題名: ゴドーを待ちながら
観劇日: 2011/04/15
劇場: 新国立劇場
主催: 新国立劇場
期間: 2011年 4月15日 ~ 5月1日
作: サミュエル・ベケット
翻訳: 岩切正一郎
演出: 森新太郎
美術: 磯沼陽子
照明: 笠原俊幸
衣装: koco
音楽・音響: 藤田赤目
出演者: 橋爪 功  石倉三郎  石井愃一  柄本時生  山野史人




「ゴドーを待ちながら」

新国立劇場小劇場はただの細長い箱でできている。今度はそれがよく分かった。二階部分に箱を見下ろす手すりの着いた廊下がぐるりと取り付けられ、天井にはくまなく照明器具が下がっている。通常はロビー側から向こうに舞台、手前に客席を階段状に配置するのだが、演出によってはステージの位置も客席も自在に変えられる。

今度の芝居は、道に一本の枯れ木があるだけという設定で、状況も物語も排した抽象劇である。
磯沼陽子は大胆にも高さ三尺ほどの道を、小劇場の長い方の辺の真ん中にぶっ通した。道の端がかまぼこのように丸く切れ落ちていて下が見えないから、暗闇に道が浮かんで見えるのが効果的だった。両端はドーム型の闇に消えている。この結構な長さの道を、四列ほどの席で両側から見ることになる。むろん。端の席が気の毒と言うことはない。そのぐらいの気遣いはある。

劇場に入って、これはやってくれたと思った。抽象劇というものは、見ているものが頭を使うだけだから舞台の設えなどどうでもいいのだが、「田舎道、一本の木。夕暮れ。」というそっけないト書きの、中心などどこにも存在しないあっけらかんとした開放感を表現するのにぴったりだと感心した。

エストラゴン(石倉三郎)が道ばたに座って靴を脱ごうと悪戦苦闘しているところへウラジミール(橋爪功)がやってくる。二人とも古ぼけた山高帽にルンペン風のなりで、昨夜はどこか別々に野宿したあと、ここで再会したと言うことらしい。
「昨晩は、閣下はどちらでおやすみだったかうかがえますかい?」
エストラゴンは、溝にはまって寝ているところを誰かに殴られたといっている。
このふたりの関係は、ずいぶん昔(1900年頃といっているが、ほんとうかどうかは定かではない)からの知り合いで、どうやらウラジミールがエストラゴンの面倒を見てきた仲らしい。ウラジミールが昔ローヌ川からエストラゴンを引き上げたことがあったという。
靴を脱ぐのを手伝ってくれと言うエストラゴンに、面倒を見きれないといって、こんなことならずっと昔エッフェル塔の上から二人で飛び降りていたらよかった、今じゃ、このなりでは上らせてももらえないと嘆く。
ウラジミールが手伝おうとしないのは、自分にも痛みがあるからのようだ。前立腺に問題があるらしく、ズボンの前を閉め忘れている。

ようやくエストラゴンが靴を脱ぐことができてホッとしていると、脇でウラジミールが帽子を取ってなにやらそれをつぶさに調べている。それを見てエストラゴンも無言で同じことをする。会話がしばらく途絶える。
不意にウラジミールが、俺たち悔い改めたらどうかと提案する。
エストラゴンが生まれたことをか?と聞き返すとウラジミールが痛みのためか、笑うに笑えない。
今度は、聖書を読んだか?とウラジミールが訊ねる。
確かザッと目を通したとエストラゴン。「神様抜きの学校でかい?」とウラジミール。「抜きか付きだったかは忘れた。色つきの地図は覚えている。・・・・・・薄青いのが死海で、見るからにのどが渇いた。新婚旅行にいいのではないか・・・・・・」
おそらく聖書からの連想なのだろう、ウラジミールが「二人の泥棒の話」を思い出したという。エストラゴンは覚えていない。「救世主と一緒に磔になったのさ。」すると、エストラゴンは「なんだそのキュウ・・・なんとかいうのは?」という調子で、えんえんと泥棒と救世主のどちらが救われたのかという話が続く。(あとで確認したことだが、研究者によると、ここはアウグスティヌスの書いたものからの引用だそうである。)

