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「抱擁家族」
新国立劇場の演劇研修所第六期生による実習公演である。三年の研修期間の最終年には、実際の舞台作りを通じて俳優経験を積むことになっている。チーム「抱擁」とチーム「家族」の二班に別れて三日間交互に公演するのだが、僕が見たのはチーム「抱擁」の方であった。
幅広い年齢の登場人物を同年代の俳優ばかりで演じるのには、自ずから無理がある。加えて、舞台経験のない俳優がほとんどだから、見る側にはそういうことへ配慮せざるを得ない。それは煩わしいことではあるが、一方若い俳優の力量がどれほどのものかを見届けるのも楽しみと言えば言える。
ところで、「抱擁家族」をやるというのを目にしたとき、プロデューサーつまり新国立劇場が「家族」にこだわっているのだと思った。というのも、「鳥瞰図」「おどくみ」「まほろば」「パーマ屋スミレ」などとここ一年ほどの演目を並べてみるとどうあれ「『家族』ということ」がテーマになった芝居が多いのである。
なるほど、「家族」の現在はどうで、どこへ向かおうとしているのかを考えるのは、我が国社会の将来を見通す上で重要な契機になり、きわめて時宜を得た選択と思うのである。さすが、目の付け所はいいではないか、と感心していたらどうも事情は違ったようだ。
研修所副所長(所長は、栗山民也)でこの芝居の演出を担当した西川信廣は、「今回は、八木柊一郎さんの「抱擁家族」にエイヤッという気持ちで決めた。」(パンフレット)といっている。
何故エイヤなのかといえば、よく書けた戯曲であることはもちろん出演人数が適当な上に、研修生と一緒になって作るからには自分がやったことない芝居であるという条件を満たす作品はなかなかないので、 試演会演目選びは、いつも悩ましい課題だったからだという。
つまり、テーマはともかく教材として適当かどうかという条件が優先されたのである。研修所としては当然の選択で、なにも文句を言うところではないが、「公演」ということを考えたら「社会—内—存在」としての演劇という側面にも多少の配慮があってもいいのではないかと思うところもある。
もっとも、そのことはこの文章を次のように締めくくっていることによって了としなければならないかも知れない。
「試演会は、公演であると同時に、俳優としてのそれぞれの課題や可能性を発見する機会でもある。つまり、明日に向かっているのである。この作品作りを通して、あらためて現在の家族のあり方、夫婦、親子など考えながら、それらすべてが、明日へつながればと思っている。研修生の道の力を信じながら。」(パンフレット)
この「抱擁家族」は、昭和四十年(1965年)に発表された小島信夫の同名小説を六年後の71年、八木柊一郎が戯曲化したものである。初演は同年、青年座による。八木演出で、森塚敏、東恵美子の夫婦に西田敏行が息子の役で出ている。
小説が発表されたときのことは記憶にある。
妻が米国人と関係したことで家族がぎくしゃくすると言うやや剣呑な物語として話題になったが、家族が崩壊するという決定的な結末ではなく、当時の日本の状況から見て、米国人と交流すること自体があまり一般的でもなかったため、発表の時分、小説の内容についてはそれほどセンセーショナルな反応はなかったことを覚えている。
小島信夫は、山本謙吉が命名したいわゆる「第三の新人」に入るが、安岡章太郎、遠藤周作、吉行淳之介、庄野潤三らに比べるとマスコミに登場することもほとんどなく、どちらかと言えば、寡作の方でもあったからやや影が薄い存在だったように記憶している。
それが何故だったのかは、この劇評を書くために小島の経歴を調べて合点がいった。
小島信夫は大正四年(1915年)生まれである。これも話題になったデビュー作の「アメリカン・スクール」が昭和29年(1954年)だから39才という遅咲きであった。岐阜の旧制中学から一高、帝大に進み、昭和16年、英文科を卒業後、応召、中国大陸で終戦を迎える。昭和21年、復員して都立小石川高校の教師を三年務めたあと、明治大学工学部に転じ、英語教授として定年まで勤め上げている。
つまり、小説はたつきの道ではなく、大学教授という本業を持っていたのだった。遅咲きも、寡作もあまり人前にでなかったのもそのせいだったのだろう。
僕自身はこの当時すでに小説読みから足を洗いかけていたので、この小説は仕舞いまで読んだ記憶がない。おそらく退屈と思って途中で投げ出したのだ。実に若気の至りという他ない。
というのも、この小説は、あとからじわじわと引用するものが多くなったことに気づいて、気にかかっていたからだ。今度この芝居を見て、世代の違いによってものごとの受け止め方は違うものだということをあらためて痛感した。
それはこういうことである。
小島信夫が「抱擁家族」を発表したのは、五十歳の時である。昭和四十年と言えば、終戦から二十年、東京オリンピックの翌年であり高度成長期がはじまった時代である。
終戦時、小島信夫はすでに三十歳であった。鬼畜米英と言っていた世の中が、米国による憲法と民主主義を押し頂いて大転換をしたときに、それを衝撃と感じるにはトウが立ちすぎていた。そういうことは世の中、有り得ると比較的冷静に受け止めたに違いない。
大正五年生まれの僕の父親も大正九年生まれの母親も、戦に負けたのだから仕方ないという意識はあったが、日常の言動を見ていると戦前と戦後が完全に不連続と感じてはいないふしがあった。
「戦前真っ暗史観」とは山本夏彦翁の言葉だが、この正体は進駐軍が民主主義の精神を浸透せしめるために戦前の社会を全否定しようという喧伝であった。とりわけ日本の保守性=ナショナリズムの根源に家父長制があると認めた進駐軍は、この封建的家族制度を転換するために、「家」から「個人」単位へと民法の根本原理をあらためた。
あるいは戦中弾圧を受けた左翼にとっては「真っ暗」だったに違いないが、治安維持法の取り締まり対象は、全国で多く見積もっても一万人程度だったに過ぎないと山本翁はこの迷信のように広がった「史観」を笑っていた。
つまりこの世代は、進駐軍が発するどんな価値観も相対的なものとして受け止めることが出来た。
したがって、戦後の社会が、どのような形で変容していくのかを見通せる視点を持ち得たのである。
また、彼らよりももう少し年少である、昭和一桁から十年代生まれの「軍国少年」世代に対して、八月十五日の衝撃ははるかに激しく深刻な影響を与えたことはよく知られている。つまり、彼らにとって戦前と戦後は明確に不連続であった。そのために、「不連続」に対してどう決着をつけるかということが自らの思想を形成する第一義的課題であり、アメリカ化について小島の年代ほど冷静ではいられなかったのである。
これに対して、僕らの世代は、そこここに残っていた「戦前」を日常的に経験しながら、「戦前真っ暗史観」を何となく信じこまされ、かといって「戦後民主主義の蜜月時代」(大江健三郎)を経験することもなく、冷戦による居心地の悪い「安定」のなかで「革新」を夢見ながら「戦前」的なものはもはや「古い」過去、つまり新しい何かを求める態度こそ正義だという価値観の中で育った。
しかし、そうはいっても、小島信夫が五十歳であった時点では、僕らはまだ世の中がどこからどこへ変化しようとしているのか小島ほどの深度で、かつ実感を持って知るにはあまりに若すぎたのである。
「戦前の家族」がまだ構造として残っていたにもかかわらず、作家がいち早く変容に気づいたのは、理由のあることだった。「アメリカ」がどのような形で我が国に浸透してくるのかを、小島は英語教師であったがゆえに早い時期から感じ取っていたことはデビュー作「アメリカンスクール」(芥川賞授賞)の主題に明らかである。
いま、僕らは、小島が「抱擁家族」を書いた年代をはるかに超えた。その時点に立つと、当時の知識人が、新しい価値観を受容しようとしながら、実際にどのような方法でそれを実現するのか戸惑いを見せているさまがわかる。それは、「家」というものに対して「個人」こそが社会の構成原子であるべきだという理屈で無理矢理自分を納得させようとして引き起こされる悲喜劇に見えるのである。
さて、あれから半世紀近く経った今日、いま二十歳代の若い役者たちが、これらの事情を理解して、 おそらく 小島の原作に共感し、戯曲化した八木柊一郎の思いを表現できたのか。さらに西川信廣が言うような「現在の家族のあり方」という大きなテーマに一矢を報いることが出来たのか、それが問題だ。
小劇場の巾いっぱいを底辺とする五角形、一尺角ほどの柱で組み上げられた四辺は斜めに立ち上がり、上でゆるやかな屋根を形作っている。その微妙にゆがんだ構造物が舞台前方、中間、後方と三組立ち上がっていて「家」というものをいびつで不安定に揺れ動くモダンな線で象徴的に表現すると同時に暗い舞台空間を引き締めている。
中央前方は、掘りごたつのように客席フロアと同一面まで円形に切り出されており、四、五脚の椅子が置かれている。それは居間のソファであり、ときに外の喫茶店の店内や百貨店の店先となる。
床の両翼、上手はダイニングテーブルがあり、その奥一段高くなったところは対面式のキッチンになっていて、同じ高さの下手は書斎、その奥、紗幕に隠れたベッドが少し見えているのは言うまでもなく寝室である。
それで「家」の要素は揃ったが、もう一つ、一辺三尺はあろうと思われる太い柱が舞台中央を上部まで貫いているのは、いわゆる大黒柱のつもりなのだろう。その柱の真ん中あたりが透明な窓で仕切られており、庭と家が配置された立体模型がそれを斜めに俯瞰する位置で嵌めこまれている。
この模型は、第二幕で新築された家に入れ変わるのだが、どうも、「家庭」「家族」というものと建物としての「家」の関係にこだわった戯曲(むろん原作も)の精神を執拗に表現したものと感じられる。
美術は、小池れいだが、僕の観劇記録を調べてみてもこの名前はなかった。
原型は、すでに戯曲に指定してあるのだが、とはいえ、煩雑な要素をうまく整理して、原作の「揺らぎ」とモダンなイメージを手際よく表現した手腕はかなりの実力者と思われた。
