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題名: ハシムラ東郷
観劇日: 2009/11/27
劇場: 座・高円寺
主催: 燐光群
期間: 2009年11月20日〜30日
作: 坂手洋二
演出: 坂手洋二
美術: 島次郎
照明: 竹林功
衣装: 宮本宣子
音楽・音響: 島猛
出演者: 田岡美也子 平栗あつみ 植野葉子 中山マリ 鴨川てんし 川中健次郎 猪熊恒和 大西孝洋 樋尾麻衣子 杉山英之 安仁屋美峰 伊勢谷能宣 いずかしゆうすけ 西川大輔 武山尚史 鈴木陽介 矢部久美子 渡辺文香 横山展子 根兵さやか 橋本浩明
「ハシムラ東郷」
環七と中央線が交差する辺りに新しくできた劇場である。ロビーがウナギの寝床見たく縦にだだっ広くてどこで切符を切るのか分からなかった。 右側にデスクが二三並べられて書籍などを積んであったからそこが受付で、ドアは見えないが右手の壁の向こうが劇場なのだろう。
向かって左の壁にはチラシがだらだらと何メートルにもわたって陳列され、その奥に広い階段がある。
早く着いたので、奥の階段を登った先にあるというレストランでコーヒーを飲みながら読みかけの新書を読もうと上がってみると、遥か向こうにカウンターがあって、やたらに広い空間にいくつもおかれたアルミ製丸テーブルの間を縫って行かなければ注文も出来ない。あとから金を払う仕組みだから、これでは逃げても気がつかないだろう。客商売を知らないものがやっているのは明白だ。
劇場は果たして一階右手にあった。階段状、二百席くらいといっても天井はサーカスでも出来るくらい高く、舞台は地階に達しているほど低い。要するに四角い箱を縦に二つに仕切って一方を劇場にしたが、残った半分は勝手にしろと言わんばかりの作りだ。
一階にトイレはない。恐ろしく広い階段を地下に下りて長い廊下を歩いた先に立派なトイレがあったが、狭い。僕なら一階のロビーを潰して三十の個室を擁した女子トイレを作る。今どきの劇場に行ってみたらわかるが、なりふり構ってられないのである(?)
その側に「阿波おどりホール」という看板がでていたので、ははんと思った。これは役人が作ったものなのだ。高円寺の夏の大イベント「阿波おどり」を口実にして杉並区が作った劇場だったのである。こんなところで踊りの稽古など出来るのか?あるいは年がら年中阿波をどりを稽古する必要があるのか?まあ余計なお世話だろうが。
「まるでテントのような外観に、懐かしい広場を連想された方もいらっしゃるのではないでしょうか。」とホームページにあった。なるほど、だからあんな気のない作りだったのかと納得した。
常設の劇場にわざわざテントのような外観をほどこしたうえに「がらんどう」を自慢するとは役人らしい時代錯誤である。共犯の伊東豊雄建築設計事務所が階段のデザインに麗々しくⒸコピーライトをつけているが、文字通りこんな「箱物作り」ではデザイン盗用の心配もなければあまり宣伝にもならないだろう。(あとで伊東豊雄が世界的に仕事をしている建築家なのを知った。いかに名のある建築家でも、これは駄作である。劇場が何をするところかまるで分かっていない。経歴に日比谷高校、東大工学部卒とあったが、日比谷まで書かねばならないとは、なんだかねえ。)
劇場評はこれで終わり。
劇の方はといえば、「がらんどう」とは打って変わっていろいろ詰め込んであり、坂手洋二の「面白がり方」が理解できないわけではないが、終いにはこんがらがって結局凡庸な結論に至るという、例によって独りよがり炸裂か!といった感があった。
