題名: |
萩家の三姉妹 |
観劇日: |
03/10/17 |
劇場: |
世田谷パブリックシアター |
主催: |
二兎社 |
期間: |
2003年10月11日〜10月19日 |
作: |
永井愛 |
演出: |
永井愛 |
美術: |
大田創 |
照明: |
斉藤茂男 |
衣装: |
竹原典子 |
音楽・音響: |
市来邦比古 |
出演者: |
渡辺えり子
南谷朝子 岡本易代 片岡弘貴 大鷹明良 大西多摩惠 酒向芳 藤夏子 土屋良太 坂本岳大 小山萌子 杉山明子 |
「萩家の三姉妹」
宋美齢が亡くなったと新聞(10/25)に出ていた。宋三姉妹のひとりが存命だったとは驚いたが、そういえばちょっと前に「西安事件」(蒋介石が成安で張学良に捕えられ、宋美齢が夫を取り戻そうと奔走した事件)一方の立役者張学良がハワイで天寿を全うしたと聞いた。二人とも百歳をこえて長命だった。満州軍閥、蒋介石国民党も日本の敗戦・被占領という断層に隔てられて、僕の中では彼方にあるものという感じだったが、これで東アジアの歴史が地続きだった事を再認識することになった。
いや、三姉妹の話である。昔から女の姉妹は仲が悪いといわれてきた。ところが三姉妹となると格別の意味を帯びてくる。だんご三兄弟は長男以下仲良くくし刺しになって収まっているが、三姉妹は仲が悪いというよりもそれぞれ三人三様の個性を発揮して収まるどころではない。お市の方の娘三姉妹もそうだった。浙江財閥、宗家の三姉妹もご案内の通りである。シェークスピアもチェーホフもこの設定で書いて好評だった。永井愛はタイトルで宗家を、内容でチェーホフを意識してはいただろう。旧家で大家という点で伝統を引く以外萩家のそれはどれにもあてはまらない、現代女性の生き方を活写する抱腹絶倒のしかし恐ろしく現実味のある三姉妹になった。
長女の鷹子(渡辺えり子)は大学でフェミニズムを講じている独身。実家のそばで暮らす次女の仲子(南谷朝子)は二人の子を持つ専業主婦、三女若子(岡本易代)は定職にも就かないで習い事などしながら家でぶらぶらしている。
鷹子には4年も不倫関係にあった同僚の教授本所武雄(片岡弘貴)がいまだにつきまとっている。交際中に彼の若い妻が妊娠するという不誠実に嫌気が差して別れたのだが本所の方は不本意である。自分の恋愛は何故うまくいかないのかという悩みが解決されないからだ。鷹子にも中途半端な気分があって、この二人は自分達の関係を素材に「フェミニズムとジェンダーの相克」をテーマにした共同研究をするという名目で会っている。
フェミニズムというのは女性であるゆえのいわれなき差別を取り除いていこうという態度だと僕は考えている。しかしこれが攻撃的になると、しばしば性差をこえて中性的というか現実離れした理屈だけの主張に聞こえてしまう。田島陽子センセがからかわれるのはこの点で、まじめなフェミニズムにとってはかえって損である。何千年にもわたって人間がやってきたことを変えようとするのだから知恵と時間がかかるのは仕方がない。
鷹子はこれを学問として教えているだけでなく当然自らも実践しようとしている。しかし、恋愛における性的差別となると話はややこしい。もともと性差はあるのだからどれが差別か自然の感情の発露か規定することは難しい。この性的な差異をsexといわず社会的文化的意味性を含むジェンダーと言う言葉で表現したのは、イヴァン・イリイチあたりからだと思うが、「シャドウワーク」を書いた彼の選択だから本来フェミニズムと相克!する関係ではない。(この辺は本題から外れるのでいずれまた・・・)