何のことはない、長年朝倉摂の下で助手を務めてきて、二年前に独立した新進気鋭(73年生)の舞台美術家であった。今後の活躍に期待したい。
舞台下手脇に後藤浩明がシンセサイザーといくつかの打楽器をおいて、音による色づけを行っていたことも、若い俳優たちが省略の利いた空間を動き回るこの舞台にさりげなく溶け込んでいたことは記憶しておいてよい。
モダンと言えば、八木柊一郎の戯曲もまた、原作の「語り手の人称」をかえたり会話の主が不明になるとか時間が行ったり来たりするアブストラクトな形式の雰囲気を、アンチ・テアトルとかヌーボー・ロマンといったものに近い知的で鋭角的な表現によってつくり出すことに成功している。ペダンティックを好みとする八木の面目躍如といってよい。ただ、初演当時はともかく、主題があからさまになった今日では、エピソードがやや過剰気味で冗長の感があったのは、しかたがない。歳月のせいであろう。
前置きが長くなったが、大急ぎでどんな話だったのかを説明しよう。
円形のフロアの椅子に腰掛けて向かい合った中年の男と年の頃三十四五の女一組が話をしているところから幕が開く。
三輪俊介(木村圭吾)は大学の英語教師で、妻をなくして半年も経っていない。相手の芳沢ちか子(落合千恵)は挿絵画家で、独身、俊介の介添人のようにうしろに控えている山岸(細川慶太)の紹介で、見合いのようなことをしていることが次第に明らかになる。
俊介は、副業である翻訳の収入によって経済的に豊かであることや芳沢が仕事を続けることに反対しないことを強調する。しかし、まくし立てて結婚を迫る俊介の焦ったような性急さは明らかに異常である。
一方的な態度に戸惑いをみせる芳沢に、三輪は「(自分の)子供を気に入ってくれれば、ぼくとしてはあなたに愛情を持ちます。」などと奇妙で勝手な条件をつける。
会話にならないとあきらめた芳沢は、「あなたの目は魚の目のようだ」と決定的なことを言ってその場を去る。自分の目は、なにもみていない、気味が悪いと言われて放心状態の三輪。
見ていた山岸が指摘する。「あなたは、誰とであれ、相手をいじめるために結婚するような気がする。時子さんとの結婚もそうだった。」
このあとの会話は、禅問答のようで意味がよくわからない。
俊介は「時子をいじめていたとしたら、俺は時子に『人間』を求めていたのかも知れない。」という。
すると山岸は、「それであなたは困ったことになった。主婦が、ただの人間、ただの女になったら夫は困る。自分もただの人間、ただの男にならなければ・・・。それなのに、あなたはいつまでもただの夫として、いや子供のように家の中にいた。家族の中に、奥さんの、時子さんの中に・・・。」
これは、八木柊一郎が原作のエッセンスとして差し出した主題であり、この劇のプロローグをなしている。劇全体は、この奇妙な会話の謎解きを構成するものであった。原作の仕舞いの方にあるエピソードを枕にまわして、劇は最後に再びこの場面に戻り、そこから一気に大団円を迎えることになる。
△
「しかし、自分が再婚するとすれば適任なのはみちよ(沖田愛)かも知れない。俺の嫌いなあの家政婦の・・・。」と言う台詞で三輪家の居間に明かりが入り、時間は時子の生前に遡行する。
以降、劇は、基本的に俊介が山岸に何があったかを物語るという回想の形で進行する。第三幕には死んだ時子を登場させるなど、原作の構成を大胆に組み直している。
俊介が、みちよを嫌うのは、家に波風を立てたGIのジョージを連れてきたことだけではない。家政婦のくせに朝からお茶を飲みながらおしゃべりばかりして家の仕事を怠けているからだ。
事の発端は、あるとき講演旅行からかえった俊介に、みちよが折り入ってお耳に入れておきたいことがあると告げたことにある。俊介が留守の間に、家に入り浸っていたジョージと妻の時子が関係を持ったというのである。
俊介は、講演旅行に時子を誘ったのだが、ことわられてしまった。 自由時間がたっぷりあるその旅がことわられた理由は、かつて俊介がアメリカに留学したときに夫人同伴が可能だったにもかかわらず、時子を連れて行かなかったことにあるらしい。それを根に持っていたのである。ことはその留守の間に生じた。
紗幕の向こうの寝室に明かりが入り、上半身裸のジョージがギターをつま弾いている。そこへ寝間着姿の時子がやってきて、もう遅いからギターを止めてと言いかけたそのとき、ジョージが立ち上がって時子を抱くと、重なり合ってベッドに倒れ込む。
そんなことがあったとわざわざ報告するみちよを殴ってやろうと思ったが、思いとどまった。時子に確かめる方が先決である。
時子はみちよが告げ口をしたのは意外だという態度だったが、元はといえばジョージがみちよに話したことだと知って、観念した。
俊介は、とりあえずみちよを解雇する。みちよは、 解雇だと告げられると、俊介が腹に収めておくものだとばかり思っていたが、この所業は分別がないと軽蔑した態度である。
(みちよを演じた沖田愛は、どうにか老け役にみえないこともなかったが、つくりが雑であった。愛想はいいが、一癖有りそうな人物像を造形するにはいささか荷が重すぎた。この役の特徴である「品のない哄笑」もとってつけたようでもう少し工夫が欲しかった。こうした演技がうまいバイプレーヤーをよく見て研究したらいい。)
俊介は妻の裏切りに動転して、家を出て行けと言う。すると「ここは私の家、私が苦労して建てた家」だといって、一歩も引く気配はない。みっともないからそんなに大騒ぎをしないでと時子は存外平気である。単なる間違いだったのだから俊介がいつまでもこだわる必要はないというのである。
第一、日本の普通の家庭がどんなものか知りたいというジョージの希望を、米国人とつきあうのは子供たちのためにもなるといって進んで引き受けたのは俊介ではないか。今度のことは、ジョージを家に入れるのを認めた俊介の責任でもあるというのである。
家族が寝静まった夜、ベッド脇で、俊介が「どんな風にしたのか」と時子に迫っている。時子は、「突然抱きしめられて抵抗できなかったし、声を上げると子供たちに聞こえると思った。」という。しかし、そのまま二人は長い時間、ベッドで一緒だったことは確からしい。
俊介は執拗であった。
時子は「いろいろなことをしたのよ彼、あなたもそうしてよ。」といい、「でも、やっぱり日本人どうしの方がいいのよ。」と俊介の手を取ってベッドに誘おうとする。
俊介は、激して「俺だって、あいつのようにしたことはある」と叫ぶ。以前、人妻と浮気したと自ら告白したのだ。悔し紛れに子供がやるような態度で、責めると言うよりはすでに敗北している。
時子は、好きでもない女にそんなことをするから罰が当たったのだといい、自分はもっといい男がいたらアメリカでもどこでもくっついていっただろうという。最後は捨て台詞のように吐き捨てる。「私はあんたのものじゃない。」
俊介が、眠れないで庭をながめているうちに夜が明けた。
時子は、みちよに会って言うことがある、ジョージにも確かめたいことがあると言いだした。「あんたも一緒に会っていい。」という。
三日経って、ジョージから俊介に電話があった。会って話したいというのである。時子も一緒にと言うことをジョージは承知した。
雨の日、俊介とジョージが話している。
ジョージは、心を病んでいるように思える俊介を気の毒だという。あなたは腹を立てているが、自分と奥さんの間にはなにもなかった。自分の言うことを信じて安心してほしいという。
俊介は承知しない。
するとジョージは、「どうしても言わせたいというなら、あなたが困るだけですよ。」と意外なことをいう。「なぜなら、僕は強制されただけなんですからね。」
別の場所で待機していた時子のもとへジョージを伴って、それを言うと、時子は「冗談じゃない、ウソだ。それに何でみちよに話したのか」と迫る。(ジョージは日本語を解さないし、時子は英語を話せない。俊介が逐一通訳をすると言うもどかしい状態は、まるで「藪の中」そのものである。)
ジョージが、「奥さんは狂っているから、怖い。」という。それなら何があったか互いに真実を話してみろとなったのだが、二人の言い分はことごとくくい違った。
ほんとうのことはわからないが、二人が長い間ベッドで一緒だったことだけは確かであった。
しまいに時子は、そうなったことに自分は自分で責任を感じるが、ジョージは感じないかと問う。
ここで、「確かに自分にも責任はあったと思う。」という答えが返ってきて、双方何となく矛を収めるものだが、そうはいかなかった。
責任と言われてジョージは、いったい誰に責任を感じるというのか?と訝しげである。「あの晩のことで僕を責めることが出来るのは、僕の両親と国家だけだ。」
それを聞いて、時子は、「アメリカ人を軽蔑する。」と俊介に言わせる。理屈をこねてウソをホントと言いくるめる態度は許せないと思った時子はもはや話すことはないと決然と席を立った。
「何故、僕は軽蔑されなければならないか?」というジョージに、帰りしな俊介は思わず「ゴウ・バック・ホーム・ヤンキー」と叫んでいた。
その言葉をみっともないと時子がいう。自分たちが「あんなチンピラの」物笑いの種になっているに違いないと俊介を責める。その種を作ったのはお前の方じゃないかと、家に帰ってからも、えんえん俊介の「真実追究」が時に時子の首を絞めたりこづいたりしながら続く。
時子は、俊介に結局のところ、あなたは耐えなければ、冷静にならなければいけないという。これを喜劇と思わなければ・・・何しろあなたは外国の文学に詳しいのだから・・・。
家政婦がいなくなった家の中が何となく雑然としてほこりっぽい。時子は、寝ていることが多くなった。
良一とノリ子(杉山みどり)の二人の子供は、ジョージと母親のことを知らないまでも家族の間の微妙な変化に気づいている。
俊介は、以前のような一家団欒を取り戻さねばと焦った。
家族を映画に誘ったり、一家でレストランに出かけたり、なんとかして状況を打開しようと一人で先走っては喜劇的な失敗を繰り返している。
そしてついに、一家が仲むつまじく暮らして行くには、この家の塀を高くしなければならないと思いつく。塀で囲って、余計なものを入れないことだという強迫観念にとらわれたのだ。
