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「犬が西むきゃ尾は東」

いきなり棺桶を乗せたリヤカーが出てきたのには驚いた。だ・る・ま・さ・ん・が・こ・ろ・ん・だと歩数を数えながら男1(小林勝也)がリヤカーを引いて、舞台中央に止まると青いビニールシートを取りだし、前に缶空を置いて座る。例によって別役芝居に欠かせない電信柱、それにバケツ型の大きなごみ箱が脇に一つあるだけのシンプルな舞台。次に「ぼ・ん・さ・ん・が・へ・を・こ・い・た」と数えながら男2(田村勝彦)が現れる。男は前と後ろに「テルゼノンA 健康増進」と書かれた看板をつけている。看板はサンドイッチマンの仕事の名残で、今は失職しているが、外すことが出来ないでいるらしい。「棺桶の中にかみさんがいるのか」「いやどこかその辺をうろついているよ」という奇妙な会話を続けているところへ、パラソルをさした女1(吉野佳子)が車椅子に腰掛けて現れる。車椅子にはごちゃごちゃ生活動具がくくり付けられていて、それを押しているのは男3(角野卓造)である。やはり歩数を数えている。「か・あ・ちゃ・ん・に・に・げ・ら・れ・た」。すると女1が車椅子を降りて、「と・う・ちゃ・ん・が・く・び・つっ・た」、と数え出す。彼らは花見をしようとやってきたといっているが花などどこにもない。しようがないから電柱を見ようといってシートの上に荷物を下ろして、男1が戸惑っているのもかまわずに座り込んでしまう。そこへリュックを背負って紙袋を下げた女2(倉野章子)が、男4(沢田冬樹)を伴って現れる。「じ・い・ちゃ・ん・が・あ・わ・を・ふ・く」、とやはり数えている。「ば・あ・ちゃ・ん・は・の・た・れ・じ・に」、といいながら下手に消える。男4は刑事だと名乗る。窃盗犯の女2を連行しているところだという。このあたりに女2の身元引受人がいるらしいというので連れてきた。看板男、男2が亭主を探しているというならお前だろうと男1にいう。男1はよく覚えていないという態度だが、女房とは四日前に会ったばかりのようだ。
刑事、男4によると「行かずに歩こう会」というものがどこかにあって女2(倉野章子)はそれに入っているのではないかということであった。人間はどこかへ行くためにしか歩けないが、それでは残念だというので、考え出されたらしい。つまり、だるまさんがころんだ、などとやるとどこへ行くともなしに歩けるというのである。最近どこにも行きたくない人が増えているせいで、出来た会らしい。
女2は戻ってきた。早速身元引受人は誰かということになるが、男1(小林勝也)は違うようだが確信は持てない。なにしろ二回結婚したからと言い訳を言う。女2に確かめるとどちらかといえば男3(角野卓造)の方がそれらしいなどとこれも曖昧な応えである。男3はあわてて否定するが、連れ合いらしい女1(吉野佳子)はこの人も二度目だからどうだか分からないという。女2は、自分たちが一緒に暮らしていたのではないかと、記憶を確かめようとするが、男3はそんなことはないと応じる。女2、倉野章子と男3の角野卓造は実際の夫婦である。このとぼけた会話には笑ってしまった。あるいは計算ずくだったのかもしれない。
女2は電球一個を盗んだらしい。たいした罪ではない。身元引受人さえいれば引き渡してもいいのだが、それらしい男1が棺桶を持っているところに目をつけられ、こんどは男1が連行されることになる。すると一同が留置場なら屋根もある、食事も出るだろうというのでみんなでついていこうということになりぞろぞろ警察のある方へ歩き出す。
