題名:

御前会議

観劇日:

05/3/18

劇場:

こまばアゴラ劇場

主催:

青年団      

期間:

2005年3月17日〜30日

作:

平田オリザ

演出:

平田オリザ

美術:

杉山至    

照明:

岩城保   

衣装:

有賀千鶴

音楽・音響:

出演者:

鈴木智香子 大田宏 申瑞季 兵藤公美 島田曜蔵 奥田洋平 井上三奈子
 


    
「御前会議」

青年団の芝居は初めて観る。駒場の劇場の前を通りかかったことはあったが中の様子は知らなかった。入ると階段状の座席が5,60はあったか。舞台というより二階のフロア一杯を使って細長く半円状に連なった会議用テーブルが置かれている。回転椅子は普通のオフィスにある高さ調節のレバーがついたもの。正面には佐藤と書いたプレートを前に黒いセーターをきた男がすでに座っている。
時間になったのか案内係の男がかしこまって「ようこそいらっしゃいました。今日は花粉が飛散しているようで・・・」(ここでくしゃみ)「悲惨なことになっております。どうぞごゆっくり・・・」といって客席に座ってしまった。どうやら一緒に見物しようということらしい。
下手の床に下へ通じる階段があって、そこからごくごく自然に植田(鈴木智香子)が現れ席に着く。書くものやらノートやらとりだしているうちに中島ともお(大田宏)が入ってきて、皆はまだかなどと声を掛ける。中島が席を外したすきに中島由希子(申瑞季)が登場して自分の席をそこからもっとも遠い位置に変えてしまう。この奇妙な動きについて観客はまだ意味がわからない。木下(兵藤公美)が入り瀬島(島田曜蔵)、田中(奥田洋平)がそろって、二つほど席は空いていたが木下が会議を始めると宣言する。
芝居が始まったという感覚がどこにもなくて、ありふれた日常の光景をデジャヴのように見せられながらごく自然に劇の世界へ誘いこまれる。特別な言葉も大仰な仕草もない。我々の普段遣いの言葉で平明に劇的空間を構成する、というのが平田オリザの手法のようだ。このことは言うは易いがやるのはむずかしい。芝居という非日常との境界をどのように考えれば観客の緊張感が持続するか、ということについてしっかりした基準=理論を持ちあわせなければぐずぐずになってしまう。とりあえずこのようなはじめ方は一種の快感さえ感じさせる自然さであった。
自転車置き場の設置、というのが最初の議題である。なんだ団地の管理組合の集会かと思わせるところがうまい。なにしろタイトルが「御前会議」なのだから。
よくある議論が続いて、結局決を採ることになるが、これが真っ二つに分かれてしまう。木下が沈黙していた佐藤さんの意見も聞いてみようよと言って顔を覗き込む。一同がある緊張をもって一緒に注視する。じーっと見ているが「そうだよね。佐藤さんはどちらともいえないよね。」と言って結論づけると皆ほっとしたように「この議題は結論が出ないので次回に持ち越します。」という宣言に賛意を表す。
佐藤さんは山田という俳優がやっている。この山田は五反田団の劇作家で演出家前田司郎が発明したキャラクターで人形だ。平田オリザは、この人形を見ていつか使ってやろうと思っていたらしい。
佐藤さんは人形だから黙って坐っているだけである。一同は喧々諤々議論している最中はこの存在がいないかのようにふるまっているが、いざというときにはあてにして見せる。佐藤さんは議論に参加していないように見えるが、皆気にかかっている。沈黙しているが明らかにそこにいると誰もが認めている。
言うまでもなくこの佐藤さんこそ「御前様」の喩えで、進行していくうちに昭和天皇を示唆していることを思わせる。といいながら佐藤、斉藤(高橋)馬の糞といわれるごとく、日本人のもっとも多い姓のひとつをつけた。この二重構造が平田オリザの工夫である。
僕はこれを見ながら実際の御前会議がどうだったかについて平田オリザはかなり調べているという感じを持った。当然のことだが御前会議のなまなましい様子が外に漏れてくることはない。あとから侍従や政治家軍人の回想録にわずかに記録されるだけだ。「御前様」が議論に参加し、結論を言ったか或いはよきにはからえ式に決定をゆだねたか、つまり戦争責任論に関わるような意味合いのことではない。昭和天皇は実際に言語に問題があった、そのことを知った平田オリザは発語しない人形の佐藤さんを「御前様」とするのがもっともふさわしいと考えたのではなかったか?
