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『イワーノフ』『オイデプス王』

鈴木忠志には「劇的な情念を巡って−世界の名作より」と副題の付いた作品がいくつかあるようだ。新国立劇場には「シラノ・ド・ベルジュラク」と合わせて三本同時に見せるという趣向で持ってきた。「シラノ・・・」は中劇場で一週間前に見た。これは小劇場のほうで、休憩を挟んで二本見せるものである。
「イワーノフ」はいわずと知れたチェーホフの戯曲である。とは言えチェーホフが嫌いな僕はストーリーを知らない。勉強もせずに見たから最初、話の展開には少し退屈した。
舞台には丸太のような円柱がいくつか立っていて、その上に籐で編んだ大きなカゴが乗っている。上手寄りの低い円柱の上に一人の女(イワーノフの妻アンナ=斉藤有紀子)が坐って、延々と毛糸を編んでいる。下手奥には大きな机があって、男=イワーノフ(奥野晃士)がなにやら仕事をしている。
原作の物語を要約すると、こういうことのようだ。何故そんな言い方になるかといえば、鈴木忠志の方法論は、この「世界の名作」を一旦彼の中で解体し、再び構成するというやり方で、それが結果として、原作通りになるとは限らないということなのだ。
そんなわけで、とりあえずチェーホフが書いた元の話はこうである。
ロシアの中産階級であるイワーノフは新しい時代の到来を迎え、社会建設の理想に燃えてユダヤ人のアンナと結婚した。それから五年経って結婚も仕事もうまくいかず自分の人生は失敗だったと思い始めていた。借金を抱え、妻は結核で死にかけている。隣人たちはイワーノフの家庭を悪意のある目で眺め、批難したが、若い娘サーシャだけは彼を愛し、密かに結婚を望んでいる。イワーノフは、サーシャに対して新しい人生の希望を託そうとする。
その隣人たちであるが、皆、鼻眼鏡(眼鏡に鼻とヒゲがついている滑稽な扮装用の小道具)をかけて、籐で編んだ篭をまるで胴着のように身にまとい、車椅子に乗って現れる。男たちの足下はひざ下まであらわ、裸足である。足の甲を前につき出し、つま先から、かかとにかけて地に下ろすという独特の足さばきで、ときに一列縦隊に舞台を蛇行する様は異様であり一種おかしみを誘うところでもある。おかしみという意味では、歌謡曲が何度か挿入されるというのも奇妙な感覚である。
円柱の上にある籐の駕籠が音楽とともに動き始め、次第に激しくよじれたかと思うと中から髪飾りも鮮やかな女達が上半身を表す。ちょうど男たちの籐の胴着のように女達の体にも駕籠が巻き付いたような形になる。
また、イワーノフである男は、妻とともに唯一素顔をさらしているのであるが、机の前で苦悩していたかと思うと大きな籐の駕籠から、顔だけを見せる場面もある。
このように、劇は籐の駕籠のイメージが全編を貫いている。それだけでもあっと思わせる不思議な世界を作っているのだが、それはいったい何を意味するのだろうか?少し考えてみた。籐の駕籠は常に身体と結びついている。まといついているといってもいい。ロシアの自然あるいは保守的なロシアの社会、俗悪な世間、いや、そういう具体的なものを越えた、ある種の我々に外から「まとわりつくもの」だったのかもしれない。
また、こうした独特の身体表現は、やはり「能」を意識していると思わせる。足さばきはまさに能のすり足を極端にデフォルメしている。車椅子はその足と上半身を「切り離す」ための道具で、結節点でもある。これは非常にうまい発想で、「能」は足さばきとともに上半身の動きも制御される。そこで、手や頭、胴体での表現を自由にするために、概念的にも実質的にも「切り離し」てしまったのだ。車椅子とは全く恐れ入ってしまった。ただし、表情というものが鈴木忠志にとっては余計なものだったのだろう。「能」における「面」のように鼻眼鏡を付けて役者から表情を消してしまったのである。
次の「オイディプス王」は、「能」における身体性よりも物語表現の手法を意識したものと思われる。
オイディプス王を演じるのはドイツ人の俳優ゲッツ・アルグスで、剃髪したこの異丈夫が車椅子で登場する。舞台に描かれた円形の床をときに回り、ときに直進し、留まり、鈴木メソッドといわれる抑揚をなくした、叫ぶような発声法でドイツ語のせりふを吐く。円形の床の外側を取り囲むように、一尺ほどの高さの丸い台がいくつかおかれている。
オイディプス王が疫病に襲われた国を救おうとアポロンの神託を聞くために、王妃イオカステ(久保庭尚子)の弟クレオン(貴島豪)をデルポイの神殿に遣わすとの口上があり、劇は幕を開ける。
アポロンの神託は、先王ライオスを殺害したものを死罪にするか追放するか、せよというものだった。この探索を命令し、証言するものを次々に舞台に呼ぶというのがこの芝居の構成である。円形の台は呼び出されたものが発言し、舞台にそのまま残るための装置であった。この手法は「能」の出し物でも歌舞伎でもよくある。ただし、オイディプス王と証言者の間に生じている緊張感は、物語を越えた人間と人間のぶつかり合いといった迫力を感じさせるもので、ここの作り方がなんといっても鈴木忠志のオリジナルである。
ティレシアス(蔦森皓祐)が呼ばれ、イオカステ、クレオンが現れる。ライオスを殺したものは果たして何者か?次第に事実が明らかになっていく。実はライオスを殺したのはオイディプス自身であり、オイディプスはライオスの息子であった。しかも母親とは知らずにイオカステを妻にしていたのである。
