題名: |
評決 |
観劇日: |
06/2/15 |
劇場: |
紀伊国屋ホール |
主催: |
青年座 |
期間: |
2006年2月11日〜2月19日 |
作: |
}国弘威雄・斉藤珠緒 |
演出: |
鈴木完一郎 |
美術: |
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照明: |
中川隆一 |
衣装: |
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音楽・音響: |
高橋巌 |
出演者: |
那須佐代子 山野史人 大家仁志 井上智之 青木鉄仁 増富信孝 蟹江一平 山口晃 永幡洋 嶋崎伸夫 川上英四郎 若林久弥 平尾仁 堀部隆一 長克巳 豊田茂 |
「評決」ー昭和三年の陪審裁判 (NTV水曜グランドロマン「帝都の夜明け」から)
下手の端にライトが当たると一人の老人が浮かび上がる。腰が曲がりくたびれている様子で、もごもご何か言っている。「近ごろ日本では裁判員制度が始まるとかいっているようだが、実は昭和三年から十八年まで我が国では陪審員制度があった。その間およそ五百件の陪審員裁判が行われたことはあまり知られていない。ワシは昭和三年、その日本最初の陪審員を経験したものだ。当時は日本が先進国であることを証明するために裁判に市民が参加することが必要だと考えたのだな。しかし、どうしたらいいのか皆戸惑ったものだ。」おおよそそんな口上があって、舞台に明かりが入るとそこはあの時代の法廷である。
この老人・高井(大家仁志)は当時化粧品外交員だが、昭和三年の自分からときどき現代である舞台袖に現れて、状況の解説などを行う狂言回しでもある。よぼよぼで、もごもごの具合が作り物のようで、今どきの高校生でもこんな爺さんはやらない、なんて下手っピいな役者だと鼻白む思いがした。しかし、大家仁志ともあろうものがこれは何かおかしいと思って考えてみたら同情するところがないわけもなかった。
高井老人が昭和三年に一人前の大人になっているとしたら生まれたのは1900年前後だろう。するとどう考えても現在百歳を超えていることになる。なるほど、いくら名優大家仁志でも、百歳を超えた老人を表現するのはやりにくかろう。
初演は平成二年だった。このときは90歳くらいだからまだリアリティはあったと思うが、こういう設定で「裁判員制度が始まりそうだ。」などと現代の観客に向かって啓蒙的なことをいうのはもう無理がある。作家はともかく演出家がこういうところに矛盾を感じないのは変な感性というべきだ。狂言回しだからどんなふうにも変更可能だと思うがこうぬけぬけとやられると僕のほうが変かと思ってしまいそうだ。テレビの本から舞台用に直したものと推察されるが、こういうところを見逃しているのは本筋が面白いだけに残念なことだ。
物語は、陪審員制度が初めて実行される刑事裁判に陪審員として召喚された男たちの戸惑いと反目、自分たちに課せられた役割を自覚して真実を追究する姿を描いている。ちょうど名作映画の「十二人の怒れる男たち」のような話しで、必ずしもオリジナリティは感じないが、裁判劇としての面白さはあった。
被告は吉田静子二十七歳(那須佐代子)、放火殺人罪に問われている。有罪なら極刑もありうる。飲んだくれの夫と姑にいじめぬかれて、それに同情した働き先の男が好きになり関係を結んだ。しかし、考え直して家へ戻る決心をする。事件は旅館で別れ話をして帰った当日に起こった。静子が普段使っている揮発油の瓶が空になっていて、それをまいて火をつけたことになっている。逃げ遅れた二人が煙に巻かれたなくなった。静子は否認している。ただ、状況が極めて不利ということは分かっているようだ。
陪審員は東京周辺から無作為に選ばれた十二人で、職業も年齢も千差万別、ただしこの時代女はいない。退役軍人(増富信孝)、踊りの師匠(若林久弥)、銀行員(蟹江一平)、古物商(山口晃)に呉服商(永幡洋)、関西弁の映画撮影所長(嶋崎伸夫)、円タク運転手(青木鉄仁)、近郊の百姓)(川上英四郎)、そば屋(井上智之)に床屋(平尾仁)に写真館(山野史人)、なかなかありそうな組み合わせでリアリティがある。<br>
何しろ初めてのことだから皆要領が分からない。忙しいのに呼び出されて不満たらたらである。半分くらいの人間は一刻も早く切り上げて仕事に戻りたいのが本音で、被告の有罪無罪にたいした関心はない。あの女は強情そうに見えるからやったに違いないとか不倫するような女はけしからんとか、このあたりは映画でも描かれた通りの展開である。
