題名:

ヒトノカケラ

観劇日:

04/10/22

劇場:

新国立劇場

主催:

新国立劇場     

期間:

2004年10月22日〜11月3日

作:

篠原久美子

演出:

宮崎真子

美術:

二村周作     

照明:

磯野 睦    

衣装:

加納豊美

音楽・音響:

小山田 昭

出演者:

キムラ緑子 KONTA 若林 誠
上田桃子 佐藤あかり 橘 ユキコ
 




 「ヒトノカケラ」


ラットの背中にヒトの耳が生えている写真を見たことがある。耳になる細胞を増殖して作ったものらしい。分裂を続ければ人になる細胞をES細胞といってこれには耳どころか脳や心臓などの部品を作る能力がある。一ランク上の細胞だ。自分のES細胞を使って耳でも内蔵でも欠損あるいは不都合が起きたときに補完できる。随分便利なことになった。ところがこれはヒト・クローン技術を使うので一般的にはご法度である。
コンクリートに見える四角いパネルを張った床の合わせ目に、ところどころ小さな植物が生えているのが不気味だ。テーブルや椅子があるところをみるとここはリビングである。植物は月下美人だという。成長したものが庭にあって白い大きな花に意味あり気なライトが当たっている。
正面はパイプで組んだ足場のようになっていて等分に九つの空間に分かれて見える。
やや抽象的な印象は近未来の出来事を示唆しているのだろう。ただし、二村周作の美術はディテールの整理が必要だ。月下美人は植物クローンの喩えだろうが、床から生やすとは趣味が悪い。また三段に組んだ足場の最上段は椅子が一個置かれているだけで、一度も使われない。使わないならそれなりの意味が分かるようにしないといけない。
堀川夫妻が日本で初めてクローン法に違反して逮捕されたと言うニュースが流れる。
現在たいていの先進国ではヒトのクローンニングを全面禁止にしている。日本でも森首相の時に法律が出来た。違反したものには十年、一千万円以下という重い罰則規定である。その法文が袖に投射されていた。人間の尊厳に関わる重大犯罪との認識に基づいているのだが、悪用を恐れるのとどんな災厄があるか分からないこともある。クローンは羊、牛豚馬などで行われているがいずれも寿命が通常の半分と言われ原因は分かっていない。どこかに問題が潜んでいそうだ。
羽根田聡子(キムラ緑子)は息子の融(若林誠)とこの家に住んでいる。聡子はKKSと言う遺伝子異常に由来する難病にかかっていて、身体が不自由である。家政婦の谷さやか(橘ユキコ)が昼の間だけ手伝ってくれる。融は何となく高校を中退してフリーターになったが、いまは聡子の妹、西宮真梨子(佐藤あかり)のボランティアを手伝っている。彼女の仕事は逮捕された堀川夫妻らの不妊治療の支援をするもので、クローンニングの適用を認めさせる運動も含まれている。
KKSは50%という高い確率で発症する遺伝性の難病だという。成人前後から末梢神経のしびれ手足のけいれん血圧異常と進行して意識障害やがて人格欠損して死に至る。聡子の母親はこの通りに進行して46歳で亡くなった。
ある日、男が訪ねて来る。芹沢夏男(KONTA)は二十年前、融を生んだときの産婦人科医の息子で、今はES細胞バンクの営業である。亡くなった父親の日記を整理していたら、聡子にノート三冊を預けたとあった、ついてはそれを返して欲しいというのである。聡子は知らないと答える。芹沢は、父親が亡くなったあとに多額の借金が出てきたことからクローン研究に没頭していたことを知った。日記にあるS=聡子に不妊治療として施したのは間違いない。融は父親の細胞によって出来た日本初のクローン人間だった。、その時の詳しいプロトコルが三冊のノートに記載されているはずで、そのデータは特許になるというのが芹沢のねらいであった。芹沢の推理は、こんどの堀川夫妻の事件に聡子の妹が関与していることから、それに三冊のノートが使われたに違いないというものである。
西宮真梨子は姉のところから持ちだしたことを認め、この際不妊に悩む人々のために全てを明るみだそうと決心する。法的には「教唆」になるのも覚悟の上である。
融は自分がクローンであることを知って自殺しようとするが母親に見つかり宿命を受け入れる。裁判は求刑まで進み、保釈中の真梨子とともに家族がそろって聡子の誕生日を祝う日、車イスに坐って現れたその人は既に痴呆が始まっている。真梨子も同じ遺伝子を持っていて、いつ発症するとも限らない。しかし、融の恋人の柳澤風子(上田桃子)のお腹には新しい命が宿っている。二人は結婚を宣言した。家族の上に希望の灯がともる。世間がどういおうと自分達の運命を引き受けて生きていくほかない。
キムラ緑子の聡子が熱演だった。繕いものの手がまがり、手足がけいれんし思い通りにならない身体で雨の庭を転げ回る。そして終幕、車椅子に坐って現れる彼女はもはや静かな眼差しで自らの閉じられた世界を見つめている。記憶の底にある言葉を歌うようにささやいてその運命を受けいれているようだ。
KKSという遺伝子病の定義が何度も語られるのでてっきり実際に存在すると思ってみていた。しかしこれは架空の病気だった。一方クローン人間は密かに作ったものがいるかもしれないが世界的にはまだいない。この劇では日本初のクローン人間が二十年前に誕生していたことになっている。
物語の構成は、遺伝子異常の難病KKSの患者聡子が自分の遺伝特質を伝えないように子を生む、つまり通常の妊娠が出来ない不妊治療の方法としてクローン技術が使われ、融が生まれたと言う事実が中心になっている。母親の卵子の核と父親のBS細胞を入れ替え融合したうえで細胞分裂を進行させてつくったヒト胚を母親の子宮に着床させるというものらしい。このヒト胚は父親の遺伝子によってできている。二十年後にその方法が法律で禁止された。しかし聡子の行為は違法にはあたらない。
