<%@LANGUAGE="JAVASCRIPT" CODEPAGE="932"%> 新私の演劇時評
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題名: 表裏源内蛙合戦
観劇日: 2008/11/14
劇場: シアターコクーン
主催: シアターコクーン
期間: 2008年11月9日〜12月4日
作: 井上ひさし
演出: 蜷川幸雄
美術: 中越司
照明: 室伏生大
衣装: 小峰リリー
音楽・音響: 朝比奈尚行
出演者: 上川隆也 勝村政信 高岡早紀 豊原功補 篠原ともえ 高橋努 大石継太 立石凉子 六平直政 アサヒ7オユキ 福本伸一 木村靖司 富岡弘 二反田雅澄 大富士 飯田邦博 塚本幸男 堀文明 田村真 星智也 澤魁士 野辺富三 蜷川みほ 今井あずさ 山崎ちか
 

「表裏源内蛙合戦」

1970年、劇団テアトル・エコーが恵比寿の稽古場に定員八十あまりの小さな劇場を作った。そのこけら落としで上演されたのがこの作品である。
戦後すぐ(1950年)に北沢彪が中心になって活動を始めた勉強会「やまびこの会」がやがて劇団に発展したのがテアトル・エコーである。北沢は戦前、長岡輝子らとフランス喜劇を上演するグループを作ってたびたび公演していたが、その喜劇をやりたい若い連中が周りに集まってきたという。社会主義リアリズム全盛の時期だから痛いほど気持ちは分かる。あんな馬鹿にまじめなものばかりではかなわんと思ったに違いない。
そのモットーに、わが国では、喜劇が一段程度の低いもの といやしめられて来たが、“喜劇”こそ現代を映し得る演劇と信じ、その復権を目指す、とある。ルーツにはフランス喜劇(コメディ)があるから、喜劇といっても昨今のおばか、お笑いブームにはなんの関係もない。
創設以来、キノトールが座付き作者兼演出家のようにして、主として彼の作品を上演してしてきたが、井上ひさしがはじめて参加するのは69年「日本人のへそ」(熊倉一雄演出)である。この頃井上は、NHKの「ひょっこりヒョウタン島」で評判をとったにもかかわらず、この番組が「教師に対する抵抗を説いたもの」という批判を浴びて放送打ちきりになったばかりで、活動の場をほかにも広げようとしていた時期に当たる。三十六歳、まだ知名度はそれほどでもないが、浅草ストリップ小屋のコント作家に始まるキャリアは十分、書き手としては脂の乗りきった年齢といえる。
しかも、当時は東大、日大闘争から全国の大学へ全共闘運動が波及していく70年安保闘争の騒然とした社会の中で、やや下の世代になるが唐十郎(状況劇場)寺山修司(天井桟敷)鈴木忠志(早稲田小劇場)佐藤信(黒テント)らをはじめ無数の小劇団がアンチ新劇を標榜してそれぞれが独自の活動をしていた。(蜷川幸雄もこの頃、あまりさえない役柄でTVや映画に顔を出していたが、所属していた劇団青俳が分裂、岡田英次、清水邦夫らと「現代人劇場」を結成して演出家としてのスタートを切っている。)
芝居を作る側が既成の権威をこわして新しいものを目ざす一方、見る側もそれに呼応して演劇の世界は熱気にあふれていた。だから、この作品のように、四時間にも及ぶ言葉と音楽の氾濫、猥雑で下卑ていて過剰なまでの露悪趣味にもかかわらず、共感を持ってみることができたのである。それは変革が自分にとっても社会にとっても一種の正義であるという共犯意識が成立していたからだといえる。