鷹子はフェミニズムの実践に自分の女性性つまりはジェンダーが邪魔だと思っている。しかし、それは自分の中にある紛れもない真実だから、そこが悩ましい。一方本所は、フェミニズムに十分な理解を示そうとするのだが、男性性をどう控えればいいのか加減を知らない。これが恋愛から性愛に発展すると話はにわかに具体性をおびてくる。
男も女も氾濫するポルノやsex情報が作り出す幻想に支配されていて、そのイメージから自分がどれだけ逸脱しているかが気になるものだ。つまりこの呪縛に由来する不安が現代人のsexにはつきまとっていると鷹子は論ずる。人間のsex は脳によってコントロールされているというわけだ。そしてお互いの肉体関係を分析しているうちに「婦人公論」の読者投稿や「主婦の友」の医学相談のような卑近で露骨な告白合戦に発展。やがて短小コンプレックスと不感症という意外な事実に行き着いて観客一同唖然とする。ここまでの危ない会話をハラハラしながらみていたが、客席はおおむね大笑いである。パンフレットで永井多恵子(元NHKアナウンサー)が男性作家ではこうは書けまいと言っているが、まさにその通り、永井愛は絶妙のバランスで男と女の真実に肉迫したのである。
この共同研究の成果はどうなったのか?終幕近く、突然本所が厚化粧にドレスをまとって萩家に現れるのだが、おそらくそれは男が参画するフェミニズムの究極の姿と本所が結論づけたものだった。永井愛の漫画家的センスが面目躍如のシーンで僕は内心げらげら笑っていた。
渡辺えり子の鷹子は力演だったと認める。とはいえこの人は大体が大雑把な人で、大学の教師として適役だったかどうか。それにしても、全く色気もかわいげも感じさせないのは、余計な想像をしなくて済むからかえってこの場合よかったかもしれない。
さて、次女仲子は、夫(酒向芳)が子どもの面倒見がよくて、その関係のボランティアに精を出すのはいいが、自分には横柄で頭ごなしでやさしさがない、その上家庭を守る主婦としての労働(つまりシャドウワーク)に感謝がないと不満がつのっている。そこへ一家が東京で暮らしていたころの頭が良くてハンサムな幼なじみ日高聡史(大鷹明良)が宅急便を届けに偶然萩家に現れる。聡史は妻文絵(大西多摩惠)が子宮摘出で子が生めなくなったのを機に勤めをやめて、農業をやろうと東京を引き払ってきたのだ。野菜を作るだけでは暮らしが立たず宅急便のアルバイトをしていたというわけである。このあたりの話はいかにもありそうで、うまい。仲子は中高生の時分聡史に密かな憧れを抱いていたが、その頃とちっとも変わっていない聡史の人柄に気づいて好意を持つ。聡史は、妻がそういう身体になったためにことさら女っぽい服装を選んで少女のように振る舞うのを痛々しくみているが、一方で独りホームページで童話の創作にのめり込む妻の姿には困惑を覚えている。仲子が畑を手伝いに行ったり、聡史が萩家を訪れたりしているうちお互いの欠けた部分に気がつくようになった、ある日仲子が強引に誘い込んで関係を結ぶ。不倫の始まりである。
やがて文惠が気づいて家を出ることになり、その結果仲子は決断を迫られる。仲子が夫も子どもも捨てて聡史と一緒になるかどうか狂おしく思い迷うところで終わるのだが、南谷朝子はこの主婦の行動力と葛藤を懸命に演じて説得力があった。受けて立った大鷹明良の人物造形が秀逸で、このキャラクターがひょっとしたら永井愛の書きたかった女に対する男の距離感のようなものだったのではないか?と考えた。
それにしても女性が決心して男を誘い状況をリードしていくという設定は、明らかに女性上位、これではフェミニズムも何もぶっ飛んでしまっている。
