題名:

ハゲレット        

観劇日:

06/3/17       

劇場:

紀伊国屋ホール   

主催:

フジテレビ+博報堂DY    

期間:

2006年3月9日〜3月21日     

作:

鈴木聡 原作:ウィリアム・シェイクスピア 

翻訳:

小田島雄志      

演出:

山田和也          

美術:

二村周作             

照明:

足立恒            

衣装:

前田文子            

音楽:

長野朋美 
出演者:
近藤芳正 笹本玲奈 陰山泰 石田圭祐 鈴木浩介 福本伸一木村靖司 桜井章喜 湯澤幸一郎 土屋裕一 久世星佳 ベンガル  

                                               

「ハゲレット」

ハムレットは、実は若はげだったというなんともおかしみの込み上げてくる設定で、それがどんなパロディになっているのか、前評判も高かったせいで期待して見た。
ところが、実に原作に忠実な作りで、小田島雄志訳といってもそのほとんどは、鈴木聡が話し言葉に直しながら、話の筋立てが際立つように短く刈り込んだものであった。つまり、禿げていようがいまいが「ハムレット」には変わりないのだ。
ただし、若はげの発想は、鈴木聡がハムレットを少々滑稽な存在だと思っていることを意味している。普通の目から見てあれほど悩み、考え、なかなか行動しようとしない人物は珍しい。当時も今も一種の変人に見えるはずだ。悩み抜いてついにハムレットは若はげになったというのである。開幕からホレイショーに「見たでしょ。僕の頭。・・・笑ったでしょ。」という調子で、これによって、この劇につきまとう深刻で重々しい空気が払拭され、名作につき合わされるという余計なハードルを越えずにすませられる。
「どうよ。どうなのよ。」とか「・・・ですよねえ。」とか、いまの若者の日常語や平田オリザが使いそうなフレーズが随所に出てきて、これほど「現在」を感じさせる「ハムレット」は初めての経験だ。
とは言え、二村周作の装置は古典的な石積みの城を表現しており、前田文子の衣装もエリザベス朝を基本にアレンジしてある。つまり、この芝居は、原作の骨格をそのままにして、言葉だけを我々の日常会話に出来るだけ近づけようという試みなのである。
鈴木聡は知らなかったが、経歴によると博報堂でコピーライターをやっていた変わり種だそうだ。いわれて見れば昔一緒に仕事をしたような気もする。それはともかく、こういう発想は、如何にもコピーライターが考えそうで、正統的な(そういうものがあるとして)演劇畑からは出てきそうもない。
コピーライターが考えるオーディエンスは自分と同じ目線の人々である。そういう一般の人々が分かってくれなくては、コマーシャルメッセージは届かない。届くかどうかが何によって担保されるかといえば、とりもなおさず自分が分かっていることである。自分の目から見て「ハムレット」はこうしたらもっと分かりやすくなると考えて、現在の普通の観客がのりやすくなる方法を工夫しようとしたのだ。
そういう目から見て、ハムレットは異様に悩み考える人だというのだが、ほかにもいくつか変なところがあって、それについては自分の感覚で解釈してもよいのではないかというのである。
こういうパロディ風「ハムレット」でもなければ決して出来なかっただろうといわれる近藤芳正のハムレットは「ああでもない、こうでもない。」と小田島雄志訳を今風言葉にした鈴木聡訳で滑らかに「悩む」のであるが、これがすっきりと頭に入り込んで、なるほどハムレットは滑稽なほど悩みを大いに悩んだ人だったと了解するのである。
その悩みの種は、ホレーシオ(陰山泰)とマーセラス(湯沢幸一郎)が先王の亡霊を見たとやってきたことから始まる。亡霊は小さな人形で、客席から現れる。「近づいても大きさが変わらないのは遠近画法に乗っ取っていない・・・」などと冗談を言いながら、先王すなわち自分の父親が弟で現王のクローディアス(ベンガル)に殺されたことを告げられる。ここは「あかね色のマントを羽織った朝」も「一番鶏の鳴き声」も省略してことの発端を極めて端的に示していた。現代における亡霊は荘重である必要はない。先を急ごう、というわけだ。
ハムレットの悩みはまず、亡霊が告げたことはほんとうか?ということである。ほんとうだとすれば、次に復讐をすべきかどうか?である。そしてどのような方法で?と整理される。しかし、その場合母親ガートルード(久世星佳)の存在をどうしたらいいか?
原作では「弱きもの、汝の名は女なり。」という逍遥訳で有名なフレーズがすべてを語っているような印象があって、必ずしも得心がいくような書き方はされていない。あの時代の女の立場になってみればあまり選択肢があるとは思えないから、やむを得ないことだった、かも知れない。とは言え、ガートルードの心境についてはまったくといっていいほど書かれていないのである。
そこで鈴木聡は、ガートルードは先王に性的不満があって、生前すでにクローディアスと出来ていたことを明らかにする。しかも、日の高いうちに情交を求めるという激情の持ち主でクローディアスも困惑する有り様である。
なるほどこうすることで、ハムレットが母親に「さっさと夫の弟のベッドにいけ!」とののしる場面やガートルードが「息子がクローディアス暗殺をたくらんでいる」と告げ口する場面に合理性が出てくる。つまりガートルードは貞淑な妻などではなかったのだ。男女同権時代のガートルード解釈である。なるほどこういう設定ならクローディアスは母親の前で迷わずハムレットを英国に送ってそこで殺してしまう決心が出来たのであった。
もう一つの新解釈はフォーテンブラス(土屋裕一)がデンマーク王の地位をあっさり手にしたことに存外単純に喜んでいるだけで、およそ人格者には見えないことだ。そのようにあっけらかんと幕を閉じることによって、禿げになるほど悩んだハムレットの苦悩をかえって際立たせることにしようとしたのであろう。
この前に見た新国立劇場「十二夜」も山崎清介による巧みな構成が分かりやすく、「子供のための」シリーズの手法だったとは言え、日本のシェイクスピア劇の水準の高さを表しているものであった。
およそ二時間にまとめられたこの劇もまた、喜劇の様相を帯びてはいるが日常語で語られた現代における「ハムレット」として独自の地位を築いたといえる。これはひとえに鈴木聡という才能の功績である。かつてコピーライターの仕事で磨いた才能が演劇の世界で花開いた希有な出来事というべきであろう。 
   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


新国立劇場

Since Jan. 2003