前置きが長くなったのは、「道元の冒険」の劇評冒頭で、蜷川幸雄と井上ひさしは相性が悪いと書いたが、それをもう少し説明しておこうと思ったからだ。
というのも、この芝居も「道元・・・」とほぼ同時期に書かれており、同じように華々しい見せ場が次から次に繰り出されるにもかかわらず、しかも四時間という長丁場を半ばうんざり、げんなりしながらでも投げ出さずに見られた(何だか複雑な言い方になるが)にもかかわらず、いっこうに面白くならないまま終わってしまったという点で変わりがなかったからである。
その一つの理由は、相性の問題というよりは、むしろ時代の違いにあったかもしれない。「道元・・・」も同じことだが、なにしろあれから四十年もたってしまった。あの語呂合わせや地口、言葉遊びのあふれ返る饒舌さは、もう一方に唐十郎や寺山修司の華麗で詩的、夢幻の想像をかき立てる饒舌さをおいたときにその情熱がよりいっそうきわだつのである。「喜劇」を標榜する「テアトル・エコー」(=井上ひさし)の立ち位置と心意気とはそのようなものであった。加えて沸き立つような「異議申し立て」の世相をおいてみなければ、観客があのような長く濃密な時間に感情移入し続けられたことは理解できないかもしれない。
一方、私たちの現在は、抵抗する気さえ萎えてしまうような長い閉塞状況にあり、誰もが孤立し道を見失っている。いわば躁状態の演劇を受け入れる素地が見当たらないのである。そういうかみ合わない事情があったことは、しかたがなかった。とはいえ、それを気にも留めないで、ほぼそのまま舞台にのせて見せるという時代感覚は責められてしかるべきだろう。多くの観客は、戸惑いを覚えに違いない。

もう一つの理由は、「喜劇」というよりは「人間」というものの捉え方が蜷川と井上ではまったく違うということに原因がある。そのためにテアトル・エコーという劇団に言及する必要があった。
この芝居は、平賀源内の一代記でその生涯が克明に描かれる。あまり知られていない天才の実像を照らし出したすぐれた評伝劇であるが、背景として江戸中期の庶民の暮らしが執拗に語られる。源内の人物像を浮き彫りにするには、享保の改革で押さえつけられていた民衆のエネルギーがさまざまなところで噴出してきた時代の様相を際立たせる必要があったからである。
たとえば、新吉原の場面は、武士と町人が花魁をめぐって争うとか花魁が偽の起請文を渡して男を騙すとか生身の男と女のさまざまな駆け引きがあるのを短く重ねる。「手明かりの中に浮かび上がる花魁と遊客の淫(たわむ)れ姿」というあられもない男女交合の様子を、蜷川演出は、いかにもきまじめ、直情的に表層だけを露悪的にみせる。郭文化に対する共感もなければ、「面白うて、やがて悲しい」人間の営みの滑稽さには思いが至らない。
両国広小路の見せ物小屋や女相撲、屁こき男らが登場する場面も、にぎやかで華々しいが、地からわきあがるような祝祭としてのおおらかな笑いに乏しい。劇中における役者たちは見せ物でも放屁男でも「芸」を見せて生きている役柄であるにもかかわらず、その情熱があまり感じられない。そういうとぼけた味わいを表現できる役者を配置すべきだったが、演出家に「笑い」あるいは喜劇を作ろうという気が始めから無いのではしようがない。
井上のことだから、この「芸」を見せるべき場面は数多く仕込んであったが、特に第二幕冒頭の裏の源内(勝村政信)による長々とした講釈坊主志導軒の口上は、舌打ちしたくなるほど残念だった。これは風来山人こと平賀源内が書いた草双紙「風流志導軒伝」の主人公になったつもりで、源内の一代記を語って聞かせようというのだが、せりふは「講釈」の名調子なのにしゃべっているのが俳優のままである。解釈の違いといっても明らかに書かれたものを楽しんでいない。(小沢昭一でもつれてきたらよかった。)
初演は熊倉一雄が演出して自ら出演(裏の源内、表の源内は「ルパン三世」の声優、故山田康雄)している。もちろん僕はこれを見てはいない。彼のあの独特の間延びした声優ぶり(「ヒッチコック劇場」の吹き替えで知られる)を知っているものは多いだろう。熊倉と井上は以前からTV番組を一緒に作ってきた仲であり、この笑いの壺を心得ている、しかも、いかにも粘着質らしい二人だったから文字通りしつこくてなお抱腹絶倒の舞台を作り出すことができたに違いない。喜劇にとってまことに幸福な出会いであった。
一方、きまじめすぎる蜷川幸雄には、間延びした声もせりふのちょっとした間合いも許せない。井上の本はほとんど間断のない言葉の洪水といっていいが、そこにはもともと笑いの種が仕込まれている。それを引きだすには「すき間」を作ってやる以外にない。一瞬の間合いが笑いを生み出す。蜷川幸雄はそのすき間がおそらくこわいのだ。喜劇にとって、これは不幸な出会いという他なかった。