劇は、宇沢美子(慶応大学教授)の研究エセー「ハシムラ東郷〜イエローフェイスのアメリカ異人伝」(2008年、東京大学出版会)を契機に坂手があれこれ想像をめぐらしたものである。これは、今年「異文化の相互理解に資するすぐれた著書,翻訳,論文」などに贈られる(という)ヨゼフ・ロゲンドルフ賞(上智大学主宰)を受賞しただけあって、扱っているテーマがユニークで、研究書としてなかなかの労作なのだ。
そんなものを舞台に上げて面白いかといえば、これがまた芝居としてはともかく、歴史に埋もれていた意外な事実が分かって全編これ興味津々なのである。
ただし坂手洋二は、それだけでは不十分と思ったようで、宇沢美子がまだ富島美子だった 1993年に上梓した『女がうつる―ヒステリー仕掛けの文学論』(勁草書房)からも引用しエピソードとして加えている。これは、米国文学におけるフェミニズムの研究者である彼女の最初の著作のようだが、その中で翻訳されているシャーロット・ギルマンの短編小説「黄色い壁紙」が途中で再現ドラマのように挿入されている。
ついでに言えば(この場面で気がついたのだが)、これまで燐光群の衣装に感心したことはなかったが、この芝居では宮本宣子の衣装プランが各所でメリハリが利いていて気分が爽快になった。特にこの挿話の、女が群舞するところの衣装デザインは、よくこんなプリント柄があったものだ思うほどにマッチしていて説得力があった。
「ハシムラ・・・」は、宇沢が米国の大学でフェミニズムにおける優生学の研究論文を準備していたときに偶然目にした資料をたぐって苦労の末(約十年だったそうだ)に書き上げたもので、そのテーマは「女がうつる・・・」と直接関係するわけではない。しかし、それを書いた人格の延長上に「ハシムラ・・・」がある以上、坂手は宇沢もまた劇を構成する一要素でなければならないと考え、宇沢美子自身(平栗あつみ)も劇中に登場させた。
ずいぶん話をややこしくしたものである。
何故こんな手の込んだ構成に「したがった」のか、その理由は「ハシムラ東郷」がかなりややこしい存在だったからである。
劇は、宇沢美子が舞台奥から飛び込んでくるところから始まる。
「北米大陸西海岸で日本人移民排斥動向が激化していた1907年(明治40年、註;中村)11月、大企業の偽善や醜聞をすっぱ抜くことにかけてはつとに有名なニューヨークの週刊誌『コリエーズ』に、ハシムラ東郷という、一見日本人風だがよく見ると苗字を並べただけ、といういかにも人を食ったペンネームの持ち主が現れ、はじめたのが『日本人学僕の手紙(Letters of Japanese Schoolboy)』と題する手紙のコラムであった。」
スクールボーイが何故「学僕」なのか?
当時、米国に私費留学する多くの学生は、裕福な家に家政夫として住み込み、学校に通った。炊事洗濯はじめ家事雑事一切を任される下僕のような存在である。学生であり下僕、したがって学僕である。男のくせに下積みの女の仕事をする学僕は移民社会の最下層に属すると見られていた。(こういう留学の仕方は、僕の知っている限り60年代終わりまで続いている。)
東郷は、日本人特有のつたない英語、馬鹿丁寧ないいまわしで、自分の身分をあざ笑いあるいは白人優位の差別社会を痛烈に批判しながら、実は黄禍論や「日本人排斥」の気分が充溢している時代にたいして巧みな議論を仕掛けていた。「私たち日本人にも有色人排斥のお手伝いをさせてください」などと危ないことを平気で口にする。シリアスになりがちな話題を独特の喜劇調とも言うべき言葉で笑い飛ばすという離れ業が、むしろ人気を呼んで次第に多くの読者を獲得していった。
