題名:

ゴンザーゴ殺し     

観劇日:

05/1/25   

劇場:

東京芸術劇場

主催:

劇団昴   

期間:

2005年1月21日〜1月26日

作:

ネジャルコ・ヨルダノフ

翻訳:

中本信幸 

演出:

 菊池准         

美術:

 島次郎            

照明:

森脇清治            

衣装:

吉井千和            

音楽:

 上田亨
出演者:
内田稔 西本裕行 石波義人 水野竜司 金子由之 石田博英 坂本岳大 小沢寿美惠 米倉紀之子 吉田直子 小山武宏  久保田民絵  鉄野正豊 

 

「ゴンザーゴ殺し」


「ハムレット」に登場する旅回りの一座が演じるのは、午睡の横たわる男の耳に毒を注いで殺すという趣向で、明らかに先王暗殺の様子を示している。もともと あった出し物「ゴンザーゴ殺し」にハムレットが台詞と所作を付け加え、これを見た現王クローディアスの様子を探ろうと仕掛けたものだ。案の定見物のクロー ディアスは動揺して退場することになるが、王子ハムレットの命とは言え、王にとっては不快の極致を演じて見せた一座がこのままでは済むまいと誰しもが思う ところである。無論「ハムレット」にはその後の一座に触れたところはない。誰かがこれを思案してくれたらおもしろいに違いないと思っていたら、ブルガリア の作家で演出家、ネジャルコ・ヨルダノフが88年に書いていた。それがこの芝居である。
よくできたミステリーのようで納得のいく筋立てである。まともにやれば6時間はかかるところを大概その半分程度に縮めた「ハムレット」を我々は見ている。 父親の復讐を実行するか悩むだあげく結局関係者が全て斃れる悲劇だと思えばそれだけの話だ。アガサ・クリスティではないが「そして誰もいなくなった」とい う結論は何だかさっぱりしすぎていて、削り取った残りの半分に肝心なエッセンスが含まれていたのではないかとという気さえしてくる。

ところが、この芝居を観ると悲劇の裏でどのような策謀がうごめいていたか、そしてその謀(はかりごと)が実際に劇の背景にあったと仮定したほうが「ハム レット」の登場人物たちの行動がよりいっそうくっきりとした意味を持って浮かび上がってくるという構造になっていて、作者ヨルダノフの才能には感心させら れる。もっとも崩壊前の東欧圏で書かれたことに注目してシェイクスピアに名を借りた巧妙な権力批判という見方もあるが、共産圏でも西側でも権力構造など似 たようなものだ。そんなことより話そのものがすこぶる面白い。

旅回りの貧窮した一座が衣装箱をかついで客席から現れる。王子ハムレットによってここエルシノア城に招聘されたのだ。座長チャールズ(石波義人)は突然のことでいぶかしく思うが常設の劇場に定着できそうな だけの多額の報償金につられてやってきた。一座の老優ベンボーリオ(西本裕行)は五十年前ここで役者だった父親がどういうわけか上演後首を刎ねられて果てたといってしきりに帰りたがる。
そこへ現れたのは宰相ポローニアス(内田稔)、一座とは旧知の間柄のようだ。「この城ではそこら中誰かが聞き耳を立てている。スパイだらけだ。」と意味あ り気に注意を促す。一座の女優のアマリア(米倉紀之子)とは昔なにかあったようで、密かに一座の動きを報告するよう念を押す。ポローニアスは純粋で無垢な 娘オフィーリア(吉田直子)さえ、ハムレットの本意を探る手だてとして利用していることが明らかになる。演しものについてはハムレットから話があるはずと いうが、それが「ゴンザーゴ殺し」であることを知っているらしい。

ハムレットの名代としてホレイショー(水野龍司)がやって来て、足りない台詞を15.6行、王子が書き足した台本を用意すると告げて去る。チャールズは腑 に落ちないものを感じて城の中を嗅ぎ回わるが既に運命の歯車はまわりはじめていた。そうとも知らず旅の途中、酒場で拾ったアマリアと夫の関係を勘ぐる妻エ リザベス(小沢寿美惠)には昼間から体の関係を迫られ、アマリアからは妻を追放しろと突き放され散々な目にあっている。この男、今はともかく昔は結構もて ていたことをうかがわせる。一座には他に若い役者ヘンリー(石田博英)とプロンプター兼衣装係(坂本岳大)がいるが、その騒ぎの外にいる。