したがって、この親子に残された問題は融がクローンであることを隠すこと、分かった場合にどのような心情プロセスを経て事実を受容できるか、である。
ここには堀川夫妻の裁判は直接関係しない。この裁判は不妊治療にクローン技術を使うことを問うものである。
一方、芹沢のBS細胞バンクとは、クローン技術を応用してひとの身体の部品をつくるために細胞を預かるビジネスである。そこはいわばヒトノカケラの倉庫だ。この技術にはヒトの卵子が必要だが、ボランティアで集めるには限度がある。そこで当然怪しげな市場が生まれることになるのだ。
ざっと、このようなテーマ性を拾い上げることが出来るのだが、その一つ一つに得心のいく物語が語られるかといえば疑問と言わざるを得ない。
まず、KKSが架空の難病だったとしても、社会的差別を受けていると話す以上はそれを具体的に示すべきだ。一体聡子や妹がどんな差別を受けたというのか?終幕、聡子が痴呆となってその差別からさえ開放されるカタストロフィを意味あるものとするにはぜひ必要な要素だった。
次に、実際には登場しない堀川夫妻の裁判であるが、弁護側の論旨がはっきりと示されないのはおかしい。それは不妊治療の必要性を主張する議論になったはずだ。西宮真梨子たちボランティアの立場は、クローン法は人権を擁護する憲法に照らして違憲であるというのか、あるいは例外規定を設けるべきとの主張なのか。求刑五年といえば執行猶予のつかない判決もありうる。笑っている場合ではないだろう。
この不妊治療に関してもクローンである以上母親にとって自分の遺伝子を後世に残すという生殖の目的を果たしてはいない。着床した細胞を自分の子宮で育てるという満足感が治療に当たるとすれば、それでもいいが、生まれてくるものに対する責任はどこへ行くのか?いまのところその子どもの寿命は半分だといわれている。他にどんなリスクがあるかしれたものではない。聡子が融にたいして隠そうとしたのは、この自分のエゴイズムではなかったか?だとすれば妹たちの裁判とは真っ向から対立するが、その議論はどこにもなかった。
BS細胞バンクは芹沢の勤め先という設定である。これも実際は公立の機関として英国に一つあるだけらしい。クローン技術=ヒト胚を使うという意味では法律に抵触するはずだが、ビジネスとして成立しているのは何故か?もちろん、人の臓器が移植のために取引されている現実があるのだから卵子の売買があっても不思議ではない。クローンのもっとも大きな問題はここにある。金さえあれば人間が思いどうりの人間を作ることが出来る。それにどのような歯止めも利かないだろうという悲観的な見通しが僕にはあるのだが、芹沢はあっけらかんと途上国に卵子を仕入れにいく話をしていた。そういう時代に備える覚悟とはなにか?応えはなかった。
このように、キムラ緑子の熱演にも関わらず、聡子の存在がこの劇の求心力になっているとは言い難い。いやむしろクローンの課題がいくつか、十分な物語性を持ちえないまま生で提示されている。篠原久美子にテーマが発酵し成熟するだけの時間がなかったのであろう。始めのうちは講演会でも聞きに来たような気がした。いわば柱と屋根だけの普請途中の家を覗いたようなものである。いっそ副題として「クローンを巡る諸問題−習作」とでもあったら仕方がないと思ったかもしれない。
演出の宮崎真子にも注文をつけておきたい。
場面転換は、しっかりと明かりを落としてからやるべきだ。(舞台監督の茂木令子にいうべきか?)見苦しい。明かりと言えば、終幕は聡子が何かつぶやいているところを一同が見つめて溶暗となる。この後一旦、役者が全部舞台から出ていってくれと念じたが、そのまま板付きで明るくなった。折角の観客の感動が台なしである。ばかやろう!といいたい。
芹沢のKONTAには初日だったせいかせりふが入っていなくてはらはらさせられた。ミュージシャン出身だそうだがもう少しなんとかならなかったのか。それなりに存在感のある役者と思うが、ここは演出家の腕次第と感じた。融の若林誠は今どきの若者の苛立ちをリアルに表現した。その「まんま」だったかもしれない。舞台は初めてらしいが、もう少しアンサンブルを理解してもらいたかった。それに自分がクローンとわかってから出刃包丁をとるまでの苦悩をもっとキチンと表現出来たらよかったと思う。何しろ初めてのクローン人間なのだから、どんなことを考えたのか観客としては知りたかった。
橘ユキコについてはいうことなし。達者な役者だ。いつも感心してみている。佐藤あかりはしっかり者の印象。将来性有りとみた。とってつけたように登場する融の恋人、上田桃子の晴れ晴れとした笑顔は、この沈鬱な芝居にあって唯一の希望、明るさだった。確かな表現力とみた。
The Loftのコンセプトは、提案、実験・・・ということだからこの舞台はこれでいいかもしれないが、いつか不妊治療以外のテーマでクローンをとりあげたらいいと思う。クローンは本質的に妊娠するための技術ではないからだ。聡子のような難病を治療する技術でもない。(それはむしろインターフェロンとか遺伝子治療の方だ。)このケースでは、篠原久美子にも宮崎真子にも申し訳ないが、子どもを産みたい、子どもが欲しいという親のエゴだけが目立って、とても同調する気になれない。
 

                   (2004/10/26)






 


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