題名: |
怒りの葡萄 |
観劇日: |
03/6/27 |
劇場: |
サンシャイン劇場 |
主催: |
劇団昴 |
期間: |
2003年6月21日〜29日 |
作: |
フランク・ギャラーティ 原作ジョンスタインベック |
翻訳: |
沼澤洽治 |
演出: |
ジョン・ディロン |
美術: |
濱名樹義 |
照明: |
渡辺省吾 |
衣装: |
山口徹・トレーシー・ミークス |
音楽: |
上田亨 |
出演者: |
宮本充
石破義人 秋間登 伊藤和晃 田中正彦緒方愛香 辻つとむ 武藤与志則 斉藤譲 石田博英 永井誠 鉄野正豊 稲垣昭三 内田稔 西本裕行 小沢寿美惠 久保田民絵 寺内よりえ落合るみ 田村真紀 槙野れいな 石川義仁 黒川かおる
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「怒りの葡萄」
何とも中途半端な終幕を見せられた。
一幕目はカリフォルニアに向かう2000マイルの道すがらジョード一家が経験する苦難を描いて十分面白い。二幕目も彼らが受ける抑圧や差別、主人公トムの抵抗、出奔までは、はらはらさせる展開で楽しめる。しかし、嵐の中洪水から避難した納屋の中で、飢えて衰弱した中年男に、死産したばかりの娘(主人公トムの妹)が乳を銜ませるシーンで終わるのはいささか唐突に感じられる。トムの逃亡の後、一家の生活はうち捨てられた貨車を住いに落ち着いた様子だが、飢えた親子の存在は、状況が変わったわけでないことを思わせる。農民の苦難と貧困は収まっていなかったのか。そういう思いがあるから、娘の決心は尊いと感心しながら、しかしこれでおしまい?一家の運命はどうなるのだ!農民は救われないのか?とものがたりが終わった気にならないのである。
ジョン・フォードが原作出版後すぐ作った映画の方は、農務省のキャンプから長男トムが出奔した後、一家が綿花の摘み取りの仕事を得て農場に向かうところで終わる。トムは百万エーカーを所有する地主のために十万人の農民が飢えると言う社会的な矛盾に気づき、行動しなければならないといって去る。綿花農場へ向かう車で、父親は翻弄され働く気力を失ったとつぶやくが、それを批判して母親は希望も期待もしない、ただ現実に立ち向かうだけだと力強くいう。物語の締めくくりとして十分納得できるものだ。
芝居の方は、小説の中でこの後に続くエピソードを入れているのだが、ドラマとしての構成は、ジョン・フォードの考え方に賛成である。
「The Grapes of Wrath」はカリフォルニアのぶどう畑を連想させるが、もともとは「神の怒り」を意味する形而上的な言葉だ。ぼくは芝居を観ながら、スタインベックはこのタイトルに二重三重の意味を込めていると感じた。
トムが刑務所から出て家に帰る途中、その後行動を共にする旧知の元牧師のジム・ケーシーと会う。ジムが牧師をやめた理由は「考えるところあって」のことだという。貧しい農民であるジュード家が信仰厚い無辜の民を示すならば、ジム・ケーシーが象徴するものは神の存在への疑問であろう。大恐慌すなわち資本主義が人々を何十年も暮らしてきた土地から追い出し非人間的な流浪の生活を強いる。この社会的なシステムに対する「怒り」とそれに下されるべき絶対的な「神の怒り」、しかし、またそれに無力な神への「怒り」、目の前にある差別や迫害に対する「怒り」、それらが重層的にからみあって一つの主題を形作っている。トムが、ジム・ケーシー亡き後その思想の影響のもとにさまざまの矛盾を糾すといい、母親が現実に立ち向かうと宣言するのは、自らが「神の怒り」となって理不尽な社会と戦うことを意味する。
世界ではじめての社会主義国が誕生してまもない時代である。当然スタインベックの意識にはそのことがあったに違いない。
だから、僕はジョン・フォードの構成の方がテーマ性がはっきりでていて、すっきりと理解できる点で評価できるのである。
