<%@LANGUAGE="JAVASCRIPT" CODEPAGE="932"%> 新私の演劇時評
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「漂流物」

シアタートップスに足を運んだのは01年10月以来六年ぶりだった。この劇場はビルの四階にある。場所は紀伊国屋書店の裏で申し分ないが、狭いのが難点。大昔、出来立てのころ何の芝居か忘れてしまったが、座布団に坐らされてぎゅうぎゅう詰めにあったことを微かに覚えている。今回は半分を階段状の客席にして、半分は奥まで三尺ほど高く舞台を作った。両側は金属の穴の空いた床板で、人ひとり通れるくらいの通路を作って奥に続いている。その中に、何と砂をたっぷりと入れた。砂浜と見立てた奥には葦簀張りの粗末な「海の家」がある。「氷」の旗やカラフルな浮輪、網やバケツの類い、中が見える冷蔵庫にアイス用の冷凍庫、上手にはがらくたが並べてある棚とその下にワゴン車から外してきたようなベンチが置いてある。磯田ヒロシの舞台装置は徹底したリアリズムだ。こう言う金をかけていない俄作りの「海の家」は日本中の夏の海岸でよく見かけるものである。下手手前には拾ってきたプラスティックゴミや瓶缶の類いが溜っている。
ウザキ(奥村洋治)という男が慌てた様子で入ってくる。クーラーボックスと道具入れのバッグを肩から提げ、手に釣り竿を持っている。海岸に見たこともない動物が血を流して倒れているというのだ。「海の家」の経営者、コウノ(重籐良紹)がネコ(工事現場で使う一輪車)をとりだして運んでこようというと、そんなものでは間に合わないくらい大きなものだという。この動物の「死骸」のようなものが、あった場所からテトラポットの間に移動していたり、殴ったと思われる血のついた角材が見つかったり、何ものかはっきりしないまま、不気味な「不安」を終幕までただよわせている。
この海岸は、近くにダイビングスポットがいくつかあってにぎわっていたが、赤土が流れ込んでダメになってしまった。それにつれて海水浴に訪れる客もいなくなり、すっかり寂れている。コウノは妻とともにダイビングのインストラクターをやっていたが、妻は一年前、海の事故でなくなった。明日はその命日に当たる。
そのダイビングショップをやっているのが、タチバナ(高久慶太郎)で、海がダメになったために店がたち行かなくなった。コウノに払うべき報酬も滞っている。それですこぶる荒れているのだが、他にも荒れる理由があった。タチバナの妻、カナコ(関谷美香子)は、その機会に夫と別れて町を離れようとしている。カナコはコウノのところにやってきて、一緒に行かないかと誘うのだがコウノは応じない。コウノには高校生の娘、マユミ(佐藤万里子)がいて、カナコを嫌っている。母親の生前にもカナコがコウノを誘惑する気配を察していたのかもしれない。
コウノは、海岸に流れ着いたゴミを集めている。その中から使えそうなものを選って、洗ったり修理したりして店先に並べている。ラジカセがいくつか棚に載っているが果たしてまともに音が出るのか?そんなことよりも、拾い集めてため込む方の趣味があるのではないかと皆が疑っている。昨今、全国至るところにゴミ屋敷はあるらしいが、あのモノに異常に執着するところには精神的な病としか言いようのないものを感じる。一方で、コウノの態度には、使えるものを簡単に棄てるという文明批判がある。それが自ずと環境汚染をまねくと指摘していて、三井快は漂着ゴミの中に複合的な問題を込めようとする。
海の家に若い男(安田惣一)が自転車を引いて現れる。どこか遠くからやってきたらしい。大柄で坊主刈り、黒いズボンに白いシャツ姿は、高校生であろう。海岸の景色のいい場所へ行きたいといっている。ちょうど、コウノの娘マユミが海の家へやってきていて、その場所を知っていた。この男イノウエは、カップ麺で腹ごしらえをするとあまり人が行かないというその場所目指して出て行く。