ところが、当初から東郷は果たしてほんとうに日本人なのか?という疑問が読者の中にあって、その声が大きくなると編集部も沈黙というわけにいかず、まず白人とも東洋人ともとれる怪しげな人物の肖像をハシムラ東郷氏として掲載した。それがあおったようにファンレターや問い合わせが殺到、とうとう連載開始から半年後にはハシムラ東郷は「コリエーズ」の専属ライター、ウオラス・アーウィン氏であることを明かした。しかもその文章には、先に掲載された怪しげな肖像の隣に「日本人になる前のアーウィン氏」というキャプションをつけた本人の写真を添えたのである。
白人作家が日本人学僕になりすまして読者を欺いた。編集部の思わせ振りも謎解きも人を食ったようなとぼけたやり方に反応は賛否両論、喧々囂々。
しかし、この手のコラムは短期間に自然消滅するのが常であったにもかかわらず、結果として何年も続いたのは、おおむねユーモアあるいは喜劇として許容されたからである。それに、米国には異人種に扮装する趣味にあまり違和感を持たないという歴史があった。「ブラックフェイス」「イエローフェイス」という言葉は、白人が冗談まじりに黒人や東洋人に化けて見せることを示しているという。
この騒動に事実上の終止符を打ったのは、当時の人気作家「トムソーヤの冒険」で知られるマーク・トウェインであった。ある日、彼から東郷のコラムを絶賛する内容の手紙が届く。「コリエーズ」誌は、最上級の賛辞がいくつも連ねられたトウェインからの手紙をそのまま写真で掲載する。「・・・米国文学史に新しく加わったあの青年は、永久に生き続けていくだろうし、またそう願っている。」このお墨付きによって日本人学僕ハシムラ東郷の存在は、米国社会に認められ定着することになったのである。
さらにその存在が広く大衆社会に浸透していったのは「グッド・ハウスキーピング」誌の連載がはじまったことによる。この月刊誌は現在発行部数2500万部というから、当時でも数百万部は売れていたはずである。どんな田舎町のドラッグストアにもおかれていた大衆誌なのだ。ウオラス・アーウィンが、日本人学僕ハシムラ東郷と名のって書いているという仕掛けを知りながら、読者はそれを楽しんだのである。
「眼鏡に出っ歯」が米国における日本人の類型であることはよく知られているが、それはその後に現れた多くの亜流ともいうべき作者が表わした東郷のイラストに共通する特徴が定着したものであった。
また、なにかと商売には厳しいハリウッドであったが、日本人俳優早川雪舟を主役に「ハシムラトーゴー」を映画化したほど、その人気は不動のものになった。ただし、シナリオにアーウィンが参加した事実はなく、それどころか彼が造形した東郷とは似ても似つかぬヒーローとして映画では描かれたのだ。東郷はトーゴーとして独り立ちしていったのである。
これほどまでに、米国社会で知られた日本人(実は米国人というところがややこしい)がいたことを今日知っているものがいるだろうか?
ほんとうに存在したとすれば誰かが話題にしたはずではないか? こんな話聞いたことはないぞ。ほんとうは、これは宇沢美子が案出した壮大な物語り、嘘話、フェイクではないのか?
というのが、坂手が観客に問いかける疑問であり、宇沢美子本人を舞台に引っ張りだした理由なのである。
白人のアーウィンは何故日本人になりすましたのか?そのまえに、ウオラス・アーウィンとはそもそも何ものか?