一区切り着いたところでエストラゴンが立ち上がり、立ち去ろうとすると、ウラジミールが「だめだ。ゴドーを待つんだ。」という。
エストラゴンは、約束の場所が「確かにここか」といって疑うのだが、ウラジミールは木の前だからここだが、確かに来るといったわけではない、と実に曖昧なことを言う。
「昨日も俺たちはここにいた。確かに今晩なのかい?」とエストラゴン。今日が土曜日で、昨日が・・・・・・」といっているうちに、今日が何曜日で一体いつゴドーがやってくるのか分からなくなる。いずれ今晩は来ないだろうからといってエストラゴンが居眠りをはじめると、ウラジミールは、今晩だったかも知れないと思っていて、イライラと歩き回ったあげくエストラゴンをたたき起こして喧嘩になる。
俺たちは別れた方がいい、とまで言いながら何とか収まると、二人は抱き合って仲直りをする。とにかく待つんだ、というエストラゴンに「その間に何をしよう」とウラジミール。
立木をながめていたエストラゴンが「首をつってみようか」という。「それならちゃんと立てるかも知れない。」木をしげしげ見つめて、枝が折れるかもとか、どっちが先にするなどといいながら、本気なのかどうか見当もつかないのだが、結局どうするかは、ゴドーの話を聞いてからにしようと言うことになって、一件落着。

ところで、やっこさんに何をたのんだのか?とエストラゴン。
ウラジミールに言わせると、エストラゴンもその場に居合わせたらしい。なんと、「気をつけていなかった」とエストラゴン。
(二人掛け合いで)「つまり、別にはっきりしたことじゃない。まあ、一つの希望、漠然とした、嘆願のような・・・・・・」
返事は、「考えてみよう・・・今はなにも約束できないが・・・いずれよく熟慮の上・・・家族とも相談をして・・・・・・」ありふれた相談と、それに対する慇懃な反応。
ウラジミールは、俺たちの役割は泣きつくことだが、それに縛られているわけではないという。しかし、何となく惨めな思いである。
エストラゴンは、行こうとする。
ウラジミールは今にもゴドーがやってくると必死で引き留める。腹が減ったというエストラゴンにポケットから二十日大根を取りだして与えると、人参がいいと言うので今度はちびた人参を与える。人参を口にしながらようやく思い出したように「そいつに、縛られているのかい?」と再び質問。気になっているらしい。「冗談じゃない!」とウラジミールはむきになって応える。
「縛られているのじゃないか?」「そんなことはない。」という言葉の応酬がしばらく続いていると・・・・・・・。

そのとき、恐ろしい叫び声が響き渡り、エストラゴンは口にくわえていた人参を思わず落としてしまう。二人は逃げようとするが、恐怖で硬直し抱き合いその場に立ち尽くす。
一瞬間があって、首輪についた長い綱を引きずって、ラッキー(石井宣一)が登場。両手に、革製のトランクと折りたたみ椅子、それにピクニック用のバスケットと外套をさげて重そうにふらふら歩いてくる。
「もっとぉ早く!」という恐ろしい声がすると同時に首につけた綱が引かれ、歩き出したラッキーに引かれるようにポッツォ(山野史人)が現れる。立派な身なりで磨かれたブーツを履き、手には長い鞭を持っている。

二人を見てポッツォが立ち止まり、荒々しく綱を引くと「後退」と大声で命令する。たまらず、ラッキーがひっくり返るのを見て、ウラジミールが助けに行きかかるのをエストラゴンが俺たちに関係ないと言わんばかりに引き留める。
「気をつけなさい。どう猛だから。」とポッツォ。
これが、ゴドーか?というエストラゴンの言葉を聞きとがめて、ポッツォが二人に関心を持った。
ポッツォが威嚇するように近づくと、二人が自分のことを知らないのに驚いて見せて、ここは自分の土地だという。「見たところ、わしと同じ人間、同じ種族、つまり神の子孫だな。」といってしばらく「が、は、は、は」と哄笑がやまない。