それに対して時子は、塀の中に閉じ込める気なら効果はないとばかり、「塀だけではだめだ、いっそ立て替えたらどうか。いや、ここを売って、新しい土地を探して引っ越すべきだ。」といいだす。俊介もまた、そのアイディアに突破口を見いだした。新しい土地に新しい家。アメリカ式のセントラルヒーティング。 庭には芝生、小さくていいからプールも欲しい。
寝室は寝るときだけ使うほんものの寝室だ。「そこで、俺はお前を子供のように抱く。」といって時子の両脇に手を入れる俊介。時子は、目を輝かして、俊介の手を乳房の上に持っていくと、触ってみてと言う。そこに小さく指先に触るものがあった。
痛いと言いながら「私、ガンになるなんてことないわよね。」と気に病む様子もない。
それよりもいまや二人の関心事は、新しい土地と新しい家にあった。「どこにしようかね。」とつぶやく中、溶暗。希望と不安のうちに第一幕が終わる。
新しい土地に新しい家が建った。二つの水洗便所、台所にはディスポーザー、ガス湯沸かし器の給湯設備、最新の機能を備えている。
舞台真ん中の柱に埋め込まれた家と庭の模型が明らかに変化している。
みちよのけたたましい高笑いで第二幕が開く。
息子の良一が、みちよのところに出入りしていたために縁が切れていなかった。新しい家のお披露目の意味もあった。
時子はすでに、手術して片方の乳房を失っていた。
良一がジョージにもこの家を見せたいと言い出す。
ジョージは除隊したが、アメリカには帰らず、日本にとどまっていたのだ。遺産が入って、それを投資、いまや貿易会社の重役である。
俊介と時子は、ジョージが訪ねてくることを拒まなかった。あのことにこだわっていないと見せなければいけない。みちよはそれを察して、一瞬気まずい空気が漂う。
良一が電話すると果たして、近々伺うと言うことであった。
寝室で、時子が「よく反対しなかったわね。あんたも大人になったじゃない。」と上機嫌である。ついでに俊介の膝に乗り、手を握ると、「随分ご無沙汰ね?そろそろ恋しくなる頃でしょうが。」と しなを作って艶然と誘う。突然のことに、俊介がたじたじの様子でこわばるのをみて、時子はからからと笑って、「心配しなくていいのよ。なにも強要しないわよ。」と冗談にしてしまった。
こういう時は、「なにいってんだ、この女は」って顔してればいいのだという。「家長として堂々としていればいいのよ。」というが、これでは、時子の方が堂々たる態度ではないか。この時期、病気のせいか薬のせいかわからないが、性欲が亢進している。
やってきたジョージは背広を着て口ひげを生やしていた。
家を見て、良一にカリフォルニアの別荘みたいだと言った。「立派なお宅ですね、三輪さん。」と俊介に言うが、「いやあ、安普請ですよ。」と言ったきり、それ以上の会話が続かない。良一が家の中を案内しているうち、ジョージが時子の方を見ないことに気づいた俊介が、それを指摘すると、時子は、これでサッパリした、何か儀式が終わったみたいだという。ジョージは、ぎこちなく別れの挨拶をして去った。
その夜、時子が俊介を誘う。寝室の紗幕の向こうに明かりが入り、二人がベッドに横たわるのが見える。俊介がそのときの情事を慈しむように述懐する。「時子は、訴えるようで、優しく泣いているようだった。この夜のように俺の愛撫を自然に受け入れたことはなかった。」
そのあと時子は再び入院する。
賛美歌が聞こえてくる中、時子はベッドで老婆(南名弥)と話している。退院する患者で、病院の中で親しくなったらしい。時子はこのとき、まだ自分が死ぬとは思っていない。病室は、入院患者たちのサロンのようになっている。俊介がやってきて、パジャマを買ってきたという。この買い物によって、俊介は、他人との接触に喜びを見いだしたと思っている。それほど「家族」の中にとらわれていたのだ。
暗転して、再び明かりが入ると、容態は悪化している。
新しい付添人(池田朋子)が、おむつの大きいのが足りないから買ってきてくれと言うので、俊介はガウンも欲しいところだったからといってデパートに向かう。デパートの店員に妻が死にかかっていることをことさらのように説明するが、欲しかった緑色のガウンはあいにくおいていなかった。おむつとガウンを求めて、デパートの女店員に迫る俊介。その偏執狂的な態度に店員は戸惑いを見せる。
ガウンはあきらめて帰った。
病室にとって返すと(といっても時間は経過している)、黒衣をまとった尼僧が二人(森川由樹、南名弥)、ベッドの横に跪いて祈っている。俊介が、険しい顔で追い払おうとすると、尼僧は、奥様はすでに覚悟しているという。二人きりになって時子は、「あなた、わたし死ぬわよ。」といって俊介に手を伸ばす。俊介は、時子の顔に顔を埋め、やがて、ベッドの下に崩れ落ちると激しく嗚咽する。
第三幕、会葬御礼のはがきに宛名を書いている俊介が兄妹を呼ぶ。
自分たちの心の中で母親は生き続けるという俊介のなぐさめを良一は理解できる。むしろ父親がうろたえている様をたしなめるほどだが、ノリ子はもっと現実的に、母親の不在を受け入れがたいという態度である。それもまた致し方ない。家族を家族たらしめていた要を失ってしまったのである。
良一が山岸に、家族三人には広すぎるし、当面食事の世話をするものもいないからといって、同居することを勧める。山岸はアメリカでハウスキーパーの経験があって、これまでも時子不在の埋め合わせをしてきていた。山岸は、それを承知する。
みちよを再び呼び寄せる話も出たが、ノリ子の反対で消滅した。
そこへ、時子が甦ったように現れ、俊介にささやく。「みちよを呼んでこき使ってやりなさいよ。」しかし、俊介にその気は毛頭ない。「お前がいないことに慣れていない。」といって途方に暮れている様子である。
「少したったら再婚しなさい。」と時子。「あんた、一人でいるとだめになるわよ。」
それに励まされるように、昨日、葬式以来はじめて外出したことを話し出す。「家を出ると自由を感じた。」という。すれ違う女たちに「わたしは妻を亡くした男です。家には子供がいます。」といいたい気分だった。
その足でガウンを買いに行ったデパートに向かう。
店員は、俊介を覚えていた。店が終わったら話したいことがあるといって、買ったガウンはそのとき受け取ることにする。出口で待っていると店員の女はやってきた。喫茶店に誘う。時子が側についている。
店員から、自分は独身で杉並の寮に住んでいることや日常の細々したことを聞き出しているうちに、この若い女が再婚の相手と思い込みはじめ、庭の手入れや建物の傾斜のことなどを話し出す。側にいる時子までが声をそろえて、女を誘う。さすがに若い女は薄気味悪くなって、「失礼します」と言うのももどかしく逃げるように席を蹴った。
山岸だけで家事が片付くわけではなかった。
みちよを通いで呼ぶことになる。
そのことで良一とノリ子が険悪になって、家を出て行く騒ぐになるが、良一は思いとどまり、やはり母親を亡くしたという友人の木崎(玉田裕太)を引っ張り込んで同居をはじめる。
俊介は、家の中がよごれはじめていることに我慢がならず、いよいよ一同を集めて再婚の話を切り出した。この家に主婦が必要だという思いである。
ノリ子も今度ばかりは賛成である。
みちよが微妙な態度でいるのを見逃さなかった時子が、「あの女、主婦の座を狙っている。暗示にかかってだめよ。あなた。」とささやく。どんな相手がいいか、一同が勝手なことを言い出すのを聞いているうち、俊介は自分が惨めに思えてくる。
「いずれ、そのうち探す。」といっていたのに対して、ある日、山岸が、雑誌に挿絵を描いている芳沢ちか子を紹介すると言い出して、それが冒頭の喫茶店の場面につながっていくのであった。
芳沢が逃げ帰った、そのあとのことである。
俊介は家に戻ってから彼女に電話をかけている。
「あなたが人間になるかならないかの境目にいると言うことをわかるべきだ。」とはおしつけがましい。「急がないと僕のうちがダメになる。するとあなたもダメになるのですよ。」と必死で、しかも相手のことは構わず説得しようとする。
あとがないという思いで「自分はいま神に仕えているような気持ちなのに。」と言って、俊介は、はっと気がつく。
神とは誰か? 芳沢が神でないことは確かだ。そこで、俊介は不意に電話を切る。
山岸が引き取って、「あなたは芳沢ではなく、時子さんに会いに言ったのですよ。」という。俊介にとって、いまでも時子こそ仕えるべき神なのではないかと言う意味である。俊介にとってまだ再婚は無理なことをほのめかしているのだ。
俊介は、兄妹を呼んで、自分は結婚を止めたという。それに対して、良一は、主婦を連れてきてくれないと困ると父親を責める。
再婚はないと知ったみちよが何故かうれしそうに身体をよじってシナを作っていると、その背景が一瞬暗くなり、暗闇にジョージの姿が浮かび上がる。「ジョージを殺せなかった自分」というのはもはや何ものでもない。幻影を見た俊介は、すでに惑乱していた。
倒れてベッドに横たわる俊介の側に時子が現れ、哀れみがこもった声でつぶやく。
「ジョージを殺せばよかったという思いにいつまでもこだわっている。わたしをただの女だと思えば済んだのに、あのことで家中が汚されたと思い込んでいる。」
その言葉に俊介が、身体に変調を覚え、胸が苦しいと大声を上げる。聞きつけたみちよがベッドの脇に飛んでくると、時子が「みちよを抱いたら?」と耳元でささやく。みちよも期待しているという。「そうすれば、なにかのつじつまが合う・・・」
しかし、俊介は不潔なものを払うようにみちよを遠ざける。みちよは、俊介の態度に気づいて、自分は奥様とは違うと思いっきり皮肉をなげつけ、寝室からの帰りしなに、良一が家出するつもりだと告げる。
ノリ子もまた家を出るつもりらしい。
愕然とした俊介は、「みちよをベッドに引きずり込んだ方がよかったか」と、時子に尋ねるのだが、時子は、それでもだめでしょうと否定する。
「お前がいなけりゃおれはだめだ。」という俊介に、時子は、「あなたは私ではなく、単に『よりどころ』をなくしただけで、こんどはあなた自身が『よりどころ』になればいいのよ。」という。
しかし、それができない。人間は、自分一人でしっかりするわけにはいかないものだと、俊介。
ジョージが両親と国家に責任を感じるといったのは、つまりはそれが支えだった、よりどころだった、そういうことではないのか?
