題名:

怒りをこめてふり返れ        

観劇日:

04/11/5       

劇場:

紀伊国屋ホール   

主催:

地人会   

期間:

2004年11月2日〜13日      

作:

ジョン・オズボーン        

翻訳:

木村 光一       

演出:

木村 光一           

美術:

島 次郎            

照明:

沢田 祐二             

衣装:

渡辺 園子           

音楽:

斉藤 美佐男
出演者:
高橋 和也 神野 三鈴
今井 朋彦 岡 寛恵 
有川 博

 

「怒りをこめてふり返れ」


第一幕第一場を見ているうちにひどく不愉快な気分になった。ジミー・ポーター(高橋和也)の心の底にある「Anger」が英国の50年代という背景と階級社会にあることは理解できても、すさまじい他者への攻撃、罵詈雑言にはあきれるしかない。妻のアリソン(神野三鈴)に対する執拗で苛むような口撃はもちろん、ジミーの雑貨屋を手伝うクリス・ルイス(今井朋彦)に対しての情け容赦のない悪口も、日本の常識では、ここまで言われたら一緒にいる必要はない、いや、人によっては既にキレていると思う程のすさまじさであった。勿論キレてては話にならない。しかし見ていてこんな男はいらないと思ったのは確かだ。
ロンドンに近い町の大きな家の屋根裏部屋にジミーとアリソンのポーター夫妻は住んでいる。結婚して四年ほどになるが二人はまだ若い。ジミーは友人の母親に出資してもらって雑貨屋を営んでいる。そこで働くのがクリス・ルイスで彼もまた同じ建物の階下の部屋に住んでいるが食事も洗濯もアリソンに頼り切りで、ほとんどこの屋根裏部屋に入り浸っている。
舞台一杯の住まいは屋根裏らしく太い柱があり中央から鋭角的に傾斜した天井が閉塞感を感じさせる。下手に僅かに開いた窓があるばかりで暗く空気もよどんで湿っている。島次郎の装置はリアルである。野獣のように吠えたてる若者とその犠牲者をこの逃げ場のない檻のような空間にうまく閉じこめた。
幕が開くと、アリソンは部屋の中央でアイロンがけをしている。その前でソファにかけて新聞を読んでいるジミイとクリスが いる。この光景は第二幕で登場人物を替えて再び目にすることになる。
ジミイが新聞の記事のくだらなさをあげつらい、クリスから新聞を取り上げてさらに自分で読もうとするところからこずきあいやじゃれあいが始まる。おそらく仲はいいのだろう。そしてジミイの口から日曜の退屈さに始まり世間に対する不平不満が速射砲のように吐き出される。
この男は苦労をして大学を出ている。裕福な家庭に育ったわけではないが一応学問がある。したがって、その言い分には根拠があると考えていい。人の気分を苛むような長広舌を聞いているとその不満の矛先はイギリスの状況と階級社会に向かっているように思える。
日本にいる経済ジャーナリスト、ピーター・タスカが97年に「不機嫌の時代」という本を書いた。長期低迷の気分を言い当てていて、内容はともかくタイトルが大いに気に入った。(本人はいつでも陰気な顔立ちで損しているが。)この劇を観ながら50年代の英国はまさにこの「不機嫌の時代」だったに違いないと思っていた。第二次大戦後のインフレ、不景気失業など経済的な苦境に加えて植民地が次々に独立し英国の威信は地に落ちていた。そしてまたこの時期、冷戦構造、原子爆弾の脅威が人々の上に暗い影を落とし世界は無力感に蔽われている。「30年代、40年代の若者たちはいい。いま我々には命をかけて守るべき英国のどんな大義もない。」栄光の時代に後れてきた青年であるジミイは自らをこう嘆くのである。