飛んでいるといえば、三女若子(岡本易代)は二人の男と関係して平然としている。指物師の徳治(土屋良太)は若子を自分の女と思っているが、実は弟弟子の鈴夫(坂本岳大)と間違いがあった事を知らない。鈴夫はアニキを裏切ったことに堪えかねて、打ち明けると徳治は怒って若子から離れていく。若子はあっけらかんとしたもので、今度は鈴夫を取り込もうとする。こういう調子のよさを鷹子は知っているのであろう。もっとまじめに生きろと家事に縛りつけようとする。若子はフェミニズムの姉にはうんざりしているが、スポンサーだからしかたがない。姉から金をせしめて習い事などして日々安直に過ごしている。「お姉ちゃん、もっとラクして生きようよ。」というわけである。そのうちいつの間にか徳治ともよりが戻り、普通の男女関係を超えた関係と称して鈴夫と三人、東京でアパート暮らしをはじめるために家をでようとするのだが・・・。
若子の頼りない生き方や男女関係については、永井がいかにも近ごろの若者の生態に通じていると思った。鷹子や仲子の世代とは際だった違いを見せるのだが、こいつら一体この先どうなるのだと心配になってしまう。
徳治と鈴夫のキャラクターの作りが非常にうまくて、ふたりの静岡弁でのやり取りは演出と役者の息がぴったりとあって、この場面はもう少しみたくなるというか、堪能できた。
若子の岡本易子とは縁があって、二兎社PLAYBILLのプロフィールにある5本すべてをみている。並べてみると異質な役柄である。ベビーフェースだから芸域が広くなるのかとも思うが、もともとが器用な役者なのであろう。中でもこの若子がもっともイメージにあっていたのではないか。
岡本と「ゴロヴィロフ家・・・」で姉妹役をやった小山萌子が鷹子のゼミの学生船木理美役ででている。家に押し掛けてまでフェミニズムを勉強しようという熱心な教え子である。ある日、同級の南ちはる(杉山明子)が鷹子の所にやって来て、船木が学問に興味を失ったように見えるのはけしからんと訴える。就職を前にして美容整形までしたらしい。面接のおじ様族に女性性を強調してことを有利に運ぼうという魂胆だというのである。南ちはるに言わせればフェミニズムの風上にも置けぬ豹変ぶりということになる。やがて萩家に訪れた船木の姿は、揺れるほど豊になった胸の線をアピールする真っ赤なニットにミニスカ、ブランド物のバッグをぶら下げてという派手なもので、鷹子もあきれるより他ない。フェミニズムを語る学生など企業にとってはあまり有り難くない、ということを船木は知っていて、宗旨替えしたのか一時しのぎかはともかく自分の女性性を最大限活用しようと割り切ったのだ。鷹子の硬質な女性学を散々聞かされた後だけに、おかしくてしかたがなかった。
他にも、萩家に50年も仕えてきた品子(藤夏子)が卒中で倒れ、家でリハビリと介護をすることになるなど、この時代を生きる女性が遭遇するさまざまな課題が盛り込まれている。
その解答は・・・?
終幕、正月の朝が明けようとする萩家の居間に一同が別々の理由で、偶然に現れる。鷹子には、女装して妙な論を展開する本所。仲子には迎えに来た聡史。若子は二人の若者と東京に出奔しようとしている。次第に新しい年の朝日が差し込んでくる部屋の真ん中で、鷹子はそれでいいのかと必死に問いかける。考え、悩む一同。沈黙の後、「・・・それはともかく、働かなくちゃね。・・・」と若子がつぶやく。
この芝居は、最初に書いたように「現代女性の生き方を活写する」という点でジェンダーを巡る幅広い問題提起をした。「抱腹絶倒のしかし恐ろしく現実味のある」という点では僕らの実人生の滑稽さと、しかしながら避けて通れない現実を見せたといえる。今チェーホフよりも永井愛の三姉妹をみるべきだと主張する所以である。
それにしても、とことん色気というものがない三姉妹だった。(2003/11/2)