題名:

ガラスの動物園

観劇日:

06/2/10      

劇場:

新国立劇場   

主催:

新国立劇場   

期間:

2006年2月9日〜2月21日     

作:

テネシー・ウイリアムズ      

翻訳:

小田島雄志     

演出:

イリーナ・ブルック          

美術:

ノエル・ジネフリ

照明:

服部基           

衣装:

黒須はな子            

音楽:

フランク・フレンジー 
出演者:
木内みどり 中嶋朋子
木場勝巳 石母田史朗

「ガラスの動物園」

不思議な色彩の照明である。自然光に近いが象牙色に透き通っている。その柔らかな光が、舞台を取り囲むように三方から下がったクリーム色の壁紙のような布を明るく照らしている。舞台にはすでにトム(木場克巳)が登場しており、下手寄りに置かれたソファにかけたり、上手のダイニングテーブルで煙草を吸ったり所在なげに幕開けを待っている。
これはトムの回想劇なのだ。故郷セントルイスを去ってから何年も経っている。したがってこの劇で語られる母と姉の物語の時期よりも回想するトムはずっと年を取っている。姉ローラを演じる中嶋朋子の幼さに比べて年長に見えるのは、このトムが思い出を語る前口上のあと、そのまま回想劇の登場人物になるという事情による。
演出は、物語全体が遠い日の出来事であり、トムが自分たち家族の一つの挿話=エピソードを語るという完結した構造を劇が持っていることを明示した。その頃靴屋の倉庫で働いていたトムは、満たされない日々を密かに靴箱の裏に詩を書いて過ごすことで癒していたが、物語は詩人の脳裏に描かれた繊細な美しさに輝く思い出である。不思議な色彩の照明は、その思い出に時間という薄い紗を掛ける意味を持っているといえる。あとで気がついたのだが、この初めて体験するような淡く黄ばんだ明かりの感覚は、緯度の高い北ヨーロッパの陽射しに由来するのではないかと思った。
実際垂れ下がった壁紙は紗幕になっていて、ある日突然家を出ていった父親の写真が大きく映し出されたり、ガラス細工の動物がのせられた銀のトレイが回転する映像が流れたり、その奥でハイスクール時代のジム・オコナー(石母田史朗)がオペラの扮装で現れたりする。
物語は、ひきこもりがちの姉ローラの将来を案じている母親アマンダ(木内みどり)がトムに誰か適当な相手を家に連れてくるように頼むところから始まる。ローラは僅かに足を引きずることに必要以上の劣等感を抱いていて、三十歳になるというのに職にも就いていない。わずかな慰めといえば、レコードで聴く音楽と、手のひらに乗るくらい小さなガラスで出来た動物のコレクションである。一方トムは家族のためにつまらない仕事にしばられていると感じ、毎晩映画に行くといっては家を出る日々であった。ある日、トムは同僚のジム・オコナーを連れて来ると告げる。アマンダは久し振りに若い男が家にやって来るというので、ローラ以上に喜んでいる様子だ。何しろ南部の裕福な家に生まれたアマンダは、若い頃は求婚される相手が引きも切らなかったというのが自慢なのであった。ローラにとってジム・オコナーは一つ年下だったがハイスクールのあこがれの的だった。そのヒーローが家にやって来るというので興奮していた。しかし、卒業アルバムを出して確かめてみるとジムはすでに婚約しているとあった。ローラは密かにがっかりする。
アマンダは黄色いドレスに若やいだ化粧をし、ローラには青いドレスを着せてジム・オコナーを迎える。食事の間中しゃべっているのはむしろ母親のほうだった。やがてリビングで二人っきりになったローラは、ハイスクール時代のジムを知っているという。ジムもようやく思い出してローラはほっとした。婚約のことを切り出すとジムは結婚しなかったという。ジムはローラの足のことも覚えていて、君が思っているほど気にしているものはいない。だから、コンプレックスを捨ててもっと明るく生きなくてはいけないと励ます。ジムは向上心が強く、靴屋の倉庫で働きながらロースクールを目指していた。ローラは動物のコレクションを自分の宝物として見せる。一番のお気に入りは一角獣=ユニコーンのガラス細工だ。ジムは繊細で美しいと思うがローラがその場所にいるのは良くないと思ったのか突然踊ろうと手を差し出す。ローラは戸惑うが、やがて二人は肩を抱いて踊り出す。ローラにとっては至福の時だった。しかし、突然ガラスの割れる音が・・・。踊りをやめて動物のトレイを見ると、ユニコーンの角が折れていた。(僕は最前列で見ていたのだが、このとき手品のようにさっき見たユニコーンの角が無くなっていたのには驚いた。)何かの前兆のようであった。ジムは、ローラが自分に近づいてきていることを悟ってそろそろ辞すときだと思った。そして、ローラに自分には将来を約束した女性がいると告白する。見る見る意気消沈していくローラを残してかつてのヒーローは帰っていった。再び彼女はガラス細工の世界へ戻ったが、トムにはおそらく姉の中で何かが変わったに違いないと思った。そして、トムはまもなくこの家をあとにする。
