題名:

神と人とのあいだ 第一部 審判

観劇日:

06/4/7

劇場:

紀伊国屋サザンシアター 

主催:

劇団民芸      

期間:

2006年4月7日〜19日 

作:

木下順二  

演出:

宇野重吉・兒玉庸策  

美術:

織田音也     

照明:

秤屋和久      

衣装:

緒方規矩子

音楽・音響:

山本泰敬、岩田直行  

出演者:

今野鶏三 大滝秀治 鈴木 智 里居正美 山本哲也 岩下 浩 梅野泰靖 小杉勇二 水谷貞雄高橋征郎 伊藤孝雄 杉本孝次水谷貞雄 内藤安彦 安田正利高野 大  みやざこ夏穂 武藤兼治 大森民生 塩田泰久          酒井源司
 


神と人とのあいだ 第一部 「審判」

ついこの間夜中に目が覚めてテレビをつけたら、『The Fog of War』という字幕が目に飛び込んできた。ベトナム戦争当事の米国国防長官、ロバート・マクナマラの独白ドキュメンタリーである。以前、マクナマラが、かつて戦った北ベトナムの将軍たちと一つのテーブルを囲みあの戦争を回顧する映像を見たことがあったので、再放送かと思って眺めていた。まだ高校生の頃、四角いマクナマラの顔がTVにでるたびになんという極悪非道の男かといやな思いで見ていたが、かつての敵と冷静に戦争の分析をする姿はその印象を180度変えるものであった。意外にもインテリだったのである。
映画はすぐに「キューバ危機」を映し出した。(したがって、前に見たものとは違うかも知れない。) 彼は、JFKに請われて、国防長官の椅子に座ったばかりだった。五ヶ月前に就任したフォード社の社長は辞めざるを得なかった。そして、いきなり核戦争の現実的な脅威に直接かかわることになったのである。何故自動車屋が戦争の戦略を担当出来るのか不思議だったが、その理由はすぐに分かった。彼は欧州戦線における米軍の戦略立案に深くかかわっていた。UCバークレー校卒業のあとハーバードでMBAを取ったというからマーケティング手法を応用したのだろう。ドイツが片づくと日本との戦争に配属された。老朽化したB−17を退け、新しく開発したB−29爆撃機を大量に投入、インドから中国成都に運んだが燃料効率が悪く、マリワナ諸島に拠点を移すよう進言した。周知のようにそれから日本本土に対する空襲が激しくなったのであるが、彼自身は焼夷弾を大量に落として街を灰燼に帰するだけでなく多くの市民を殺戮するこの作戦には反対だったという。文官である彼はそれがすでに戦争犯罪の疑いを生じさせる行為と考えたのである。しかし上官であるカーティス・ルメイ少将は、早期終戦のためには日本と日本国民を殲滅しなければならないという意見であった。もともと好戦的なこの男は、こちらが「負けたら」自分は戦争犯罪人として告発されると公言する確信犯であった。広島と長崎に原爆投下を指令したのもこの将軍である。キューバ危機の時、ルメイはまだ軍に在籍していて、核をもって先制攻撃すべきだと叫んでいた。マクナマラはこれに耳を貸さず冷静に状況を分析し、ついにフルシチョフから妥協を取り付けることに成功したのである。
当時は、いくら何でも米ソの指導者が核戦争を始めるほどおろかではないだろうと僕らは思っていたが、最近真実が明らかになるにつれ、ほんとうに危機一髪だったことに驚いてしまう。どちらの陣営も軍人のヒステリックな声に惑わされていたのだが、誠にもって他山の石としなければなるまい。
木下順二がこの芝居を書いたのは1970年のことである。東京裁判は48年に終わっているから20年以上もたっている。講和条約で一応裁判結果を受け入れたことになって事態は収まっていた。この裁判の無効性については当時から主として右翼、保守系政治家によって叫ばれていたが、左翼陣営からはあまり言及されることはなかった。70年当時は『安保粉砕』『米帝粉砕』一色で反米闘争が激しかった時代である。木下順二は新左翼とは一線を画する立場でおそらく、そうした時代の原点について冷静に考えてみる必要があると判断したのだろう。日本の戦後はこの「他国によって行われた日本にとっては唯一の敗戦処理」によってようやく始めることが出来たのだから。
この戯曲の朗読劇を2001年の夏に見ている。青年座のわずか三日間の地味な公演であった。裁判劇であるからせりふを朗読したところでたいして印象が変わるものではない。このときは長い裁判のなかの何を木下順二が取り上げたかを確認出来た。
民芸のこの公演は、初演当時の出演者が多く残っていて、宇野重吉の演出を再現したものだ。役者の動作や声までも細かく指示して自分のイメージに合わせないと気が済まないタイプの演出家だったからおそらく関係者の記憶の中に『型』のようにして残っていたものだろう。