芝居の方の貨車を襲う洪水、死産から飢えた親子とのエピソードは、主題がヒューマニズムに移ってしまっている。これではもう一度別のテーマで芝居をやり直しているようなものだ。エピローグとしてみても、前段部分との関連ということから考えれば、トムの行動とも母親の勇気とも話がつながらない。中途半端な終わり方だと感じた理由である。
ところが、こう書いたところでパンフレットに寄稿した一ノ瀬和夫(立教大教授・米国演劇)の文章に気づいた。一部を引用する。
「・・・このように、小説『怒りの葡萄』はアメリカの社会、歴史、宗教にまたがる重層的な構造を備えた作品だが、これを舞台化したフランク・ギャラーティーは、原典の持つ重層性を出来るだけ演劇として実現しようとしているようだ。もちろん長大な小説を演劇化するという作業のなかでは、削らなくてはならない部分も多く、小説では詳細に説明される大恐慌下のアメリカ社会の描写は、ナレーターによる語りや挿入歌に託されている。比重が置かれるのはやはり主人公トムが説教師ケーシーからの影響を受けて回心していく過程だが、トムにスポットを集中してヒーロー化することは避け、原作に忠実に、洪水に見舞われた後、トムの妹で赤ん坊を死産してしまったローズ・オブ・シャロンが、飢えた男に乳を含ませる場面まで描いたのは、この作品の多層性を表現するためにも必要であり、ギャラーティーの作品理解の深さを物語るものである。余談になるが、ジョン・フォード監督の映画版はヘンリー・フォンダら俳優達のリアルな演技と白黒の映像美が印象的な名作には違いないが、ラストの扱い方はやはりハリウッド的センチメンタリズムを引きずっている。」
ジョン・フォードの映画版との比較を持ち出したのは、ひょっとしたら僕と同じところが気になったのかもしれない。ラストのシーンは「この作品の多層性」つまりは「アメリカの社会、歴史、宗教にまたがる」広範な問題を示すのに必要だったと一ノ瀬はいうのだが、それならば、アメリカの宿痾とも言うべき個人主義と結んだ資本(自由)主義の過酷さと最近話題の「ネオコン」の原理つまり宗教的保守主義(差別の根拠でもある)を告発する色彩で全編を貫くべきであった。
実は、二幕目の一家が農務省(芝居ではUS Government)のキャンプで、世話を焼くボランティアの婦人に信仰の問題だと差別的な態度を示される場面があったのはそれかもしれないと感じていた。たぶんアメリカ人ならばその意味が背景を含めてすぐに理解できただろう。(映画は逆に素朴に同情的に描かれていた。)他にもそのような表現はあったと思う。しかし、僕らにはその文化的歴史的了解事項を十分わかるだけの素養がない。当然だがギャラーティーはアメリカの舞台で上演されるものとして書いた。それを演出家ジョン・ディロンは、日本の観客の理解を得られるとして作ったのであろう。
そう考えると、トムのように労農運動?という解決策は、One of themにすぎない。それも含めて正義感だけではどうにもならないもっと深刻で根源的な課題が隠されていたとすれば、ラストシーンは一ノ瀬和夫が言うようにむしろ「必要」不可欠であった。
洪水すなわち自然の猛威に負けそうになる人々をまとめ、死んで産まれた子が遺した乳を生きている飢えたもののために与える。つまり、差別や抑圧にもめげず、どんな過酷な運命に見舞われても人々はそれを克服して生きていく、決して負けないと言うメッセージが込められていたと考えれば、それほどの違和感を感じることはなかった。
脚色も演出もそう考えていたはずである。
しかし、トムの出奔によっていったん終わったものが、別の主題でまた始まるという印象を作ったのは、アメリカ人の演出家に、それを告げなかった劇団の責任である。
