけるが、Kの相手であるYもすでにあなたを見捨てたではないかと応じる。するとKは永続革命にはそれを担う子どもが必要だ。自分はこうして戦士になるべき子どもを生もうとしているがNにはできないではないかと一歩も引かない。この言葉によるバトルはまさに女兵士の戦いといってもいいだろう。一方は縛られているがそのハンディを大きな腹がカバーして互角と言える。子どもを宿した女の強さである。終いには、Kが女の美貌を武器にして大企業に潜り込み、中枢の男を籠絡して軍資金を得る方法もあるというので、なるほどその方が数段よかったのにと感心した。このエピソードの中で秀逸の発言だったと思う。
おそらく坂手はこの話に想を得て物語を書きだしたものと思われるので、少し脱線するかもしれないが僕自身の体験を交えた感想を述べて置きたいと思う。
実際の事件におけるKとは金子みちよ、Nは永田洋子である。
当時連合赤軍の事件は連日新聞で報道された。読むと必ず吐き気をもようした。この三十年の間獄中記も記録も随分出たがいっさい手にしたことはない。何が起きたかは想像できた。考えると言い様のない悲しみと体の底に痛みを感じた。あれ以来長い間浮上しようとするたびに無理やり押さえつけてきた負の思い出である。最近、「朝生」に出た植垣(弘前大理学部・当時)の話をもとに田原総一朗が事件を「総括」した本を立ち読みした。(買って手元に置く気にもならなかった。)植垣は党中央=政治委員会の指導決定に従うのが赤軍兵士の立場だとなかなか説得力のある建前を言っていた。これが本当だとすれば劇中のNは党中央のNo.2だからKがため口をつける相手ではない。また、Kが総括されそうな兵士を薪を採りに誘って逃がそうとした話は植垣が書いたエピソードを採用している。植垣は番組の最後に世界史的にはまだ社会主義の総括が終わっていないとつぶやいていたが、昔からこの男は折角の発言もちゃかした様に聞こえるのが損なところである。もっともこんなおしゃべりだとは一同の驚きが先立ってしまったかもしれない。一緒だった青砥幹夫(弘前大医学部)が沈黙しているのとは実に対称的である。
金子みちよ(横浜国立大・当時)には会ったことがある。昭和42年(1967年)夏、僕が横浜国大にいた友人の越後暁彦(故人)の下宿に居候していたときだった。劇中のYすなわち吉野雅邦(横浜国立大・当時)を探して金子が訪ねてきたのだ。板戸ががらりと開いて薄暗い廊下を背に小柄だが端正な顔立ちの女の子が立っていた。美形である。都会にはこんな目も覚めるような美人がいるのかと田舎者は驚いた。すぐに帰っていったがこの時の記憶はなぜか鮮明に残っている。吉野は学生運動にのめり込んで、元町の金持ちの家庭教師を仲のよかった越後に譲って地下に潜ろうとしていたのだ。その後吉野はあさま山荘で銃撃戦を戦いつかまった。母親が「まあちゃん、早く出てきて。」と呼びかけたことでこの事件のやりきれない構図が見えてしまった。
劇では金子と永田の二人を女兵士の対立に見立ててこの事件の坂手なりの総括をしたものだろう。病弱でもてない女と美人で男が寄ってくる女のバトル。よくある分かりやすい話だ。僕にはどこがおもしろいのかさっぱりわからなかった。植垣の言い方を借りれば、そんな感情が湧くのを自分で律することが兵士としての至上命令である。彼らは必死で皆それを克服しようとしていた。しかし、自分の未熟さを告白(総括)したものから順に粛清されていったのだ。この事件にはせいぜい二十年しか生きていない人間の世間擦れしていない純粋さ、きまじめさが自分自身を追いつめたというにおいが充満している。
坂手はこの事件から女同士の対立を切り取ってきたが、それはまあ、はっきり言えば俗流である。
ただ、今にも生まれそうな大きな腹だけが「巨大」なリアリティを発散していて、終景にそれがしぼんでいるというその部分だけには坂手の才を感じた。
Kが言った大企業に潜り込んで男を籠絡する話も出てくる。そのつもりだったが本気になってしまってどたばたするという進行で、課長がどうだ部長がどうしたと革命ははるか彼方に行ってしまった感がある。
カレー事件の林真須美と整形逃亡の福田和子が団地で対立するエピソードは意表をついていておもしろい。この二人が対決する理由はないが互いに腹の探り合いをすると同時に密告する脅しと言うスリリングな仕掛けがあって実際の事件に取材する坂手の面目躍如というところだ。福田(宮島千栄)が自転車に乗って舞台下の僅かな空間をぐるりと走るのは演出上の変化ワザに見えるが、よく考えると福田が追いかける刑事からタッチの差で逃れるときに使ったのが自転車だった。この凶悪事件の犯人たちを女兵士とみるのはいいが、ならば彼女らは何と戦ってるのだろうか?それともこの女同士の会話がいかにも女性ならではの感性の表出として描かれているといいたいのか?話はおもしろいがうまく落ちない落語のようだ。