俊介にとって時子が「よりどころ」だったのは確かである。しかし、それは何時でも主客転倒をはらんだ脆弱な関係性であった。時子の本心は、自分が男になりたい、名実ともにこの家の責任者に、主人に、父親になりたいと言うことだったのではないかと俊介は訊ねる。
時子は、自分は女であることが嫌いではないと言下に否定する。この世に女は必要で、さらに母親も必要なのだ。だから、自分は家の主として俊介に期待するしかなかったのだ。
その期待に俊介は応えられなかったと思っている。
「何故、俺は世間ではいっぱしなのに、金を稼ぎ、こんな家を建てられるのに、だめなんだ。ジョージが両親と国家に責任を感ずるといったように、嘘でもいいから自分の外に、自分の上に何かをつくり、そこに責任を感じて生きていく。まるで芝居がかりに・・・・・・。」だが、それは断じて人間的ではないと俊介は慨嘆する。
この家に時子であるところの女も母親も、より所も、もはやいなくなった。自分は取り残されて途方に暮れている。
幻影の時子が、いま俊介と並んで穏やかな視線を庭の花々や池の中の魚に注いでいる。
八年も飼われている「金魚が母さんの顔がわかるらしいぞ。」とつぶやく俊介。
良一とノリ子が居間をよこぎって家を出て行こうとしている。
俊介が声をかける。
「やっぱり出て行くのか?・・・・・・希望を持って・・・・・・」
「こたえなさい。希望はあるのか?・・・・・希望はあるのか?」
足を止める良一とノリ子。
時子は、しゃがんで庭をじっと見つめている。
そして、 立ち尽くす、俊介。
やがて、溶暗。・・・・・・幕。
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真っ先に記しておいてよいと思うのは、「愛している」というある種湿った、うさんくさい言葉を一切使わなかったことである。八木柊一郎が意図したと思われる抽象画のような「家族」の味わい、その「かわき具合」が小気味よく伝わってくる劇であった。
冒頭、挿絵画家との見合いが失敗したあと交わされる俊介と山岸の謎めいた会話を思い出そう。
俊介は、時子に『人間』を求めていた。しかし、主婦が、ただの人間、ただの女になったら夫は困る。自分もただの人間、ただの男にならなければ・・・。
山岸は続ける。それなのに、あなたはいつまでもただの夫として(これには妻としての時子を期待していることが対応している)、いや子供のように(これは時子に潜在的な母親を見ていることが対応している。)家の中にいた。家族の中に、奥さんの、時子さん(これは主婦としての時子を望むことが対応している)の中に・・・・・・。
この劇は、俊介という男が、時子という女に求めてきた多重の役割のひとつひとつの相貌をランダムに提出し、それがことごとく挫折する様を描いたものと言うことが出来る。
俊介はインテリらしく、男と女は「人間」として同等だと考えている。だから、夫としては妻の不貞を許せないと思いながら、「人間」としての時子を徹底的に批難することが出来なかった。
「ジョージを殺せばよかった。それが出来なかった自分は、何ものでもない。」というアンビバレンツな心情がいつまでも俊介を悩ませ続けている。
反面、ジョージが若いくせに性的には経験豊富だったことをあげて、「ほんとは日本人どうしの方がいい。あなたもいろいろやってよ。」と自分の「姦通」について平然と言ってのける時子の女の部分について、俊介は、対等どころか子供がふてくされるような惨めな反応しかできない。
「人間」であるはずの時子は、現実にはその「身体」として存在している。俊介は、時子という女の肉体と性(ガンという病も含めて)のリアリティに圧倒され、つまりは人間として同等という想念を打ち砕かれてうろたえるのである。
時子はまた時代の空気に敏感であった。家の中にアメリカを引き入れることによって、「家」というものに縛り付けられていた女の立場や役割を未来に向かって軽々と超えていった。「家」の中にいながら、家政婦を雇うことによって、時子は、主婦を拒否し、女を誇示することによって、貞淑な妻であることを忌避したのである。
それも俊介の稼ぎによってで来たことなのは皮肉なことであった。
ことごとく拒絶されたにもかかわらず、時子の死は、俊介の中に明らかに大きな欠損をうんだ。
「何故、俺は世間ではいっぱしなのに、こうもだめなんだ。」と嘆く裏には時子に言った言葉がある。「お前は、自分が男になりたい、名実ともにこの家の責任者に、主人に、父親になりたいと思っているのだろう。」
いうまでもなくそれは、俊介自身が背負うべき役割であった。「家長」として立つことこそ理想であったが、それでは古いモラルの中を生きることになる。おそらくそれを時子は拒絶するに違いないし、かといってどんな生き方があるのか見当もつかない。
そのようなことが、最後の「希望はあるのか?」という台詞に端的に表れていると言えよう。
いま「絆」が大事ということになっているが、その根のところにある人と人の「関係性」のほんとうの姿はいまでも実に曖昧である。
一体、どんな家庭が可能なのか? 家族とは、その関係とは、その暮らしとは? そうした根源的な問いが浮かび上がってくる終幕であった。
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俊介をやった木村圭吾は、出ずっぱりの熱演だった。
この役はまず、戦前の家父長制における家長というものがどのようなふるまい方をするものか理解していないといけない。俊介の脳裏には、理想としてそういうものがある。
そして、インテリとしてそれを否定する明確な意識があるにもかかわらず、時子には無意識に、妻であり主婦であること、また母親の代替として古い時代の女の役割を期待する心情が基本的に存在する。
それらをメリハリよく演じ分けられたら及第点であったが、何となく家庭問題に悩めるインテリが右往左往している様と映って、印象が流れてしまった。音楽で言えば、スタッカートのように歯切れよく見せることが出来たらもう少し劇が活き活きしたのに少し残念であった。ただ、このキャリアでこれだけのレベルを実現できたことは、本人の努力もさることながら研修所の実力の高さを示しているのではないか。
時子の西井裕美は、年齢にしてはかなり難しい役柄にもかかわらず、中年の女の存在感を十分表現できていた。性的な表現については、ドキっとさせるような中年女の色気が欲しい場面もあったとはいえ、硬質にもならず、開放的でこだわりもなく適度に知的でもあった。たまに若さを露呈することもあったが、それは見逃していい程度のものだ。
この役については、俊介の「古風さ」に比して、飛び抜けて現代的なことに驚くが、というのも、小説が書かれた65年当時、米国からはじまって世界を席巻していくいわゆる「性革命」は、我が国ではまだ一般的ではなかったからだ。これほど女性の側から姦通をあからさまに肯定的に描いた小説はごく少数だったはずである。
セックスレボリューションのすごさは、何しろそれまでは、女性にマスターベーションはないと思われていたのをひっくり返した一事を見てもそれは「革命的」だった。こうしたウーマンリブの思想は、60年代後半にはじまる学生運動を通じてようやく世界中に浸透していったのである。
劇が俊介の回想という構成上、観客は俊介の目を介して見える時子の像を見ていることなる。俊介が、あれは何でもなかったのだと思いさえすれば、「家」は平穏無事だと時子は言っているが、いよいよ俊介が自分で自分の気持ちに始末がつけられなくなったら、時子としては「家」をどうしようと思っていたのだろうか?
もし、彼女がガンで死ななかったら、揺れ動く俊介に取って代わって家を仕切っていただろうか? 時子が三輪家の家族を束ねる存在になっていたら、そこに「家」というものの未来が、あるいは希望が見いだされていただろうか?
その点で、この劇は俊介の心情を投影する対象としてのみ多く時子を描いているために、つまり、なすすべもなく一方的に責められる俊介の立場だけが描かれているために、時子自身の「家」に対する価値観や女としての立場は、深く追求されていない。その主張には、新しさと矛盾が同居しており、時子の真情が那辺にあったか得心がいく場面があったとは言いがたい。
俊介の逡巡を捨てて、時子に付き従っていけば、僕らにとって「家族」の未来に希望を見いだせるというのか、一体時子とは何ものなのか?