コウノは、妻の一周忌の明日、灯籠舟を海に流すとマユミと約束していた。灯籠舟はコウノの手作りである。この仕上げをしているところに、カナコを探してタチバナがやってくる。彼はコウノに、妻が亡くなったいきさつに疑いを持っているという。僅か三十分しか持たないボンベで潜るはずはないというのである。コウノとカナコが示し合わせて殺したのではないかと疑っているのだ。しかし、コウノの説明によると、助けようとする彼の前で妻は手を振りながら水底へ遠ざかっていったというのである。何故だったのだろう。自殺する理由は見あたらない。コウノはひとり取り残された気分である。
夕方暗くなって若い男イノウエが自転車を引いて戻ってきた。パンクしたという。手には拾ったらしい金属バットを持っていた。イノウエは野球の素振りを始める。それを見ていたコウノは、イノウエが本格的に野球をやっているらしいことに気がついて尋ねると、果たして高校球児であった。素振りを繰り返すイノウエの顔になにか憎悪のようなものが現れ、掛け声も次第に高くなっていく。イノウエはなにか追いつめられたように苛立っている。自転車はもう直らないからゴミとして棄てていくという。コウノはそう簡単に棄ててはいけないと修理道具を探すが、荷台から外したスポーツバッグの中身をみてたじろぐ。そこには砂がたっぷりと入っていたのだ。ぶんぶん振り回される金属バットに殺意がよぎる表情、舞台は異様な狂気をはらんで緊張感が高まっていく。真夜中、二人が寝ているところにいなくなったカナコを探して狂ったようなタチバナが現れるのも恐ろしい場面である。
朝、何事もなかったようにイノウエはどこかに立ち去っていく。今日はコウノの妻の一周忌で、灯籠舟を流す日だ。開幕の時と同じように、クーラーボックスを肩に提げたウザキが現れる。末期ガンで意識のない妻に付き添って寝不足である。ウザキによると、あの高校生は、ここから数十キロ先の町で、母親を殴り殺して逃げてきたのだという。コウノが見回すと金属バットは置いたままだった。・・・・・・コウノは、金属バットを構えると何回も、何回も力いっぱい素振りを繰り返す。なにかを振り払うように。
「場」のつなぎに音楽が入る。これが甲高い電気的な音のボーカル(ラップではない)で、比較的物静かに進行する物語と合わない。音楽担当の黒澤靖博の趣味かもしれないが、一体何が起ころうとしているのだという観客の興味にこれでは水を差すようなものだ。なにか景気付けに次の「場」へつないでいくならこの音楽でもいいが、暴力の匂いと殺気がただよう緊張した場面には適当ではない。違和感だけが残った。古城十忍がこの音楽を許容したのは意外であった。書き手の感度がいいだけに再考を願いたい。
さて、この劇はディテールの書き込みはまだ大雑把のところはあったが、作家なりの感性で時代をスケッチしようとしていて、風景を捉える勘所は的確だった。第一に、砂浜という設定が効いている。登場人物は、それぞれが互いに何を考えているのか分かっていない。言葉も意志も一方通行である。足場が砂で常に安定しないように、心の底に自分のアイデンティティ・クライシスを抱えている。つまり人間関係はばらばらですぐに崩れる砂のようなものである。
コウノは自分の妻が、何故助けようとしたのを拒否したのか、ということの回答を求めて自問している。おそらく海中にゆらゆらとただよっている妻の遺体を見ながら、ひょっとしたら自分の生も無意味なのだといわれている思いで、途方に暮れていたかもしれない。娘のまゆみは母親の一周忌に灯籠舟を流すことにこだわっていて、何故かそれが終ったらこの町を出て行こうと決心している。皆なにかに苛立って、今いるところから離れようとしている。それは、少し浮ついたところが見えるカナコも同じである。