第六景で突然宇宙飛行士が出てくる。火星に到達した人類の第一歩と称してスローモーションで歩く飛行士が実はスタジオで撮影しているものだということがわかる。月に行った米国の宇宙船にして実は密かに撮影したものだという。冷戦下で激しく宇宙開発競争を繰り広げていた時代の産物で、第一月に行く用事は何一つなかっただろうと言うのだ。ここで観客は大いに笑う。考えてみればその通り。山本夏彦が自分のエッセーのタイトルでもっとも気に入っているのが「何用あって月世界へ」だといっている。「何用あって月世界へ。月はながめるものである。とこれですべてだ、わかる人にはわかる、しかし西洋人なら千万語を費やすだろう。」と書いている。けだし卓見である。
一人の女は納得しない。虚偽は不正義だというのである。ここでも二人は対立する。テレビショーとしての「実況」をつくりだす広告代理店の存在が不気味だ。しかし、そんな話は周知とも言える。山本翁のいうとおり。その証拠にかつて血道を上げた米国ももう行こうともしない。格別用事はなかったのだ。
終景はまた雪山に戻ってくる。Kは縛られているがもう腹に子どもはいない。なんという弱々しさだ。だからといってNが勝ち誇っているわけでもない。二人の女兵士の戦いはどうにも終わらないらしい。
この芝居は女性性をテーマにしているのは明らかだが、では性差はどこに表現されていたのか?坂手が見つけたテーマはいいが、フェミニズムの議論に触らないで「女性性」を浮き彫りにするのは難しい。と言うより意味がない。つまり社会的に編成されたジェンダー論なしに、語られる性差は一般論に過ぎない。ボーヴォアールが言う通り女は「女性になる」がだからと言って女であることから逃れられるわけでもないからだ。近ごろフェミニズムの旋風が止んだのはあらかたの議論が出尽くして、男にあるものは女にもあるという認識になったからである。しかし女にあって男にないものがすなわち性差でそれを社会的に認めていこうというのが世の趨勢である。危険なのはそれが逆立ちして女は(あるいは男)こうあるべきだなどという「べき」論がはびこることである。
坂手は、「鎮魂の構造」という短いエッセー(パンフレット)の中で「これは『鎮魂の劇』である。」といっている。極めて難解な文章で困惑するが要旨は「鎮魂と演劇は世阿彌の昔から本質的に関係性があるが現在の演劇はそれに無自覚である。しかし、無意識の世界ではそうした関係性が機能しているはずだ。無意識だから、わかるものでも触れられるものでもない。ただ演劇という構造(形式というのか)の中を通っていくなにものかとして『観客とともに感じたことの手応えだけが劇場を飛び交っている』と言う状態が理想だ。」というのである。最後に鎮められる魂は死者だけのものとは限らないと結んで観客との関係性を示唆する。要するに自分の芝居は少し分かりにくいかもしれないが、その劇空間に漂う空気のようなものを感じ取って貰いたいと言っているようだ。そうは言ってもこの人の芝居は「ブレスレス」の時も思わず「若書き」と言ってしまったが、「演劇的とつ弁」とでもいえばいいか、わかりにくさ、取っつきにくさがあることは否定できない。
劇場の空気感はひとまず共有できたとして、一方観客の理性に訴えることも重要であろう。この芝居の場合女兵士という言葉を選んだのが適切であったかどうか疑問である。兵士という言葉の本質には無名性がある。上官の命令にしたがって目的を達成するのが兵士である。上官にとって兵士に人格はいらない。植垣たちが目指したのはこの徹底的な自己放棄である。自己の兵器化である。兵士には名もなければ性もない。本来「女兵士」とは形容矛盾なのである。こんな話なら「二人の女」とでもしておけばよかった。
宮島千栄は「犀」ではじめて見たが、美人女優と言う印象だけで役者としてはこれからだと思った。この芝居では特に表情の作り方がうまく格段の進歩を感じた。ただ「犀」の時にも気になったが全身のコントロール=表現が弱い。鍛え方次第でもっと存在感のある女優になれるだろう。小島聖は器用な役者である。さまざまな役どころを無難にこなすのはいいがまだ才能に寄りかかっている。いい演出家に出会うといいが。
「でえだらぼっち」の土俗的な話と舞台に突き出た御柱はおもしろい空気感を醸した。
しかし、それなら女のバトルなどという狭い世界に閉じこもる必要はなかった。
帰り際にうしろの方の男が「いやあ、すっかり寝てしまった。」とかわいそうなことを言っていた。入場料払ったのに、寝かしつけては鎮魂にもならないのではないか。
   

          (11/23/04)

 

 


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