ここから先は脱線を承知で丸谷才一の「ゴシップ的日本語論」(文芸春秋社)に依拠して書く。僕はかねてから例の終戦の詔勅=玉音放送を聞いてどこかおかしいと思っていた。「(時運ノ赴ク所)タエガタキ、ヲタエ、シノビガタ、キヲ、シノビ、モッテバンセイノタメニ、タイヘイヲヒラカントホッス。・・・」という有名なフレーズだけでも、初めて「爾臣民」に聞かせる現人神の声として、威厳があり(雑音だらけで聞きづらいことも手伝ったか?)サモアラフと思わせる。どんな名優もこのような天の声は思いつかなかったろう。ところが、どこかぎこちなく、イントネーションが間違っているのである。(因に、これを起草した陽明学者、安岡正篤は歴代首相らの相談役として戦後政治に隠然たる影響を及ぼした。後に銀座でクラブをやっていた細木数子と結婚する。細木の横柄な態度の背景に安岡の影を感じる。脱線の脱線!))
雑誌でその丸谷才一のエセーを読んでいて思わず膝をたたいた。
米国人のハーバード・P・ビックスという人が書いた「ヒロヒトと近代日本の形成」(2000年)、鳥居民という人が書いた「昭和二十年」(2002年)という本を読んで丸谷先生は「二人の歴史家は別々に、そしてほぼ同時に同じことを発見したのです。」といっている。「それは昭和天皇が皇太子であったときに受けた教育に、重大な欠陥があった、といふものです。そのために、言語能力の面で非常に問題のある方になった。」
ビックスおよび鳥居民の研究によると、次のようなことが指摘されているようだ。満十八才の成人式直前に「過保護で閉鎖的な御学問所といふ社会のせいで、皇太子はほとんど人前で話すことがでず、云々」という記事(時事新聞)が掲載された。実際大祝宴において挨拶をなさらず、参会者の祝辞に対しても何も応えなかった。
また、元老山県有朋が拝謁を賜ったとき、「いくつかの質問をした。その質問に皇太子はなにも応えることはできなかった。そしてまた山県にたいして皇太子が質問するといふこともなかった。そのことを山県がある軍人に語ったときの文章がすごい。『あたかも石地蔵のごとき御態度』といったと、その軍人は日記に記してゐます。」
「当時の東宮大夫や御学問所の教師は、皇太子にとって何よりも大事なことは物事を論述する力であるといふことを考えなかった。・・・明治天皇型の威厳のある神々しい帝王を空想的に思い描いて、臣下にたいして威圧的に語る、寡黙な君主に仕立てようとした結果なんでせうね。」
まともな言語教育を受けなかったために「昭和天皇は、何を語っても言葉が足りないし、使う用語は適切を欠き、語尾がはっきりしなくて、論旨の方向が不明なことを述べる方になった。」お言葉をいただいた臣下は真意を計りがたく「協議し」て結論を得たというが、解釈を間違えたことがいくつもあったのではないだろうか。いやそうに違いない。
戦後昭和天皇は人間宣言をして戦没者の家族を見舞う意味を込めて各地を巡幸した。この時、陛下がいかに言葉が少ないかを僕たちは実際に見知っている。帝王教育とはさもありなんと納得していながら、しばしばこのまねしてをからかった。丸谷先生も昔よくやったものと見えてめずらしくだじゃれを記している。天皇陛下が熊本巡幸の折りに案内のものが「陛下、あれが阿蘇でございます。」すると陛下、いつものように、「あ、そう。」とおっしゃいました。
面白い話が続くので紹介したいのだが脱線もこれ以上になると戻れなくなる。そこで僕が言いたかったことをもう一度確認すると、平田オリザはこの昭和天皇の重大な欠陥を、つまり山県有朋の「石地蔵」のようだったという感想を知っていて、佐藤さんを演じさせるにはあの人形の山田がふさわしいと考えたのではないかとぼくは直感したのである。それで僕はこのゴシップ(的な話)を思い出し、人形の俳優に演じさせるとはアイディアだなあと感心してこの劇を見ていたというわけである。
さて、自転車置き場の一件が先送りになって、次の議題は邪馬台国はどこにあったか?というものになった。瀬島が最近の研究として邪馬台国は奄美にあったという説が有力だと言いだした。すると間髪入れず中島由希子が、自分は先週奈良に行ってその場所を確かめてきたというのである。聞いていた田中がむきになって異を唱えるが、もともとが『魏志倭人伝』一冊のわずか数語しか証拠資料がないのだから結論が出るものでもない。これもまた先送りにせざるを得ない。次の議題に移ろうとしたときに遅れて松岡(井上美奈子)が入ってくる。いわゆるかわいいタイプの色白の美人で、こういう手合はわざと遅れて注目される快感を味わっていることがよくある。平田はこの辺の機微をわきまえているようだ。
