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「華岡青洲の妻」              

正月四日の三越本店は意外に混んでいた。劇場には、職人技の実演販売のイベント会場を通って行くことになる。桶だの捌けだのべっ甲細工やらがあって、正月にふさわしい気分になるものだ。

この芝居は、小説を書いた有吉佐和子によって脚本化され、文学座の当たり狂言となって何度も再演され、映画にもなった名作である。市川雷蔵の映画を見た記憶がある。細部は忘れてしまったが、たしか若尾文子と高峰秀子がねちっこく濃厚な心理戦を戦わせている。今度調べたら脚本は進藤兼人が書いて、増村保造がとっている。この二人なら過剰なくらいに嫁姑の確執を描いたはずだ。

舞台では杉村春子が長く於継役をやった。相手の加恵は小川真由美や太地喜和子、新橋耐子など多彩である。舞台は見ていないが、杉村春子なら相手が誰であれ、嫁姑の間柄はおそらく「鬼気迫る」ものがあっただろう。

ところが、池内淳子と波乃久里子では実にあっさりとしたもので、この二人の対立よりも、廻りの人間関係の方がたって、また別の趣があった。演出の戌井市郎がそうしたというよりは、池内淳子のあまり人間にからんでこない恬淡とした性格と波乃久里子のおおらかさが女の戦いという印象にならなかったのである。波乃は、いつの間にか柄が大きな存在感のある役者になっていて、妙な言い方だが、いよいよ先代の勘三郎に似てきたと思った。勘三郎が持っていたちょっととぼけた味わい、喜劇的な空気まで身につけてきたのにもいささか驚いている。

したがって、あまり湿っぽさを感じさせない芝居に仕上がっていたのは、救われた。なにしろ正月から女っぽい意地の張り合いを見せつけられたのでは気がめいるというものだ。清州の勝野洋が「ガ体」がいいのと不器用な大作りで、医者らしく見えなかったのも何となく景気が良くて、職人技の実演販売と隣り合わせなのにふさわしいのではなかったかと思っている。

有吉佐和子は故郷紀州に題をとった小説を多く書いているが、華岡青洲(宝暦十年1760〜天保六年1835)とはいいところに目をつけたものだ。

清州は紀州那賀郡の医者の家に生まれた。京都に留学して医術を学び、和漢洋(蘭)のいいところを融合させるという考えのもと、全身麻酔による手術方法の確立を目指した。二十年余の研究の結果、麻酔薬「通仙散」を完成、文化元年(1804)世界に先駆けて乳がんの手術に成功した。当時ノーベル賞があったら生理学・医学賞受賞は確実であっただろう。

この業績を考えると、動物実験のやり方や、薬草の効能を定義づける方法や外科手術の水準など医学上のことで具体的に知りたいことはたくさんあるが、有吉佐和子の関心は、そこにはなかった。

話は、清州がまだ京都にいる間に、夫不在のまま祝言を挙げて、花岡家の人となった加恵(波乃久里子)が姑の於継(池内淳子)、清州の上の妹、於勝(甲斐京子)、下の妹、小陸(紅貴代)とともに、清州の学資を得るための機を織っているところから始まる。

加恵の実家は、名手庄の富豪で本陣も勤める大庄屋である。青洲の母、於継の美貌と賢夫人の評判は加恵の耳にも聞こえていた。この於継に望まれて加恵は華岡の家に嫁入りしたのであった

でき上がった反物を出入りの業者に預けて一段落ついたところに、突然、清州が3年ぶりに京都から帰ってくる。

加恵にとっては初めて見る夫であったが、於継は我が子が帰ってきたのに狂喜し、嫁には目もくれずに世話を焼く。喜ぶ妹たちにも取り残されて、加恵はひとり先々に不安なものを感じるのであった。

清州は、ネコを拾って帰ってきた。犬も集めろという。麻酔薬の実験に使おうというのである。中国の「後漢書」に名医・華陀が麻酔薬を酒に混ぜて飲ませ、手術を行ったとあるのを再現しようと、野山から薬草を採集し庭にも植えて、家族に世話をさせた。

三年が経ち加恵は妊娠した。長雨で田畑がダメになり飢饉に襲われていたが、加恵と実験用の犬猫だけは白いご飯を食べていた。自分のことよりもお腹の跡取りを心配する於継の態度に加恵は腹を立てていた。出産は実家に帰ってするものという習慣のために、迎えにきた母、於沢(淡路恵子)に不満をこぼすが、嫁と姑とはそういうものだと諭されてしまう。

この頃、妹の子陸は弟子の米次郎(雨宮良)に、一人前になって故郷へ戻る時には、一緒になってくれと求婚される。小陸もそういう思いでいたと告白し、それを承諾する。

子供が産まれ、一安心したのもつかの間、妹の於勝に乳がんの症状が出た。痛みに耐えかねて、於勝は兄に切開手術をして欲しいとせがむが、手術方法はまだ確立しておらず、その頃は、女は乳房を切れば確実に死ぬと考えられていたから、清州はついに何もして上げられなかった。

