題名:

ゴロヴリョフ家の人々        

観劇日:

03/7/4       

劇場:

新国立劇場   

主催:

新国立劇場    

期間:

2003年6月18日〜7月6日     

作:

永井愛  原作:サルティコフ・シチェドリン

翻訳:

湯浅芳子      

演出:

永井愛          

美術:

島次郎             

照明:

中川隆一            

衣装:

竹原典子            

音楽:

市来邦比古 
出演者:
今井朋彦 浅野和之 大沢健 酒向芳 綱島郷太郎 長谷川博巳 小島聖 小山萌子 駒塚由衣     岡本易代 高木均 すまけい 加藤治子 

 
「ゴロヴリョフ家の人々」

 新国立劇場がチェーホフシリーズをやると聞いたのがきっかけで、シチェドリンの小説を思い出したと永井愛は云っている。父親が面白がっていたのを覚えていて、湯浅芳子訳の岩波文庫(既に絶版)を国会図書館から借り出して読んだという。日本ではシチェドリンの知名度は他のロシアの作家に比べると無いも同然だが、向こうではソ連時代を通じて評価は高いのだそうだ。しかし、知る人によればロシア文学らしく重厚長大、独特の風刺、とりわけこの小説は陰惨で救いようが無いという定評のようだ。

 嫁いだときには農奴150あまりの小地主だったゴロヴリョフ家をたちまち2000匹!の大身代にして、君臨する母親アリーナ(加藤治子)は、その吝嗇のために一族郎党をつぎつぎに失うという悲劇なのだが、永井愛の手にかかると、そこはかとない「おかしみ」が漂ってくる。
 

 亭主のウラジーミル(すまけい)は、妻に詩の一つも読み聞かせたかったというロマンチストらしいが、いまはボケが来て部屋に引きこもっている。あるとき家族の声を聞きつけてさまよい出るとプーシキンを長々と朗唱し、息子と鳥の鳴き声で応答する。その奇妙で滑稽な様は、この男の孤独の生涯を思わせて胸が詰まる。
 一幕一場は、放蕩のあげくモスクワの屋敷を抵当に取られ無一文で逃げ帰っていた長男ステパン(浅野和之)の処遇をどうするか家族会議を開くというのである。そのために都会にでて役人になった次男のポルフーリー(今井朋彦)と軍人の三男パーヴェル(綱島郷太郎)が呼ばれる。アリーナは十分なものを与えているのに無駄遣いすると怒りに震え、このうえは田舎の小さな農園に追いやり、そこで自活させようと提案する。ポルフィリーとパーヴェルは母親の意向に逆らえない。密かに現れたステパンはポルフィーリーに賛成を確約させるが、この母親の血を色濃く引いた次男は簡単に裏切る。これをみた三男パーヴェルはユダとののしりその場を去る。かくてステパンは、納屋同然のあばら屋に幽閉されなくなる。
 それから五年、ゴロヴリョフ家はポルフィーリーが当主となっている。農奴解放令がでて、気弱になったアリーナは長女が遺した姉妹アンニンカ(小山萌子)とリュービンカ(岡本易代)の二人の孫とともに、三男パーヴェルの屋敷に身を寄せている。パーヴェルは高熱を発してうなされいまや虫の息である。アリーナは、このまま死ねば遺産は法定相続人であるポルフィーリーの手に渡ってしまうことを案じて、姪のために遺言状を書くよう迫る。パーヴェルの世話をしているウーリャ(駒塚由衣)はかつてポルフィーリーの子を生んだという仲で、連絡を受けたポルフィーリーがこれを阻止しようと二人の息子ペーテンカ(大沢健)ヴォローデンカ(長谷川博巳)を伴って見舞いと称してやって来る。
 やがて、軍人になった長男ペーテンカは博打のために部隊の金を横領して父親に助けを求めるが拒絶されシベリア送りになって命を落とす。次男ヴォローデンカは父の意に染まぬ結婚をして、支援を断たれ貧困のうちにやはり亡くなる。アンニンカとリュービンカはともにどさ回りの女優になって一時は華やかだったが、妹はなくなりアンニンカだけが重い病気をもってゴロヴリョフ家に戻ってくる。
 ポルフィーリーは財産の管理に追われ、資産を増やすこと以外に関心が無くなった。そばにいるのは身の回りの世話をする若い家政婦パラーニャ(小島聖)と古くからいる農奴ウーリャ(高木均)だけである。そのパラーニャに子を生ませるが密かに養護院にだして憎しみをかう。ウーリャも寄る年波にかてず神父(酒向芳)の祈りの中で静かに息を引き取り、結局彼のまわりには誰もいなくなる。
 老いたアリーナが呆然と立ち尽くすポルフィーリーの傍らに現れ、「どうしてこうなったんでしょうね。」長嘆息をもらして終幕。