第一場の話はおおよそこのようなものであった。この芝居の人物、モチーフのほとんどはここに現れている。かつて夫婦であったらしい、といっても何の確信もない二組の老いた男女に、失業して久しい老年の男は、みな目的もなくどこかへ向かって歩いている、というよりはただよっている。目的もなく歩き出すのは骨が折れるから、えいやという意味で掛け声をかける。その掛け声は、だるまさんはころんだという穏やかなものから次第にエスカレートし、母ちゃんに逃げられて、父ちゃんが首を吊ったあるいはじいちゃんは泡を、ふいて、ばあちゃんは野垂れ死にというものだ。棺桶という具体的な「死」を意味するものとこの数合わせの言葉の不幸の極致は、人間の最期、終末を象徴している。実際に首を吊るやら刃物で刺すやら「死」にまつわる出来事が起こるのだが、にもかかわらず、「空には風が吹いていて」(別役芝居の常套句)あっけらかんと世界は乾いている。もはや自分は何ものか記憶が曖昧で、僅かに残ったイメージを頼りになにかを確かめようとするが、確たるものはなにも浮かんでこない。
第三場では、最初に男2(田村)が舞台に現れると古新聞を床に敷いて、その上に、しゃがむと身体がすっぽり隠れるくらいの段ボールを置いて、中に入ってしまう。まもなく煙が上がってくるところをみると煙草を吸いながら野ぐそをしているらしい。そこへ女2が歩いてくる。言い分けがましく男2が「こうして段ボールを持ち上げると尻の下を秋風が通り抜けていく」などと風流なことを言うと、今は秋なのかと女2。目が悪くなっている。野ぐそを責めるが、男2はなにも食っていないからなにもでなかったという。ただ、ここまできて野ぐそがしたくなってしゃがんで見ただけだという。「出したいが出ない。」出るように錯覚したのだろう。これもまた中途半端の極致である。
僅かに空気が動いたと思ったのは、男4が巡礼姿で現れた時だ。行き倒れで亡くなった父の供養のために西に向かって歩いているが、西はどっちかと訪ねるのである。しかし、皆、方角すらももはや分からなくなっている。ただ、西へ向かうという言葉になにか触発されるものを感じたようだ。西方浄土という日本人の古い記憶が刺激されたのかもしれない。どこへ向かうか方向は示されたようだが、しかし西がどちらの方角か分からない。そこで行き止まりであった。
結局、男1は電信柱に縛りつけたロープに首を引っかけて、男2,女1,男3が引っ張るとそのまま亡くなってしまう。女2も刺されて死に、男2も刺されて瀕死の状態でむしろをかけられて横たわっている。葬儀屋の男4が死ぬのを待っているが、なかなか死なない。男2がむしろの下から雪は降っているかと聞く。「いや、まだだ」とかいっている間に溶暗。
この芝居は、「にしむくさむらい」(1977年初演)後日譚というサブタイトルがついている。「にしむく・・・」は小林勝也、角野卓造、田村勝彦、吉野佳子、倉野章子とつまりは同じキャストでちょうど三十年前に上演された。演出も藤原新平で同じである。77年といえば、僕はすでに勤め人になっていて芝居どころではない忙しさだったからむろん見ていない。しかし、後日譚というからには、多少は元の話を知っていなければと思って、読んで見たが、なるほど三十年の時が経ったという実感が湧いた。別役実自身がすでに老年に達している。壮年期のものの考え方とは違うのはあたりまえだが、あまりにも違ってしまった「現代」を極めて的確に捉えているという気がした。比較が可能な後日譚という作り方がそれをわかりやすくしている。77年当時はまだ世間には共通の問題意識が存在し、それに寄り添っていれば意志の疎通はたやすかったが、つまりそれだけ「にしむく・・・」のテーマ性やイメージは社会性を帯びていたはずなのだが、この芝居では夫婦という人間関係(「にしむく・・・」では濃密であった)すら曖昧になり、老いと死もどれほどの意味があるのかと問い掛けているように感じる。
見てもいない「にしむくさむらい」について書くのは気が引けると思っていたら、大笹吉雄による解題が見つかったので、それを参照してもらうことにしよう。
「戯曲としてもこの二作(「あーぶくたった、にいたった」と「にしむくさむらい」)は関連がある。ともに『神』の気配がそこはかとなくただよっていて、ある種の宗教劇だといってもさほど間違ってはいないだろう。「あーぶくたった、にいたった」の大詰めは、雪を降らせて下さいという神への祈りで、それにまるで応える如き、ちらちらと雪が降ってくる。