何故面白くなかったかという理由を延々語ってしまったのでは、話が前後してしまった。これではいったいどんな芝居なのか分からずに終わってしまいそうだから、話をざっと要約しておこうと思う。なにしろ四時間の芝居だからそれもたいへんだが、この際エレキテルぐらいしか思い出せない源内先生の生涯を知っておくのも一興かもしれない。
この芝居では、表(上川隆也)と裏(勝村政信)二人の平賀源内が登場する。裏の源内は、常に表に寄り添って、表が口にできない本音や迷いを吐いたり、表を悪へとけしかけたり、源内の複雑な内面を出して見せる。「独白」を多用するよりは葛藤が目に見えて、人格の多面性を表すには効果的な工夫であった。

劇はその誕生の場面から始まる。情景の説明ににぎやかなコーラスが入ってこの劇は全体として時代劇ミュージカルとも言うべき様相を呈している。

享保十四年(1729年)源内は、讃岐の国志度浦で産声を上げた。父は白石茂左衛門、母は初。白石家は三両一人扶持の御蔵番、これ以下はいないという軽輩の足軽で、その暮らしはぶりは文字通り、赤貧洗うがごとしであった。美人に生まれればお金が稼げるというので女子を望んでいた茂左衛門、やけを起こして付けた名前が、四方が吉になればいいやと四方吉。この子は生まれた時から妙に大人びた顔をして(実際、上川隆也が赤ん坊の衣装で登場。異様にみえた。)どことなく賢そう。
やがて白石四方吉は、一を聞いて十を知り、ついでに百まで推し量る大神童、くわえて近所でも評判の見目麗しい美少年に成長する。高松藩家老大久保家の長男、長松(後に一学=豊原功補)の学友となって「孟子」を学び、四国随一といわれるようになった神童は、八歳の時に鬼役としてお城に召し出される。鬼役とは、高松藩十二万石の跡継ぎである松平頼恭(=よりたか)(高橋努)の毒味役で、一服盛られる危険はあっても、常に側近くに控えるいわば陪臣(候補)、ついでにこの同い年の若君に「孟子」を講じて欲しいとの申し付けで、足軽の小せがれとしては幼くしてえらい出世である。

頼恭、長松と愚問愚答を重ねるうち、腰元たちが何やら際どい歌詞で歌いながら手まりをついているのを見て「女子を見ているとからだの芯が灼けてきて、デチ棒がにょっきり持ち上がることがあるが、あれは何か」との問いに、四方吉答えて「何かは分かりませぬが、そういう時は手掻きをします。」。重ねて、 頼恭が手掻きとは何かと問えば「さっぱりして腰が軽くなる。えもいわれぬいい気分になります。」というので、二人はやり方を教えろと迫る。植え込みに隠れると(といっても上半身は見えている)三人揃って手掻きを始める。卑猥な唄を背景に、なんとも驚いた所業である。こんないいことをどこで覚えたと聞かれると、四方吉は四歳の時に自分が発明したと答える。