逆に高校生のイノウエは母親を殺して、その場から離れてきた。親殺しの事例は枚挙にいとまが無いくらいだが、直近で思い出すのが、母親を殺してその頭部をバッグに入れて持ったまま自首した高校生のことだ。勉強のことをやかましく言ったというのが表に出ている理由だが、実際にはどうなのか?世間では「彼の心の闇に何があったか?」とか言う気の利いた言葉で、「なにか」が存在したようなことを匂わせるが、そもそもその闇とやらに、なにもないことを薄々気がついていながら、なにもなかったら困ると思っているのである。つまり、人間は、何の理由もなく一瞬の衝動で肉親だろうが誰だろうが殺すようになった。いや、もともとそうだったかどうかは分からない。何れにせよイノウエの心をのぞいたところで出てくるのは単なるのっぺらぼうであるかもしれない。
アルベール・カミュの「異邦人」は、何故自分は見知らぬ男を殺したのかをその心の闇とやらに向かって問い詰める。答えは「太陽のせい」であった。作家の筆はイノウエの内面をここまで追求していないが、もはや不条理が、我々の日常であることを示唆しているのである。イノウエは海に身を投げたことになっている。しかしこの自殺と、母親殺しは直接関係があるのだろうか。どちらにしても、イノウエにとってそれから先の人生はおそらく無意味だったのだ。「漂流物」と言うタイトルはこうした「情況」を端的に表現している。流れ着くものはいわば文明の作った塵芥である。人間もまた、居場所を失って漂流している。文明によって塵芥の類いになった人間が漂流している。どこに流れ着くのか分からないという現代人の不気味な浮遊感を表現したと言う点だけでもこの戯曲は、十分に評価に値する。
先に書いた「大雑把なところ」について、少し気がついたことを言うと、まず、灯籠舟である。あれは、妻の一周忌を機会に気持ちの整理を付けられるのではないかとコウノも娘も思っている、という点で、劇にとって重要な要素なのは分かる。その割に灯籠舟自体がちゃちである。灯籠舟を海に流すというのは少なからずあることかも知れないが、僅か三十センチの長さではすぐにでも波にのまれるだろう。下に穴が開いたら沈むとかいう問題ではない。「流れる」ことが重要なのだから、近所の川に流すといった方が違和感はなかった。
それから、砂浜とダイビングスポットと赤土の関係がはっきりしない。ダイビングスポットは普通岩場にある。赤土はその岩場に工事とか地震などの自然災害によって陸地の土が流れ込んでできる。この位置関係と因果関係がクリアに示されないとそもそも劇が絵空事になってしまう。
人物もそれぞれ描き切れていないところがあったが、とりわけ最初に登場するウザキについてはもう少し劇に参加させてもよかった。集中治療室で意識のない妻を看病して徹夜したという割には釣り竿を下げてのこのこ浜まで来るとはどういう料簡だ。少し便宜的に使ったという気がする。娘のマユミについても、父親との関係がもう少しはっきりしてもよかった。あのマユミの不満げな作り方は、古城十忍の工夫だろうが、あれでも何故?という疑問は残った。
三井快の若さがでてしまったといえる。
終幕近くで、コウノの後ろに返り血を浴びたイノウエの幻影が現れ、横切っていく場面を作ったのは、効果的だった。こう言うところが過剰にならないというのは才能である。しかも、我々の背後にいつイノウエが現れるかもしれない、そういう時代を生きているのだという警告とも、嘆息ともつかない、やり切れなさが伝わってくるのである。

僕は最前列で見たが、なんどもなんども目の前で金属バットを思いっきり振り回されるものだから、あれが飛んでくるかもしれないと気が気ではなかった。

 

 

題名:

漂流物 

観劇日:

07/7/20 

劇場:

シアタートップス

主催:

一跡二跳

期間:

2007年7月20日〜29日

作:

三井快 

演出:

古城十忍

美術:

礒田ヒロシ

照明:

磯野眞也

衣装:

音楽・音響:

黒澤靖博

出演者:

奥村洋治  関谷美香子 重藤良紹 高久慶太郎  佐藤万里子     安田惣一

 

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