ここで何をしている?ゴドーとは誰のことか?などと聞くが、すぐにそれほど強い関心があるわけではないとわかる。
荷物を抱えてふらふら立ち寝をしているるラッキーに「おい豚!起きろ、この性悪!」などと大声で悪態をつくと、首縄を引いてあごで命令しだす。
「もっと前へ。後退。・・・外套!(をもってこい)」とか恐ろしい声でラッキーに命じながら、一方でウラジミールとエストラゴンに「会えてうれしい」などと愛想のいいことを言う、その落差に驚く。
ラッキーは、ポッツォに持っていた外套を着せ、折りたたみ椅子を差し出してそれに座らせ、バスケットから鶏肉を取りだしてポッツォに渡す。
ポッツォはどん欲に肉を食いだし、あらかたなくなると骨をぽいと放り投げる。

その間、再びラッキーはトランクとバスケットを持って立ちながら寝ている。よくそんなことができるものだと感心しながら、ウラジミールとエストラゴンがそばに近づいて、 しげしげとその姿を観察する。
なぜ、ラッキーは荷物を置かないのか?二人にはそれが不思議でたまらない。ポッツォに訊ねると「あなた方は、それが聞きたいという。よろしい、お話ししましょう。」といってあらたまるが、話は必ずしもスムースに進行しない。

暴君よろしく一同を叱りつけながら、特にラッキーについては首の綱を引き絞ったり放したり、「この豚!」呼ばわりしながら話し始めようとする。
ラッキーが荷物を置かないのは、彼にその権利がないわけではない。「わしの同情を引くためで、わしに追い出されないためである。」
すると「あんたは、ひょっとして厄介払いをしたいと考えている?」とウラジミール。「そのとおり、尻を蹴飛ばして追い出す代わりに、こうしてサン・ソワールの市場まで連れて行って売り飛ばすつもりだ。いや、実際のところ、こんな生きものを追い出すことは不可能だ。ためを思ったら殺すしかない。」
それを聞いてラッキーは泣き出す。
エストラゴンが、ハンカチを差し出しながらおそるおそる近づいていくと、いきなりラッキーがエストラゴンの脛に足蹴りを食らわす。エストラゴンは歩けなくなったと大騒ぎ。
エストラゴンが、ポッツォの捨てた骨が気になって、それが必要かどうか訊ねると、ラッキーに聞いてご覧という。ラッキーはもちろん無反応である。ウラジミールは、はしたないと思ってエストラゴンを制止するが、ついにそれを拾ってかじりつく。

ポッツォが、脈絡のない昔話にふけり、自分の話を聞いてくれた二人に何ができるだろうかというので、エストラゴンが金をせびる。俺たちは乞食じゃない、とウラジミール。
鳥の骨もやった。あれこれ話もしてやった。しかし、それで十分か?とポッツォが悩み苦しんでいる。踊らせるのと歌わせるのと、それとも朗読?ものを考えさせるというのも有りだ、どれがいい?とポッツォが聞くので、エストラゴンは踊りが賑やかでいいと応える。
すると、ポッツォがラッキーに「わかったな」といい、鞭を一振りして恐ろしい声で「踊れ!」と命じる。ラッキーは、荷物を置いて一歩前へ出ると踊り出すが、すぐに止めてしまう。エストラゴンは不満である。
ポッツォは、ごちゃごちゃいいわけがましいことをいうので、「こんどは考えろ!といってみてくれませんかね?」とエストラゴン。
ポッツォが綱を引いて、また恐ろしい声で「考えろ!豚!」と叫ぶ。ラッキーが踊り出す。やめろ!とポッツォ。再び綱を引いて「考えろ!」。
少し間があって、何と、ラッキーがここで初めて口をきくのである。
「他方、それに関する・・・・・・」
「止めろ!」とポッツォが遮る。鞭を振り「後退・・・・・・。そこだ。」と場所を調節し、「考えろ!」と再びポッツォ。