それから十五年、それぞれ藩主となり、家老職を継ぎ、四方吉も願い出て白石姓をあらため、平賀源内と名乗っていた。平賀家は元信州佐久の豪族だったが、平賀源心の代に武田信虎・晴信親子に滅ぼされて(三千人がなぶり殺しにあったと伝えられている)奥州白石に移り、伊達氏に仕官して白石姓を名乗った。江戸初期、伊達政宗の長男(側室の子)秀宗が伊予宇和島に封ぜられたため四国に同行、やがて讃岐で帰農した。かつて信玄、謙信らと覇を競った名門が、臣下になって白石姓を名乗ったことを潔しとしない源内は、平賀家再興を夢見て改姓の件を願い出たのであった。自分なら天下を取れると密かに思っていた。いつまでも馬鹿殿様に仕え、毒味役でもあるまい。とりあえず藩の官費で長崎に留学、学問を修めていずれ名が知られたら松平藩をやめて、世に出よう。留学願いは十三歳の時から藩医について学んだ本草学を本格的に究めたいと言う理由であったが、他に学ぶべきことは山ほどあった。このあたりの表と裏の源内の掛け合いは、野心に燃える若者の自信と、ある種のあぶなっかしさをよく表している。
長崎では隠れキリシタンの探索、処刑に出会い、丸山の遊女華扇(高岡早紀)が出島からご禁制の胡椒を密かに持ち出したのが露見して百たたきの仕置きにあうのを見物。しかし、所詮はいずれも自分には縁のないもの。政治向きのことは「ああ。長崎は今日も雨だった」と唄って流してしまう。
オランダ語をきわめ、最新の医学に解剖学、薬学に化学に物理と手当たり次第に学ぶ。「風来居」の表札を掲げた茶室風の離れには、阿蘭陀絵、西洋の紋章のコレクション、阿蘭陀渡りの壁掛け、地球儀、薬草の入った唐文様の文箱など雑然と飾られていた。
一年ほどたったある日突然、大久保一学が訪ねてきた。藩の財政逼迫の折から、千両を持参したが、これを千七百両に殖やせと言うのである。慶長小判に含まれる金の重さと現在流通している文字金のそれを比較すると文字金は二分の一である。慶長金を阿蘭陀船の甲必丹=カピタン(船長=キャプテン)に持ち込めば二倍近くの文字金と交換してくれるというのである。しかし、金の密輸出はご法度中のご法度、見つかれば打ち首獄門の大罪である。大久保はその通辞・通訳を源内にやってくれというのだ。
もちろん源内は固辞した。しかし、断りきれるものではないことを知っている。そこで、条件を出した。今度は江戸で本朝随一の本草学者田村藍水先生について、いっそう道をきわめたいと江戸留学のことを願い出る。一学、しぶしぶこれを承知する。
カピタン、ヤン・ガランス(星智也)との交渉は、双方なかなか折れなくて間に入った源内がオランダ語を操って大汗をかく。この異国語(方言もふくめて)同士のやり取りは井上ひさしの得意とするところで、どつきあいに腹を抱えて大笑い。結局、五百両を七百五十両と交換することで交渉が成立する。
長崎から帰郷した頃に、妹に婿を迎えて家督を放棄している。白石姓を捨てた時から覚悟の上だったのだろう。
宝暦七年(1757)、江戸留学がかなう。
京橋越前屋三井高光(飯田邦博)の前に現れた源内は、諸国物産会の開催を熱っぽく語っている。国内の地方特産物を持ち寄って展示会を行い、商品取引を活発にして金銀の国外流出をおさえ、ひいては国益増強をはかるという主旨であるが、ついてはこれを実施する金を貸して欲しいというのだ。三井はその意義を十分に理解していながら、金は貸せないとにべも無い。家訓だというのである。越前屋の鉄則は掛け値なしの現金商売、 人に金を貸したとあれば、それを聞きつけて誰も彼も借りに来る。特に、大名貸でつぶれた商人は数知れず、三井はそんなことにはなりたくないという。
ところが、よいことを教えようと折から訪ねてきた一人の婀娜っぽい女をひきあわせる。青茶婆(高岡早紀)は鳥山検校の使いで金、それも利息金だといって七百五十両あまりを届けにきたのであった。そこから百五十両の手数料を持って帰るところをみると、どうやら三井の金をよそで運用しているのである。つまり三井は鳥山検校に金を預け、検校がそれを高利で貸して、利息から二割ほど受け取っていた。現在の銀行とサラ金の関係と同じである。汚いところは他人任せで、金持ち喧嘩せずというわけだ。
三井が、青茶婆に「この人に出世払いで五百両貸してやってくれ」と頼むと、何やらとんとん拍子に話が進んだ。青茶婆は鳥山検校の妾という触れ込みだが、源内にはどこかで見覚えがあった。別れしなにそれを思い出す。あれは、出島から胡椒を持ち帰って長崎丸山を所払いになった遊女華扇ではないか。
盲目の人々が生きていけるようにと家康の時代に作られたのが、検校を頂点とする座頭のヒエラルキーで、これは金貸しで生計を立ててもお構いなしというものであった。この時代、金貸し検校が大勢跋扈して、その高利と取り立ての厳しさは一種の社会問題化していた。情け容赦ない取り立ての様子が続く。これが後に独立した物語として作られたのが「薮原検校」で、この場面はそれを彷彿とさせる。
さて、物産会は源内の予想通り大盛況であった。各地の鉱産物農産物加工品等々が集まり、ついでに名のある人も集まってきた。杉田玄白二十四歳、阿蘭陀医学、よぼよぼの老人と青年の二人連れは国学者の賀茂真淵に本居宣長、浮世絵師、鈴木春信三十二歳にその居候、後の洋風画家司馬江漢十九歳、続いて現れた紀伊国屋文左衛門は四十年前の物故者でこれは冗談。そして最後に供のもの数名を従えて登場したのが当代一の器量人、将軍家お世継ぎ徳川家治側用人、田沼意次(六平直政)であった。とうとう幕府の大物が現れた。源内の心の中にうまれた前途有望、立身出世、安心立命などの言葉をコーラスが大合唱。しかし、意外にも田沼意次の口から漏れたのは「ときに源内、寝小便に効く薬草はあるか?」田沼が仕える徳川家治はその癖があったのだ。

