題名: |
花咲く港 |
観劇日: |
05/3/29 |
劇場: |
新国立劇場 |
主催: |
新国立劇場 |
期間: |
2005年3月14日〜31日 |
作: |
菊田一夫 |
演出: |
鵜山 仁 |
美術: |
島 次郎 |
照明: |
室伏正大 |
衣装: |
緒方規矩子 |
音楽・音響: |
高橋 巖 |
出演者: |
渡辺 徹 高橋和也 寺田路恵 高橋長英 織本順吉 富司純子石田圭祐 大滝 寛 津田真澄 吉村 直人 木南晴夏 田村錦小長谷勝彦 沢田冬樹 森池夏弓 矢嶋美紀 植田真介 木津誠之 |
「花咲く港」
菊田一夫はこの芝居を20日間で書き上げた。「私にしてはめずらしく日数をかけたほうだ。」といっている。井上遅筆堂とは大違いだ。浅草のアチャラカ軽演劇がもっとも盛んだったころ、いま幕が開こうとしている芝居をまだ書いているという凄まじい現場を日常的に体験していたものにとっては、20日もかけられるのは贅沢の極みというのである。このときエノケン(榎本健一)がいた劇団の文芸部長が詩人のサトウハチローで、なかなか書かない上司にかわって菊田はギャグやコントを書いていたらしい。
やがて、古川緑波が率いる劇団の座付作者になって浅草から日比谷の帝劇へ進出した。この作品は昭和十八年、大東亜戦争も敗色が濃くなりだしたころの初演である。俳優は、緑波(野長瀬)、渡辺篤(勝又)、に加えて村瀬幸子、清川玉枝、薄田研二(当時は高山徳右衛門)など新劇から来たものも混じって世相を感じさせる。
渡辺徹は、古川緑波を知っている世代とは思えないが、しぐさによく似たところがあって、ひょっとしたら映画か何か見たのかと思わせた。研究熱心はいいが、緑波の品のよさや不器用で味わいのある素人然とした芝居には独特のものがあって、下手にまねるとホントに素人臭くなってしまう。渡辺に喜劇をやるという入れ込みがありすぎたのか、彼の野長瀬修造には時々それが現れた。「おかしみ」ということが俳優その人について回るということはありうる。しかし、それを演じなければならないとなると覚悟がいる。この作品は同じ年に、木下恵介監督デビュー作として、小沢英太郎(野長瀬)、上原謙(勝又)で映画化された。小沢英太郎は喜劇出身ではないが、彼には演技を超えたそこはかとないおかしみがある。戦後、有島一郎(野長瀬)と三木のり平(勝又)でやったことがあるらしいが、この二人ならアドリブ連発のさらりとした(関西風でないという意味で)味わいの喜劇になっていただろう。渡辺は早くから二枚目アイドル路線でやってきたのだから、キャスティングミスだったかもしれない。
海岸に朽ちた船の竜骨がいくつも埋まっているという風景を菊田一夫は沖縄列島のある島で見たことがあった。大正のはじめ欧州の大戦で需要が増えると期待された造船業だが終戦とともにあっけなくブームが去り、造った木造船の残がいが砂浜にさらされたのだという。甑(こしき)島という舞台はそれに似たところがあったのだろう。南国の孤島ののどかな時間の中で暮らすお人よしの人々が大まじめでペテン師にだまされるという図式がいかにもありそうで、さすがに菊田一夫の出世作になっただけの上質の喜劇に仕上がっている。
渡瀬憲造というのがその造船業で失敗した伝説的な人物の名前であった。あるとき島で唯一の旅館かもめ館にこの渡瀬憲造の遺児と称する男から予約が入る。渡瀬は当時は起業家、経営者として島の名士であり、失敗したとはいえいまでも尊敬するものは多い。その息子が来るというので事業の再興への期待も込めて「どう歓迎するか」など村長(織本順吉)をはじめ騒ぎになっている。とりわけかもめ館の女将、おかの(寺田路惠)はほれていた渡瀬憲造の後を追いかけて島を留守にしたことがあり、浅からぬ因縁を感じていた。
当日現れたのは野長瀬修造(渡辺徹)で渡瀬憲造の息子にしては年をくっている。おかしいと思っているところへもう一人、息子と称する男、勝又留吉(高橋和也)がやってきて、これは一体どうしたことだとなるが、野長瀬が機転を効かして実は二人は兄弟だということにしてその場を治める。
言うまでもなく二人は詐欺師で、示し合わせたわけでもなく別々に一芝居打って何がしかの金をせしめようと島へやって来たのであった。
かもめ館に滞在して島の様子や人々の心根を観察していたが、いよいよ島にやって来たわけを話すことになった。二人は父渡瀬憲造の遺志を継いでこの島に造船所をつくることにしたといい、ついては会社の株をみんなで買って欲しい、つまり会社に投資をしてくれというのである。おかのはやっぱりそうか、さすがは渡瀬のご子息、と得心し率先して協力することにする。村長も新しい事業が始まることに反対の理由がない。しかし、網元の林田伍一(石田圭祐)などは以前、渡瀬の会社に出資していたい目を見ているからあまり気が進まない。なかなか意見がまとまらないが、島民の中に戦争という時局を考えれば造船して物資の運搬に協力するのは国民の努めと言う雰囲気が生まれて、ついに甑島造船株式会社設立が決定する。