劇は、アーウィンの半生をスケッチする。
1875年ニューヨーク州オネイダ生まれ。父親の事業の失敗から中西部を転々としながら転居の度に貧乏になるという困窮生活の中にあった。成績が良い二歳年上の兄ウィルに比べて、ウオラスはかなり劣っていたが、猛勉強すると兄の後を追って出来たばかりのスタンフォード大学に入学する。金がなかったために学生寮に入りアルバイトで稼いで苦学した。学生寮では仲間と文学を論じ、詩を書き社会問題を討議した。兄ウィルは卒業してジャーナリストになるが、アーウィンは、学生寮ではめを外して停学になる。後に復学するも中途で退学している。
やがて、兄に寄り添って文筆活動に入るとまもなく「ハシムラ東郷」の連載が始まるのだが、ここで何故彼は「日本人」を名のることを選んだのか。それまでのアーウィンの人生で日本人と接触した形跡はまったくなかったのである。
原点は、すでに学生時代にあった。彼が書く「イエローフェイス」の社会批評は学生仲間に受けが良かった。おそらく仮装することによって、自らを戯画化することが出来るという利点があったからであり、基本的にはユーモアや皮肉を交えた評論が性に合っていたのだろう。それが後に「日本人」になるのは、アーウィンのマーケティング感覚なのだと宇沢は推測している。
連載開始二年前に、日本は日露戦争に勝利している。同時にその年の九月には米国のポーツマスで講和条約が結ばれており、米国が仲介の労を取ったことは広く知られていた。おなじ東洋の中でも日本の存在は抜きんでていたのである。また、黄禍論がやまない中、この時期米国政府は日露講和の責任を果たす意味もあって融和政策をすすめていた。
こうした背景があって、「謎の日本人登場!」となったら必ず衆目が集まるだろうというのがアーウィンの読みだったというのだ。
この予想は見事に的中した。しかもアーウィンはあくまでも米国人であった。もし、アーウィンに一人でも日本人の知り合いがいたら、あるいは誰かモデルとなるものがいたら、かえって「イエローフェイス」のリアリティは損なわれていたかも知れない。
しかしまたその仮面が、われわれ日本人にとっては「ハシムラ東郷」の存在を複雑なものにしている。なぜなら米国文学史の中にいる「日本人」東郷にたいして、日本人であるわれわれは、論評はおろか何かものを言う立場にはないからである。
そうしたイライラが、坂手洋二にもあったのであろう。
こんどは、こんなものを掘り出してきた宇沢美子とは何ものなのだという問題に取り掛かる。
彼女はフェミニズムを念頭において米国文学を研究してきた慶応大学教授である。はじめに書いたように最初に出版した本が「女がうつるーヒステリー仕掛けの文学論」で、これは1892年に発表されたシャーロット・ギルマンの短編「黄色い壁紙」をはじめとして、米国における「ヒステリー」の近代史を研究した論考を集めたものである。巻末にはその契機となった短編の彼女自身による全訳が載っている。
坂手洋二はこれを取り上げることによって「ハシムラ東郷」が宇沢美子のヒステリー症状から紡ぎだされた幻想ではなかったか?という疑問を提示しようとする。さらに「黄色い壁紙」がヒステリーと診断されたシャーロット・ギルマン自身による治療記録であり、一室に幽閉された「私」に「黄色い」壁紙が迫ってくるという幻想を描いていることから、ユーモアや喜劇性で許容されてきた「イエローフェイス」に暗い影が差し始めていることを暗示する。