彼らの会話を通して事件のあらましが次第に明らかになってくる。
あの日静子が家に帰ってくる途中近所で警官に話しかけられている。その時は変わった様子はなかったという。そんなことがあった直後に犯罪を起こすことなど出来るだろうか?あるいは、このところその界隈で放火が相次いでいたことから、一連の事件の犯人がたまたま静子の家を狙ったのではないか?また、男と別れ話をしているくらいだから、なにも夫を殺す必要などないではないか。などというのが無罪と考えるものの根拠であった。
やったに違いないというものは、まず自白がある、揮発油の瓶という証拠があるではないかという。あるいは火をつけたというマッチがそばの公園のごみ箱から発見されているではないかなどと主張する。マッチは、夜半に雨が降ったあと翌日になって警察が見つけたもので、幸い雑誌の下になっていたから濡れないで済んだということだった。
自白の話になると猛然と運転手が反論を始める。身体に残った傷を見せて、これが警察のやり方だ。学生時代左翼の友人と付き合っていただけで捕まえられ自白を強要されたというのだ。運転手が大学出だと聴いて一同驚きを隠せない。吉田静子も拷問の末に自白させられた可能性があるという言い分には説得力があったようだ。<br>
議論が対決して煮詰まってきたので決を採ると曖昧な態度のものもいるが結局五分五分で話は振り出しに戻る。そうしてとうとう一日が終わり、誰も望まなかった泊まり込みになってしまうのだった。
床屋の女房は産気づいておりそれが気掛かりである。撮影所も進行させなければならない。夜はそれぞれの素性を明かし話し込むものもいる。
翌日はまた同じような議論で有罪無罪多少の入れ替えはあったものの五分五分で膠着状態である。しかし、さまざまの状況証拠や事情について理解は深まったようで、ひとりの人間の運命を左右する立場にいることがそれぞれ認識し始めたようである。
このあたりのまじめな書き振りは、作者の国弘威雄・斉藤珠緒が法曹関係者ではないかと思わせる。まもなく裁判員制度が導入されるから、この芝居は啓蒙的な役割を果たせるだろう。最後に決定的な証拠を発見して人一人の命を救うという崇高で英雄的な行為が待っているのだから、ここは一つ俺もやってみるかという気にさせるに十分である。
さて、膠着したまま疲れ始めた頃に突然会議室は停電する。真っ暗になってロウソクが運び込まれるが、その一つにマッチで火をつけようとするとこれがなかなか着かない。そこで誰かが叫んだ。「これはひょっとしたら・・・」
そこからの展開は、一編の探偵小説みたようななかなか胸のすくような大団円を迎える。
やれやれいい結論にたどり着いたものだと思ったが、これはどうもご都合主義だなあという思いももった。
つまり、実にいいタイミングで会議室は停電したのである。昭和三年の電力事情がどうだったか知る由もないが、戦後十年くらいは嵐でもないのにときどきあったのは経験している。だからないわけじゃないが、こう都合よく停電するととても気になるのだ。
だから作者が法曹関係者ではないかという気がしたのだが、それというのもなにぶんひねくれ者の小説家や劇作家というものはこうした場合いくつかの伏線を張巡らしておくものだからだ。たとえば、開幕直後に台風が来るらしいと言うせりふを入れておくとか、近ごろやたらに停電が多いとだれかにいわせるとか、近郊の百姓に送電線工事の話をさりげなくさせるとか、方法はいくらでもあったはずだ。昭和三年のこの日の天候について史実はどうだったかまで調べるものはないだろう。いや法律家だったら案外調査するものか?
というわけで、全体としては群像劇であり裁判劇であり史実に基づいた面白い芝居であったが、この停電の場の処理は、狂言回しの老人の存在とともに修繕すべき瑕疵になっていると思う。
群像だから役者については特に目立った存在はなかったが、山口晃の古物商がおかしかった。彼が一貫して有罪を主張していたのは、女の不倫は許せないと憤慨しているのだが、どうも自分の妻君のことを念頭に置いているらしいのだ。これがときどき感情的に声を張り上げるものだから、かえってこれは裁判なんだという意識を呼び覚ます効果があった。彼の怒りは日常化しているらしく、カーテンコールでもあごをしゃくって笑みはなかった。
裁判長(堀部隆一)検事(長克巳)弁護人(豊田茂)に活躍の場がほとんどなかったのも心残りだった。
この間テレビで三谷幸喜の「十二人の優しい日本人」の生中継があった。あのどたばた劇に比べれば、こちらのほうがはるかに上質でまじめである。