朗読劇に多少の動作はついたが、残念ながら新しい発見!などということはなかった。
ただ、時が経つにつれて、この裁判に対する考え方が微妙に変化してきたという実感はある。最初は東条らの横暴、戦争を長引かせた軍人のおろかさを思えば裁判の結果は致し方ないという印象を持った。一般的には戦争の責任は取りあえず彼らに押し付けてすますことが出来た。戦争をあおった多くのものがそれで免罪されるという中途半端な始末の付け方が、結局十五年戦争は我が国にとってどのような意味があったのかという歴史認識を曖昧にした。いずれにしても、あの戦争について誰かが責任を取らなければならないとしたら、彼らであって矛盾はないというのがおおかたの見方だったのではないか。
しかし、木下順二は被告それぞれの罪状はともかく、この軍事裁判そのものが欺瞞に充ち満ちていたことを三つのエピソードを提示することによって告発する。
まず第一点は、この裁判が事後法に基づくもので法理論上は無罪あるいは裁判そのものが無効であること。
第二に、戦争犯罪の要件を満たしていない告発があったこと。
第三に、米軍による都市空襲、原子爆弾投下は戦争犯罪であること。
最初の事後法とは極東国際軍事法廷が告発した根拠になっている「平和に対する罪」(即チ,宣戦ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略戦争,若ハ国際法,条約,協定又ハ誓約ニ違反セル戦争ノ計画,準備,開始,又ハ遂行,若ハ右諸行為ノ何レカヲ達成スル為メノ共通ノ計画又ハ共同謀議ヘノ参加。)と「人道に対する罪」(即チ,戦前又ハ戦時中為サレタル殺人,殲滅,奴隷的虐使,追放,其ノ他ノ非人道的行為,若ハ犯行地ノ国内法違反タルト否トヲ問ハズ,本裁判所ノ管轄ニ属スル犯罪ノ遂行トシテ又ハ之ニ関連シテ為サレタル政治的又ハ人種的理由ニ基ク迫害行為。)については戦争後に作られたもので、それ以前の事案を対象にすることは出来ないというものである。
裁判の冒頭で清瀬一郎とおぼしき日本人弁護士(大滝秀治)が、事後法であることを根拠に当法廷には管轄権がない、したがって被告人を裁くことは出来ないと主張した。さらにオーストラリア人裁判長(里居正美)がかつてニューギニアにおける日本軍の不法行為を調査・報告したことがあり、裁判長としては不適当とこれを忌避した。敗戦国の立場にありながら堂々たる正論の開陳である。主張がすべて退けられたことは云うまでもない。
第二場は、ベトナムにおける日本軍の残虐行為、フランス軍人三十名とベトナム人約三十名が殺され死体が埋められたという事件が対象。弁護人の追求で、フランス人の検察側証人(小杉勇治)の指摘する事実は、自身が調査したものではなく誰かがあげてきた報告書に基づくものだったことが分かる。さらに、この軍人である証人が、ナチス傀儡のヴィシー政権下で軍人になり軍歴を重ねたことが明らかにされる。それで証人の信頼性は著しく低下してしまうのだが、さらに弁護人は、ベトナムにおけるフランス軍人は圧倒的にドゥゴール派が多く、もし殺されたフランス人がドゥゴール派なら、正規軍兵士とはいえないという。単にフランス人ゲリラが日本軍に掃討されたということになり、戦争犯罪には当たらないと主張し、証人は立ち往生の態である。
第三場は、ケロッグ・ブリアン条約(パリ不戦条約)違反の問題。この法廷に参加している各国とも、第一次大戦後に列強十五カ国(のちに五十国以上)によって締結された戦争放棄の条約、パリ条約に違反しているという弁護人の主張であるが、これがアメリカ人によってなされたことには驚く。まるで泥棒たちが泥棒を訴えるような奇妙な法廷ではないかと半ば揶揄する弁護人に裁判長は不快をあらわにする。米国は戦争の早期終結のために原爆投下を行ったというが、この種の兵器を使用することは、ハーグ陸戦条約(1907年改訂=この時点では普通戦争犯罪といえばこの条約に違反したものと考えてよい)違反であり、以後の日本軍には報復の権利が認められるべきであるという。
また、昭和二十年八月八日にソビエト連邦軍が日ソ不可侵条約を一方的に破ってソ満国境越えたのは、八月六日の原爆投下に焦ってしたことであり、ソ連の条約違反は明白であると主張する。慌てたロシア人検察官(杉本幸次)は、スターリンがすでにポツダムにおいて英国と米国の了解をとっていたと意外な事実を漏らすが、原爆投下によって日本が無条件降伏することになればソ連として事後処理(たとえば樺太、北海道の占領)に参加出来なくなることを恐れて参戦したことが明らかになる。
