題名:

紙屋町さくらホテル

観劇日:

03/12/12     

劇場:

紀伊国屋ホール

主催:

こまつ座     

期間:

2003年12月4日〜21日

作:

井上ひさし  

演出:

鵜山仁 

美術:

石井強司     

照明:

服部基   

衣装:

前田文子    

音楽・音響:

宇野誠一郎・斉藤美佐男     

出演者:

辻萬長 土居裕子 木場勝巳 森奈みはる 久保酎吉 河野洋一郎 大原康裕 栗田桃子 深澤舞
 

 

「神谷町さくらホテル」
 

 何年か前、目黒の五百羅漢寺の料亭を取材したことがあった。この寺は春日の局の菩提寺で、明治末年に本所(現在の江東区大島)から多数の羅漢さんと一緒に移ってきたものである。時間があったのでうろうろ見学していると、「移動演劇班桜隊」に関する展示に出あった。写真と説明文、遺品がいくつか脈絡なく並べてある簡素なものだったと記憶するが、まさかこんなところで、と思って驚いた。戦後、桜隊の御霊がここにまとめられたのであった。
 今度、こまつ座公演パンフレットで知ったが、園井恵子が亡くなる様子や東京までたどり着いて19日目には斃れる仲みどりの病床そして解剖の記録などを読むと、原爆というものの恐ろしさがどんな写真よりも具体的な痛みとなって伝わって来るような気がする。スミソニアン博物館にエノラ・ゲイを展示するかどうかでもめているようだが、この東大医学部の解剖所見を英訳して読ませる方が、人間がとんでもないものを発明したことを身にしみて感じさせることになると思う。
 いま、五百羅漢寺の展示が当時のままだとしたら、このパンフレットの一部でも使わせてもらったらどうだろう。
 さて、この芝居は97年の新国立劇場こけら落とし、2000年春の再演を見てこんどが三度目である。再演は森光子を宮本信子にかえただけのキャスティングで、井上ひさしが、亡くなった渡辺浩子の演出を踏襲したものだった。だから、このこまつ座公演は、座付作者の本家に戻って最初の、という意味がある。
 渡辺浩子は、新国立劇場の設備を一杯に利用して見せようという意図で、巣鴨プリズン取調室のプロローグが終わると、「スミレの花咲くころ」の歌声とともに二階建てになった紙屋町ホテルの装置を載せた舞台を中劇場の真っ暗な深奥から、ゆっくりと前にせり出して見せた。一体どのくらい奥行きがあるのか見当もつかない、国立劇場のスケールを感じさせる演出であった。
 紀伊国屋ホールでは無論こうはいかない。しかし、小さな小屋で十分成立する芝居で、今回の公演を見ると、むしろ大劇場の方が例外的とも言えそうだ。あえていえば、特高刑事の戸倉八郎(大原康裕)が紙屋町ホテルの二階から階下奥までくまなく家捜しをする怖い場面やこの家の人々と容易に打ち解けない距離感をだすには、大きな舞台の方がいいかもしれない。また、天皇の密使、海軍大将長谷川清(辻萬長)と実は陸軍大佐針生武夫(河野洋一郎)が内緒のやり取りをするのにやや不都合かとも思った。
鵜山仁の演出は、力みなく自然で少し物足りなさもあったが、分かりやすさに徹したという点では評価できる。ただ、全体の構成については、どこに重心をおくかという点で、問題がなかったわけでない。
 まず、神宮淳子(土居裕子)の扱いについて少しあっさりしすぎたのではないかという不満が残る。というのも、この芝居の登場人物は「桜隊」の一点でつながっているが、もとはそれぞれの思惑で偶然集まったものである。群像劇という性格は端からないから、これは論外。広島紙屋町ホテルは敵性外国人である日系二世神宮淳子の実質経営になるもので、時世柄利用客減少のところ移動演劇班桜隊の宿舎に指定され、紙屋町「さくら」ホテルと改名したものである。あきらかに、芝居の骨格を支える中心人物は神宮淳子である。登場人物の心はそれぞれ別のところに向かっていても、ホテルすなわち神宮淳子によってつながっている。
