題名: |
「月光のつ々しみ」 |
観劇日: |
02/12/20 |
劇場: |
本多劇場 |
主催: |
竹中直人の会 |
期間: |
2002年12月5日〜29日 |
作: |
岩松了 |
演出: |
岩松了 |
美術: |
日比野光希子 |
照明: |
日高勝彦 |
衣装: |
伊藤佐智子 |
音楽・音響: |
藤田赤目 |
出演者: |
竹中直人 桃井かおり 坂井真紀 篠原ともえ 北村一輝 岩松了 |
「月光のつ々しみ」
「・・・いや、いいのよ、冬場の扇風機ってのも・・・だいたい用がなくなったからって、この季節、押し入れか何かにしまっとくと暗がりん中で何たくらむかわかったもんじゃないしさ。」
こういう無意味なレトリックと逸脱に寛容になれたら、岩松了の世界ももう少し楽しめるかもしれない。
例によって、普通の家の普通の居間である。 下手に風呂場とトイレに至る出入り口、中央奥に二三段の階段を上がって、上手方向の玄関に至ると思われる廊下、この廊下は部屋の側から見えないのだが、なぜか壁の一部が開いていて、どたばた歩く足もとだけが見える。下手奥に階段があって左に回り込んで上るその先には台所があるらしい。正面には細長く開いた出窓があって、向こうの暗がりではひっきりなしに雪が降っている。
美術の日比野光希子は、演出の注文だったのか、なんとも奇妙な家を設計をしたものだ。バストイレは居間と同じフロアにおいて、台所は階上に置く、というのは何か事情があったのか?玄関よりも居間を低くしなければならなかったのは地形のせいか?などといらぬ想像をたくましくしてしまう。〈あとで、「事情」は判明した。〉
ものがたりは、故郷の地方都市で教師をやっていた姉(直子=桃井かおり)が、新しい仕事口を探して、結婚したばかりの弟夫婦(民男=竹中直人・若葉=篠原ともえ)の家にきていて、そこへ、幼なじみの従兄弟(宮口ひでゆき=北村一輝)と婚約者(牧子=坂井真紀)が加わって食事をしようということことからはじまる。
民男と従兄弟の宮口は幼なじみだから昔の思い出話で盛り上がる。牧子は取り残された気分である。そこへ、直子が帰ってきて、「ひでゆきくん」と子供のころの話や故郷の親の話をしてはしゃぐ。
宮口(ひでゆきくん)はこの年上の従姉妹にあこがれを抱いていたようである。民男も牧子も話しに加われない。 若葉もまた、直子と民男の間にある絆に軽い嫉妬を覚えている。 このあたりは、日常よくあるちょっとした疎外感というやつで、普通に大人になったなら「まあ、こんなものだ。」と笑い飛ばしてしまうものだが、岩松の感性は、こういうのを見のがさない。この心の機微をなんとしても描きたいようである。
そうこうしているうちに、台所に行った牧子が血だらけになって下りてくる。(ここを劇的に見せたかったから台所を階段の上にしつらえたと僕はにらんでいる。どうもねえ)手首を切ったのだ。妊娠している身で、婚約者の宮口に浮気をされ、それに疎外感が追い討ちをかけたようだ。傷はたいしたことがなかったが救急車を呼ぶことにしてとりあえず直子のベッドに寝かしつける。
直子には故郷の同僚から帰るようにとの連絡が入るが、そのとき、直子が生徒とその親にたいして、学校にいられなくなるような何かをしでかして、民男のもとへ来たのだということがわかる。テネシー・ウイリアムズだ!