ヒステリーとはギリシャ語が語源で「子宮」を意味すると、ついこの間ある本で読んだばかりであった。この女性特有と思われていた疾患は、二千年前から例えば修道女など精神的抑圧の強い立場にある女性に多く認められていたのだが、その本によると治療法は単純で、症状が出たら股間を刺激してオーガスムに至らしめることなのだそうだ。当時からその役目は助産婦や医者に決まっていたのだが、なにしろ作業が単調で退屈なため、長い間適当な治療器具の開発が望まれていた。ようやく前世紀になって登場したのが電動式バイブレーターだったのだが、その話には、いまでは治療器具というよりは主として別の目的に使われているという落ちがついていた。
だが、この「女がうつる」によるとそんな生やさしいものではなかった。確かにバイブレーターまがいの治療法もあるが、病因の「女であること」を取り除くといった、もっとむちゃくちゃな「治療」がついこのあいだまで行われていたことがわかって、その無知と差別意識には僕のようなフェミニストにあらずとも怒りがふつふつとたぎる思いがする。(あっ、ここは劇には描かれていません。)
さて、婚約、結婚、妊娠出産と幸せな家庭生活が続いていたさなか、ギルマンは出産後まもなくヒステリーの発作に倒れる。「辛抱強く見守る夫、献身的に介護する母、助言をしてくれる友人達に恵まれながらも、ギルマンはひたすら涙を流し、身体的苦痛と倦怠感と自責の念にあえぐばかり。」という状態で入院する。この道の権威、ミッチェル博士が選択した治療法は安静療法といって、ひたすら何もしないで滋養に富んだ食事をしながら体重を増やすというものであった。
回復しないまま自宅で療養することになるが、ここでも外出は禁じられ、ギルマンは事実上「黄色い壁紙」の部屋に閉じこめられる。医者である夫からも、そこでは書くことあるいは考えることさえしてはいけない、ひたすらなにもしないことといいわたされる。
ギルマンは、この部屋で壁紙の中から不気味に現れる女や、壁紙の模様に見張られ、ときに襲われる幻想に悩まされる。黄色い壁紙はパターンを変容させながら心の奥に進入してくる。まるでLSDによるサイケデリックな体験である。(衣装が秀逸といったのは、この場面のことである。)
ギルマンは、来る日も来る日も部屋を這い回り、この恐ろしい壁紙とその裏に潜んでいる女たちの幻影と戦った。(彼女は幼い頃に、父親が家から出ていったことで心に傷を負っていた。)
そして、ついにこの部屋を出る日がやって来る。彼女は、憎き黄色い壁紙に爪をかけそれを引き裂いた。ほとんど引きはがしたところへ騒ぎを聞きつけた夫がやってくる。彼女は夫に向かって「とうとう抜け出したのよ私!」と誇らしげにいった。
ギルマンは、ペンや鉛筆には触れてはいけないという禁を犯して、自分の心の中に起きていることを冷静に克明に記録していた。短編小説「黄色い壁紙」が、雑誌に掲載されると廻りは騒然となった。つまりこれを発表した結果、ミッチェル博士や夫の治療法がなんの役にも立たなかったことを暴露することになったのである。彼女は、様々な幻覚に悩まされながら自分の心の中をのぞき込み、分析し熟考を重ねてとうとう一人で出口を発見したのであった。
フロイト以後は、ヒステリーの症状は何らかのストレスが原因になっている精神疾患と理解されるようになったが、つまりフィジカルな治療法には意味がないとされたにもかかわらず「女に特有な病」であったことから、 米国では 第一次大戦頃までそれが認められなかったことにフェミニスト宇沢美子、いや当時はまだ富島美子は憤慨している。
いずれにしても、ギルマンが部屋を出ることが出来て、観客である僕らはほっとするのだが、その時点では宇沢美子がヒステリーかどうかよりも「黄色い壁紙」のくすんだイエローで頭が充満している。そこへ、日系人強制収容の話が重なると、これはどうも事態が急変してきたと気がつく。