そこで、小島信夫が小説を発表してまもなく書かれた江藤淳の代表作「成熟と喪失ー“母”の崩壊」(1967年、河出書房新社)の中から時子に対する江藤の見解を紹介しながら、「家族」の未来ということを検討してみようと思う。
何故そんなことをするかと言えば、この稿の最初に引用した演出の西川信廣の言葉、 すなわち「この作品作りを通して、あらためて現在の家族のあり方、夫婦、親子など考えながら、それらすべてが、明日へつながればと思っている。」について論じてみたいからである。
江藤淳の長編の文芸評論は、安岡章太郎の『海辺の光景』、小島信夫の『抱擁家族』を中心に、吉行淳之介(「星と月は天の穴」)、遠藤周作(「沈黙」)などの作品を取り上げ、それらの(阿川弘之、三浦朱門などを加えた)いわゆる「第三の新人」と呼ばれる人々に共通する作家的特質にある特徴を見いだし、その文明論的意味を論じたものである。
江藤のモチーフは、「近代化」すなわち農耕社会に学校教育制度が導入されることで、父性のイメージは希薄化(強い父親から「恥ずかしい」父親へ、=江藤の論)するが、それに反比例して、母親と子(特に、男子にとっての母親)の関係は、近代化以前の密着した関係に回帰しようとする傾向があるというものである。
江藤に依れば、その結果、男子はいつまでも母の懐に居続けようとする。この成熟を拒否し、子供のままでいようとする(大人になることを拒否する)ような感受性、すなわち母親との結びつきを隠しながら、むしろそれを武器に作品世界をつくり出していったのが、「第三の新人」たちであった。
「抱擁家族」に即して端的に言えば、
「 俊介は、無意識のうちに、妻との間に、あの農民的、定住者的な母子の濃密な情緒の回復を求めている。・・・・・・妻はここでは「他人」ではなく、いわば姿を変えて現れた『母』だからである。」(P33)ということになる。
ここで、江藤の見解を追いかけることは劇と重複するので詳細には入らないことにする。
なにしろ、この劇は、とりわけ第一幕の構成など、論じられたエピソードのほとんどが劇に取り込まれており、江藤と八木がほぼ同世代(八木は昭和三年、江藤は同七年生まれ)であることから言っても、八木に江藤の見解に対する異論があるとは思えず、ある意味、この劇はむしろ『成熟と喪失』の劇場版といってもよい構造だからである。
つまり、劇の冒頭の、山岸の言葉「 あなたはいつまでもただの夫として、いや子供のように家の中にいた。家族の中に、奥さんの、時子さんの中に・・・・・・」という謎めいた台詞は、江藤淳による『抱擁家族』批評そのものを劇のモチーフとして取り込んだものである。
ここでは、俊介がその中に『母親』を見ようとしていた時子が、何故「母親」を拒否したのか、時子とは何ものか、この問題に限って江藤の見方を参照しようと思う。
江藤は、まず時子が俊介とは違って、「近代」化を積極的に受け入れようとしていると分析する。
「近代」へと「出発」しようという明確な意思がある時子が、「家」に縛り付けられていると感じている以上、むしろ「近代」が家に招き入れられねばならない。それが時子に可能な「出発」のかたちである。
時子は、かつて俊介がアメリカに留学したときに時子を連れて行かなかった。その不満の裏には俊介に対する競争心がある、という。(この二つが、ジョージとの姦通の背景になっている。)
「(近代へと)『出発』したくない夫はアメリカに行ったのに『出発』したい自分はあとに残された。これは不公平であり不当である。さらに、その競争心の奥底に隠されているのは、時子の男になりたいという欲求である。彼女は男のように『家』を離れ、男のように『出発』したいのである。それは、とりもなおさず女である自分に対する自己嫌悪に他ならない。・・・・・・時子にとって『母』になることは老年に変貌することを意味した。・・・つまり、彼女にとって『母』であり、『女』であることは嫌悪の対象である。」(P60)
「これが、『近代』が日本の女性に植え付けた一番奥深い感情だといえば、問題は一般化されすぎるかも知れない。ある意味では女であることを嫌悪する感情は、あらゆる近代産業社会に生きる女性に普遍的な感情だとも言える。しかし、『近代』が三輪時子の場合のように、もっぱらキラキラと光り輝くもの、獲得されるべき幸福とだけ考えられているのは、おそらく日本の女性に特有の感情である。そして、この『近代』に対する憧憬が、自己嫌悪の裏返された表現であるのも、おそらく日本独特の現象に違いない。俊介に『母』の胸での安息を求めて『成熟』を回避しようとする願望が潜んでいるとするなら、時子の中にも深い未成熟の感情がかくされている。
つまり彼女は、『成熟』の要件である自信を欠き、その裏付けとなるべき絶望を欠いている。彼女の人格の核にはひどく脆弱なものがある。それは多分、あまりに急激に変化する社会の中で、そしておそらくあまりに急激に向上した生活水準の中で、『成熟』する余裕を奪われた女性に生じる自己崩壊の表れである。」(P61)
女性性もまた「近代」の前に戸惑っているのである。
時子がこのような女だとすると、僕らは俊介とともに、途方に暮れてしまう。
俊介も時子も、一方は成熟を回避、一方は大人になりきれない部分を抱えながら家庭を営んでいるというのでは、これ以上前へ、つまり『近代』へ『出発』することなど不可能であり、しかも時子がガンで逝ってしまったから、「近代」後の「家」の姿を僕らは想像すらできないからだ。
終幕の「希望はあるのか?」という問いかけに、これでは絶句するしかないのである。
演出の西川信廣も同じ気持ちだったに違いない。だから「この作品作りを通して、あらためて現在の家族のあり方、夫婦、親子など考え」たいとする言葉にどことなく弱々しい響きを感ずるのである。
「母の崩壊」という仮説は、江藤の独創である。
「近代」の教育制度が子供にとって父性を貶め、相対的に母性の地位を上げたとするのも冷静に考えると違和感がある。
たとえば、明治新政府に対して帝国議会の創設を要求した自由民権運動家たちの選挙権の考え方は、一戸に一票である。大正14年に普通選挙法が成立しても、民法は改訂されることなく、戸主が一家の命運を握ったままであった。
近代以前の支配階級である武士は、原則として男系男子が引き継いでいく「家」長が俸禄を受け取って一族郎党を養った。百姓もまた、借地権や土地所有権を「家」長が代々引き継いで守った。
この家父長制は「近代」以後であれ、制度上(大日本帝国民法)も実質も引き次がれたのである。ただし、「引き次ぐべき土地や俸禄やその他の財産」がある限りにおいて、という条件があった。近代化が進むにつれて、俸給生活者をはじめとする都市生活者が増えると引き次ぐものもなくなるから、資産を継承することだけに根拠があった父権が形骸化していくのはやむを得ないことであった。
一方、江藤は本来あった「農民的、定住者的な母子の濃密な情緒」が「近代」によって潜在化したというが、これは根拠に乏しい俗論である。農家における主婦は農作業における重要な労働力であったから、子供と濃密に接触する時間などなかったはずである。(上野千鶴子がどこかで指摘しているらしいが)この母子の関係は、むしろ都市生活者が増えると同時に、良妻賢母を求めて女子の高等教育が進んだ結果であろう。生産労働から解放された主婦が、有り余る時間を子供にかけることが可能になってはじめて生じる現象なのである。
江藤は、俊介が妻に「自分の母親」の代替であることを求めて、拒絶されたというが、これをもう少し単純に、むしろ本音のところでは家長として「子供たちにとっての母親」であることを求めたと考えたらお門違いだろうか?
俊介が当初思い描いた「家」は、自分が育った「家」を基調とするモデルであったに違いない。俊介の出自は不明だが、それは確実に戦前の民法のもとにあった。アメリカに負けなかったら、俊介は「戸主」になっていたはずである。
しかし、戦後アメリカによってデモクラシーと個人主義がもたらされ、その根拠となる民法が改訂される。女性に参政権が与えられて、制度上の男女同権が成った。
俊介は、そのことを頭で理解しているが、実際には父権を行使する方法論しか知らない。つまり新しくもたらされたコンセプトに基づく行動規範は当然のことながら持ち合わせていなかった。具体的に時子に求めているのは結局妻であり主婦であることなのだが、それと同時に個人であり女である時子にどう対処していいかは、当然ながらまったくわかっていないのである。
いっぽう、時子もまた時代が変わったことを敏感に察知していたが、たがが外れた以上、何をしても許されると勘違いしているふしがある。
夫に、ジョージとの行為を説明して、「いろいろやってくれたけど、あなたも(あんなふうに)やってよ。」あるいは、「やっぱり日本人との方がいいのよ。」という神経は、普通の感覚からいえば「何というはしたない」モノの言い方、「これじゃあ、まるで色きちがい」と言うことである。
また、古今東西を問わず妻の姦通という重大事件について、「あんなことは何でもない」と思うべきだと夫に強要する態度も常軌を逸している。
それに対して、(妻に「母」を求めているとはいえ)ただうろたえている俊介もまた異常といわざるを得ない。
双方ともに「民主主義と個人主義、男女同権のアメリカ人なら、きっとこう考え、すでに実践しているに違いない。」と思っているなら、これはもう漫画である。
家父長制の民法が行使されていた戦前の社会に、アメリカがいきなり入ってきて、制度を変えてしまった。その制度は良さそうであるが、所詮紙に書いた文字に過ぎない。暮らしはいきなり変えられものではないのだから、これくらいの混乱は起きるのだと言うことかも知れない。
結局、小島信夫は、戦前と戦後は連続しているというパースペクティブに「家」というものを置いたうえで、外からもたらされた民主主義と個人主義をある意味戯画化してしまったのだとさえいえるのである。
これは異常なフィクションである。
したがって、実は、この延長上に西川がいう「現在の家族のあり方」など求めようがない。ただ、この家にジョージがやってくるという設定が「家」と「家族」の変容にとって重要なモチーフになっていることはいうまでもない。
何がどのように変わったのか、現在は?その見通しは?ということを考えるためには、まず、その出発点である戦前の「家」とは?「家族」とは?ということに遡行してみる必要がある。
「祖母が亡くなったのは東京でのことだ。戦況が厳しくなる直前だった。
その通夜の晩、祐天寺の家の玄関ににわかにざわめきが起こり、『社長がお見えになった』という声がした。棺側にいた父は、客を蹴散らすようにして玄関へ飛んでいった。式台に手をつき、深いお辞儀をした。
それはお辞儀というより平伏であった。
『財閥系のかなり大きい会社で、当時父は一介の課長に過ぎなかったから、社長自ら見えることは予想していなかったのだろう。それにしても、はじめて見る父の姿であった。』
『私は亡くなった祖母とは同じ部屋に起き伏しした時期もあったのだが、肝心の葬式の悲しみはどこかに消し飛んで、父のお辞儀の姿だけが目に残った。私たちに見せないところで、父はこの姿で戦ってきたのだ。父だけ夜のおかずが一品多いことも、保険契約の成績が思うにまかせない締め切りの時期に、八つ当たりの感じで飛んできた拳骨をも許そうと思った。私はいまでもこの夜の父の姿を思うと、胸の中でうずくものがある』(向田邦子、『お辞儀』)
これは、関川夏央の「家族の昭和」(2008年、新潮社)から引用した一文である。関川には、戦前から戦後にかけての世相を取り上げて論じた著作が多い。 その中から、劇評を書いているうちに思い出したのがこの本であった。
関川はこのあと、こう続けている。
「向田邦子は『平伏する父』を軽蔑しなかった。むしろ『父はこの姿で戦ってきたのだ』と肯定的に見たが、男の子だったらどうだっただろう。まして戦後育ちなら、日頃の威張った父との落差に深く失望し、権威に恐れ入るその姿に『卑屈』という言葉を浮かべたに違いない。」