 初演の森光子は適役だったかどうかは別にして、全体を通じてこの存在感を示した。いうまでもなく再演の宮本信子も十分求心力を発揮して、まとまりを見せてくれた。これは二人の女優の力とも言えるが、土居裕子にそれがないとは言えない、と僕は思っている。この芝居はもともと園井恵子(森奈みはる)という宝塚と映画のヒロインである華やかな存在があって、こちらに中心がいきそうなのだが、そうは書かれていない。
  したがって、数奇な運命の中にいるホテルの経営者としての主人公をしっかり立てて、新劇にひた向きな女優との間には年齢差(37才と33才)を含む画然たる差異を作り出す必要があった。しかし、衣装やヘアメークをみれば演出にそのような意図がないことは明らかである。鵜山仁は、神宮淳子の存在を「エピソード」のひとつとして相対化して見せたのだ。これは、各プロットを平明に描いて、分かりやすくつないでいく鵜山演出の当然の帰結かもしれないが、それでは芝居の流れはわかっても主題の構造がみえてこない。僕のような不満が、とりわけ土居裕子のファンに多かったのではないかと心配する。
 次に、このような中心の不在は、むしろ、海軍大将、長谷川清と陸軍大佐、針生武夫のやりとりが目立って、ここに重心があるような印象を作り出した。針生大佐は、陸軍でも海外経験のある情報将校で、皇軍派などという過激な分子とは縁遠いインテリである。これが身分をかくしてさくら隊に志願するのだが、河野洋一郎=針生大佐はスパイのくせに溶け込んでいるとは言い難く、こわもての加減が少し過ぎたような気がする。そのために長谷川大将に圧力をかける秘密めかした場面がやけに目立ったのである。
 プロローグの場面は紙屋町さくらホテルでの出来事を挟んで巣鴨プリズンでのエピローグとなって同じ場面に立ち返る。この二人は原爆にあうことなく戦後、再び出会った。ここで、長谷川元海軍大将は、自分は戦犯として告発されるべきであるという奇妙な主張を繰り返す。自らの報告によって天皇も早期降伏に傾いたにもかかわらず、ポツダム宣言受諾まで時を要し、徒に国民の命を犠牲にした、その責任はすべて自分にあるから逮捕せよという。
 これに対してGHQの担当官は元陸軍大佐針生武夫である。終戦後、アメリカ駐在武官の頃に覚えた英語によって、占領軍に採用されたのであった。あなたに罪があるかどうかは知らないが、告発状もでていないし、逮捕する気もない、帰れと諭すのである。
 よく考えれば、長谷川清大将の言い分は「今さらいわれても」しかたがないことである。針生武夫大佐にしても、敗戦となったら手のひらを返すように占領軍の協力者になるという、にわかには納得できない変身ぶりである。追及しようと思えば、いくらでも出来そうだが、それはまた別のテーマになる。
 したがって、ここに構造上の重心があるという印象を作りだすのはうまくない。
この場面は、彼らがつかの間出会った広島紙屋町での出来事を、今は彼ら以外に語るもののいなくなったあのなつかしくも暖かな人々の触れ合いに思いをはせるためのものである。
このあたりのことを珍しく大江健三郎が書いているので引用しよう。初演の時に新聞に寄稿した劇評である。
「戯曲の冒頭、先の天皇の密使だった人物と監視役−今は占領軍による戦犯摘発に働いている。−との久しぶりの対決があります。そこで二人が広島にいた意味と役割はよく分かるのですが、執筆開始に当たって、作者はこの導入部を予定していなかったのじゃないか、と私は推理しました。
 家族はアメリカという国家の、自分は日本という国家の「大義」によって犠牲にされる米国籍の二世と、彼女を助けてホテルを経営する戦争未亡人とを中心に、素人たちが芝居の稽古に励み、お祭りのように盛り上がる舞台。