「ハシムラ東郷」は、すでに1920年頃をピークに下火になっていたが、満州事変、続く国際連盟脱退のあたりから再びメディアの中に登場するようになる。米国は日本の動きを警戒、国内の日系人の監視をはじめる。久しぶりに現れた眼鏡に出っ歯の表象は、愛すべきアメリカ市民から敵性外国人のそれへと変貌を遂げていたのである。
日本が鬼畜米英を叫んでいたと同じ時期に、米国もまた敵である異人種への憎悪をかき立てる政治的プロパガンダを盛んにしていたということになる。(歴史家ジョン・ダワーは、太平洋戦争を牽引した大義の背景には「人種差別意識」があったといっている。「容赦なき戦争」)
しかし、日系人の強制収容が実行され、そこから招集された日系二世部隊がヨーロッパ戦線で活躍していることが伝えられるようになると、異人種のステレオタイプ化に対する批判が現れる。戦意高揚のために動員された「作家戦争協会」(日本で言えば大政翼賛会文芸部みたいなものが米国にもあったとは!)の下部組織のひとつである「対人種嫌悪委員会」が実態調査を行い、安易な人種/宗教ステレオタイプ化は戦争遂行の上で好ましくないとの報告をだした。つまり、WASP以外は皆人種的に劣っていて何らかの欠陥を持っているとの差別意識が蔓延することは、かえって移民社会である合衆国の根幹を揺るがしかねないのである。
戦争のさなかにうまれたこのような考え方が、今日のPC=ポリティカル・コレクトネス(人種、宗教、性別などにおいて差別が含まれていない用語・表現を使うこと)の概念を生むきっかけになっていたとは皮肉な話である。
「対人種嫌悪委員会」が最悪と指摘したのは短編小説の部門であったが、その作家の一人でもあるウオラス・アーウィンは、委員会の仕事に敬意を表しながら「やり過ぎては不快なだけだが、ユーモア自体は健全なものなのです。」と手紙でコメント、やんわりと反論した。しかしその真意をくみ取るものは誰もいなかった。
さて、戦争が終わると「ハシムラ東郷」は跡形もなく消えていた。それもそのはずである。政治的な正しさ(PC)に照して「ハシムラ東郷」ほど人種的ステレオタイプ=差別的表象を描いたものはないからだ。
しかし、ウオラス・アーウィンが目ざしたものは、そんな人為的なものとは位相を異にする。
差別や偏見をただすという考え方は間違ってはいないだろう。そのために一定の規範を設けることは必要かも知れない。しかし、それであらゆる人種や民族が心を一つに出来るほどこの世は単純にはできていないのだ。言葉狩りのようなことが蔓延すればかえって硬直した不機嫌な社会になるだろう。
規範があろうとなかろうと、様々の人種集団がそれぞれを指さして物笑いの種にするということはこれからもあり続けていくに違いない。
アーウィンは、互いに物笑いの種にされても、ユーモアとして笑い飛ばす寛容さ、それを許容する精神があってこそ健全な社会ではないかというのである。
宇沢美子は、PCの陰に押し込められてしまった、この「おおらかに笑い笑われる哲人の世界から私たちもまた何かを学ぶことが出来るのではないか」という言葉で「ハシムラ東郷」を締めくくっている。歴史のひだに埋もれていた不思議の「日本人」を発見し、その記録を残したあと、またそっともとの場所に埋めもどしたのだ。膨大な資料を渉猟し、十年かけて書き上げた論考の、ため息ともとれる結語である。
この劇が、それに同意して終わったのであったか、どうも記憶が定かではない。単純に言えば、僕には「戦争がこのユニークなキャラクターの存在を覆い隠してしまった」と結論付けた印象が強く残っている。いずれにしてもPCの問題が劇の中で強調されたという覚えは無い。
では坂手洋二は、この劇をどんなものとして描きたかったのか?