夜遅くその田中(岩松了)という同僚が迎えにやってくるが、直子は追い返す。田中は直子に気があるらしくプレゼントを置いて帰る。しかし、直子はそれを窓から雪の中へ投げ捨ててしまう。民男の説得で、気が変わったらしい直子は、プレゼントの箱を探しに積もった雪の中にでる。そこへ民男も加わって・・・窓の外で二人が大騒ぎで探している声だけを聞きながら、若葉も玄関に向かいかけるが、廊下の途中でふと、足が止まる。舞台には誰もいない。壁に開いた空間から、その足もとだけが見えている・・・エンド。(この足を見せたかったのか!と僕は気がついた。しかし、どうかねえ)
話の筋立ては、なかなかうまくできていて、ドラマとしてはまずまず完成度が高いといえるのではないか。ああいう「ブランチ」もどきなら病院からお迎えが来る心配もないから一応ハッピーエンドで、ほっとした。 この芝居は、嵐のようにやって来て静かな日常を引っかき回す「姉」の存在が狂言回しとなって、〈まあ強いていえば故無いわけでもない〉自殺騒ぎと姉の謎めいた行動という骨格で構成されている。 傍若無人という少し誇張された姉の性格が面白くて、「軽い疎外感」と僕がいった部分は、物語としてそれほど重要だと感じられなかった。プロットを繋ぐ役割のいわば「お愛嬌」にすぎない。
ところが、それこそが岩松劇の真骨頂であり、癖になる原因だとして、ディテールの描き方にこだわって楽しむ向きもある。〈パンフレットの松岡和子の文章〉
ぼくにいわせれば、民男とひでゆき、ひでゆきと直子の昔話、故郷の話の作為的なつくりが気障りで、彼らが思い出に浸って笑いあうたびに薄ら寒い気持ちがさきにたってしまう。
「なんかもう、しっかり大人の悩み持ってた人のような印象があるんですよ。」(パンフレットから見つけたせりふ。)という、とても日常会話とは思えない調子で、妙に理屈っぽく、説明的で、早い話が、彼らが幼いころ過ごした街の風景も一緒に遊んだときのことも、彼らの親しい人たちについても何一つまったく情景として思い浮かばないのだ。(こういうのがうまい人は女性作家に多い。〉
話は聞いた。しかし、感情移入ができない以上、しらけるしかない。 こういうときに、岩松が何をいいたいかは、痛いほどわかる。 しかし、困ったことに、岩松はそれを表現する文体を持ちあわせていない。 岩松は作為の人である。変な言い方だが、せりふの一つ一つに作為を凝らすのが、岩松のいわば癖である。どうしても、せりふのことばにたくさんの意味を込めたいと思うから、平易ないいかたをしても、観念的でコンセプチュアルな印象になってしまうのだ。教養がありすぎるのかもしれない。〈昔、こういうタイプの学生がいたよな。〉
この印象がたくさんの「言われなかった言葉」を想像させ、岩松劇の魅力になっていると、松岡和子はいっている。確かにそれが特徴になっていることは認めるが、芝居の中で一瞬言われたせりふの意味を取りそこねると、込められた含意を味わうどころか、置いていかれてしまうのも事実だ。思わせぶりのせりふも、わかってもらえなかったら無意味な修辞法にすぎない。(それが癖だから仕方ないかなあ。)
故郷の思い出話にいささかもリアリティを感じなかったが、たとえば、自殺未遂の原因を尋ねられて、宮口がいうせりふ「だって、あんなんじゃ他の女の顔も見られやしない。・・・」と嫉妬深い妻をあげつらって、浮気していたことに開き直りを見せるときなど、妙に現実味を感じるところもあった。さては、書いた本人が体験者か?
それにしても、あの幕切れは何を意味しているのか? 軽い疎外感、軽い嫉妬を若葉の立ち止った足で表現し、ある種詠嘆を残して幕を閉じる。自分の夫と自分の間に夫の姉が割り込んでくるはずもないものをなぜか心が揺れる。そんなふうに、日常の中にほんの一瞬ついた傷みたいなものが、いとおしいのだといっているのか?
どっちにしろそのあたりに違いない。しかし、それがどうした。と僕はいいたい。
むしろ、この直子という女の存在感と牧子の自殺未遂を巡るものがたりを創造しえた岩松のドラマ作りの力量をとりあえず評価したい。
桃井かおりがこれほどやるとは思ってもいなかったので正直びっくりした。ディテールの表現はいまいちだが、役柄の性格をよく表して猛優ぶりを示した。
収穫は、宮口の北村一輝である。どんな経歴かはしらないが、この役柄をけれん味なくどうどうと演じてたのは、若いのに偉い。将来性を感じる。
竹中直人は、文句なく達者である。いや、そのままのキャラクターで済ませてもいいくらいだ。どんな役柄でもできる役者だから、岩松了とやるのはいい加減にしてもいいのではないか? 牧子の坂井真紀は、少し元気がなかったが適役と言えるだろう。篠原ともえは、キャラクターがいかされていなかった。