次の議題は、といいだした途端に、松岡が自分の提出した議題はどうなったと割って入る。すると、中島由希子が逆上したように「遅れてきて何を言う」とにらみつける。見返した松岡が勝ち誇ったような顔で、「何?嫉妬してるの?」と意外な発言。観客の頭も大混乱だ。実は、中島由希子と中島ともおは離婚寸前の夫婦だった。だから隣り合っていた席を後から来た由希子がわざわざ遠いところに変えたのであった。そして「嫉妬」と松岡が言ったのは自分の美貌ではなくて、中島ともおと自分の仲に対してのことを意味していたことはすぐに分かった。これに対してどうも、中島ともおは狼狽して否定したい様子であったが、松岡はこれを見逃さなかった。
こうしてこの集団には男と女の問題があるとわかった。そのあと松岡が強引に議題にしようとした「世界とはなにか?人間とは何か?いきる価値があるか?」という哲学的な問題がとりあげられ、何人かわけの分からない発言をした。小難しい理屈を並べたあげく、このコンニャク問答は本人の手によってあっさりと「分からない。」と結論づけられ拍子抜けしてしまう。
他にもこの芝居には「食品の賞味期限について」やら「宇宙人の来襲」やら大まじめに議論するが結論は出ないような議題だけが脈絡なく登場する。問題を先送りしようがそれに、もの言わぬ佐藤さんの存在がからむと、ある日本的な心性が浮かび上がって来るというのが平田オリザの見解ではないか?つまり日本人にとって天皇の存在はそのような無意味な会議まで保証する一種のよりどころ、見えない世界の中心、真空地帯なのだということではないか、そんなことを考えていた。
そして、外国に派遣している軍隊を引き揚げるべきかどうかという議題である。派遣先はどうも中国を示唆しているのであるが、現実に起きていることを考えればイラクということになる。このあたりから次第に大東亜戦争と現代のイラク戦争との境界が曖昧になり、どちらの議論をしているのか微妙に入れ子状態を示しはじめる。集団的自衛権などという生々しい言葉もでて俄然話にリアリティが加わる。いつの間にか瀬島は海軍さんと呼ばれ、比較的リベラルな見解を示すが、たいして陸軍さんと言われる田中は時に激高し時に熱くなり、いかにも旧帝国陸軍の若い将校を思わせる。他の平和を唱えるものに対しても先の戦争でなくなった英霊に申し訳が立たないと言って好戦的なこと言っているうちに、たまらなくなったのかいきなり切れて拳銃をとりだし、海軍さんに向かってプラスチック弾を撃ちはじめる。瀬島がピストルで応戦する脇で、あろうことか松岡までリボルバーを構え中島ともおに向ける。これには田中も冷めて唖然と見ている他ない。松岡は怯む中島に迫り顔に突きつけた銃身をついに口に突っ込むで憎しみをあらわにする。妻の由希子は口をあんぐり開けて二人の関係が抜き差しならない所にあるのを見守っているだけだ。
こう言う劇の盛り上げ方もうまいなあと感心するばかりであった。
こうして会議は自分の気持ちを抑えながら相手の言い分を聞くという民主主義のルールから思いっきり外れ、ついには殺し合うというのが会議というものの究極のカタルシスだと一同は悟るのである。ところがこの快感、まるでセックスの後の極めて個人的な快感を互いに確かめあっているような、何だかばつの悪い思いがするものでもある。後味の悪いことをやったあとで、白けるとはこのことを言うのだ。こう言う思いをするくらいなら我慢してでも話しあったほうがなんぼかいいか。
騒ぎが一応収まり佐藤さんの様子が気になっていた木下が話しかけると反応がないという。「いやだ。佐藤さん心臓が動いていない!」救急車を呼ぶもの担架を用意するもの、会議どころではなくなった。誰もいなくなった部屋に取り残された中島夫妻が「おれたち、より戻そうか」とつぶやいたところで終わる。
これだけではこの劇の面白さを伝えきれない。役者も皆若いが、しっかりした力をつけている。見ていただくしかないが、僕は平田オリザの重層的な問題意識が平明な言葉で語られ、人間が構成している社会というものの本質にも迫る、知的なユーモア漂う傑作と言っていいと思う。
これまでの表現手法にないという意味で反演劇とも言えそうな劇がごく自然な形で成立していたことを正直なところ僕は気付いていなかった。これを見て最近、野田秀樹のものをみると結局彼の手法は新しかったのではなく、小劇場のムーブメントのしんがりにくっついた反新劇最後の(やかましいだけの)方法で平田が開いた世界とは一線を画するものだという確信が生まれてくる。
残された問題は、歌舞伎でもなんでも演劇というものは伝統的に「大向こうをうならせる」ということが求められるのも一方の真理で、こう言う要求との折り合いをどうつけていくかである。
                   (2005年3月29日)

 

 

 

 


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