ジムは儲け役ともいえるが、石母田史朗がさわやかな風が通りすぎたようなスマートさをみせて印象深かった。
中嶋朋子のローラはもともとベビーフェースのところが役柄とずれていると思ったが、繊細で傷つきやすく内向的でロマンティックという難しい性格をこの人ならではの表現力で描いたのはむしろ収穫だったといえる。性格は違うが「北の国から」の蛍、特に成長してからの蛍の芝居の質を思い出した。
ジム・オコナーが明日、家にやって来ると聞いてローラが鏡の前に立つシーンがある。自分の顔を愛おしむように抱いて、思い出に浸っているのかしばらく見入っているのだが、このときの一連の官能的なしぐさは忘れられない。イリーナ・ブルックがそうさせたのかも知れないが、それならばなおさら男の演出家の発想にはないもののような気がした。そして、中嶋もそれに十二分に応えたのである。
アマンダはもっとも重要で難しい役だといってもいいだろう。作者テネシー・ウイリアムズが母親をモデルにしたといわれている。作者自身を投影したトムの追想という想定で書かれたこの劇においても、記憶の中の母親は美化されて描かれている。はずだったが、木内みどりのアマンダはどうにも感心出来なかった。父親に出ていかれて関心のすべてを二人の子供に向けざるを得なかった口うるさい母親、若かった頃の思い出の中に生きるしかない不幸な女、そうした否定的な部分が強調されすぎていた。
若い男がやってくるとなると、まるで自分が昔の南部の娘に戻ったかのように心が浮き立ち華やいでしまう。食事の席でも一人でしゃべり肝心のローラの話を挟む余地も無い。それはいいのだが、南部の誇り高い裕福な家の娘という感じがもう一つだせていなかったのが残念だった。黄色いドレスに着替えて出来たときには、勿論メークも変えていたがこの化粧の似あっていなかったことはいったいどうしたことかと思った。どうもがさつな印象だけが残って、これはミスキャストではなかったか。
ここのドレスには多いに問題があった。多分戯曲にアマンダは黄色いドレス、ローラはブルーの、と指定があるのだろうが、黒須はな子の衣装はまるで身体に合っていなかった。色合いも原色が強すぎて、日本人の体形には不似合いである。
アマンダを演じた女優について谷村真理子(川村学園女子大学教授)が書いた文章(パンフレット)を読むと、ポール・ニューマンが撮った映画版では、妻君のジョアン・ウッドワードが演じているそうだ。(トムはジョン・マルコビッチで同じキャストの舞台を映画化したもの)中でも僕も観たかったと思うものは、クリスチャン・スレーターのトムに対して、ジェシカ・ラングのアマンダである。このときのアマンダの存在感は他の役者を圧倒していたという。
かくもアマンダはこの劇にとって重要な役どころであるにもかかわらず、こんどの芝居ではあまりにも大作りで繊細さを欠いた存在になってしまった。演出家の問題かもしれない。
ところで「動物園」がMenagerieとなっているのに興味を抱いて調べてみた。これは単純に英和辞典を引くと「巡回動物園」とでている。さまざまな動物を檻にいれて、町々を廻ってみせる動物園の意味である。何だか納得し難くて英英辞典を調べてみた。これにも「檻にいれて見せるための野生動物のコレクション」とあったから文字通りの意味である。その辞典にはこの言葉は17世紀の末にフランス語のMenagerieあるいはMenageが入ってきたものとあった。そこで仏和辞典を開いてみるとMenageのほうには主婦とあった。英語のそれに戻ってみるとThe Members of a household とある。“維持する”というラテン語から来ているらしい。
そこで僕は、タイトルはローラのガラスの動物のコレクションを指しているが、ひょっとしたらガラスがアマンダ=主婦にも二重の意味でかかっているのではないかという仮説を立ててみた。あれこれ考えて結構楽しんだが、人に言うのは恥ずかしいからやめておこうと思う。
99年4月に見た地人会の公演では、アマンダ役は江波杏子であった。ローラがつみきみほ、トムは小市慢太郎だったが、ほとんど記憶に残っていない。
ジェシカ・ラングで見ることはかなわないが、せめて少し前だったら奈良岡朋子、加藤治子、いまだったら三田和代、田岡美也子あたりで見てみたいと思っている。
イリーナ・ブルックが親の七光りなどではないことがよく分かった。

                             

 

 


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