一幕目は、一座の人間関係に重点が置かれているといっていい。これが説明的でちっとも面白くない。エリザベスの小沢寿美惠だけは熱演だが、チャールズがど こか上の空で、まじめ一方、色気も味も無いものだから妻と愛人の間で困惑する軟派な男には一向に見えてこない。米倉のアマリアもきれい事過ぎてポローニア スにしてもチャールズにしても結構な男を手玉に取るような悪女の迫力はない。何よりも悪いのはテンポがよくないことで、これらいっさいの責任を作品の面白 さを表現しきれなかった演出の菊池准がとるべきである。なんと退屈な幕開けであったことか?この劇団の演出家は村田元史にしても河田園子にしても客の心を つかみ、楽しませるという精神に欠けていると感じることが多い。

菊池准は「演出ノート」にこう書いている。
「・・・チャールズの一座に自分の姿を見てしまったのです。演劇によって何ができるのか、というのが、ここのところ僕を悩ませていた問題でした。つまり。 演劇の世界に生きてきて、演劇というものを自己表現の手段にしながら、それによって何がなされたのか・・・自己のアイデンティティーに対する不安感が、そ れを考えさせることになったのだと思います。・・・」最初の一文は劇団にいるものとしてチャールズたちにおのれの宿命を見たといっている。怒りを買って断 罪されることもある。随分きまじめに考えるものだ。劇は「自己表現の手段」といっているが表現すべき自己などいまどきあると思っているところが間違いであ る。そして、劇団の宿命を見るなら旅回りの一座よりも観客の顔をみたほうがいい。退屈して苛立っている観客を!

なんにしてもとりあえずは戯曲としての面白さで客を座席につなぎ止めた。
ハムレット王子直筆の台本が届けられ、稽古に入るとその物語がかねてうわさの兄王暗殺の顛末に酷似していることに一同が気付く。劇中劇の「ゴンザーゴ殺 し」が震える役者たちによって演じられるとシルエットになっていたクローディアス(声だけ小山武宏)が怒ってガートルード(声だけ久保田民絵)とともに退 席する。この時声だけで出演するハムレット(鉄野正豊)がひどい。録音もいい加減だが、台詞が漫画である。

何故ポローニアスは、こんな始末になるのを知っていてやらせたのか?兄王を暗殺して権力を掌握しようとする独裁者が取り巻きに疑心暗鬼になるのは世の常と いうもので、宰相ポローニアスが生き残っていることは奇跡のようなもの。この空気を察しているポローニアスは自分は必ずしも現王に忠実ではないことをホレ イショーを通じてハムレットに伝えようとする。しかし、ホレイショーもまたハムレットの復権は賭けと感じていると思い、デンマークを見限ることをそれとな く提案する。ポローニアスはノルエーの王子フォーテンブラスと通じてオフィーリアを妃に送り、ノルウエーの支配下で息子レアティーズを王の座に据えようと 考えていたのだ。尼寺へゆけとハムレットに言われているオフィーリアにノルウエー行きを告げたことは原作に無いがここではそういうことになっている。ホレ イショーはどっちに転んでもいいようにあいまいな態度で終始する。

華厳の滝に飛び込んだ一高生の藤村操が「ホレーショの哲学ついに何等のオーソリチーを値するものぞ」と書いて以来、このハムレットの学友にして忠実なる臣 下は、悲劇を伝える高潔な人格者と定まっているが、この劇では分が悪くなったハムレットのそばにいて、エルシノア城で生き残るにはどうしたらいいか知恵の 限りを尽くす官僚として描かれているのが面白い。