そして、このような行き詰まった状況を打開しようとしない政治家やジャーナリスト、経済人、ひいては英国の指導層である上流階級に対する不満もまた怒りの火種となっている。これは、妻アリソンの出自がハイソサエティであることによって、幾重にもねじれた心理状態を作りだし、時には寛容なアリスンを傷つけてしまうことがある。アイロンをかけながら、いつもの夫の悪口と、聞き流しているアリスンが痛々しい。
しかし、ジミイはクリスが席を外したすきに彼女を抱きしめ、出会ったころの思いで話をし、愛していると言いながらキスをする姿をみれば、ジミイの態度は要するにいきり立って駄々をこねている子どもに過ぎない。たった一人うまが合う友人クリスとふざけあい、即席の寸劇と踊りを見せてアリソンを楽しませることもあった。アリソンは「あの人はフランス革命の時代に生まれればよかったのよ。」とクリスにいい、ジミイの苦悩と不満をよく理解しているところを見せたりする。
ある日アリスンの友人で女優のヘレナ・チャールズ(岡寛惠)から公演のついでに寄るという連絡がある。やって来たヘレナはジミイの荒れ狂った態度に驚き元気のないアリスンの身を案じる。実はアリスンは初めての子を身ごもっていたがジミイがどう反応するか不安で打ち明けられなかったのだ。ヘレナはこの町でオーディションがあるといってしばらく滞在することにした。
ヘレナと言う闖入者によってますますジミイはかきたてられる。
ヘレナの前で自分達の結婚をアリソンの両親が反対したことについてしつこく言及する事によって階級的な対立と不満をぶちまけようとする。
ジミイは戦後ガンジーのインドから帰還したアリソンの父親をエドワード時代の荒野にたつ枯れ木と称して揶揄する。母親については淫売呼ばわりし、結婚にもはや反対できないことを知ると怒り狂って「陣痛の犀みたいに吠えやがった。」と侮辱して止まない。
妊娠して不安定だったアリソンの心は限界に来ていた。
そうしたある夜、雑貨屋に出資してくれた友人の母親が脳溢血で倒れたという連絡が入る。ジミイはこの人を敬愛していた。慌ててロンドンに向かうジミイにアリソンはついていこうとしない。
ヘレナはアリソンの父親に電話して迎えに来るよう告げる。翌日車で迎えに来た父親レッドファン大佐(有川博)はいい選択だったと上機嫌である。ところが一緒に帰ると思ったヘレナは残ると言う。挨拶をするクリスに大佐は手をのべようともしない。出がけ、アリソンが熊とリスのぬいぐるみに手をかけそっと置き直すところにアリソンの気持ちがまだそこに残っていることが示されている。
車にひかれそうになったといいながら、親子と入れ違いに帰ってきたジミイはヘレナに向かってアリソンの悪口をいいまくる。我慢して聞いていたヘレナがいきなりジミイの横面をはると彼は一瞬たじろぐが、二人はもみ合いそのうちにソファで抱き合ってキスをする。ヘレナは密かにジミイへの興味を膨らましていたのだ。意外な展開である。
 第二幕第二場、それから数ヶ月たった日曜の夜、幕が開くと中央にヘレナ、ヘレナはアイロンがけをしていてジミイとクリスはソファで新聞を読んでいる。一幕一場と同じ場面だがアリソンがヘレナに入れ替わっている。ジミイは相変わらず世間にたいして悪態をついている。調子が良すぎて苦笑するところだ。
 ジミイが席を外したとき、ヘレナはクリスにここを出ていくという。その言説にも関わらずまるで空虚なジミイに見切りをつけたのだ。
屋根を打つ雨音が激しくなり、英国の寒々とした風景を想像させるこの夜、突然コートを纏ったアリソンが倒れ込むように屋根裏部屋にはいってくる。私の赤ちゃんはどこ?お腹に手をやり、ここにいたのに、とうわごとのようにつぶやいている。子どもを流産したのだ。ジミイは友人の母親の葬儀に花一本も贈ってこないで、なんて冷たい女だなどと攻めるがアリソンには聞こえていない。喪失感が漂流者のようにここに運んだのだ。その姿を見てやがてジミイにも子どもを失ったものの悲しみが伝わる。ソファに倒れ込んだアリソンをいたわるジミイに私の赤ちゃんはどこ?ここにいさえすれば心配ない、大丈夫と思っていたのにと話しかけながら、それが見ているものには「ジミイとの子」なのか「いつもここにいたジミイ」なのか一瞬わからなくなるという仕掛けでこの劇は幕を引くのである。
