題名:

平成物語

観劇日:

05/9/3

劇場:

SPACE107

主催:

劇団ACT     

期間:

2005年8月31日〜9月5日

作:

吉田悟

演出:

吉田悟

美術:

桜沢勇治     

照明:

平野恒夫   

衣装:

 

音楽・音響:

新井ユタカ

出演者:

中村亮太 石川治雄 原田真宏石川雄亮 吉野順也 衣川俊
有馬秀子 深大寺ようこ
三木アキ子 辻脇美緒
黒岩靖恵 佐久間梨乃
 
データ制作中


「平成物語」

パンフレットの写真は皆若くていい男ばかりだから、てっきりイマドキの若者向けの芝居に違いないと思い込んでいったから、開幕の音楽には戸惑ってしまった。30年以上も前に聞いたことがあったようなフォークソングのメロディに、いかにもあの時代の歌詞がのっている。この若者たちには絶対に作れない音楽だ。
舞台狭しと俳優が並びそれぞれ色彩豊かな衣装で橋幸夫の歌に合わせてツイストのリズムで踊る。「炎のように燃えようよ・・・」という例の歌である。なるほどミュージカルが始まるのだなと思っていると、ボーカルの衣川俊がマイク片手に現れる。どこかで見たことのあるような顔だが、思い出せない。昔の喜劇役者、堺駿二(堺正章の父親)を見ているようだ。風貌も似ているが、いかにも喜劇の人という雰囲気がただよっているのも同じである。この衣川が4小節目くらいで舞台の袖に引っ込むと間髪を入れずに衣装替えして出てくるという早業を見せて、ついにフルコーラスを歌ってしまうのである。
いったい何が始まるのかとみていると、この衣川を中心に「便利屋パラダイス」なるNPOが老人ホームや刑務所の慰問を頼まれて回っているという設定が中心にあった。だから歌あり踊りあり芝居ありというは、ミュージカルとは少し違うが物語としての一貫性がある。
ただし、出し物は老人や囚人相手だから、イマドキのものは受けないだろうと思ったのか、あの当時の演歌や新国劇など古いものばかりで、出演者の若者が知っているとはとうてい思われない。作者で演出の吉田悟はかなりの年配者、少なくとも団塊の世代かそれ以前、と確信したのは、赤塚不二夫の「シェー」というギャグを出したときだ。しかし、演じるものとの落差は親子ほどもあるのではないか?俳優の若者たちの世代が見たらいったいどう思うか?と思って見回すと観客の年代は実に幅広く、それぞれなりに楽しんでいると受け止められた。
 もっとも僕らの世代にとっては、演歌も歌謡曲も殺陣や芝居の出し物も年少のときからよく見知っているものばかりなので、何十年ぶりかで懐かしいものに出会った感があった。
しかも、よく稽古されており、衣装やズラも本格的で、豪勢にできている。ある年代から新しいものはいっさい出さないという方針なのか、最近のお笑いのギャグやテレビの話題に触れることはなかった。ただ、途中、イラクで親を亡くした子供たちの慰問を依頼された女性のパートタイマーがしり込みするのを社長(衣川)が「みんなで行くことにしよう」と呼びかける場面があって、時事問題にも気配りを忘れていない。イラク派兵がどのように決まったか?靖国問題や郵政民営化などにも言及することもあったが、総じて日本の中道的な穏やかな意見と一致しているように見えた。もう少し小泉、政府批判で旗幟鮮明にしたらもっと受けたかもしれない。
それにしても取り上げられた出し物、歌謡曲も「兄弟仁義」に殺陣がついたもの。オヨネーズのコミックソングにおどけたダンス。劇中劇、長谷川伸の「瞼の母」母子対面の場、などと思いつくまま上げて見ると、突然タイムカプセルでも開けたみたいな気分になる。観客の年齢層は明らかにこの出し物を理解できないと思われるのに、なぜ今、こういう世界が成立するのか?しかし、そんなことを考える暇も与えず次から次、バラエティでも観ているように繰り出すのである。ド演歌、ズーズー弁の無教養なコミックソング、涙を絞る母と子の対面の場面をどんな気持ちで見ているのか?不思議であった。
僕らが若い頃、月刊「平凡」、月刊「明星」という芸能雑誌が売れていた。民放が始まるのは昭和33年、カラーテレビになるのが39年で、まだまだ情報は十分でなかったから、この雑誌が映画スターや流行歌手の動向を探る定番だった。毎年暮れ近くになると、それぞれ本誌に、忘年会の「隠し芸」用の分厚い「虎の巻」が付録でつくことになっていた。これには主として、歌謡曲の歌詞がのっていた(カラオケなどないときだから大概「す」で歌った。)が、他に浪曲、端唄、小唄、都々逸、新内、さのさ、民謡、といった歌の類いに、歌舞伎の声色のためのせりふ集(たとえば、弁天小僧菊之助、幡随院長兵衛、河内山宗俊、切られの与左、これらを五代目=菊五郎の声でやるなどなど)新国劇や新派の名場面集(「瞼の母、番場の忠太郎」もその一つ。他に「国定忠次」「丸橋忠弥」など)香具師の口上(「ガマの油売」に「バナナのたたき売り」寅さんの例の「・・・ちょろちょろ流れるお茶の水・・・結構毛だらけ猫灰だらけ・・・」など)に地口(「恐れ入谷の鬼子母神」「どうでえ有馬の水天宮」など)そして落語(短いものなら全編)に講談といったありとあらゆる「芸」のテキストがたっぷりと詰まっていた。