ラッキーは全く抑揚のない言い方で「考え」はじめる。
「前提としてホアンソンとワットマンの最近の土木工事によって提起された白い髭の人格的かかかか神の時かか間と空間の外における存在を認めるならばその神的無感覚その神的無恐怖その神的失語症の高みから やがて分かるであろうが何故か分からぬ多少の例外を除いてまさにわれわれを愛し神的ミランダのごとくやがて分かるであろうが何故か分からぬ苦しみの中に火の中にある人々とともに苦悩しそしてその火その炎がたとえわずかでももう少し続くならばそして何人もそれに疑いを差し挟み得ずついには天の梁に火をつけるであろうつまり地獄を焼く火は今日なお時にかくも青く静に断続的でありながらしかもなお歓迎すべきである静けさを持ってかくも静かなる天上に至るが即断すべきでないのであって・・・・・・・」(安堂信也・高橋康也訳、白水社版 戯曲が載っている「悲劇喜劇」五月号は入手できなかったが、実際にはかなりつまんでいた。)

えんえんと「考えた」あげくに、ラッキーはバタンと倒れる。
ウラジミールとエストラゴンが近寄って死んでいないのを確かめると、腕を引き上げて何とか立たせることができた。ではそろそろ出かけるとするかと、ようやくポッツォが立ち上がり、時刻を確かめようとポケットの中に手を突っ込み、懐中時計がないことに気づいて、また一悶着。
結局、懐中時計はどうでもよくなって、互いに「さようなら」の挨拶になる。ラッキーが歩き出し、ポッツォが「速く! もっと速く!」といいながら綱を引くので、ひっくり返り、立ち上がりしながら「立て、豚! 前進! さようなら!」と去っていく。

変わった人たちだ、とエストラゴン。もう行こうと言うが、ウラジミールはだめだという。何故だ?とエストラゴン。ゴドーを待つんだよ。そうか、と長い沈黙。

不意に「あのう-----」という若い男の声が聞こえる。続いておずおずと男の子(柄本時生)が登場する。「アルベールさんは?」というのでウラジミールが自分だが、何の用だと応える。男の子が「ゴドーさんが・・・・・・」と言って口ごもる。
エストラゴンが「何故こんなに遅くなったのか」と詰問するが、怖がって応えようとしない。「さっきからそこにいたんだろう」というと、どうやらポッツォとラッキーのやりとりが怖かったらしい。
「ゴドーさんが、今晩は来られないけど、明日には必ず行くからっていうようにって。」と一気に少年が言う。
少年によると、自分はゴドーさんのところで山羊の番をして働いているということである。ゴドーさんは、自分には優しいが、兄はぶたれる、自分が不幸かどうかはわからない。自分たちは物置のわらの中で寝ると言うことなどが分かる。
「ゴドーさんには、私たちに会ったといいな。」とウラジミール。「そうだろ。君は確かに私たちに会ったんだろう?」
頼りなく「ええ。」とうなづいて少年が立ち去る。

急に舞台が暗くなり、中央から月(白く輝く球体)が降りてくる。二人がそれをながめている。
ウラジミールが、ここにいても仕方がない、もう行こうと手を引くと、エストラゴンは、明日にはゴドーが来るというのだからここにいようという。夜露をしのがなくてはと、エストラゴンを促すが、彼は木をながめて、また死ぬことを考えてようだ。
そうして、五十年前の二人の出会いの頃の思い出話になって、二人は互いに別れた方がいいのではないかという。長い沈黙が続き、それも無駄だろうということになり、じゃあ行こうかという。
沈黙。
そして、「じゃあ行くか?」「ああ、行こう。」という。
が、二人は動かない。そして、
沈黙。
やがて、溶暗。