 そこでもいちいちの人物の担っている経験と思いが深刻な衝突を繰り返すのですが、生きいきした愉快な演劇性は失われない。しかしその過程に、さきの二人の正体の暗示から彼らの「国体」論議まで重ねてしまっては渋滞するのではないか?
 そこで作者は、様々に苦心した末、導入部の一対一の対決で置き換えることにしたのでしょう。ところが、これが劇の終わり近く改めて再現されると、今度は実にしっとりと、すぐにも原爆で抹殺される人々の、つかの間の幸いな輝きへとつながってゆきます。その見事さから、むしろ構想はこれを軸として始まったのだ、という専門家がいれば、私は、反対したいのです。」
 井上ひさしがこの芝居に盛り込んだエピソードは多い。登場人物がたまたまホテルで出会った人々であり、それぞれに説明すべき別々の人生があったからだ。神宮淳子には、日米開戦と同時にカリフォルニアの強制収容所に隔離された日系人の問題、丸山定夫(木場勝己)と園井恵子には、新劇の誕生と弾圧、戦時下の統制、海軍大将、長谷川清には、天皇の密使として国体護持を検証する任務、それを尾行する陸軍側の監視役、針生武夫の存在、言語学者、大島輝彦(久保酎吉)には、方言研究と教え子の兵役忌避の問題、戸倉八郎には、治安維持法に基づく特別高等警察という存在。そして何よりもこれらの人々の人生を一瞬のうちに奪った原爆の意味。
 おそらく、井上ひさしはまず国立劇場のこけら落としにふさわしいテーマとして移動演劇班さくら隊被爆に思い至ったにちがない。そして、どのような話を取り上げて物語を構成するか考えに考え抜いて、これらのエピソードを採用したものであろう。今回の重心が希薄な演出にあっては、切れ切れで少しスケールが小さく感じられたが、そのひとつひとつは極めて納得できるものばかりである。
 築地小劇場、歴代の演出家の手法や仕草、鑑札を差し止められた滝沢修、宝塚における特有の演技など演劇に関するものは当然だが、僕にとってもっとも印象深いのは、大島教授の教え子が書いたという論文「N音の法則」の話である。世界中の言語を観察すると、否定の言葉は皆「N」で始まる、という発見だが、この論文を完成させるために、自分の故郷にかくまうから兵役を忌避しろと大島教授は真剣に勧めたという。戦場から形見として帰ってきた一冊の手帳を読み上げ、このような前途ある若者を失う戦争は断じて許せないと嘆く場面は、強い共感を覚えるところだ。こんな発言が許される時代でなかったことをわかっていても、涙が込み上げてくるところである。
 久保酎吉=大島教授は、初演の井川比佐志の存在感には及ばなかったが、感情を抑えて好演した。
 意外によかったのは、園井恵子役の森奈みはるであった。初演では三田和代がやっているが、うまさはともかく、さすがに宝塚出身でその雰囲気は十分でていて、はまり役になりうるのではないかと思った。
 初演ともっとも遠い違いは、針生大佐役の小野武彦と河野洋一郎であった。小野にあった余裕が河野にはなく、緊張感がかえって独特の存在感を作りだしアンサンブルが狂ったのではないか。多分に演出の責任ではあるが。
 この芝居は音楽がよく出来ている。宇野誠一郎が、多分たっぷり時間をかけて作曲したものだろう。土居裕子の歌声もよかった。「聞きほれる」と表現してもいい。
 エピローグの途中、紗幕の向こうがぼんやりと明るくなると一同がピアノの前で「すみれの花・・・」を歌っている。
 その歌声に、しばらく聞き入っていると、「・・・すみれのは」の「は」で全員の口が半開きになったまま、突然歌が途絶える。この幸福な人々の上に原爆が炸裂した瞬間だ。一瞬間を置いて、低い弦楽の旋律がひと刷毛、スケッチのように入る。この二小節は宇野誠一郎の傑作である。
 こまつ座に帰ってきた「紙屋町さくらホテル」はこのように幕を閉じた。木場勝己にも役どころを代えた辻萬長にもまだしっくりしないところが見える。初演を超えるにはもう少し回を重ねる必要があろう。

(12/30/03)


新国立劇場