パンフレットを見てみよう。
「・・・『ハシムラ東郷』は、これまでその存在があまりに知られていないという事実じたいが作り手の関心を引き、その存在の数奇な運命をたどりたいという衝動を呼び起こしたのであろうと。『ハシムラ東郷』は日米関係史、日本そのもの、アメリカそのものの歪んだ現実を照射する。・・・作り手が『ハシムラ東郷』登場と再発見に至る経緯の不可思議さ、そして『ハシムラ東郷』現象における『フィクション』と『現実』の対立・融解・再構築の構造に、演劇性を見いだしているからである。そちらが真実です。・・・」
言われてみれば、ここに書かれたような芝居ではあった。
宇沢美子が著書の末尾で指摘したPCの問題に、坂手の関心があったとすれば「日米関係史、日本そのもの、アメリカそのものの歪んだ現実を照射する」という文言の中にそれが含まれているのかもしれない。
しかし、PCの問題は少なくとも「歪んだ現実」とは言い難い。現実をゆがめているのではなく、PCとは位相の違う現実(差別的な言辞)があることをユーモアとして許容できるかどうかということである。
余談だが、かなり以前に見た崔洋一監督の映画「月はどっちにでている」で、在日コリアンが済州島出身者と強烈な差別発言の応酬をする場面があった。鄭義信の本が面白かったのかも知れないが、腹を抱えて笑ったものだ。これなどはPCの観点から言えばアウトだろう。(いまだにDVDがでていないのはそのせいか?)しかし、PCとは約束事であって、実際にはいくら規制しても「現実」はこうして表現されるものなのだ。
その「規制」に対する抗議という意味ならば、この劇全体がそういう態勢にはなかったというしかない。
また「ハシムラ東郷」が、「日米関係史、日本そのもの」「の歪んだ現実を照射する」とあるが、こういうものの言い方には疑問がある。
第一に、日米関係史をどういうものとして定義するか議論のあるところだが「ハシムラ東郷」は、日米二国間にわたってその相互関係になんらかの影響を与えたという事実が見つからない以上、関係史に記述するプライオリティは限りなく低い。まして「日本そのもの」と「ハシムラ東郷」とははっきりいえばなんの関係もない。「ハシムラ東郷」という現象は、始めから終わりまで米国人によって、米国国内で展開されたどちらかといえば米国近代文学史、あるいは社会風俗史に位置づけられる出来事なのである。
劇中、日系人がマンザナその他に強制収容され、日系二世部隊が欧州の戦争に参戦する話がやや強調される場面がある。これは日米関係史に記述されるべき出来事ではあるが、本質的には米国の内政問題であり、わざわざ照射せずとも周知の事実である。
しかも、レーガン大統領が公式に謝罪し、米政府は1999年まで11年かけて本人と遺族に賠償金を支払い終えている。今更告発するというのも間が抜けているのだ。
第二に「歪んだ現実」が具体的に何を指しているのかわからない。確かに「ハシムラ東郷」は戯画化された日本人、その一つの類型を米国内に作り出したが、それをもって「現実を歪めた」ととがめだてするのは大人げないというべきだろう。
いまになって、照らし出してあからさまにしなければならない「歪められた現実」などあるのだろうか?
最後に「ハシムラ東郷」現象とは、1907年のデビューから1910年代末までの約十年間続くのだが、それを長いと見るか短いと見るか、いずれにしてもその程度のものである。終戦にいたる十年は、敵国日本を象徴する悪役として利用されたことは事実だが、それは「ハシムラ東郷」だけではない。戦争遂行のためには、ありとあらゆる日本の象徴が動員されたのだから、それをもって「 ハシムラ東郷」をことさらのように言うのはナンセンスである。
坂手洋二は 、宇沢美子が示したPCの問題には関心がなかったと見える。
(PCに関して、呉智英のいわゆる「差別もある明るい社会」について紹介し、この問題の論点を示しておこうと思ったが、脱線になるのでまた他日にする。先を急ごう。)
むしろ、宇沢美子が「ハシムラ東郷」と出会った偶然を不思議に思ったことと「『ハシムラ東郷』現象における『フィクション』と『現実』の対立・融解・再構築の構造に、演劇性を見いだしている」ことがこの劇を書いた動機だというのである。
はじめに少し触れたが、宇沢美子はシャーロット・ギルマンと優生学をめぐる本を執筆するために高齢出産を控えた妊婦でありながら米国に研究留学していた。資料を集めてコピーをする毎日であったが、ある日「頁の先におどけたそぶりを見せながらも優生学はもとより、女性・家庭雑誌の常識をことごとく笑いのめし戦っているお笑いゲリラがいた。」それが、「ハシムラ東郷」との出会いであった。
こういう「偶然」を面白がるのはわかるが、何か運命の糸に導かれたとか、その偶然が何かの伏線になっているとかあるいは優生学の新しい発見につながるとか、演劇的に発展させられる何かがそこになければ、それは単なる偶然、事実を述べただけに過ぎない。しかも、この偶然はそれほどドラマチックに描かれたわけではない。
僕には、どう考えてもここは膝をたたいて面白がることのようには見えなかった。
そして「『ハシムラ東郷』現象における『フィクション』と『現実』の対立・融解・再構築」ということだが、これは作家がどの立場にいるかによって解釈が別れる。
まず、劇作家が米国人で、アーウィンと同時代に生きていると仮想した場合、この文は成立する可能性がある。「ハシムラ東郷」が日本人であることは米国人にとってフィクションだからである。もし、そのことを指しているなら、作家は観客をその位置まで連れていく責任がある。観客がアーウィンによって騙されたと感じるような地点にである。そうでなければ、観客はおいてきぼりをくって、作家の独りよがりなるからだ。
しかし、観客は米国人にはなりえない。しかも、最初にこれは実際にあったことだと種明かしをされているわけだから、日本人が過去の米国のドキュメントとして見る以外に、観客の立ち位置はないのである。
とすれば、これは何を意味しているのか。
宇沢美子の「ハシムラ東郷」そのものなのか?