ここで、第一幕が終わる。

どうにか印象に残ったところを手がかりに要約してみたが、この劇評を読んでいるひとに、一体これで舞台上の出来事を理解できるなどとは思っていない。

第二幕も、同様にウラジミールとエストラゴンの掛け合い漫才のような、漫才と言うにはあまりに隠喩(らしきもの)や概念(らしきもの)のレベルが高く、思わず考え込まされる言葉の応酬できあがっているが、第一幕の各台詞、各プロットが繰り返し、反復でできているということを考慮すれば、第二幕全体が、第一幕の反復でできあがっているということもできる。
少し違っているとすれば、ポッツォとラッキーは再び登場するのだが、何故かポッツォは盲になっており、着ているものがぼろになって哀れさがただよっており、ラッキーはツンボになっているというところぐらいか? かといって、ラッキーが今度は威張っていると言うこともない。
最後に少年が登場して、ゴドーさんが来られないというのもおなじだが、明らかに昨日来た少年だが、同じではないという。この反復は、もはやウラジミールとエストラゴンには分かっているし、ひょっとしたらこれが永遠に続くということすら分かっているのである。

ということで、第二幕の要約は省略させていただくことにしよう。

「ゴドー・・・」は何度か見ているが、中でもこの舞台がもっとも面白かった。
そう思った原因は、二つある。
一つは、言葉(岩切正一郎翻訳)の切れの良さである。劇の台本として役者が発語しやすいものになっていることはもちろん、しゃべり言葉になっていて違和感がない。適度な省略と大胆な省略があって、芝居の流れがスムースに感じることができる。
文学としての戯曲=モダニズム文学のベケット、なんてことにこだわっていたら、こうはいかなかっただろうと想像させる翻訳であった。あとで聞いたら、演出家と相談しながら翻訳作業をしたと言うことで、その成果でもあっただろう。

第二に、演出(森新太郎)の勘の良さが光った。つまり、この芝居は「ゴドーを待っている」というモチーフに引きずられて、それは何かと問うことが最も重要なテーマのように思われているが、しかも、それは確かに一面重要なのだが、その曖昧な、あらかじめ解答が溶解しているような問題に拘泥していては、いっこうに芝居が面白くならないと直感して、その道を選ばなかった演出の勝利であった。

ウラジミールとエストラゴンの会話は、何ものかについてであるが、決して成立しようとはしない。あるものを表象しようとしているかに見えて、それは何ものも表していないのである。つまりどこまで行っても意味があらかじめ挫折しているという状況を演出は土台においた。「ゴドーを待っている」ことにすら意味がないとはじめから種明かしをしているようなものである。そこまではまあ、当然かも知れない。
さらに、その土台の上にポッツォとラッキーという強烈な主従関係を築いて、そこを強調して見せた。この関係は奴隷と主人ではあるが、そこにすら意味がないという描き方も成立する。実際、この二人の掛け合いが深刻な支配関係にはないという解釈の舞台もあった。つまり、この世界、一切の合理性はないに等しいのだからという理解である。
しかし、森の演出の力点は、さはさりながら、合理性の否定を超えてなお「恐怖」のリアリティは存在するだろうという点にある。
ウラジミールとエストラゴンのダイアローグは、中心に向かっていけば行くほど空虚が拡がっている。その何ものもない場所に森新太郎は、人間存在の根幹を揺るがしかねない「恐怖」(人間の尊厳の否定)というものを荒々しくぶち込んで見せたのである。
これによって劇は屹立した。俄然面白くなったのである。

この発想を、森がどこから手に入れたのかと思っていたら、彼は2006年10月に「ロンサム・ウエスト」を演出していることが分かって、なるほどと思った。このときの舞台は見ていないが、2002年5月、世田谷パブリックセンターで鵜山仁演出を見ている。劇評を書き始めたのがその一年後であったから、見たという記録だけ残っているのだが、あのマーティン・マクドナーの強烈な物語は忘れようもない。
父親を射殺した兄がそれを事故と偽ったうえで、わずかな遺産を巡り弟と殺し合いの喧嘩を繰り広げるという話ではあるが、その諍い、暴力の徹底ぶりはわれわれの常識をはるかに超えた「異常」とも言うべき感覚であった。
ついでに言えば、マーティン・マクドナーが最初に書いた戯曲「ビューティー・クイーン・オブ・リナーン」の方は、2007年12月にパルコ劇場(長塚圭史、演出)で見て劇評も書いている。これもまた、母と娘の骨肉の争いを描いたもので、その執念、始末の付け方は笑ってしまうよりないブラックな話であった。
リナーンというのは、アイルランドの北西にある寒村で、マクドナーの親が生まれたところである。少し性急に言ってしまえば、つまり、彼はアイルランド気質を濃厚に受け継いだアイルランド文学の裔に連なる作家であった。
家畜人ヤフー(「ガリバー旅行記」第四部)という強烈な風刺を書き、貧乏人を飢えから救うには子供をたくさん作る(そしてクウ)ことだといったジョナサン・スウィフトをはじめ、オスカー・ワイルド、イエーツ、天下の皮肉屋バーナード・ショウ、ジェームス・ジョイスとアイリッシュの才能と知性が文学史に多大な影響を与えてきたことは言うを待たない。
そして、サミュエル・ベケットもまた、これらの人々と同じ、北大西洋から吹きつける冷たい風とやせた土地、隣国から受ける絶えざる圧力に抗するように古代から妖精が住まうくにという風土に生まれ育った知性であった。