これらのものを僕の母親(去年84歳でなくなった)はほとんどそらんじていて、当時小学生だった僕はこれをすべて口移しに教わった。今でも大概の「芸」をやって見せることは出来る?と思う。母は終戦の年に24歳だったからこういうものを戦前のラジオであるいは、鉄針で鳴らす電蓄で聞いていたに違いない。女学生だった母に料亭に行き慣れていた粋人の祖父が教えたのかもしれない。戦争のさなかというのに浅草公会堂を満杯にしてなお入りきらない数千人の観客が、六区にあふれたという先代の寅造を僕らは知らないが、戦後ラジオから聞こえて来るあの低音の浪花節を耳にし、衰退していくものと予感しながら母たちの世代の感動を理解できた。そして「雨垂れ落ちが三途の川、そよと吹く風無常の風、これが親分兄弟分の一世の別れになろうとは、夢にも知らず石松は清水港を後にする。」という名調子を記憶にとどめ、しかしあれから二度と再び口にすることもなかったのである。
「戦前真っ暗史観」というのは、山本夏彦翁のことばであるが、戦前がすべて言論抑圧の暗く不幸で救いようのない、やり切れない時代だったとするのは進駐軍の陰謀で、自分の経験ではこの言い分はまったく根拠のないことだというのである。確かに、満州事変ごろは世界規模の大恐慌が我が国にも及んだ時代だから世相は暗いといえるかもしれないが、その後景気は回復し、2.26事件(昭和11年)のあたりにはむしろ経済成長が著しかったとデータにもある。「娘売ります」の筵旗とともに青年将校決起の場面が今も時々紹介されることがあるが、あの事件の背景は不景気ではないと山本翁は断言する。あれは、ワシントン軍縮条約で10万人余の軍人が職を失ったことが引き金になっているというのだ。こういうことはよくある。気をつけねばならないが、ここでいいたいのは、この芝居が、実は戦前と地続きの戦後昭和三十年代ごろまでの日本の隠し芸大会、の出し物を集大成したような感があったことだ。
したがってこの頃までに物心ついたもの以外には、つまり高度成長が始まる40年代以降の世代にはこの芝居がまったく別のものに見えていたであろう。幸いといえばいいか、僕は吉田悟に近い世代で、出し物にいちいち首肯いて見ていたのである。
こういうものは、今ではどこか地方の芝居小屋で見られるかもしれないが、新宿の真ん中で、本格的に稽古した若い男優たちが、ベテランの女優たち(皆達者だった)に混じって、見事にやって見せてくれるのを目の当たりにして、実は心が踊った。
と同時に、吉田悟は「やりたい放題、やってるなあ!」とうらやましく思った。普通こういうものを並べるときはとかく教養が邪魔をして理屈をこねたがるものだ。政治談義を入れたのはそれかもしれないが、イラクに慰問に行こうという話もどこか上の空で、むしろ現代政治のいい加減さを(「自衛隊の行くところが非戦闘地域だ」と強弁するいい加減さ)逆に浮き彫りにするようなとぼけた味わいがあった。
あの時代の大衆の娯楽になんの意味があるかという向きもあるかもしれないが、あらためてこういうものを見ると、僕らは、あの時代に共通の言語を置き去りにしてしまったという思いがする。歌謡曲も、小唄、端唄、歌舞伎や落語までそれは言語ででき上がっており、物語である以上は日本語の教養であり文化である。落語は百人一首の歌を多く題材にとっているが、小倉百人一首によって江戸時代の人々は共通の言語としての文化を共有し今日まで伝えたのであった。この芝居に登場する多くの出し物も、あの時代の日本人の共通言語、共有文化であった。
長谷川伸もそうだが、歌舞伎も歌も、その背景には、古代から日本人が紡いできた物語の体系が隠れている。
高度経済成長から今日まで、僕らは日本に生きるものとして共通の物語を作ろうとしてきたか?経済は世界第2位の規模になったが、肝心の「私たちは誰か?私たちはどこからやってきてどこへ行こうとしているか?」という問いに答えることが出来ない。
それには物語を語り継ぐことによって時代を超えて文化と教養を共有するということをしなければならない。教え伝えること、何よりも共通言語、共通感覚を取り戻すことが重要ではないか。
「平成物語」というタイトルは、日本人がまだ共通言語を持っていた最後の時代の遺産をきらびやかに見せながら、それゆえに平成のいまの世に僕らが語るべき物語を早急に回復しなければならないという吉田悟のメッセージなのだろうと感得した。
二時間たっぷりと半世紀も前の懐かしい風景の中で心安らかに舞台を楽しむことが出来た。こういう内容なら桟敷席に座って、いっぱいやりながら、ときどき役者に声をかけほろ酔い気分で見るのもオツではないかと思った。

                   (2005年10月19日)                                                                                        

 


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