 この物語は、シチェドリンの自伝的要素が含まれているという。では、自身は誰に当たるかというと、なんと、役人をやっていたことと重なるポルフィーリーなのだそうだ。果たして実際にこれほど冷血漢であったかどうかは研究者に任せておこう。
 一般的に、家族でも何でもひとりの人間が絶対の権力を握っておさえつけると、まわりは庇護を当てにして自立しにくくなる。ゴロヴリョフ家の人々は、権力者を軽べつしてはいたが、心の奥では密かに期待していた。普通の人には家族に対する情というものがある。自分の心を覗いてみたら、情らしきものがあるから他人にもあるに違いないと思う。ところがこの家の当主はたとえ実の息子であろうと姪であろうと困窮して死にそうになっても一文も出そうとしない。普通の人に備わっている情というものを持ち合わせていないのだ。それだけではない。他人は自分のために存在するといわんばかり、徹底的に自分勝手、エゴイストの守銭奴である。
 世の中にこういう人間はいない、これは何かの喩え、あるいは御伽話だと若いころなら思っただろう。昔の人なら寿命が尽きている年まで生きると、不思議なことにこんな人間は本当に存在すると確信するようになる。いい悪いではない。金持ちの親族の懐を当てにして博打をするものがいれば、その理不尽な金を出したくないのも人情だ。詩や小説など必要としない人生は山ほどある。我が国でも昔は不浄のものといってさけたが、いまではとりあえず金以外に人生の格率(Maxim)はあるかと考えるものばかりだ。ただ単にゴロヴリョフ家はそれが極端に出た事例だと思えばいい。そうやって守った財産もアリーナが死に、ポルフィーリーが死ねば跡をつぐものはなくなる。ならば、子供らの面倒を見たほうがよかったとは考えない。生前贈与など思いもよらない。自分が死ぬとは思っていないからだ。
 シチェドリンが重々しい風刺作家だというのは、このような人間の事情に通じていたからであろう。陰惨で救いようの無いと評価される物語を書いたのは、人間はまさにかくのごとき存在だと思ったからだ。小説を戯曲化するに当たって、永井愛もまたそう考えたに違いない。その証拠に、誰が悪いとかいいとかを抜きにして、実に淡々とゴロヴリョフ家の人々が滅んでゆく顛末を描いた。
 結果として僕は笑うしかないと思った。おかしさが込み上げてきた。ポルフィーリーが目の前に現れたとして僕は、愚かしいとは思いながら何も言わずに笑っているしかないだろう。その愚かしさをあしざまに言えるものがいるだろうか。

 開幕まもなく、家族会議の最中にぼろをまとった長男ステパンが飛び込んでくる。放蕩のあげく無一文になって家へ帰された。母親が与えた罰は、寒風が入る納屋同然の部屋とぼろぼろの夏服にスリッパ、粗末な食事というすさまじい扱いである。浅野和之はげっそりと頬を落とし髪を振り乱して飢えと寒さを訴える。母親アリーナの酷薄さをうかがわせる重要な場面だが、浅野は鬼気迫る勢いでその恐怖、屈辱、絶望を表現した。彼の舞台を見た中で格別に印象に残る芝居であった。と同時にこの舞台の中で最も目立った存在だった。
 少ない出演場面でその人物の人生を想像させ得るのは役者の技術と存在感による。すまけいの亭主は、最初にも書いたように、若いころの夢や思いを封じ込めて、孤独の人生を生きた男の悲哀が漂って来るおかしくてやがて悲しい名演であった。
 ポルフィーリーの今井朋彦は風ぼうといい、キャラクターといい適役と言えるだろう。ただ年齢より若く見えるのが難で、当主になってからのメークはもっと老けてもよかった。
 加藤治子は珍しく憎まれ役であった。したたかに資産を積み上げたやり手の大地主と見えないのは、演技のせいではないだろう。
 当主に対してずけずけものが言えるのは、時代の変化もあったろうが、小島聖の家政婦パラーニャは、説得力があった。特に子供を産んでからのパラーニャは、ポリフィーリーもたじたじになるほどで、ある意味で彼女が骨抜きにしてしまったことが終幕の場面を呼んだ。小島の天真爛漫、嬌態したたかな演技の功績は大きかったというべきであろう。
 アンニンカとリュービンカの姉妹は、顔も体格もおよそ似ていないのはご愛嬌として、小山萌子、岡本易代ともまだ若いのに達者なわき役である。

 それにしても、永井愛の演出は実に緻密である。ディテールに破綻が無い。役者も限度を越すことはせずアンサンブルに気を使っている。その巧みな構築物から漂ってくるヒューモアが最大の魅力だと思う。
 「ゴロヴリョフ家の人々」は永井愛にしては異色だが、間違いなく代表作の一つになるだろう。
               (2003/7/11)

 

 


新国立劇場