森新太郎は、一見何のつながりもないように見えるマーティン・マクドナーが、ベケットの文学的血筋をついでいると直感し、その本流を見据えてこの舞台を構成したに違いない。
それは、次のようなことから感じられる。

ベケットが、ゴドーを待っているという二人の芝居に、何故、闖入者のようなポッツォとラッキーを登場させたのか?

「もっと速く!」と言う恐ろしい声とともに首に縄をつけたラッキーが現れる。
山野史人=ポッツォの第一声は、のどをふり絞りすぎて作り物のように響いたが、これは明らかに演出家の意図を表現しようという俳優の意志が強く出すぎた結果であった。可能な限り恐ろしく暴力的で威圧的な声を要求されたのだろう。
人の首に縄をつけて、それを引くという発想、そして家畜のように、いや家畜以下の存在として人間を鞭と恐ろしい声で完全に支配するという構図の徹底した苛烈さ、この尊厳もなにも情け容赦なく踏みにじってしまうような人間に対する皮肉とそこはかとなく漂う喜劇性こそアイリッシュのものである。

森は、おそらく「ロンサム・ウエスト」の経験から、ここにベケットの本音をかぎ取ったのであろう。森にとって、もはや二人は闖入者ではなく、眠りかけたようなウラジミールとエストラゴンの前世の姿として表裏一体のものになったのである。

このポッツォとラッキーの関係に、ヘーゲルの「精神現象学」を見るという卓見があることをあとで知った。まあ、研究者ならばどんな発見をしてもかまわないが、そんなことを劇を見ながら考えるものはいない。とはいえ、ヘーゲルの発想の中にある「主と奴」の関係をポッツォとラッキーに見いだすという考えは魅力的である。
「革命」によって「主と奴」の関係は解消され、明晰性と合理性が世界を支配していたにもかかわらず、欧州は二度の大戦を通じて荒廃した。何千万人もの人が追い立てられ、理不尽な死を強要された。不条理が日常であるという異常であった。

ベケットは、若くしてフランスに渡り、教師をつとめたり、当時パリにいたジェームス・ジョイスの手伝いをしたりしていたが、戦争が始まるとレジスタンスに加わった。途中で、ゲシュタポに追われ、フランスの田舎をいくつか転々としながら戦争が終わるまで隠れ住んでいた。そうして命の危険にさらされながら、戦争の経験をつぶさに検証していたに違いない。
この戯曲は、戦中に書かれ初演は52年である。ここに漂っているのは、一切の明晰性と合理性を排するという点で反近代(アンチモダン)の気分である。ウラジミールとエストラゴンの会話が、何かを指しているようで、その先にあるのは空虚、というのがそれである。合理性追求の果ては、理不尽な暴力ととてつもなく大きな破壊であったという近代への疑義が投影しており、所詮人間はポッツォとラッキーではないかという絶望感が垣間見えるのである。