このとき、向田邦子は十四、五歳くらいであろうか。八木柊一郎の一歳下、江藤淳の三歳年上と、ほぼ同世代である。
江藤淳が、学校制度の導入によって、父親は「恥ずかしい」存在になった、といっている事は前に述べた。
向田邦子の「平伏した父」は、私生児だった。高等小学校を出て、運良くこの財閥系の保険会社に職を得ると給仕からはじめて支店長まで異例の出世をした。
「もしも、男の子だったら・・・・・・」という関川の杞憂は、おそらく現実であろう。それは、江藤の描いた「弱い」父親のイメージと一致する。
実は、僕も子供の頃(昭和三十年代)、似たような経験をした。偶然父に連れて行かれたのが、仕事先で、細かいことはすっかり忘れているが、普段とは違う父の姿に多少戸惑いを覚えた記憶がある。僕はそのとき向田邦子が感じたようには思わなかった。
しかし、「私はいまでもこの夜の父の姿を思うと、胸の中でうずくものがある」と書かれると、「父はこの姿で戦ってきたのだ」という文と呼応して、 いま僕の中にもこみ上げてくるものがある。
向田邦子は昭和二十二年に目黒の高女を卒業、実践女子専門学校(後の実践女子大 )に入った。昭和二十五年、二十歳で女専を終えると、早稲田に進学して新聞記者になろうとしたが、まだ下に弟妹がいたこともあって、卒業後すぐに教育映画の会社に就職した。二年後には、出版社に転じ、雑誌の編集者になった。
めでたく「近代産業社会に生きる女性」になったのであるが、だからといって江藤が言うように「女であることを嫌悪」しなかったし、「近代に対する憧憬」を抱いて家を飛び出そうなどとは考えもしなかった。
それは、後に(昭和36年以降)脚本を手がけるようになったテレビのホームドラマの舞台をみれば明らかである。そこにはキャリアウーマンもいなければ、男にあれこれ指図するいまどきの強い女もいない。むろん時子のように、いわば性的に放縦な女も登場しない。また 昭和初年生まれなのに、「アメリカ」の影を感じさせることなど一切ない。好んで選んだ設定は、戦前のごく普通の「家」とか「家庭」であった。
関川は、この父親とのエピソードをもう一つ取り上げている。
戦前の家庭における父親とはどんなものだったかある意味典型とも思えるので取り上げておこう。
「まだ実践女専の学生だった時分、当時は仙台に転勤していた父母の元に休みごとに帰った。ある冬の朝、前夜父がもてなした客の一人が悪酔いして例のごとく粗相した跡を、邦子が始末した。起き抜けの父はその姿をだまってみていた。謝罪やねぎらいの言葉はなかったが、東京に戻ると下宿先である麻布市兵衛町の母の実家に、彼女より早く父親の手紙が届いていた。
いつもより改まった文面で、しっかり勉強するようにと記した末尾に、『この度は格別のお働き』という一行があり、朱筆で傍線が引かれていた。
『それが父の詫び状であった』
そう書いてとじたこの一編を、向田邦子は本のタイトルとした。一読したコラムニスト山本夏彦は、『向田邦子は突然現れてほとんど名人である』と評した。」(P33~P34)
情景をエッセーに直接あたるとこうである。
「ある朝、起きたら、玄関がいやに寒い。母が玄関のガラス戸を開け放して、敷居に湯をかけている。見ると、酔いつぶれて明け方帰って行った客が粗相した吐瀉物が、敷居のところ一杯に凍り付いている。」(初版―文藝春秋社1978年、引用、文春文庫版、P18)
それを母親がひび割れた手で掃除しているのを見ていたら「急に腹が立ってき」て、母親を押しのけ、一杯につまったものを自分が爪楊枝で掘り出しはじめた。
「気がついたら、すぐうしろの上がりがまちのところに父が立っていた。
手洗いに起きたのだろう。寝間着に新聞を持ち、素足で立って私が手を動かすのを見ている。
『悪いな』とか『すまないね』とか今度こそねぎらいの言葉があるだろう。私は期待したが、父は無言であった。だまって、素足のまま、私が終わるまで吹きさらしの玄関に立っていた。」
東京に戻るときに小遣いを渡されることになっているが、増額もなかった。
「いつも通り父は仙台駅まで私と弟を送ってきたが、汽車が出るとき、ブスっとした顔で、『じゃあ』といっただけで、格別のお言葉はなかった。」(文庫版、P29)
父の「詫び状」が仙台で投函されたのは、この四日も前のことだった。
戦前の父親は無口であった。とりわけ子供に対しては必要以上に口を利かなかった。それが威張っていて時に暴君と映るのはしかたがなかったかもしれない。それにもかかわらず、このようにして家族は家族だったのである。
関川は、それらの「経験したことのない時代、見たこともない家庭」に懐かしさを覚えるのは不思議なことだと書いている。
「戦後は戦前と完全に断絶している。まったくゼロからの再出発なのだと無理矢理にでも思おうとした。それが戦後の時代精神であった。
しかし、人々は、完全にはそんな見方に納得はしていなかった。文化は、歴史年表の色分けた区切りではじまったり終わったりするものだろうか、という根源的な疑問を抱いていたむきには、向田邦子の作品はさわやかな衝撃だった。」
また「彼女は戦後の民主主義と個性主義の子のようには父親を憎まず、(父親の)遺伝を嫌悪しなかった。そのことも読者に静かな勇気を与えたに違いない。」(「家族の昭和」P16)
向田邦子の作品が懐かしさを喚起するのは「大正時代に階層として姿を現し、都市を中心に日本の家庭像の一つの規範、あるいは型となって昭和戦後の高度経済成長時代に完成を見たサラリーマンの中流家庭像の原型がうかがえる」からである。(P38)
「適度の貧しさが、人に生活の緊張感と慎ましさ、さらには『友情』や『忍ぶ恋』をもたらした。そしてその適度の貧しさにさえ、贅沢にも私たちはあこがれの思いを禁じ得ないのである。」(P38)
『家族の昭和』は、昭和、六十数年の間に我が国の「家族」というものがどのように変容したのかを、文学作品やテレビドラマをとりあげて論じようとしたものだが、このあと、吉野源三郎が「日本少国民文庫」の一冊として書いた『君たちはどう生きるか』(昭和12年)を取り上げる。
いわゆる『コペル君』を主人公とした「都会の少年たちの教養小説、あるいは思春期向けの倫理・哲学小説」である。
これは、当時の階層社会の構造とモラルを俯瞰しようとしたもので、いわば戦前の家族を内側からみた向田邦子の作品と対をなしているものである。
本は次ぎに、章を変え「『女性シングルの昭和戦後』ー幸田文『流れる』他」と題して、「幕臣」(正確に言えば幕臣の子供)幸田露伴が伝授した江戸期にルーツのある家事経営法が娘幸田文によって引き次がれ、昭和戦後にまで息づいていたことをのべる。
最後の章は、「退屈と『回想』-鎌田敏夫『金曜日の妻たちへ』他」で、バブルがはじまる時代を背景に、繰り広げられる妻たちの不倫つまり「浮気」あるいは「浮気心」についてとりあげている。
ただ、関川は、最初の章である向田邦子の項のはじめに、すでに結論を提示していた。
「昭和三十年代半ば以降、高度経済成長の波が、それら懐かしいものたちを一気に押し流した。子供たちは個室をほしがり、夜の茶の間に集う家族像は消えた。
人は家で生まれ家で死ぬのではなく、病院で生まれ病院で死ぬようになった。核家族というものが家庭から老人をはじき出して死を遠ざけ、ついでに生をも遠ざけた。」(P17)
「昭和三十年代半ば」といえば、まさしく「抱擁家族」が書かれた時代である。
小島信夫は、このとき「アメリカ」という異文化が日本の「家」の中に入ってきたと感じたのであるが、この重大事を関川夏央はただ、「高度経済成長の波」が「懐かしい過去」を押し流したとあっさりと表現するのである。関川の立ち位置から見て、「アメリカ」はこのときどこにあったのか?
たとえば、この時代、都会に押し寄せた勤労者のあこがれだった公団の2DKは、トイレとバス(タイル張りの狭いものだったが)がいっしょの使いにくいものだった。(いまでも千歳烏山あたりに残っている?)しかし、それがアメリカ式だといわれれば文句をいうところではなかった。小島の世代はこんな不便なものと思ったかも知れないが、この狭い住宅(後に兎小屋といわれる)を手に入れるための抽選に人々は長い行列を作ったのである。
こんなものがアメリカであるはずがない。いかにも間に合わせの途上国日本の姿が見えるだけである。
小島には、深刻だった「ジョージ」の存在は、関川にとって、日本の「家」に挿入されたちっぽけなトイレにすぎなかった。
「いまも東京は美しくないとは言えぬが、戦前東京は、美しさをたたえた街であった。大震災でその構造が転換したとはいえ、より単純であった。東京は、川と運河の水の街であった。同時にそこは生活のにおいに満ちた街でもあった。それは夕餉を用意するにおい、仏壇のお線香のにおい、空き地の湿った黒土のにおい、それから厠臭などであった。人は見知らぬどうしでも気安く言葉を交わした。豊かな人々の声とどよめきは戦前東京の特徴であった。」(「家族の昭和」P39)
この文には、見たこともない戦前の街を想像する関川の感傷がややにじみ出ているとしても、たしかにその姿は、空襲を受けていったん廃墟と化したが、復興した街が一気に変わったわけではなかった。僕の記憶では、公団住宅が建ちはじめる頃でも、郊外の街にはまだ厠臭がにおうことがあった。
それらのものが、高度成長によって押し流されたと関川はいう。
「適度の貧しさ」が「そこそこの豊かさ」に変わることによって、人々が「緊張感と慎ましさ」から解放されたのである。
「そこそこの豊かさ」を実感するためにバスとトイレがいっしょの狭い浴室をモダンと思い込み、せいぜいそれが「アメリカ」の痕跡を示しているいるにすぎなかった。その証拠に一体型の浴室はすぐに公団住宅から消え去った。アメリカ式は、実に「日本に合わなかった」のである。
それまで、家族が慎ましく我慢してきたそれぞれのわがままが、実現可能なものに見えてくると、人々は2DKを出て、マイホームを手に入れることを夢見る。
そのようにして、日本は、あの「懐かしい」風景を一掃していったのである。
「一掃していった」にもかかわらず、人々はその時代に自分たちの暮らしの原風景を見ていた。そこには生きている手応えがあると感じられた。高度成長が始まる昭和36年以降に向田邦子は主要な作品であるTVドラマを次々に発表し、高い視聴率を獲得していった。それが「懐かしさ」の何よりの証拠である。(ただし、書いたのも女性であれば、高い視聴率を支えたのも主として女性であったことは、その点でも社会は変わりつつあったことに留意すべきであろう。)
「抱擁家族」の二人の子供、良一とノリ子は生活の利便のために家庭には「主婦」が必要だと主張する。妻、時子は一人の「人間」であること、妻の前に一人の女であることを認めることを要求する。俊介は、それらすべてを満たしてやろうとしながら、自分もまた一人の「人間」、ひとりの男であろうとする。
そのようになった原因が、ジョージ、つまりは「アメリカ」だと思い込んでいるのが、この劇のモチーフであった。それは一面において正しい。しかし、実のところ、家族がこのように思えるのは、そのそれぞれのわがままが、高い実現可能性を持っていることを知っているからである。
つまり、俊介に、家政婦を雇い、新築のアメリカ式のモダンな一戸建てを平然と建てるだけの稼ぎがあるからである。「アメリカ」が動因なのではなく、むしろ「家族」が崩壊するという気分には、経済力が決定的に働いていたのだ。
「戦前のあのなつかしい家族」を変容させた直接的な原因は「経済成長」によってもたらされた「そこそこの豊かさ」と「一億総中流」という意識であった。それが、生活から「緊張感とつつましさ」を取り除いた結果、家族のそれぞれの欲望が表面に浮き出てきたのである。
小島の地点から見た襲いかかってくるアメリカはとてつもなく大きな存在だったに違いないが、関川の地点に立つと、それはもはや見えない程度にまで小さくなるのである。
それでは、その後「豊かさ」と「中流意識」は、「家」と「家庭」をどこへ導いていったのか?