物産会は何度か開催されいすれも大成功であったが、源内の懐はいっこうに暖かくならない。

舞台は三つに区切られ、それぞれの思惑が交互に照らし出される。
神田白壁町のわび住まいでは。
田沼意次の知己を得た源内は、かねての考えを実行する時がきたと思う。高松藩に藩禄仕拝辞願をだそう、つまり藩を辞めようというのである。「今の俺ならば引く手あまた、他に仕官の道があるはずだ。できれば幕府。」と内心思っている。
高松では。
「辞めさせぬといったらどうなる?」と松平頼恭。大久保一学が「田沼意次が乗り出してくるかもしれない」という。 頼恭が「江戸で大学者と評判をとった源内と幕府の実力者知恵者が組むとは嫉ましい」というので、一学はそれでは先手を打って、辞めさせるが他家へ仕官するのは禁じることにしようと決める。
江戸城では。
寝小便の家治が田沼に「あの男が欲しいと高松藩に頼もう」という。すると田沼はそれは面倒なことになる、待つのが上策と意外な答え。高松藩は、水戸光圀につながる親藩の一つで代々将軍家の政治顧問格を勤める家柄、それが他家への仕官は構うといっているのだから、将軍家であろうとただではすまないだろうというのが田沼の見解であった。成り行きを見守るとは、なるほど知恵者の考えだが、源内にとっては酷な決定であった。ひとはこのようにして権力に翻弄されるものなのだ。実力は認められながら、これまでいったいどれだけの才能が潰され世に埋もれてきたのか。世に出るとは、そもそもほんの少しの幸運あるいは偶然によるものではないかという気がしてくる。
こうして、源内はこの先、一生浪人で生きなければならなくなった。立身出世の思惑はもろくも費え去ったのである。