この本はそれぞれ独立した論考五本に手を入れて一冊にまとめたもので、丸ごと引用しようと思えば枝葉が多くて少し無理がある。したがって、メディアに現れた「ハシムラ東郷」現象だけを追いかければ、この劇で描かれたものになる。また、このドキュメンタリーに「フィクション」というべきものは存在のしようがない。あえていうなら、フィクションとよべるものは挿入されたシャーロット・ギルマンの短編小説だけである。
これがまた、何故ここになければならないのか、その必然性を説明するのは至難の業なのだ。
この劇は、単行本「ハシムラ東郷」を手にした俳優が、「この本全体が実は宇沢美子のでっち上げたフィクションかも知れない。」と語るところから始まった。その前提からして観客には納得のいかないものであった。宇沢美子がフェミニストでヒステリーの研究者であったからといって、「ハシムラ東郷」一冊を妄想することなど想像もつかないからである。そんな必要がどこにあるというのだ。
もうやめよう。
結局、木に竹を接ぐような迷走の結果、すべては戦争がかき消してしまったというばかげた結論に導いたと感じたのは僕だけではなかったような気がする。それは何よりも、構想が十分熟成されないままに提出されたせいで、要素は様々に詰まっているが全体としてみたらまとまりのない劇になったからだと思っている。
「ハシムラ東郷〜イエローフェイスのアメリカ異人伝」は忘れ去られていた米国における「ある日本人」の存在を掘り起こした労作で、米国の文学史、文化史に残る意味ある仕事であった。
はたして、劇作「ハシムラ東郷」はどうだったのか?
2009年8月30日を、将来日本における真の「市民革命のなった日」と呼ぶ時代が来るかも知れない、といっている本を店頭で目にした。(「民主主義が一度もなかった国・日本」福山哲郎、宮台真司、幻冬舎新書)なるほどそうかもしれない。日本は民主党が政権をとって、曲がり角を大きく曲がったといっていい。
これからは、批判ばかりしていて済まされるものではない。「大きな物語の終焉」も不毛な議論を続けて終焉した。文明史における近代を終わらせ、それに取って代わる新しいテーゼがもとめられている。いまや、頭を切り替えなくてはいけない。自ら提言して自ら実行する、新しい時代がやってきたのだ。
劇作家といえどもこの時代の波を無視していいわけがない。 坂手先生には、ここは一つ「こんな世の中にしようじゃないか」という明るい提案をぜひ書いて欲しいものである。
ということで、現政権に従って僕が劇作「ハシムラ東郷」を事業仕分けするとすれば、時期早尚、予算凍結といったところであった。
(この文中、宇沢美子の著作の批評ととれる言い方があるが、劇に描かれているところを選んでいるので間接的には劇評にもなっている、というつもりです。)
い。