この芝居はカーテンコールがなかった。「神と人とのあいだ」第一部「審判」というタイトルだから第二部もあるからだろう。第二部は「夏・南方のローマンス」というらしいが(1987年初演)内容は知らない。木下順二は各地の国際裁判の総序論として書くつもりだったがこの二つで筆がすすまなくなったといっている。
推測するに、この裁判が「審判」しかも「神と人とのあいだ」というような表現で、あたかも絶対的な基準(それに近い「法」)があるかのごとく考えられているようだが、実際に戦争裁判をつぶさに調べたら、おおよそ審判とか神と人のあいだとか上等・高級の概念で云々するものとはほど遠いことに気付いたからではないだろうか?
早い話が昔から戦勝国は領土を分捕り敗戦国をどう扱っても構わないというのが常識だった。二十世紀に入り、武器が発達してあまりにも大量の兵士が犠牲になるようになって始めて戦争のルールが作られ違反しないようにしようということになったが、双方頭にきて戦争するわけだから守られると考えるほうがおかしい。これが本質で、極東国際軍事法廷の最大の欺瞞は「平和に対する罪」と「人道に対する罪」などという一見まともそうに見える法規を掲げたことだ。そんなものだったら始めから双方が有罪なのだ。勝ったものが敗者を裁く権利があるとでも明記しておいたほうがよかった。戦争は昔から喧嘩両成敗と決まっている。しかし成敗するには第三者がいる。この第三者がいたとしてもおとなしく言うことを聞くとは限らないという意味では、戦争を裁くこと自体が無理な話ということになる。
極東国際軍事法廷は、さまざまの不備欠陥、不公平を指摘されてきたが、しょせんは上のような事情で始めから結論が出ていたような裁判だったのである。
国際テロの時代になって、こういうものが役に立たなくなった。明確に国家同士が戦う場面がなくなったことと、米国の戦争能力だけが突出して大きくなったために、負ける戦争を仕掛けるバカはいなくなった。神と人のあいだというなら捕虜の虐待やら非戦闘員の虐殺などジュネーブ条約違反の方が裁きとしてはよほど有効だろう。
さて、東京裁判によって戦争責任の問題が曖昧になったといったが、我が国を戦争に導いて、結果三百万人の戦死者を出し、国民を未曾有の困難に陥れた責任は誰かが取らねばならなかったという意味である。こういうときに責任を感じた武士なら、迷わず腹を切ってわびた。華族の出で人気のあった近衛文麿は、自らの優柔不断のために十五年戦争を泥沼化させた責任を軍部の独走に転嫁して、迷い抜いたあげくに天皇に累が及ばぬようにと云う理由だけで毒を飲んだ。こういう死に様では誰も褒めてはくれない。東条英機は、終戦の日にピストル自殺を図るが失敗している。石原慎太郎が「22口径で腹を打つなんて・・・」と嘲笑していたが、ようは狂言自殺のようなものといっているのである。(出どこは、佐々淳行らしいが、使ったピストルは別の32口径という説もある。)
「昭和史」の半藤一利が書いている。
「敗戦後まもない昭和二十年九月十二日のことである。時の司法大臣岩田宙三と外務大臣重光葵らが密かに「戦犯自主裁判案」なるものを作成し、昭和天皇に奏上してその勅令を仰ごうとした。正しくは「民心を安定し国家秩序維持に必要なる国民道義を自主的に確立することを目的とする緊急勅令」と云う長い名称のものであった。けれども昭和天皇はこれを認めようとはされなかったという。『昨日まで信頼していた臣下のものを今日は裁くということは出来ない』
残されている天皇の言葉はあまりに重い。確かに和をもって尊しとする日本人に裁くことなど出来なかったかも知れない。」
靖国神社のA級戦犯分祠に一人強烈に反対している東条由布子は東条の孫である。祖父は国民に対して戦争の責任を痛感していたが、東京裁判は到底認められられないとしている。東条の遺書を読むとそういう気になるのは理解出来る。ただし、東条ほど悪評の高い軍人・政治家もいないというのも事実であり、岩田や重光が画策した勅令が発せられていたら被告人の筆頭にあげられただろうと歴史学者の秦郁彦など、見ているむきもある。
靖国の問題は政治的な駆け引きに使われているあいだは話題になるだろうが、やがて風化していく。この劇も勝者が敗者を裁くと云う壮大な茶番劇の記録として時々思い出されるに違いない。(出来れば中国に持っていったらどうか?)
木下順二の力作だが、振り上げたこぶしの下げようがなくなったようなもので、カーテンコールのないままに中途半端な気分で劇場を去るという初めての経験をした。


 


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