源内は裏長屋に蟄居している。他にやることもないから町内の版元、岡本理兵衛の注文に応じて「根無草」のような絵草紙草双紙の類いを書いている。
その前を、夥しい数の物売りが通っていく。樽屋、石見銀山売り、ホロホロ飴に七味トウガラシ、おわい屋、南瓜売り、塩売り、暦売り、乞食・・・。その中を青茶婆が訪ねてくると、「ほれた弱みだ」とかなんとかいいながら、いくらか金をおいて着物の帯を解く。いつの間にか二人はできていたのである。さらに物売りが次から次、洪水のように下手から上手へ流れる場面は圧巻である。
この時期、源内が書いたものに「風流志道軒伝」がある。浅草の辻講釈師、深井志導軒の一代記と見せて勝手な物語をでっち上げ、とんでもない法螺を吹いた滑稽本だが、これは長崎留学時代に阿蘭陀船のカピタンから借りて読んだ「ガリバー旅行記」をねた本にしたものである。スイフトも相当ひねくれた皮肉屋だからちょうど波長が合ったのかもしれないが、あの時代に「ガリバー旅行記」を読んでいたとは、やはり源内はただ者ではなかった。
「根無草」が売れに売れて千部を突破したお祝いに、源内と岡本理兵衛が幇間を伴って新吉原の引き手茶屋に上がっている。この当時、千部も売れたら吉原に繰り出せるほど儲かったのだ。そこには鳥山検校、松平頼恭がやってきていて、花魁の取り合いなどで大騒ぎになるが、ここでは郭の掟やら風俗、訛りを消すために考案された花魁言葉などについてにぎやかな挿話が重なる。こうした吉原の情景は、形を変えてさまざまな戯曲や小説に取り入れられているが、おそらくここがいわば原点である。
さらに、新し物好きの源内は錦絵を開発したといわれている。
阿蘭陀画の色彩は顔料による。顔料は鉱物を原料とするものだが、それを輸入するのは禁じられている。そこで源内は国内で調達することを考えた。白は秩父の粉錫、青は讃岐の画焼青と足尾の緑青の混ぜ合わせ、赤は相模江の島の赤梅、黄色は伊豆湯島の赫黄泥、キャンバスは麻の上下の袴を四角に切ったものといった具合である。
笠森お仙(篠原ともえ)をモデルにその阿蘭陀絵の具で肖像画を描いているところへ、鈴木春信と司馬江漢が訪ねてくる。本邦初の阿蘭陀画を描いたのはこの源内だと自慢する。すると司馬江漢が、そんなに新しいものがいいのか、と反論。一つのことを掘り下げるということがないから、あなたのやることはいつだって大衆に届かない。図星である。だが源内はまだ気付かない。
君らのやっている浮世絵は色を重ねまいとするが、阿蘭陀画のような色彩豊かな表現をしようと思ったら色を重ねることさ、そうだそれを「錦絵」と呼ぶことにしよう、などという調子である。
お仙とできていることを嗅ぎつけた青茶婆が座頭を連れて脅しに来る。「あたしと切れるなら、これまで貸した金を返してからにして。戯作が千部売れたって間に合わないくらいだからね。」一生離れないとはずいぶん惚れられたものだ。(しかし、劇の最後にほんの少し出てくるが源内はホモであったともっぱらの評判である。)
続いて源内の手になる発明品が唄でつづられるが、意外なものも多い。
平線儀は水平・垂直を図る器具、測量機は距離を測る道具である。秩父で石綿を発見して火浣布を作る。香をたくのに便利なもの、理科の実験で使った。寒暖計はオランダ人もびっくり。独特の色彩を帯びた源内焼は釉薬に工夫がある。朝鮮人参の栽培法や砂糖の製造法を編み出し、緬羊を飼育して羅紗布を開発する。恐ろしくいろいろなことに手を出したものだ。
ところがどうしたことか、江戸の人々の間では「平賀源内は山師だ」という評判である。発明品は庶民の暮らしの役には立たず、自分たちに縁のないものばかりだという。
そんなことは気にも留めず、抜け目のない源内のことだから、これらのものは皆、田沼意次のところに届けられていた。そろそろ頃合いだろうと思った源内が田沼を訪ねると、それぞれ立派な仕事だと評価はするが、しかし生きているだけでも有り難いと思わねばなるまいという。
改革の世ならば、キリシタンの妖術を使う者として磔、風紀紊乱のかどにより投獄となるべきところ、田沼の時代なればこそ許されてきたのだという。享保の改革のあとの財政建て直しを目ざした田沼政治も近ごろでは評判が悪くなっていた。自分の時代もそろそろ終焉に近いと覚っているようだ。
帰り際に政治向きのことで具申したいことは無いかと問われ、表と裏の源内が葛藤のすえ、金貸し検校の悪行ぶりは目に余る、町人武士に限らず皆困り果てているといいつける。田沼はうなづいた。