最後の証言者である羊飼い(加藤雅治)とオイディプスのやり取りは、物語の核心部分である。まるで王と羊飼いの身分など越えた生身の人間同士が命を懸けて渡りあう様であった。
事実を知ったオイディプスは絶望のあまり、自ら両の目をえぐり、あてのない放浪の旅に出る。
二つの芝居のあいだに、舞台装置を変える時間があったために、鈴木忠志自身が舞台に現れ15分ほど話をした。
新国立劇場公演までのいきさつと自身の劇作の考え方についてであった。中でも面白かったのは、自分の演劇は普通とはちょっと違って、演劇が生じる以前のところを考えているという意味のことを言ったくだりである。自分は従来の演劇はさほど好きじゃないとも言った。
柄谷行人が珍しくパンフレットに一文を寄せているのでそこから引用する。
「・・・その後、私はあることに気付いた。鈴木が言う「劇的なるもの」は福田恆存の言葉から来ているのではないか、と。もちろん、彼は「劇的なるもの」を逍遥しているのではなく、批判しているのである。たとえば、『劇的なるものを巡って』では白石加代子が難解な形而上学的な事柄を語りつつ、タクワンをかじる。そして、歌謡曲が流れる。ここでは、言葉と行動は完全に分裂している。この分裂が不可避的である時に、どうして『人間この劇的なるもの』(福田恆存の言葉=筆者)があるうるだろうか?」
福田恆存は、ギリシャ哲学風のいいまわしで、人間とは実に劇的な存在だといったのだが、そんなことをいうなら、こういう劇もあると鈴木は示したのだといっているのである。
「しかし、鈴木がやっていることは、黒沢明が映画でドストエフスキーやシェイクスピアの作品を日本の文脈に置き換えたようなこととは違っている。黒澤においては、シェイクスピアの言葉が日本の文脈=身体に同化されている。ところが鈴木の場合、例えばリア王の娘たちが太い男の声で語る時、そのような同化は否定されてしまう。そこには狂女が難解な形而上学を語りながらタクワンをかじるのと同じように、言葉と行為の分裂がある。ゆえに鈴木の演劇が海外で普遍的に受け入れられるのは、その素材が普遍的だからではなく、また演出が日本的なものとしてエキゾチックに見えるからでもない。もとより、身体が普遍的であるとか、「日本的なもの」が普遍的なものだということでもない。普遍的なものは、そのどちらかにあるのではなく、それらの亀裂にある。そして、それは鈴木が初期から一貫して考えてきた問題なのだ。」
もし福田恆存が言った『人間この劇的なるもの』の批判として鈴木メソッドが生まれたとしたら、鈴木はまさに日本の近代演劇を越えるための方法論を模索したことになる。なぜなら福田恆存こそその越えるべき対象だったからだ。
そこで思い出すのは、永六輔が浅利慶太を『演劇好きの実業家』と評したことだ。それにならって言えば、鈴木忠志はむしろ『演劇好きの思想家』ではなかったかということである。(閑話休題。浅利慶太が戦後まもなく日本共産党から転向したことはあまり知られていないと思うが、つい最近僕は彼の仲間だった人と同席する機会があって、「バリバリだった」ことを聞いて驚いた。)
鈴木忠志が海外での評価も高く利賀でも静岡でも独自の活動を続けてきたのはある意味では奇跡であり不可思議なことでもある。
それについて、柄谷行人のエセーによると鈴木のもう一つの才能が浮かび上がってくる。柄谷は1988年以降鈴木の誘いに従って『季刊思潮』を一緒に出すようになったのだが、それは、鈴木忠志が柄谷行人に『現実にコミットさせたい』意向があってしかけたことだった。
柄谷は「鈴木のおかげで、私は人と一緒に活動することを覚えた。その点で、鈴木は優れた組織者だということをあらためて感じる。」とエセーを結んでいる。
僕は、「シラノ・・・」を見て、ほんとうは理屈抜きで格好のいい胸のすくような劇をやりたいのに痩せ我慢しているのではないかなどと不遜なことを考えた。しかし、三本見てこれはただ事ではないことを知った。この芝居を一緒にやろうと言われたら勘弁してもらいたいが、一本で濃厚な劇空間を味わえるのだから見るだけならこれほどの楽しみはめったにない。
鈴木忠志には、この機会に静岡だけでなく東京で見せることの意味をもう一度ぜひ考えてもらいたい。

題名:

イワーノフ/オイディプス王

観劇日:

06/11/11

劇場:

新国立劇場

主催:

新国立劇場+SAPC 

期間:

2006年11月2日〜11月12日

作:

鈴木忠志 チェーホフ/ソフォクレス
翻訳: 池田健太郎/福田恆存/ヘルダーリン

演出:

鈴木忠志

美術:

山藤徳子/中野真希/深沢襟/小島純真

照明:

寺内敬博/川島幸子

衣装:

塚本かな/満田年水/竹田徹

音楽・音響:

ロジャーレイノルズ 

出演者:

ゲッツ・アルグス  蔦森皓祐 加藤雅治 三島景太 貴島 豪 奥野晃士 藤原栄作 武石守正 植田大介 高橋 等 藤本康宏 竹田 徹 佐東諒一 佐藤嘉太 久保庭尚子 舘野百代 斎藤有紀子 齊藤真紀 高野 綾 内藤千恵子 瀧井美紀 布施安寿香
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