さて、王の怒りを買った一座は国家反逆罪で告発され、刑吏(金子由之)のもとへ送られる。台本を書いたのはハムレットだと主張するが、証拠はオフィーリア が愛する人の自筆原稿を記念にともっていった。チャールズもベンボーリオも他のものと一緒に監獄に閉じこめられ残忍な刑吏に尋問を受ける。拷問され人格を 否定されそれでも身に覚えが無いと主張を続けるチャールズの前に、狂ったオフィーリアが現れる。ポローニアスがハムレットとガートルードの会話を盗み聞き しようと隠れているところをハムレットに誤って殺され、ノルウエーのスパイだったことが判明し、それが因で精神に異常を来したのだ。味方になりうるポロー ニアスももはやいない。「私はデンマークの王妃、ノルウエーの妃。」などとつぶやきながら去って行こうとするオフィーリアの胸にハムレットの原稿を目ざと く見つけた刑吏が奪うと、いつのまにかホレイショーがそこにいて、「この件でハムレット王子の名に言及することは王によって禁じられている。」と恭しく告 げ、台本を取り上げてしまう。証拠が無くなり激しい拷問に屈してついにチャールズはでたらめの調書を認めてしまう。

座長チャールズとその妻エリザベスには斬首の極刑、他のものには鞭打ちの刑と市民権剥奪という厳しい判決が刑吏によって言い渡される。
一同愕然としている中、ファンファーレが鳴ると壇上にホレイショーが現れ新しい判決を言い渡すと告げる。イギリスから帰還したハムレット王子がポローニア スの息子レアティーズの毒剣に傷付いて亡くなった。レアティーズもまたハムレットによって殺され、王妃ガートルードは国王の毒杯に斃れ、王もまたハムレッ トの剣に刺し殺された、というのである。新国王はフォーテインブラス、新しい判決を言い渡すのは国政顧問官に就任したホレイショー、大どんでん返しであ る。

一座には、先王クローディアスの陰謀を暴くことに貢献した働きを評価し、新しくつくる王立劇場の俳優とし、チャールズをその支配人とする、また、刑吏に没収された一万ダカットは返還されるという判決が下った。
チャールズは成功報酬のことをもちだし、「残りの金は?この先に?」とホレイショーに問いただす。すると、なんのこと?といったとぼけた顔を見せて、「その先は・・・沈黙だ。」と役者にト書きを読んで見せて終幕。
こう言う角度から見ればノルウエーの存在が意外に大きく見えてきて「汚いねずみ」などとハムレットにののしられるポローニアスの行動は実に合理的に見えて くる。悲劇の後始末もしまりの無い原作よりよほどきれいだ。当時の「ブルガリア」を生きるうえで、これを書く動機があったことを示唆しているが、それにし てもヨルダノフは面白い話を作ったものだ。
金縁の眼鏡をかけたホレイショー、水野龍司が地味な役柄ながら存在感を示した。こう言う男がホレイショーなら誰も文句は言わないはずだ。(場違いな眼鏡も含めて)

また、吉田直子については、外国のものを含めてこれまで見たオフィーリア役の中で最もオフィーリアらしい役者だと思った。子どもと大人の中間にある清楚な 美しさを備えており、狂った姿もたおやかで悲劇的である。これほど雰囲気のある役者もなかなかいない。この若さで十分な演技力もありこれからが楽しみな女 優である。今回の収穫であった。
坂本岳大のとぼけた味わいについても書いておくべきだろう。
また、刑吏の金子由之は奮闘していたが、少々つくりすぎた感があり演出がセーブしてやる必要があった。
最初にチャールズの色気のことを書いたが、いっそ石波義人と内田稔が役を入れ替えた方が良かったのではないかとも感じた。(内田の体の動きが鈍いのは気になるが)

こんなに面白い話なのにいまひとつ盛り上がらないのは、やはり演出のせいだといわざるを得ない。役者一人一人はそれなりに達者なのだが、アンサンブルが極 めて悪い。それが心地よいテンポを作り出せない原因なのだが、恐らく演出家が「観客に対する説明責任」を感じ過ぎているのであろう。蜷川幸雄のようにまど ろっこしい説明はすっ飛ばして勢いで見せようとするのも困りものだが、もたもたして理屈っぽく退屈なのもつまらない。自分が客席に座ったときの加減でやれ ば間違いないはずだが、「演劇は自己表現の手段」などという青臭い議論をしているようじゃいつまでたっても客席の観客の心は見つからない。
演劇は生き物である。観客とともに呼吸しているようでなければ、その演劇は既に死んでいる。
         

                 (2005年2月14日)





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Since Jan. 2003

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