両国の広小路で見せ物見物をしていると、裏の源内が駆けつけて金貸し検校が皆首を斬られたという。田沼は進言を実行したのだ。青茶婆は今夜暁九つ、千住小塚原というので大川を舟で遡上することに。
青茶婆は、駆けつけた源内を認めた途端、にっこり笑い莞爾とした表情で斬られた。
暗がりから杉田玄白と前野良沢が現れる。腑分けを申し出ていたのだ。源内が手伝ってやろうというと、前野良沢が一冊の阿蘭陀書を出して、この本の絵図を実際の人体と比較するつもりだが、素人には無理という。
すると、それは「ターヘル・アナトミヤ」ではないかと源内。ページをぱらぱらめくり、いかにも得意そうに原文を読み上げる。それを見た二人はたじろいて後ずさり。長崎時代、暇にまかせてこの本を翻訳したことがあった。絵図も秋田藩士小田野直武に写させてある。どこか行李の隅にでもあるはずだから、何ならお貸ししましょうか、「解体新書」という題で出版したらいいでしょうと何だかずいぶん気前がいい。杉田がまさかいくらか寄越せというのではないかとの問いには医は仁術、世のため人のためになるなら喜んでお貸ししますと人が変わったようだ。青茶婆の霊がいわせているのかもしれない。
それにしても。「解体新書」の名付け親、翻訳者が源内だったとは知らなかったなあ。そういう縁があったから杉田玄白は源内の死をもっとも惜しんだと伝えられている。

こうして青茶婆のからだは源内の手で腑分けされていく。この生首が高岡早紀そっくりにできていて、なんとも奇妙な気分になった。これにはずいぶんと金がかかっただろう。しつこいくらいに腑分けが続いてげんなりしたところで、突然話が秋田に飛んだ。

安永二年(1773年)源内は、秋田藩主佐竹義敦に招かれる。劇では阿蘭陀絵を教えに行ったことになっているが、実際には鉱山開発の相談に乗って欲しいという依頼であった。長崎時代、鉱山の採掘や精錬の技術を学んだことがあったのだ。秋田にむかう道すがら飢饉に困窮した百姓たちが一揆を準備しているところに出くわす。上から来る暴力を下からはねつけようとする力は、暴力ではないという百姓たちの言い分に一理あると思いながら、手助けするわけにもいかない。
このまま秋田藩に仕官できたらどんなにいいかと思った途端、表と裏の葛藤が始まる。百姓一揆のことをいうべきか否か。とうとう点数が稼げるという裏の源内の言い分に負けて、恐れながらと家老に話してしまう。仕官もかなわず源内は空しく江戸に戻った。この時源内、四十五歳。

「土用の丑の日はウナギ」というのは源内が作った広告コピーといわれるが、劇では触れられない。ただ数多くの宣伝文句を作っていたのは事実である。ところが、秋田をしくじったあと、とんとやる気を無くしたようだ。両国「清水餅」の音羽屋多吉の頼みに応じて新発売披露の引き札を書いたが「先生の語呂合わせも少々鼻についてきましたね」といわれる始末。神田神保町の呉服屋伊勢屋善助の浴衣の売り出し方法を、という注文には踊りを提案するが、その手はもう古いといわれがく然。

エレキテルはそんな時に思いついた起死回生の策であった。長崎修行時代に破損したエレキテルを見た。そのわずかな記憶を元につくったエレキテルを将軍家へ献上、徳川家治の前でいわばデモを行うということになる。木の箱にハンドルがついた単純な静電気発生装置だったが、電気というものが何であるか知らない人々にとっては魔法の箱だった。家治の手に、箱からのびた二本のコードを握らせ、おもむろにハンドルを回すと、当然のことながら感電。ぎゃあー、ぐわあーと断末魔の叫び。
これで正真正銘山師の烙印を押されたようなものであった。