於勝が亡くなり何年かして、いよいよ睡眠薬の動物実験が成功すると、於継が清州と加恵の居室に現れ、次の人体実験では自分を使って欲しいという。加恵はそれでは嫁の勤めが出来ませんといって、自分を使うように強く主張する。清州は板ばさみになるが、それなら双方に実験台になってもらうということになって、二人は意地を通した。

人は美談といって誉めそやすが、小陸の目には、激しい嫁姑の争いに見えていた。実験は成功したかに見えた。しかし、先に異変が現れたのは加恵の方だった。視力が衰えてきたのである。

この頃になって、小陸は、米次郎によそよそしく振る舞うようになる。問いただすと、自分も嫁に行ったら加恵のように姑と激しく争うようになるに違いない。長年、加恵と於継の間の確執を見てきただけに、自分はそれに耐えて行く自身がないというのである。

二度目の実験に挑み目覚めた時、加恵の視力は決定的になっていた。於継は、加恵の方が強い薬を飲まされていたことを知りがく然とする。

その後、於継が65歳でなくなるころには、薬の目処は立っていた。清州の名声は上がり、紀州藩の小普請御医師の役目も仰せつかった。

そうした中、乳がんを患った藍屋の母親が手術を頼みにやってきたのを、自信がないと追い返すと、入れ替わるように牛の角で乳房を裂かれた女が担ぎ込まれる。乳房を切っても死ぬわけではないと知った清州は、いまこそ長年の研究を実際に施術してみる時と思い、手術の準備を始める。

加恵も小陸も手術の成功を祈願するが、その時小陸のからだに熱があるのに気がついた。少し前から首筋に痛みを感じるのだという。手術を無事成功させた清州に症状をいうと、首に出来た血瘤だろうという見立てであった。これは動脈から神経まで複雑に通っているところに出来たガンで、取り除く手術は極めて危険であり、手術方法も全く未知であった。

小陸は、嫁に行って姑と争うことになるくらいなら、このまま行かずに死ぬ方がいい、という。それを聞きとがめた米次郎は、小陸の看病を申し出、一生嫁は取らないと宣言するのであった。

怪我をした女の治療に成功して、清州は藍屋の母親を呼び戻し、乳がんの手術をする約束をする。

加恵は、乳がんの手術の成功と小陸の血瘤を治療する方法が一日も早く確立されるように仏壇に向かって、見えない目の前に手を合わせるのであった。嫁いでから二十九年の歳月が流れていた。

僕は、清州が妹二人をガンでなくしていたことを知らなかった。全身麻酔が完成する前に乳がんでなくなった於勝、米次郎という婚約者がありながら嫁姑の争いを恐れて嫁ぐことをあきらめた小陸、この二人の一生がどこか哀れで、涙を誘う。於継も加恵も実験台となって清州の医学に貢献出来たが、二人にはそれがかなわなかった。「華岡青洲の妻」の脇筋として印象に残った。

清州は昭和二十九年に世界外科学会によって顕彰された。その業績は世界が認めるほど偉大だったのである。しかし、有吉佐和子は医学研究の功績よりも青洲の妻に焦点を当てて物語を書いた。女の立場から見たら、妻と母のあいだに立って何の差配も出来ない優柔不断の男など、どんな仕事を残したとしても、けしからんと思うのは当然かもしれない。華岡家の場合、父直道が清州の帰郷後まもなく亡くなり、於継の愛情が清州一人に向かったという事情もあって、嫁と姑の確執が激しくなったともいえる。とはいえ、この芝居が多くの観客を集めた要因の一つは、世の中に、嫁と舅姑の関係で悩む婦人が多いということ、そしてその人々の共感を得たことにある。

そのように、これは今日でも社会問題に違いない。しかし、同居をしないという解決策の他に、なにかあるだろうか?そうだとしても、やがて親には老いがやってくる。一体その面倒は誰が見たらいいのか?

終幕近く、小陸が加恵の後ろ姿に「近頃、於継に似てきた」とつぶやく場面がある。「家」を内側から支えてきたものが、やがて到達する場所に違いない。それでいいのだという考えもあるだろう。しかし、それでは繰り返しではないか?という思いが残るのも真実である。

 

 

 

題名:

華岡青洲の妻

観劇日:

07/1/4 

劇場:

三越劇場

主催:

松竹

期間:

2007年1月3日〜1月24日

作:

有吉佐和子

演出:

戌井市郎

美術:

古賀 宏一

照明:

古川 幸夫

衣装:

松竹衣裳

音楽・音響:

平井 澄子

出演者:

池内淳子 淡路恵子 天宮良 勝野洋  甲斐京子 紅貴代 波乃久里子 柳田 豊立松 昭二 只野 操  三原 邦男 
井上 恭太 小泉 まち子

 

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