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TBSのTVドラマ「金曜日の妻たちへ」は昭和58年にはじまる。いわゆるトレンディドラマのはしりで、比較的高視聴率であったためにその後都合三シーズンにわたってシリーズ化された。
田中康夫の「何となくクリスタル」は少し前の昭和56年だが、このとき日本経済は円が変動相場制へ移行し、第二次オイルショックに見舞われていたにもかかわらず消費の勢いは止まらなかった。「何となくクリスタル」は、「ブランドとレストラン」の案内書めいた軽い小説で、後のバブルの空虚な悪趣味を予感させるものだった。
関川は、昭和60年に放送された「金曜日の妻たちへⅢ 恋に落ちて」について概要を説明したあと、たとえば次のように場面を紹介する。
「『恋に落ちて』の小川知子・板東英二夫妻の家には「パティオ」がある。夏はよいけれど冬は寒い。それでもストーブをつけて耐えながら、友人たちとそこで食事する。団欒する。
パティオを『カフェバー』のように使いたがる傾きはどこか貧乏くさいが、そこに集うのが、同級生や昔の知り合いばかりというのもいささか寒々しい。
実際、晩秋の寒さにも耐えて意地でもがんばるといった風情のパティオでよく飲まれたビールはバドワイザーだった。時代は赤ワインのはやりはじめで、『カフェバー』の客は、『ワインを空気になじます』ためにグラスを揺すり、大きな皿に十二分の余白を残して、ほんの少しだけ載せられた料理を食べていた。それは、『ヌーベル・キュイジーヌ』と呼ばれて珍重された。」(同、P200)
僕は当時、その「十二分に余白を残してほんの少しだけ載せられた料理」をパリ、ニューヨークはもちろん、ロンドン、LAでさえ、見たことがなかった。それがトレンドだとばかりに目の前に出されると「こんなもの歯くそにもならない」と品のないことをいってバカにしていた。
いかに視聴率が高いといっても、この種のTVドラマを見ると、黒澤の映画で、三船俊郎が肩を怒らせて照れを見せる仕草を思い出して、まともな神経でいられなくなった。したがって、この手の愚劣な番組につきあったことはない。(それはおいといて)
関川は、「パティオ」も「バドワイザー」も貧乏くさいという。幾分不真面目なふりをして、ブランド知識自慢をする田中康夫もまた、彼ら本人の意に反して「貧乏くさい」のである。
いかにも俄成金が一生懸命背伸びをしているようで、やっていることが身についていないからだ。この姿を外国から見たら、実に滑稽な風景に映るだろうと、僕は内心気が気ではなかった。
「金曜日の妻たちへ」は、「妻たち」の婚外性関係や、もはや若くない女たちの恋愛の話である。「抱擁家族」の時子が、その本性を全面的にさらけ出して、「昭和の家族」の中に躍り出たのである。むろん男も浮気を志向しなかったわけではないが、もはや家族の主役は「妻たち」になったのである。
当然のことながら、夫が妻に「母」を求めるなどという甘い心情が許されるとは思いもよらない。子供もまた父親に家長であることを要求しないし、母親にベタベタする関係を望まなくなった。彼らは、可能な限り自分の個室にこもって他の家族に干渉されることを拒むのである。
かくて、団欒というものが変質してしまった。どこかぎくしゃくした「団欒のようなもの」が家の中に人工的に作られるようになるのである。
「金曜日の妻たちへ」の登場人物たちにとって、もはや団欒はたいした意味を持たない。関心は、自分であり、自分が年をとっていくという感傷に浸ることである。
「このドラマには『昔』という言葉がしきりに出てくる。『昔のことよ』『十何年前のことだ』と言葉づらは過去を軽んじるふうに使われていて、そのくせ過去に縛られ、また過去に帰りたがる。
三十代後半の男女がこれほどまでに回顧的であるとは驚くべきことだ。だが、それはそんなに『昔』なのだろうろうか。『十何年前』(実際には十二三年前)など『つい昨日』とも言える。そして昭和四十年代とは、果たして懐かしむに値する時代だったろうか。
彼らはいちように『老いやすい性格』を与えられているが、『老成』という印象にはほど遠い。平和と退屈ゆえに、『過去を引きずる快楽』に身をゆだねているだけと思われる。昭和六十年とは、思えば不思議な時代であった。」(P184)
関川の「果たして懐かしむに値する時代か?」という言葉の裏にはおそらく次のようなことが隠されている。
昭和四十年代になにがあったのか?端的に言えば、全共闘運動があり、70年安保闘争があり、四十五年には三島由起夫の自決があった。そして四十七年には、この時代の一切を忘れてしまいたいと多くの若者に思わせた決定的な出来事、連合赤軍事件があった。四十年代とは、懐かしむにはあまりに苦い過去なのである。
この登場人物たちの「昔」とはそのような具体的な何かではない。平和と退屈で行き場を失った感傷が生み出した架空の過去にすぎず、心のバランスのために「懐かしむこと=回想」が必要だという脅迫的なイデオロギーであった。
「金曜日の妻たちへ」を書いた鎌田敏夫は、このあと「男女7人夏物語」(シリーズは昭和61年~63年)ををヒットさせる。むろんこんなものを僕は見ていないから関川の解説を鵜呑みにする。
こちらは「金妻」の登場人物と比べると一世代若い。彼らはもはや、「回想」しない世代である。
時代背景としては、バブルはすでにはじまっている。プラザ合意(昭和60年)以降円高は進み、輸入品が急激に安くなった。もはや海外旅行は貧乏人の楽しみに成り代わろうとしていた。
「『夏物後』の登場人物たちは、誰も『過去』にとらわれず『現在』をたのしく生きようとしている。端的に言えば、彼らには『現在』しかない。そして『現在』の連続を。負担だともつらいとも思っていない。」(P193)
登場人物の一人の「『現在』は、友人との語らいと恋愛、それに仕事の面白さで満たされる。」また、一人は「『どんな女でも落としてみせる』といった武者修行めいたセンスの恋愛で退屈を癒そう」とし、また一人は、女性への漠然とした憧れと、手製の料理を友人とともに食べることが暮らしの張りである。
「この年、都心商業地の都下は50%あまり上昇した。『ワンレン』と『ボディコン』の踊る女性たちで『マハラジャ』は連夜祝祭のようだった。そういう趣味を持たない男女は『テレクラ』を介して、見知らぬどうしで実質的な買春と売春に熱中した。従来の消費構造と人間関係は急速に変質しつつあった。」(P194)
そして、この「平和と退屈」に行き着いた「昭和末年の日本社会のあり方こそ『戦後』日本が目指したものであったとは、二つのテレビドラマを見れば実感できる。もし、それに私たちが微苦笑を禁じ得ず、どこか貧乏くさいと思うなら、『戦後』の目標そのものが微苦笑に値し、また貧乏くさかったのである。」(P203)
そして関川は、小津安二郎の映画で定番のあのローアングルで捉えられた茶の間について、次のように書き、この本を締めくくっている。
「かつてそこは昭和戦前の時代の空気で満たされ、家族たちで賑わっていた。時は昭和戦後に移って、一人去り二人去りして、ついに誰もいなくなった。いわば無常をそくそくと伝える茶の間に、私は『昭和の家族』のありようと移ろいとを見て、粛然の思いを禁じ得ないのである。」(P243)
結局、小島が危惧したように日本はアメリカにはならなかった。そこそこの「豊かさ」を求めて出発し、それが突き抜けて、「平和と退屈」に到達した。アメリカにはならなかったが、所詮世界から見れば田舎ものである。「マハラジャ」で踊る「豊かさ」にはやはり微苦笑せざるを得ない。パリやミラノでブランドものを買いあさる姿はやはり、どこか貧乏くさいのである。
かくて、団欒の茶の間は日本から、あのような「気分」としては消えてしまった。
とはいえ、「家」も「家族」もなくなった訳ではない。
「豊かさ」を求めて到達した「平和と退屈」もそう長くはつづかなかった。
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平成に入って、まず「平和」にかげりが出てきた。ベルリンの壁が取り払われたとき(89年11月)はまだそれと気がつかなかったが、湾岸戦争(91年1月)ソビエト連邦崩壊(91年12月)は明らかな変化を予感させた。
冷戦の上に築かれていた日本の「平和」はバランスを失って、少なくとも自分の足で立たなくてはならなくなった。鎖国の夢から覚めた文明開化の時代のように、「外国」が視野の端に入り始めた。
そしてバブルの崩壊である。証券会社の女子新入社員が最初にもらったボーナス袋が縦に立ったといわれた好景気は十年も持たずに去っていった。むろん「マハラジャ」に落とすだけの給料は出なくなった。どこか貧乏くさかった狂乱も、跡形なく消え去った。「パーティ”ズ オーバー」である。
金融機関に不良債権がどれだけあるのか不明という不気味な閉塞感が世を覆う中で、阪神淡路大震災(95年1月)、地下鉄サリン事件(同年3月)と立て続けに災厄が襲う。
アメリカの一人勝ちになった経済では、グローバリゼーションという名のアメリカ方式を押しつけられ、「ジャパン アズ No,1」は凋落の一途をたどった。