余計なことだが、「クリスマスキャロル」にもそういう解釈の中途半端さ、詰めの甘さがあったように、この劇団には自分達の芝居を徹底的に客観視してみる視点がないように思う。感想を集めてみて、僕のような意見が少数派であったら何も言うことはないが・・・
ところで、ここまでは構成上の問題に言及して、どんな話なのかを言わずに書いてきたことに気づいた。大急ぎでストーリーを説明しておこう。
トム(宮本充)が仮出所で四年ぶりにOklahomaの家へ帰ると廃屋になっている。家族は叔父の家にいてカリフォルニアに向かう準備をしていたのだ。大恐慌で農地は銀行の手に渡り、ジュード一家をはじめ周辺の小作人は7〜80年も暮らしてきた土地から追い立てをくっていた。壊れかかった中古のトラックに家財道具を積んで、わずかな現金を懐に一家はルート66を西へ向かう。一行は、トムの両親(石波義人、久保田民絵)、祖父母(稲垣昭三、小沢寿美惠)、父の兄ジョン(秋間登)、兄のノア(緒方愛香)、次弟アル(石田博英)、妹ローズ(田村真紀)とその夫(鉄野正豊)、幼い妹と弟(槙野れいな、石川義仁)、それに元牧師のジム・ケーシー(西本裕行)と総勢13人の大所帯である。
途中祖父が脳卒中でなくなり、やがて祖母も衰弱して目的地を前に息を引き取る。カリフォルニアに着くと一家が見たものは、農園での仕事を求めて何十万人もの流浪農民がはいり、手間賃はダンピングされ、多くは仕事にあぶれ飢えている姿だった。抵抗するものは「赤」と見なされ、農園主と結んだ保安官が容赦なく弾圧を加える。そんな中トムをかばったジム・ケーシーが捕らえられ別れ別れになる。ようやく仕事にありついた一家が農場の小屋に落ち着くが、回りに集まった農民の様子がおかしいとトムが見に行くと、ストライキを呼びかけているのだ。後二三日で梨は熟れて商品にならない。農園主は折れて手間賃をあげる他ないというのだ。何と首謀者はジム・ケーシーであった。トムを説得しているとき、農園主側の一団が襲いかかりジムを殴って殺してしまう。カッとなったトムはその男を殴り倒し闇に紛れて戻るが、発覚を恐れて小屋を出ることにする。一家は北を目指して進むが途中農務省が作ったキャンプに出会い、身を寄せる。しかし追っ手が迫ったことを悟ったトムはジムのいったことをやってみると言い、一人キャンプを去る。
と言うところで上述のラストシーンにつながる。
一幕目のオクラホマからテキサス、ニューメキシコ、アリゾナと移動する旅の場面は、各プロットをバンジョーとバイオリンのアメリカ音楽で繋いでゆくテンポがよくて楽しい。
ただし、その楽士たちの中心となる黒川かおるは俳優ではないだけに、一人浮いていた。オールドタイム・フィドル&バンジョーとは軽くてはずんだ音楽のはずが、黒川はなぜか緊張していた。愛想笑いはいらないが、どうせなら眼鏡で表情を隠したほうがよかったかもしれない。
俳優陣の中で最も目立ったのは、母親役の久保田民絵だ。もうけ役とも言えるが、あれだけの貫録はなかなかでないだろう。いい女優を見たと思う。
西野裕行のジム・ケーシーは、元牧師という陰影のある役柄だが強い印象は残せなかった。稲垣昭三は久しぶりに元気なところを見た。
スタインベックの長編を舞台化するのは難しいのではないかと思っていたが、、背景の挿入歌による説明やエピソードの選択と配置などうまくまとめていた。脚色したフランク・ギャラーティの才能であろう。ただ、終幕のエピソードについては、日本の観客に解るようにするには演出上、それなりの配慮が必要だと思う。
終幕に関して「ハリウッド的センチメンタリズム」と言う批評があったが、アイルランド人であるジョン・フォードは、現実と立ち向かう決意の人々の姿にエンドマークを重ねた。原作に忠実でなかったとしてもスタインベックの「怒りの葡萄」を貶めたことにはならないだろう。ぼくは、ドラマとしてなら(西部劇など典型だが)アイリッシュの感覚にシンパシーを感じる。
(2003.7.6)