株券を販売している日、少し知恵遅れの少女(木南晴夏)を伴ったゆき(富司純子)がやって来て、なけなしの金でわずかばかりの株を分けて欲しいという。聞きつけたおかのが何故か激怒し追い返そうとする。ゆきと娘は二三年前に島にやって来て暮らしている。おかのが仕事の面倒を見てやっているがこれには深い因縁があった。
甑島をでた渡瀬憲造を追いかけて南洋の島に行ったおかのは、そこでゆきと渡瀬の取りあいになってしまう。つまりゆきは恋敵というのである。おかのは甑島に戻り、ゆきは里枝を生んで、まもなく渡瀬が亡くなると外国の暮らしから夫の故郷へやって来たというのである。
こう言う世話話的なところがいかにも菊田一夫である。なくてもかまわないエピソードだが、入ると物語の陰影がぐっと深まって渡瀬という男の人となりが魅力的に見えてくる。富司純子がこれを細い体でいかにもはかなげに、知恵遅れのかわいい少女とともにやるものだからいっそう哀れに感じ、芝居を観たなあという充実感も生まれる。こう言う人の気持ちを外さないうまさは浅草の観客の顔色を見ながら会得したものであろう。近ごろのお笑いは観客の目にさらされずにテレビに出てくるからすぐに飽きられる。
金庫には現金が溢れ、ひとつでは入りきれない程になる。およそ六万円が集まった。大金である。おそらくいまの価値にしたら億の金になるだろう。
見たこともない大金を手にして勝又はすぐにずらかろうというのだが、野長瀬は躊躇する。自分は小額の詐欺しか働いたことがないから、あまり後ろめたいこともなかった。こんどはみんな自分を信じてくれて金を投じてくれた。このまま持ち去っていいのだろうか?と大いに迷う。ここがこの芝居の見せ場で、菊田一夫はくどいほど書き込んである。このあたりは緑波がどんなふうに演ったかを想像しながら見ていたが、どうしても渡辺徹では役不足だ。鬼のような顔で逃げようとし、次の瞬間気弱にへたり込んで、心底から悪党にはなりきれないこの男の逡巡を、おかしくてやがて哀しいといった風情で表現するのは「つくって」はできないだろう。それは、俳優のからだからにじみ出てくる「おかしみ」なのだ。
ぐずぐずしているうちに甑島造船株式会社はでき上がって、最初の船のへさきが目の上に見えるようになった。残り少なくなっていく金を眺め、何度も島を逃げ出そうとするのだが果たせない。嵐の夜、荷物をまとめて出ていこうとしているところへ船が危ないという知らせが入り、島民が一丸となってこれを守るということがあった。
とうとう船は完成して、金庫には一銭もなくなった。祝賀会で野長瀬は県知事閣下の表彰を受ける。感謝状一枚だけの表彰でがっかり。皆が祝賀の酒に酔っている間に勝又共々逃げ出して幕が下りる。
結局一銭も手にすることなく、使った旅費さえ取り戻せずに帰るはめになったことを嘆きに嘆く詐欺師だが観客の心は明るい。二人を信じてお金を出しあい、目的を果たして資産を作ったのだから詐欺でもなんでもない。善行ではないか。これでよかったと誰もが満足する結末だった。
当然検閲の目を意識して書かれたことでもあろうが、後の「がしんたれ」や「放浪記」のようなこてこて関西風とは対極にある清涼感ただようさっぱりとした味わいの芝居になっている。やはり緑波を前提にしたものなのだろう。
栗山民也は新国立劇場の今季シリーズを"笑い"とした。何故いまさらのように菊田一夫を持ちだしたか不思議に思っていたが、この作品なら話はわかった。大まじめに事業に協力しようとした島民と二人のペテン師。だまそうとしても現実がそうはなってくれないもどかしさ、そのすれ違いが「笑い」をさそうのだ。
そうした基本的な構図のうえで、詐欺師を演ずる役者の個性が「笑い」を醸し出してくれる。僕は述べてきたように菊田一夫が古川緑波という個性を十分に意識してこれを書いたのだと確信する。役者に備わった「おかしみ」、そこにいるだけでどこか「おかしい」という味わいは、何も大衆演劇だけのものではない。「花咲く港」を選んだのは「喜劇」としての骨格がしっかりしていることもあったが、ひょっとしたら役者そのものが「笑い」を創造してくれるのではないかという期待も栗山の意識にあったのではないか?そんな気がしている。
久しぶりに寺田路惠を見た。あまり器用な女優ではないと思っていたが、このおかのは熱演だった。村長の織本順吉も元気だった。
稽古が十分だったのか調和がとれていた。こう言う場面の出し方、ストーリーテリングのうまさは演出の鵜山仁の得意とするところだ。目立たなかったが、鵜山を適任とした栗山民也の眼力も注目に値する。
それにしても菊田一夫か。あの「君の名は」の菊田一夫だ。母親の手に引かれて「大勝館」の二階の桟敷席で見た映画の記憶が微かに残っている。日本中がまだ貧乏だった頃の話である。春樹が真知子を追いかけて全国を旅するのだが、あの旅費は一体どこから調達したのか子供心にも心配だった。そういう心配など誰にも感じさせぬほど菊田が練りに練った恋愛物語が大人の恋心を焦がし引きつけたのであった。
「セカチュー」だって女湯を空には出来まい。いや、僕らがとんだすれっからしになったということなのかもしれない。そういう意味では菊田一夫はいい時代に生まれたのである。
(4/24/05)