もっとも、そういうものへの作者の関心はこの時以来だというのではなく、かなり初期から垣間見られた。が、俄然という感じで濃厚になったのがこの二作で、その裏に『救済』という問題が横たわっている。それが作者にとって必然の歩みだったのは、終始一貫、マイノリティの姿を追い続けてきたからに他ならない。
「にしむくさむらい」に出てくるのも、そういう人間だといっていい。常習らしい無断欠勤の二人の夫、それを知っていながら何も言い出せない妻たち、しかも彼らには住む家もなく、あまつさえ一人の女がおぶっている赤ん坊は、栄養失調で死んでいる。その女がおぞましい乞食殺しの装置のロープを切る。乞食は殺されると知りつつも、静かに装置の下に横たわる。
乞食を『キリスト』と見るかどうかはともかく、マイノリティのすべてを引き受け、自らを犠牲にすることによって、新たな『決意』を促す人間を越えた存在であるのは確かだろう。その「死」の向こうに、我々は厳粛ともいえる励ましの声を聞く。」(大笹吉雄「現代日本戯曲体系」第十巻)
これを読むと、「にしむくさむらい」と「犬が西向きゃ尾は東」の違いは明らかである。「神」のような超越的な存在を希求するという気配はこの芝居にはない、むしろ人間の死は、「棺桶」のような身もふたもないようなリアルさで表されている。その死は、なにか犠牲的なものであったり、「救済」に結びつくような意味があったりするものではなく、単に物理的な死にすぎない。「にしむく・・・」の乞食殺しのシーンに該当するのは男1の死であるが、これは何の思い入れもなく、あっけなく死に、葬儀屋が棺桶に入れて持ち去るという実に乾いた表現であった。男1が棺桶を持ち歩いていたのは、自分の死体を入れるためであったと葬儀屋が明かす。別役実は「にしむく・・・」の重要なシーンをこのようにして否定したともいえる。
最後の男2の死にしても、葬儀屋が死ぬのを待っている間に、勤務時間が終るから早く死んでくれと極く普通の調子で冷酷なことを言う。それに対して男2も、「まだだ」と平気である。別役の心境の変化を表すものとして注目すべき点は「雪は降ってきたか」という問いに「雪を降らせなかった」ことである。男2は雪が降ってくることを望んだのかも知れないが、この芝居の空には、ひとひらの雪でも落とせるような水分はなかった。ついに別役実はこの最後のシーンに雪を降らせ「なかった」のであった。
別役はかつて80年代が終る頃から時代のテーマというものが見えにくくなったと発言したことがあった。そして今、この芝居を見ると、一度見失ったと思ったものを作家の目が再び確実に捉えているという感覚が伝わってくる。西を向いた犬が、東である尾の方向を確認するために後ろを向こうとしてそのままくるくる回ってしまうような、めまい、一種滑稽ささえ感じる徒労感である。

俳優も、そろそろ老境に入り、劇にあるような肉体の衰えや記憶の減退を感じていることだろうが、三十年後の後日譚が、こんなにも「救済」のない老後になるとは思ってもいなかっただろう。西方浄土へ流れていくという古い記憶が頭の中にかすかによみがえってくるが、はて、その西の方角はどっちだったか?俳優たちは、まるで地で演じていたのではないかとYはいったが、現実に小林勝也、角野卓造、田村勝彦らの顔には行く先を見失って途方に暮れている様子が表れていた。

 

 

 

題名:

犬が西むきゃ尾は東

観劇日:

07/6/29

劇場:

文学座アトリエ

主催:

文学座

期間:

2007年6月15日〜7月5日

作:

別役実

演出:

藤原新平

美術:

石井強司

照明:

金栄秀

衣装:

宮本宣子

音楽・音響:

原島正治

出演者:

小林勝也 角野卓造 田村勝彦
沢田冬樹 吉野佳子 倉野章子


 

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