初演は賛否両論で、途中退席するものが絶えなかったと言うが、100日間のロングランであった。それが、異例の長さなのかどうかは分からないが、少なくとも日本ではおよそ考えられない集客力である。
戦争を通じて何かが終わり、これから何をはじめようかというとまどいを感じていたものにとっては「そうか、これが俺たちの時代だ。」とあらためて確かめ得たものかも知れない。あるいは、台詞の中にちりばめられている神学や詩や文学、最新の科学や哲学、心理学などの知識の豊富さに驚き、それらを材料にした冗談やからかい、軽口に言葉遊びを楽しむものが劇場に押しかけたものかも知れない。

いずれにしても、翻訳によって、原作の面白さは90%そがれる(福田恒有)といわれるように、僕らが劇場で見ているものは残りの10%に味付けしたものに過ぎない。それでもなお、この劇が面白いと感じられるのは文学の手練れが構築した骨格の確かさで、森新太郎はこの舞台でそれを十分引き出して見せてくれた。

それにはキャスティングの良さもあったことは言うまでもない。
橋爪功は、時に考え、時に反省し、友をいさめ、友の面倒を見るというウラジミールの千変万化する心理状態、理性的な性格を舞台全体を動き回って表現しきったといえる。
エストラゴンの石倉三郎は、聞くところによると橋爪功のたっての希望できまったものらしい。直情的で、詩人であったというエストラゴンの性格を自分とは際だって対照的に演じられる俳優として石倉三郎が最適と判断したのは正解であった。二人はかつて何かで共演したことがあったという。石倉のどこか投げやりでワイルドなふるまいや台詞回しがエストラゴンにうまく乗り移って、絶妙な掛け合いコンビが生まれた。
石倉が翻訳劇の舞台に立ったことがあったかどうかは知らないが、これで新境地が開けたのではないか。
山野史人がポッツォとは意外であった。暴力的で存在自体が恐怖を感じさせる顔つきというわけでもなく、どちらかと言えば飄々としてこだわらないタイプに見えたからだ。ところが、こういう一見穏やかなおじさんが顔色一つ変えないで鞭を振るい、しわがれた声で命令すると、かえって心底怖さが迫ってくるものである。出だしで声を作りすぎたのは愛嬌であった。
石井宣一のラッキーも適役だったといえる。まず、あの風貌である。ボッシュかブリューゲルの絵画から抜け出たような中世の農夫然としてリアリティがある。そして、決して感情を表に出さない「奴隷」に徹したことで、悲しみとおかしみを同時に醸し出したことは秀逸であった。
「考えろ!」というポッツォの命令に、初めて口をきいた時には、思わず吹き出した。本自身の面白さもあったが、石井がどうするか興味津々だったからだ。このラッキーは徹頭徹尾ポッツォを怖がっていた。
男の子の柄本時生も、ボォっとして存在感の薄いところをうまく表現した。短い出番だが、最後を締めくくる重要な役どころで、十分にその重責を担ったといえる。

ゴドーは、GodotだからGodzillaと同じようにGodが潜んでいるとは冗談だが、この芝居はフランス語で書かれているので(”En Attendant GODOT”)必ずしもゴドーが神とは言えない。
しかし、昔からゴドーとは誰なのかという話題はこの芝居につきものである。それどころか、戯曲としての研究書は世界中にあまたある。ポッツォとラッキーにヘ−ゲルを見るという解釈もその一つだが、そんなものを気にしていたら芝居など見ていられないのである。
「ユリシーズ」や「フィネガンズ・ウェイク」などの凝りに凝った文章を注釈付きで読むのと分けが違って、僕らは舞台の上に繰り広げられる出来事を見て何かを感じるほかない。不条理劇というものは難解と思えば難解だが、わけのわからないものでも、あるいは分析などしなくても面白いかどうかは自分のことだから分かるはずのものである。

どうやったら観客は面白がってくれるのか。この芝居は、演出家がそれを考え抜いたプロセスが見えて、取りあえず、そのことが面白いのである。次に、言葉遊びや冗談、からかいとか悪態、引用とかのディテールが、それらしいと分かって分からないのが残念なのである。
書いてることが不条理になってきたのでこの辺でやめよう。

 

 

 


新国立劇場

Since Jan. 2003

 

 

 

 

 

 

 題名: シングルマザーズ