うす暗い神田白壁町の源内寓では、たった一人残った門弟美少年風の久五郎がお茶を入れている。源内は男色だったといわれるが、この劇では唯一このシーンだけがそれを示唆する。
久五郎相手に愚痴めいて、来し方を語りいまでは死んでいくだけの身だと嘆いていると、裏の源内が現れ久五郎といれかわるが、心がうつろで気がつかない。
表の源内の述懐が続く。生涯かけて実にさまざまな仕事をしてきたけれど、結局は世のためにも人のためにもならず、ただ虚名を博しただけだ。俺の一生は米を食うだけの虫に終わってしまった。
すると裏の源内がまだ勝負は終わっていない、もう一度あれこれやってみるのだとけしかける。ところが、源内の耳に届いているかどうか、視線が空中をさまよっている。と、突然刀を抜いて、消えてしまえとばかりに裏の源内をけさ懸けに斬る。ところがこの裏の源内が実は久五郎だった。気付いた時は遅かった。源内のひざの上で久五郎が息絶えると、しばらく打ちひしがれていたがふと顔を上げ、にたりと笑う。その顔にはすでに狂気が宿っていた。

伝馬町の牢に入った源内は何日も飯を口にしない。同房の男がうずくまる源内の肩に触れると虫の死骸のようにことりと倒れ、そのまま動かなくなった。

これが平賀源内の一生だった。

「美しい明日をお前は持っているか。美しい明日をこころのどこかに・・・」と 最後にうたわれるのは、源内ははたして美しい明日を夢見ていたのかという問いである。有り余る才能を持ちながら、民衆が夢見る明日を実現できなかったのでないかという非難が一方にあり、また一方には「不器用なくせに器用なふりをしている平賀源内を他人とは思えなかった」(井上ひさし=初演パンフレット)というその生き方に対する同情がある。まことに複雑で哀切きわまりない終幕であった。

四時間に及ぶ大作であったが、いっこうに面白くならなかった。その理由は喜劇になっていないからということは書いた。平賀源内とはどういう男かという興味が睡魔を遠ざけて、この一点においては実に面白かった。

役者について言えば、残念ながら表の源内の上川隆也については不満がある。まじめさは顔に表れているが表情に乏しい。そのために感情の起伏を表現できていない。「不器用なくせに器用なふりをしている」はずの源内が、そのまま不器用に見えるのでは芝居にならない。(ちょっと分かりにくいか?)
最初に上川を見たのは映画だったが、いかにも自信なさそうな顔だった。かけだしのころ「無名塾」を受けて落ちたらしい。のちに仲代達矢は上川に記憶がないと、自らの不明を詫びていたが、それほど目立たなかったのだろう。さすがに自信のなさは消えたが、しかし無表情に見えるのはやはり表現力の問題だ。仲代の目は正しかったというべきだろう。今後に期待したい。
幼い顔の上から微妙に年増の顔が広がってきて、それとせめぎあっている様は、妖艶とも清新とも言えずなんとも中途半端な風情である。高岡早紀のことだが。もし力があればもっと濃厚にやることもできたはずと思った。美人顔といえば篠原ともえの方で、これは役柄ともあっていて無難にこなしていた。
さすがに蜷川組である、脇を固めた役者は皆達者で、安心して見られた。

大衆の役に立つ仕事は何もしなかったとは言え、高松では今でも「源内先生」というらしい。妹夫婦に家督を譲ったあとも、源内は時々帰郷している。その折にでも触れた人々の尊敬の念が今日まで伝わったものであろう。また、江戸における評判が届いて故郷の人々の自慢の種になったのかもしれない。
井上ひさしは「知識人は、真の革命の中核たりうるか」(1970年、朝日新聞のインタビュー)という当時としては深刻なテーマをこの物語に込めようとしていたが、それはいかにもあの時代らしい問題意識である。
いまとなっては、源内の生きた時代がもう少し、百年とはいわずせめて五六十年でも下っていたらどうだったか?と思う。その意味でも、平賀源内は近代人だったのであろう。早く生まれすぎ居場所がなかったものの悲劇ととることもできる。また、並外れた知識と才能をもつものもやがては権力者の気まぐれに翻弄され世に埋もれていくという人間の宿命を見ることもできる。あの平賀源内においておや、である。これはそれら埋もれていった才能たちへの鎮魂歌であると見るのが、僕のしょうにはあっている気がする。

 

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