それによって、かつての「適度の貧しさ」がよみがえり、「人に生活の緊張感と慎ましさ」を生んだかと言えば、そうはならなかった。
なぜなら、一般的に主婦がパートに出てかろうじて家計を支えることが出来、「貧しさ」を「貧しさ」として認識することがなかったからである。 戦前的社会に比べて、女性の働く場所が圧倒的に増えたために、贅沢をしなければ何とかなるという暮らしに「緊張感」も「慎ましさ」も生まれるはずがなかった。
また、女性の大学進学率も男性とほとんど変わりがなく、就労意欲も高いから、ダブルインカムになるという家の割合も高くなった。高級車をのぞまなければ、車の一台も持てる暮らしが可能なのだ。
いよいよ困窮しても、 国の金庫に金がある限り、最終的には救われるという制度上の保障もある。
その昔は「貧しさ」とは「死」に直結するものであった。したがって、それと対峙する覚悟が必要だった。その覚悟は暮らしを立てる「構え」と「思想」を生んだ。
幸田露伴は、娘の文に対して「横隔膜を下げてやれ」(調息)あるいは「脊梁骨(せきりょうこつ)を提起しろ」(調身=腰の上に脊柱を真っ直ぐにたて、首と頭をその上に置く。)という言葉を口癖のようにいったと関川が「家族の昭和」で書いている。それは文字通り、身体の動きを表しているが、露伴の真意は他にあった。それが「物事の道理に従う」姿勢であり、女として身につけるべき「美」と「爽やかさ」につながる態度だというのである。「貧しさ」は自分で引き受けるものであり、「生活保護」は恥ずかしいものだと思ったのはそのようにして磨かれた「思想」の故であった。
しかし、それも昭和の終焉とともに滅んだ。生活意識(生活インフラも)も女性の立場も、過去とは大きく様変わりし、もはや「戦前」に戻ることなど出来ない相談なのである。
しかし、「生活の緊張感と慎ましさ」は「貧しさ」の意識からではなく、意外な方向から再認識を迫られることになる。
それはまず、湾岸戦争によってもたらされた。
自衛隊を派遣しないと決めたことはさておいて、この時日本に「軍事評論家」なるものが存在していたことがTVによってはじめて明らかになったのである。すでに「平和」は脅かされていたのであった。
韓国や中国の民主化が進行し、これらの国々が戦時中の旧日本軍の行為に抗議の声を上げはじめたのもこのころだ。南京事件にしても従軍慰安婦問題にしても根拠が薄弱な事案だったにもかかわらず、隣国が敵対する態度をとったことにただただ驚いて、平和ボケした頭ではうまく対応できなかったのである。
また同じ頃、ニューヨークのワールドトレードセンター地下駐車場が爆破され、アメリカとアラブ=イスラム社会の対立が深刻であることがあきらかになる。この対立はやがて、2001年9月、WTCの崩壊をきっかけにアフガン攻撃、イラク戦争へと発展していく。
この過程で、日本が認識したことは「世界は多様であり、風土や宗教はもちろんだが、経済の発展段階もまた多様である」ということであった。
たとえばペシャワール会の中村医師は、アフガニスタンに民主的選挙を導入しようとしたとき、苦笑して、「この国は日本の歴史でいえば、室町時代ぐらいの段階だ。」といった。昨日までいくつかの軍閥が跋扈して争っていた国である。「選挙?それは食ったらうまいものか?」と住民に聞かれたというのである。
我が国において明治維新前夜、植民地主義の欧米に出会った時と同じような環境の変化が訪れていたにもかかわらず、例えば露伴に見られるような、生活思想を新しく作り直す萌芽はまだ見えていない。
しかし、家とは何か、家族とは何かということは、それが崩壊しているという不安によって絶えず気になるものであった。
劇評「まほろば」(2008年10月31日アップ)から引用する。
「『…の事件で直感的に感じたのは、エディプス三角形の話。資本主義の解体はエディプス三角形の崩壊から始まっているということ。
精神分析でよく出てくる話なんですが、母親と子供の間に父親が文化・社会の代表者として入ってきて、母親と子が密室的に結びつくのを禁じる。そして、密室から外に出された子供に対して、父親は自分のようにならなきゃいけないとモデルとして振る舞うという…
このエディプス三角形は、資本主義が核家族を中心として成り立っているという話とうまく結びつくんですね。つまり、核家族は労働力を再生産する場であると。勤め人男が結婚して子供を作って、その子供がまた新しい労働力になっていく。で、これはドゥルーズ=ガタリがいってたことですが、エディプス三角形が”再生産・生殖”という目標を達成し、資本主義がある一定の段階に進むと、自己崩壊を起こしていくんです。
高度成長期には、まず父親が追いつき追い越せだったし、子供も父親にならって追いつけ追い越せでやっていけた。でも、高度成長が終わったら、そういう追いつけ追い越せは当然止まるはずなんですね。後期資本主義になったら、それ以上の富の拡大は起こらないし、人間がもっと楽になっていくこともあり得ない。
高度成長期には、父親より息子の方が豊かになるのもあり得たけれど、もう天井に達してしまったし、金持ちっていっても、そんなにたいしたことがないのが見えてしまう。目指すモデルがなくなると、エディプス三角形の再生産は基本的には崩れていくんです。』(「前略仲正先生ご相談があります」=2007年イプシロン出版企画、『ダ・カーポ』に連載された記事をまとめたもの)から引用」
この時期、ここに引用されているドゥルーズ=ガタリをはじめとするポストモダンの思想家たちの影響を受けた我が国の言論人たちは、こうした愚劣でどうでもいいような言説に惑わされて、何一つ有効な提案をしてこなかった。
「鳥瞰図」「おどくみ」「まほろば」「パーマ屋スミレ」などとここ一年ほどの演目を並べてみると、 新国立劇場が「家族」にこだわっていると、この劇評を書きだしたのだが、こだわったに見える演劇人もまた果たして有効な問題提起をしてきただろうか?
鄭義信の「パーマ屋スミレ」とその前作「焼き肉ドラゴン」は、その出来具合を称揚するのはいいが、その内実には「『懐かしむこと=回想』が必要だという脅迫的なイデオロギーが潜んでいることを誰も指摘しなかったことは演劇にとって不健康なことであった。そこには、絶対に帰れないという意味の、感傷が生み出した「架空」の過去があるのみでいわば『家族の平成』は何一つ見えていなかった。
「鳥瞰図」「おどくみ」は家族と「いま」を写し取ったとはいえ、接写レンズで見たそれであった。回りの景色は写りこんでおらず、それがいつの時代とも見えないと言う意味では、やはり『家族の平成』が描かれたとは言い難いのである。
この中では「まほろば」が「女の時代とその役割」を予感させるという意味で同時代性を持つという評価が出来る作品であろう。
しかし、それよりも2008年シーズンの作品、前田司郎の「混じり合うこと、消えること」( )が、2010年に唯一再演されなかったのは、きわめて不当な扱いであったことを指摘したい。
これは、前田が、直感でエピソードを並べたために、必ずしも論理的に組み上げられてはいないが、家族というものの「いま」と構造を表現しようと試みたものとして高く評価されるべき作品である。
抽象性の高い作品はなかなか理解が得られないものだが、作家が考えたことをなるべく多くの観客が追体験できるように構成しなおして再び提示することが出来ればと提案しておく。
さて、2011年3月11日、僕は横浜市戸塚の小高い丘にいた。強い揺れが長くつづいたために、東京の自宅の本棚が倒れ、食器が割れて散乱するさまを想像して暗澹たる気持ちになった。
しかし、同じ頃、東北の太平洋岸を津波が襲い、福島の原発が総電源喪失=メルトダウン、ベントによる放射性物質の放出という事態を迎えていた。
これによって「生活の緊張感と慎ましさ」はいよいよ決定的になった。
民主主義によって運営されていたはずの政府も官僚も政治家も、事業者もありとあらゆる組織が実は完全な制度疲労を起こしていて、使い物にならないことが露呈してしまったのである。
しかも、復興への長い道が待っており、原発事故の果てしない後始末が待っている。
150年前に、近代化を迫られた我が邦が、いまになって再度ほんとうの意味の近代化を迫られたのだ。
ポストモダンにとらわれていた学者や若者たちは今度こそそれを捨てなければならなくなった。
東浩紀は「一般意志2.0」(2011年11月、講談社)を書いてジャン・ジャック・ルソーの思想を参照した。
大沢真幸は、「夢よりも深い覚醒へ」(2012年、岩波新書)で、3.11以後の思想的覚悟について言及した。
「家族の絆」が人々の口の端に登るようになった。
我が邦は、中江兆民がいたあの時代にかえって、もう一度近代をやり直ししなければならなくなった。家族もまた新しくやり直すのである。
しかし、あの時代と比べるとすっかり景色は変わってしまった。
やり直すには、何が変わったのか確かめることからはじめるしかない。
では何が変わったのか?
それは、「女」である。女の立場も役割もきわめて大きく変わってしまっている。その位置決めからはじめなければ、なにもはじまらないと、いま直感的に僕はそう思う。