「お互いの首筋に深く噛みつきながらも、それを離せば出血のために死ぬことを恐れて、噛みつきあったままの愛の姿」だと劇評家ケネス・タイナンは評したようだ。それはそうかもしれないが、何故彼らは噛みつきあう必要があったのか?そもそもジミイは上流階級への復讐のために結婚したのだといっている。「あの階級の女を愛する自分に矛盾を感じながらも、でも美しくかわいい存在として愛したい。彼女も苦しんでいる。」
一体この国の階級意識というのはどうなっているのか?下層階級の不満が階級そのものを解消しようという方向に向かっているとは到底考えられない。それは革命を意味している。では上流階級はその不満をどこまで許容できるのか?英国の階級についてはそれが日常感覚あるいは文化であるゆえに僕ら日本人には理解の行き届かないところである。一幕一場のすさまじい罵詈雑言に嫌気が差したのは事実だが、冷静に考えると特異な恋愛劇であり結局この劇を保守的なエスタブリッシュメントに対する若者のプロテストという構図で理解するほかないのかという気がしている。
こう言う中途半端な気持ちが残るのは高橋和也のジミイが「怒り」の本質をキチンと伝えようとしなかったことに原因がある。それは言うまでもなく「英国における階級」と「英国における不機嫌な時代」の二つの構造を押さえることであった。ジミイはインテリだからその悪態、台詞には根拠がある。少なくともアリソンやクリスには理解してもらおうという気持ちがあるはずだ。それがあれば観客にもただのでまかせの喚きには聞こえなかったはずだと思う。もともと難役だが、高橋が持ちあわせている表現力では荷が重すぎた。
一方神野三鈴のアリソンは、入魂の演技とでも言えばいいのか全力で取り組むこの人のよさが出た舞台だった。「おばかさんの夕食会」で初めて見たときはいかにも女優らしい空気を感じたが少し硬さが目立った。それがこまつ座の芝居に出るようになって俄然変わってきた。演出家に出会ったのであろう。この劇でもおそらく木村光一の指導が行き届いていたこともあったろうが、ドレッサーのあかりをつけるタイミングやアイロンをかけながらの仕草その他たくさんのディテールの表現に見るべきものがあった。無論アリソンも難しい役どころである。しかし、上流階級の明るさ品のよさに加えてさりげない母性の表現が結果的には劇全体の印象をふっくらと優しいものにしてくれて十分責任を果たしたと言える。
脇を固めた今井朋彦と岡寛惠については全く不満はない。二人とも達者だ。レッドファン大佐の有川博、なつかしかった。少し張りきりすぎたか?
「アメリカの娯楽文化は、人を楽しませるためにあるとされながら、人をまんべんなく教育するものがある。それは暴力、流行、生だけでなく成功のための方法や征服の仕方、過去の忘れ方、未来の消し方、そして何よりも反抗しないことを教える。幼児から善良な野蛮人へと教育していく。」
これはアリエル・ドーフマン(この劇評では「線の向こう側」新国立劇場、他に「谷間の女たち」「死と乙女」の作品がある)の言葉だとして木村光一が紹介しているものだ。木村はこれに同意し、現在の日本についてもあてはまるという。そしてさらにこの劇もそれに重なるのではないかといっている。
それにつけても、僕には気になることがある。五十年前の「不機嫌な時代」にはありったけの不平不満、悪口、罵詈雑言を投げつけて「怒り」をあらわにしたものが、我々の「不機嫌な時代」は恐ろしく静かである。「怒り」がないわけでは決してないが、飼いならされたのか誰かが巧妙に管理しているのか、この劇は、声を上げることを思い出させてくれると言う意味もあったのではないかと思わないでもない。  

   (11/12/04)


新国立劇場

Since Jan. 2003